『アルテ』19巻  レオとアルテの絆が、、、、恋や愛を、はるかに凌駕する重さを持っていることが、切々と伝わってくる

アルテ 19巻【特典イラスト付き】 (ゼノンコミックス)

読んでいてつらいエピソードですよね。だって、最終的には、アルテが、レオににフィレンツェで再開できるまでの、「その背景」を描く、ドラマとしては谷間のエピソードなので、暗い。ひたすらレオが、どれくらい過酷な過去を持って、物乞いから這い上がってきたかが描かれ続けています。あんまり気にしていないんですが、多分1年に2冊くらいのペースなんじゃないかなぁと思うので、なかなかこの「谷間」のシーンを待つのはつらい。いっそ全部完結してから読んだ方が、気は楽だろうと思うのですが、止められません。つらいので、何度も最初から読み返しています(笑)。。。


19巻も読んでいて、レオの仕事に対する覚悟が、もう見ていてずっと涙ぐんでいました。

この物語の最初からのテーマが、「お仕事を通しての自己実現」だけじゃないようにかんじるんですよね。なんかね、登場人物たちに「強い覚悟」がある気がするんです。「働くこと」が、自己実現だけでは済まないような、切迫感がある。ああ、2010-20年代の物語だな感じがします。18巻は、レオ編で、レオが物乞いで最下層の貧困の中、のたれ死ぬ寸前で見つけ出した、「生き残るための命綱」を過去編で描かれているんですが、「働くこと」が、「生き残ること」と直結している。だから、自己実現、、、、好きなことを通して自分の自己を表現するというような「甘ちょろい」ことだけでは済まない切迫感がある。どんなに虐げられても、利用されても、いじめぬかれても、喰らいついたらはなさない、この命綱をはなしたら、餓死するしかないという恐怖、切迫、覚悟がある。大久保圭さんという著者が、「働くこと」をどう捉えているのかが、各エピソード、各キャラクターともに、すべて同じなので、よくわかります。ともすれば、女性が芸術の仕事なんてできなかった男尊女卑の職人社会の中で自己実現をしていくような「いまどきの」の話に見えますが、射程距離が全然違ったのが、この長い巻数を通して伝わってきます。

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お仕事にかける話の射程距離が素晴らしい。特にマンガの後半以降が、本当に素晴らしい深まりを見せていて、この物語ここまで深いんだって唸っています。普通に考えると、「男しか職人になれない」という男尊女卑の、当時16世紀のフィレンツェの徒弟制度社会のなかで、女性が職人になって成長して、ガラスの天井を破っていくという話にしか見えない。

2024年のMe Tooやフェミニズムが吹き荒れ、ポリティカル・コレクトネスが浸透していく2020年代の物語にあたって、過去には「少年(男)が主人公であった物語パターン」に、同じパターンで少女(女)を当てはめていく実験というか、物語の作り方はブームであり、かなり思考実験くさい部分があるので、イデオロギー的臭みがあるものも多いのですが、それはそれで、豊穣な物語世界の多様さを生み出す大きな挑戦なので、それはそれで僕は非常に肯定的。なのですが、やはりね単純に少年を少女に置き換えているだけだと、いわゆる男尊女卑の「男社会のヒエラルキーや権力闘争の構造」に対して「男性的価値観で競争で押しのけて打ち勝っていく」というものを描くと、明らかに「ひねり」が足りないんですよね。いわゆるフェミニズム第一世代みたいなもので、女性が単に男性化しただけ。これはこれで価値はあるものの、多様性という観点では、かなり窮屈な物語になってしまう。だって「普通の女の子」の価値観や「女性であること」を否定してしまうから。

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アニメは見ていないんですが、PVを見ると、もうこの女性がガラスの天井を破って、職人になっていくという話にしか見えないし、アニメの尺を考えるとと、「それ以外に書きようがない」と思うんです。

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でも、『茉莉花官吏伝』の茉莉花ととても似ている印象を受けるんですが、アルテも、とても等身大で、普通の人なんです。彼女がしたいことは、「絵が描きたい!」であって、「男社会を打ち破って男に競争で勝つ」ことが主軸じゃないんですよね。だから、アルテも茉莉花もそうですが、これほど一途で、仕事に対して適性があって真摯であるのだけれども、ランキングトーナメントで順位を争う男競争社会のくさみが全くないんです。


とても競争的な匂いがしないのがわかるでしょうか?。


僕は、男女問わず、こういう人の方が、人間としては魅力的だなぁって思ってしまいます。僕自身が、競争があまり好きではないからだと思います。競争は、ちゃんとフェアにされる時は、とても清々しいのですが、フェアなものって世の中に少ないですし、拘り続けると、常に「どちらが強いか?」みたいなスカウター至上主義で(ドラゴンボール)、戦闘力はいくつだ?と相手にかましまくる脅しの関係性ばかりになるので、嫌だなって思うんです。

とはいえ、そもそも、男尊女卑の世界で形成される徒弟社会なんて、男を打ち破って、打ち倒さなければ、「自分の居場所すら確保できない」し、何よりも男性のヒエラルキー階層社会の中で上位に食い込まなければ、存在すら許されないわけですから、戦うしかありません。だからガンガンできない男を撃ち倒すことになるんですけれども(笑)、彼女たちがすることって、茉莉花は「問題を解決すること」であって、アルテは「絵を描くこと」であって、相手撃ち倒すこと自体には、重きがまったく置かれていないところがルサンチマンを生み出さない気がします。


ただ、そうすると、やっぱり、


単純に少年を少女に置き換えている


だけになりがちなんだよね。少年が立身出世の成長物語類型と、なにが違うのか?って。アルテは、ここで、「お仕事を通して自己実現する」恵まれた人々の中にも、「その戦いにエントリーすらできなった最下層がから這い上がってくる人は男女関係なくいる」という視点が、挿入されている気がするんですよね。僕は、これが、胸が熱くるほど、「フェア(=公正)な視点」だと思います。


マイノリティや、競争のはるか外から「生きるために」エントリーする人々には、やはり共感が生まれやすい。そしてそこには、男だとか女だとか、属性の違いを超える、世界の厳しさがある。どんな属性だろうと、その共同体や競争への「参加のエントリー権を持っていない」人にとっては、全てが過酷な障害でしかない。レオにとっては、物乞いで、なにもない彼は、そもそも男性であろうと、貴族出身の女性であるアルテよりはるかに厳しいスタート地点から始めているわけです。だからといって、職人いなって、親方になって、権利を得た後の職人共同体の正規メンバーのマジョリティの権力を握っても、彼には限りなく、「マジョリティへの共感のできなさ」があります。かといって、別に、恵まれているわけでもないので、マイノリティへの共感もないのですが。


この男性のマジョリティの立場にいるレオの、この過去を描くことにって、なぜこの二人が、二人でなければならず、共感の絆が生まれて行ったかが、見事に浮かび上がるんですよね。


この構造が、見せられれば見せられるほど、レオとアルテの絆が、、、、恋や愛を、はるかに凌駕する重さを持っていることが、切々と伝わってくる。素晴らしいです。