評価:★★★★★星5.0
(僕的主観:★★★★★星5.0つ)
🔳グレタ・カーウィグ監督が描く現代的な射程を持った若草物語
『レディバード』『バービー』と、噛めば噛むほど面白く深い脚本、映画をつくるグレタ・ガーウィグ監督は、批評性が高い上に画面の絵作りも見事で素晴らしい作家だと思う。Lotten Tomatoesでの批評家評価は95%(443Viewer 8.50 out of 10、2024/3/14時点)で高い評価なのは頷ける。僕自身も、特に監督名を意識していない時点で、2作品記事にしているから、非常に「語りたくなる深みと射程距離」を持った作品なのだと思う。
この作品は数々の映像化がされているルイーザ・メイ・オルコットの米国の古典名作ですが、重要なポイントは、この作品が、原作の第一部と第二部を並行で描く形になっているところがポイント。特に、僕は、原作を読んだことがなくて、アニメのハウス名作劇場『愛の若草物語』とかでしか知らなかったのですが、日本でいう『若草物語(Little Women)』第一部のみで描かれているんですよね。日本では、この第一部のイメージが強い。
第一部:幸せな四姉妹の少女時代の幸福な子供時代
第二部:四姉妹が結婚したり現実に直面していく青年時代
この作品が長く語り継がれて愛されている理由の一つは、第一部の部分を強調すると、「家族愛」を強調する物語なんですよね。この家族愛を強調するのは、ひたすら「古き良き保守的な価値観」を代表するものなんですよね。しかし、ジョーが、ローリー(隣の大金持ちのハンサムな青年)のプロポーズを受けないで、仕事で生きていこうとするのですね。そして第二部の青年時代の話では、それぞれの姉妹の女性の自立の難しさを、描いていくんですね。ジョーは、結局、ライターになって、編集者の言いなりになるような売れるセンセーショナルな物語しか書けない。それでも、、、という話。
米国では、1部と2部を合わせて『若草物語(Little Women)』(1868–1869)なんですよね。
言い換えれば、保守的な「家族愛」(=女は結婚するしか生きる道がない)という視点と、「女性の自立」という視点、仕事を、自分が、したいことを探すことが非常に難しいところで苦しみながら生きていく、という現代的な視点が並立しているんですよね。長く古い時代から愛されているのは、この両方が描かれているからんですよね。19世紀の当時では、親が娘に見せる物語として、第一部は、受け入れやすいですからね。しかし、これを読んだ女性にとっては、ジョーが選んでいく、好きな仕事を通して自立していこうとする葛藤は、強いシンパシーを感じたことでしょう。
日本のアニメ作品は、この第一部の「家族愛」を軸にしている視点がとても強いので、僕には、まさかオルコットの原作がこんなに、保守的な価値観を超える射程を持つものとは!と驚きのセンスオブワンダーの連続でした。
見るべきポイントは2点。
🔳1)寒色系と暖色系の画面のトーンの違いから判別する視点と時系列の違い
四姉妹それぞれが、思い通りにならない人生の現実に翻弄される第二部を物語のベースとし、ジョーを語り部に記憶としての第一部を描く構造とすることで、オルコットが本当に描きたかった物語が見えてくると言うわけ。
本作では基本的に過去の描写は全てジョーの見た夢であり、物語の終盤で彼女が執筆する「若草物語」というフィクションに封じ込まれている。
面白いのは“現在=現実”は冬の季節で寒色基調、戦時下でも家族皆が幸せだった“少女時代=フィクション”は暖かみのある暖色基調で描かれていること。
オルコットの若草物語の1部と第2部の時系列の違いを、同時に交錯するように描くので、最初は一見分かりにくい。しかし、この物語が第2部の社会に出て、作家として鳴かず飛ばずのジョーが、その時点から「すべてがうまくいっていた温かい若かりし時代の四姉妹の少女時代を振り返る」後世になっていることは、すぐ伝わってくる。
画面の絵作りにおいて、少女時代が暖色なのに対して、現実のうまくいかない第2部のジョーの視点では、寒色で描かれているのを是非とも見分けて見てみましょう。視点の違いによって、ジョーが「何者にもなれないで足掻いている」現実の自分が、過去を懐かしんでいるトーンがよくよく表現されていて、演出のカットも、それが自然に伝わるので上手いけれども、絵の色調を変えて明らかな世界の違いを感じさせるところは、作家のうまさを感じます。
複雑で映画を見慣れていないと、???となるかもしれないですが、小説家として売れていないで自立できない女性が、「これで良かったのだろうか」と思う後悔や、しかし負けたくないという気持ちを抱えながら、それでも現実はうまくいかなくて、という断念を抱えながら、子供時代はあんなに幸福だったのにと振り返る視点で思い出しているというふうにとらえれば簡単に入れるはずです。
この「違い」が色味で区別できると思ってみると、非常にクリアーに色々なことがわかると思います。
🔳2)ジョーを原作者オルコットを同一するラストシーン〜女の幸せとは何か?
オルコット自身は生涯独身を貫いた急進的なフェミニストで、だからこそ第二部以降の物語が、ジョーの女性の自立の困難さと戦う物語になっているわけです。
第一部:女の幸せとは結婚することだ!
幸せな四姉妹の少女時代の幸福な子供時代
第二部:女の幸せとは、自立して生きていくことだ!
四姉妹が結婚したり現実に直面していく青年時代
本来ならば、この古き保守的な価値観である「女の幸せとは結婚することだ!」に対するアンチテーゼとして、ジョーの生き方はあるはずなのだが、オルコットの時代では、それが難しかった。
だから、ジョーは、結婚しなければならなかった。
これが、違うのではないか?。と、はっきりとグレタ・ガーウィグ監督は認識して、この映画を作っています。このラストシーンが、グレタ・ガーウィグ監督の作家性が、見事に出ている部分です。
いわゆる日本で言えば『キャンディ♡キャンディ』ですよね。いつか白馬の王子様が自分を迎えにきてくれるという発想は、「女の幸せが結婚にしかない」という前提に立てば、リーズナブルな答えです。ちなみに、ルイーザ・メイ・オルコットの『ローズの季節(Rose in Bloom: A Sequel to "Eight Cousins")』『あしながおじさん』『赤毛のアン』にンスパイアされているんですよね。僕の中のイメージでも、もともと『若草物語』は、このあたりの系列に並ぶ「古き良き家族愛の保守的な価値観」の体現という感じだったのですが、これの解体を目指す本質を持っていたのですね。
グレタ・ガーウィグ監督の作品はどれも思想性が深く、しかしエンターテイメントになっていて、どれも本当に素晴らしい。『フランシス・ハ(Frances Ha)』2012(脚本)、『レディ・バード(Lady Bird)』2017、『バービー(Barbie)』2023と、どれも思想性が全面に出ていて批評性に溢れた深みをもつのに、面白い。まだ40歳(2024年現在)で若く、これから素晴らしい映画をたくさん撮るであろうとても有望なクリエイターなので、知っておいて損はないです。
そして、この3つの作品を考えるときに重要なのは、どれもグレタ・ガーウィグ自身の人生に重なる自伝的な側面が強いことです。カリフォルニア州サクラメントで生まれて、カトリック女子校に通ったのは、『レディ・バード(Lady Bird)』そのままですよね。そして、クリエイターとして、世に出ていくところは、まさに『フランシス・ハ(Frances Ha)』を連想させます。『レディ・バード』を思い出すと、サクラメントという郊外の街で育ち、「何者でもない自分に苛立ち」奇行を繰り返す主人公の焦燥感や、その後と、都会に出ていきクリエイターとして何者でもない自分をなんとか奮い立たせて、世に出ようとするのは、明らかに自伝的ですよね。グレタ・ガーウィグ自身そのままと言ってもいい。
彼女は役者もしており、『ベン・スティラー 人生は最悪だ!』や『マリッジ・ストーリー』の監督であるノア・バームバックと交際し、2019年には子供も生まれています。けれども、2019年のアカデミー賞では、『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』と『マリッジ・ストーリー』はライバルでした。僕は、あまり私生活には興味がないので、わからないのですが、どもう結婚はしていないで交際しているようですね。事実婚ということかもしれません。
というふうに、女性の自立、ビルドゥングスロマンの主人公としてのグレタ・ガーウィグ自身の自伝的な視点からすると、大きな問題意識が出てきます。
話を戻して、この作品をリメイク、映画化するにあたって、重要なポイントは、
ジョーが結婚するかどうか?なんです。
もしくは、ジョーを結婚させるかどうかを、編集者と作者のオルコットが戦う部分にあるわけです。
実際の若草物語では、編集者から「ジョーが結婚しないなんてあり得ない」という説得を受けて、結婚させています。さすがに、隣の家のお金持ちの王子様のセオドア・ローレンス(ローリー)の求婚は断ったのですが、仕事でうまく売れずに苦しんでいるうちにそれを後悔したりして、なかなか女性の生きる息苦しさをうまく描いてはいます。最終的には、フリッツ・ベア(ベア先生)と結婚する。
けれど、オルコットは生涯独身を貫いた急進的なフェミニストであったことを考えたら、本当は、ここでジョーを結婚させたくなったのではないだろうか?と、グレタ・ガーウィグは考えるわけですね。彼女の、人生を考えても、この部分がポイントになるのは、間違いない。
では、それを映画でどう描いたか?
原作小説がオルコットの自伝的な作品であることはよく知られているが、ガーウィクは物語上のジョーを原作者オルコットと同一視する工夫を取り入れている。
小説のジョーは自分の理解者となったフレデリックと結婚するのだが、本作ではここで物語が二つに分かれる。
一つは「若草物語」を脱稿し編集者と契約交渉をするジョー、もう一つは同じくジョーを主人公とした小説のエンディング。
もちろん前者は寒色で、後者は暖色で描かれている。ジョーが最初の小説を売り込みに行った時、編集者に言われるのが「女性キャラを出すなら最後は結婚させること。さもなくば殺せ」という当時の娯楽小説のお約束。
オルコット自身は生涯独身を貫いた急進的なフェミニストであり、自由な生き方を模索するジョーが結婚して幸せになるというラストを本当は描きたくなかったはず。
そこで本作はジョーの人生を現実とフィクションに分け、メタ構造とすることで小説のラストはあくまでも出来過ぎたフィクションという扱いにしているのである。
同時に、大人になった四姉妹の迎える経済的な苦境や、著作権を安値で買い取ろうとする編集者とジョーのウィットに富んだ会話を通して、フェミニズムの目指す人生の選択の多様性は、結局女性が自立し経済力を持たねば得られないことを説く。
本作では3人の登場人物が“第四の壁”を越えてスクリーンのこちら側に語りかけてくる描写もあるが、物語を重層的なメタ構造にすることで、作者が本当に意図したであろう原作のその先を描き出したのは見事だ。
全体的に、少女時代の温かな家族愛を描きながら、現代的なフェミニズム的視点で、女性が自立することの難しさ、葛藤、仕事を通してお金を得ていくことの重要さなどがガチッと散りばめられていて、映画的にも斬新な構造で、というか映画だからこそ描ける二重の視点(メタ構造)を示しているところは、素晴らしい傑作です。
ぜひ、このあたりを意識しながら見てほしいです。