カミナの価値は?2〜多元化可能宇宙からの脱出

LD 2008/03/31 00:44
こんにちは。
第26話を観られたんですよね?ね?そこからちょっと違う角度のお話をしてみようと思います。
いや、僕はあそこでアンチスパイラルが仕掛けた「たられば宇宙」から脱出する下りに、もの凄く感動して、胸を熱くしたんですね。


> ちなみになぜ「惚れた」と言いきれるかというと、26話の多元可能世界で、


僕はあそこの宇宙は純粋に確率の世界だと思うんでキタンに惚れるヨーコも確率の一つに過ぎないと解釈しているんですが、今、ちょっと敢えてその話に乗りますと、それは、シモンが多元可能世界の宇宙で見ていたあの卑屈でいい加減なカミナは「シモンが知っているカミナ」って事になりますよね?つまり、シモンはカミナがああいう男だと知っていたと。
これは、僕が見ていたカミナの感覚とかなり近いです。カミナってのは基本的に「無謀」な男だと思っています。カッコつける、粋がる、我を通す、それに何かの「謀」を持っているわけじゃない。でも、カッコつけられないなら死んだ方がましだとさえ思っている。そんな男で、でも唯一の救いは穴ぐらの中で閉じこめられてしまった時に、自分がつくづくそういう男である事を思い知った事です。だから、自分の「カッコつけ」を通させてくれたシモンを信奉しているんですね。本来ならシモンをカミナが「兄貴!」と呼ばなければならないはずです…にもかかわらずシモンを上座に置かないのは「カッコつけられないなら死んだ方がまし」だから。だからシモンに甘える。カミナってのはそういう男だと思っています。

だから、もし、大グレン団がチミルフとの戦いに敗れてしまったら(もっと局所的に言うとカミナが土壇場でカッコつけられないよりも、死ぬのを恐れてしまったら)…多分、大グレン団は全滅で、カミナとシモンだけ妙な悪運の強さで生き残ってしまい、皮肉にもそれでもテッペリンまで二人は辿り着いて、そこの下層で、敗残したカミナは「まるでカッコをつけているかのような」振る舞いをしながら、卑屈にみっともなく生きて行く……その「たられば」の世界を僕はすごく納得して見ています。


でも、だからこそ、第26話の「たられば宇宙」からの脱出はそれを粉砕突破するから感動するんですね。


カミナが生きてい「たら」とかじゃないんですよ。それはアンチスパイラルの仕掛けた罠から抜け出せない話で。シモンの信じたカミナは「あのカミナ」しかいないんです。シモンの胸に生きているのは「あそこで死んだカミナ」なんです。決して「死んだはずのカミナが実は生きているという設定」でバーチャルにシモンの胸に生きているワケじゃないんです(んんん、ややこしい)


生き残っていても、英雄/指導者たる功績を残せたと、その裏付けが無ければ「本物」ではないと……そうじゃないw「本物」かどうかは問題じゃない。シモンの胸を叩きつづけるカミナの物語は「あのカミナの物語」(そのカミナはシモンが見たとおり、生き残ってしまったら「カッコつける抜け殻」になってしまったであろうカミナ。そして現実はそうならずカッコつけて死んだカミナだ)しかなく、それは唯一無二の物語だと、だからこそ俺(シモン)はここに居るんだと。その無二の物語への確信が「アンチスパイラルを倒す」という唯一の未来に対して大穴を穿つんです…と思っていますw

ちなみに僕はシモンもあやしいと思っています。彼も新政府の頂点で何かを成したわけではない。(ところでニアは凄い人)だから二人でようやく一人前なんでしょう。だからカミナは死んでからもシモンの胸を叩き続けた。ずっとずっと叩き続けた。そこには「生きていたら」とかない。これしかない。その二人でようやく一人前の物語を「俺たちの物語はこれしかない!」と強く謳うから、26話に本当に感動します。

僕は、あんがい物語をファクトから地道に読解していない。その時の雰囲気で、感覚で印象を書いている。だから、本当は、評価は表に出して、数年たった後でのものが真実のものが多い。そういう自分の環境に流される性格はよくわかっている。が、それだけに、あの一瞬で、言葉の定義からきちっと読解してしまうLDさんのような人に出会うと、結構びっくりしてしまう。僕は、ただ単に「内面に入る」というイメージでしか見ていなかったが、多元可能宇宙という概念は、可能性のものであって、キャラクターそのものの「内面」とイコールではない・・・と、考えてみれば、当然の話で、その解釈から、僕の解釈(=イコール内面である)までの幅も含めて、演出家の意図をいろいろ分析できるんですよね。気づいている人は当たり前といえば当たり前と感じるかもしれないが、それをストレートにリアルタイムに言葉に変換して、その可能性を分析できるのは、やはり才能です。ライブ感を感じながらこれができるのは、やはりある種の才能ですよ。「俺はわかっていた」というバカとは違うものですから。


ちなみに、このLDさんの解釈はとても感動しました。


可能世界という概念からの脱出というは、考えてみると、ストレートにグレンラガンという脚本の本質を貫いているもので、


グレンラガンの作品の根底に流れる価値観は、



人生に、ifはないんだ!



ということなんです。


結局、「たられば」という発想をしたやつは、多元可能宇宙という無間地獄のループを脱出することはできない!といっているんですね。


だから、これは強調したいのですが、カミナが生きていた「たら」とかいう仮設発想自体が、ループにはまる間違った発想である!ということなんですね。シモンにとって、グレン団の仲間にとって、「たら」は、、、もしかしたら、カミナが生き続けたいたヘタレだった「かも」は、事実であったかもしれないし、みんなそう思っているふしはあるんですが・・・しかし、そういうことは問題じゃないんですね。


彼らにとって、シモンが「背ぬかれちまったな」と微笑む、カミナだけが唯一の兄貴なんですね!。


そこに可能性は関係ないんです。


そこからスタートしないと、


そんな可能の「たられば」なんていわれたって



オレははわからねぇ!!!!


と、叫ばなければ、無限のループを抜けられないんですね。


そして、それは人生も同じだと僕は思います。


その3に続く