メリトクラシーによる人類の平等をはなしえない、それによって分裂する世界をどのようにつなぎとめるのか?

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岡田斗司夫のさんのこの配信がめちゃくちゃ面白かった。ムチャクチャおすすめです。最近自分が考えていることと、ドッカンドッカン接続したんで、ぜひとも。


えっと感想としては、2つに分けて考えたいなぁと思いました。(見終わった前提での話です)


1)サンデル教授のメリトクラシー能力主義)批判について


いまの世界の思想の最前線って、まさにここなんだよね。メリトクラシー能力主義)批判。これを物凄くわかりやすく解説していて、見事!と思いました。これは、あまりにいまの話の最前線すぎるので、知らないってのは、ちょっと不勉強なくらいの常識化している話ですよね。岡田さんのこの解説で、かなり見事にまとめているので、メリトクラシー能力主義)っなに??と思う人は、ぜひとも見てみましょう。ちょっと本気の人は、サンデル教授の本も読んでみるといい。このあたりは、何か考えるうえでのコモンセンスというかパラダイムとかしてきていますね、最近だと。


2)メリトクラシーでなければ次は何なのか?


A)階級社会を肯定するしかない!(メリトクラシーよりはまし!)

B)上級国民・下級国民のどちらにたいしても、「より大きな共同体の一員だと自覚させよ!」という戦略

A)

実際、A)の階級社会を肯定しているというのは、実は衝撃的な結論じゃないかと僕は思うんです。福沢諭吉先生の「封建制度は親の仇です」など、僕らの近代社会ってのは、この階級による差別を否定して建設されてきたものじゃないですか。それが、むしろ、階級社会のほうがましという結論になっている。


これは2つのロジックによって支えられている、と僕は思う。


一つ目は、「結果の平等」と「機会の平等」というものの両方を求めるときに、機会の平等を設定したら、その結果として「結果は平等にならない」ということが明白になったからだ。人間の自由競争による健全なダイナミズムを維持しようとすると、「ある程度」の結果の不平等は、認めざるを得ない。


ちなみに、「結果の平等」のみにフォーカスすると、なぜだか世にも恐ろしい「不平等なディストピア社会」が到来するというのが興味深い。ポルポトでもソ連ノーメンクラツーラでも文化大革命紅衛兵でも何でもいい、人類の歴史が証明している。きれいごとが、一番やばいということは。この矛盾は、常に念頭にないとだめですね。「機会の平等」と競争が否定されてしまうので、人々の成長や進歩へ向かう自由意志が抑圧されてしまう。自然に生まれてくる「結果の違い」を暴力で押さえつけて、なだらかにするしかなくなるからなんでしょうね。


二つ目は、「機会の平等」による「健全な競争」をすれば、結果として「メリトクラシー能力主義)」に偏っていく。しかしながら、社会の階層秩序を、メリトクラシー基準で構築すると、信じられないくらい弱者に厳しい過酷かつ不健全な社会が形成されてしまい、社会が分断され、社会のサスティナビリティが維持できない。無理やり極端に「結果の平等」にフォーカスした社会よりは、ましなものの、ここまで格差と分裂が進んで、公共のプラットフォーム自体が食い物にされてメンテナンスされなくなると、人類の存続にかかわる。。。


だから、ある程度、制限をかけた「階級社会」のほうが、メリトクラシー能力社会よりましだ、という結論。


このあたりからSF的な妄想は、恐ろしいほど広がりますよね!。


B)

ある程度の緩やかな階級社会を認めるとしても-----これって、今の僕らが生きているアメリカ型の自由資本主義社会そのまま-----分断された「それぞれの共同体」におけるフリーライド(ただ乗り)が横行するので、岡田さん的言い方では、上級国民と下級国民、それぞれが、「より大きな共同体の一員たる自覚」を促されなければならない、となる。


けど、この具体的方法は、どんなものか?って、まったくわからないですよね。(←これからの物語の最前線になると思う)


これって、たとえば、より矮小化して小さなものでいえばは、リア充と非リア充の対立の果てに、「両方が交わらない社会」が予測されるけれども-----そうすると、それぞれが同じ場所に生きているという共通のプラットフォームがなくなって、全体としては社会が壊れやすくなったり、両共同体の最終戦争にいきついて「万人の万人に対する闘争」というディストピアになってしまうのを止められないって思う。そういう感じのやつ。


サンデル教授は、これを「議論を通しての自覚」しかありえないって描くのだけれども、こんなのお上品な「議論」なんかじゃ無理だよって思う。要は啓蒙や教育によってということだと思うけど、実感とか損得のメカニズムがないと、「これ」ってなかなか難しいぞーと思う。


たぶん、この「より大きな共同体の一部である自覚」が、一番強制できるのは、明らかに戦争。


この場合の「より大きな共同体」を、「ネイションステイツ=国家」と考えて、下級国民が徴兵制でガンガン戦地で死にまくっているのだから、戦争に行かないなら財産を差し出せって!ってのが、最も効率的バランスの良い「平等化装置」だった。徴兵制システムは、無作為に、階級に関係なく「国という幻想のために命を懸けて」「同じ釜の飯を食った仲間」にしていくという装置。このシステムというか方法はいまだ生きているので、何かあると戦争圧力が高まると思う。でも、これも核戦争の可能性がある中では、なかなか限界まで行きにくくなってきた。


toyokeizai.net


丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。
http://www7.vis.ne.jp/~t-job/base/maruyama.html



お互い、「とにかく交わらないのが最善手」となっている状況で、フリーライドにならず、公共のプットフォームを守るために、どのようにすればいいのか?


これって次の時代への重要な問いかけなんですよね。


これって、「とにかく同じ国民である」とか「とにかく同じ民族」であるとか「とにかく同じ人類」とか、いろいろな「共通項」を探して強調する手段が要求されるんだけれども、、、、これってネイションステイツの国民国家、民族という幻想で、物凄く苦しんだ20世紀を振り返ると、単純にこの幻想発生装置による高揚の一体化は難しい。このあたりは、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』で本当に当たり前になってきましたね。昔は告発口調で、国家や民族(ネイションステイツ)などというものは幻想だ!と叫ばれてしましたが、もうこれが当たり前になると、歴史の流れの中から必要だから生まれてきた装置だったという感じがしますね。幻想なのは当然わかっているけれども、それをどう有用に社会工学的に利用するのかという視点が大事だと思いますね、これからは。

diamond.jp


幻想発生装置による高揚の一体化、それ以上に、「お互いが異なる種族」だというような、絶対的にコミュニケーションの断絶が強調されている昨今で、それはいったいどこに見出せるのか?というのは、興味深い。ここでペトロニウスは、「種族」と書いているのは、異なる民族とかだと、「同じ人間じゃん」とか「同じ言葉しゃべるじゃん」とか、そういう共通項で処理されちゃうけれども、例えば、ネアンデルタール人ホモサピエンスって、共存できなかったじゃん。なぜかはわからないけれども、ちょっとどうも交配もできなかった?みたいだし、まったくホモサピエンス側は、妥協せずに駆逐しているよね-----っていうあの感じのイメージです。


僕は、次世代の物語において、この「お互い種族が異なるので殺しあうしかない共存不可能性」の物語から、どのように「次へブレイクスルー」していくか?ってのにとても興味があります。


それはすなわち、今現在の人類の課題だから。


この最後の結論が、「これからの来るべき社会」の予測になっている点は、非常に注目したいと思います。そして、この分断が「共存不可能性」への言及だと僕は思うんです。この共存可能性に注目するという点で、僕は『進撃の巨人』と『天冥の標』小川一水さんを出した下記の議論と、ガチっとはまるのがわかると思います。『天冥の標』で描かれている、「共存の絶対的不可能性」に、ウィルスが注目されているのは、さすがの慧眼だとうなります。

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この回のアズキアライアカデミアは、僕の中ではかなり良かった。物語の最前線に到達した感じがあって、それがどんなメカニズムかってのは、だいぶ具体的なものが出てきている。この感覚から『ふかふかダンジョン攻略記: 俺の異世界転生冒険譚』への言及はいい線行っているのではないかと自分でも思っている(笑)。KAKERUさんの話をすべて読んでいると、この人は、いい点を突いていて、ゴブリンなどと人類との関係を、「種族殲滅戦争」をしているととらえているんですね。だから、お互いにとって害虫だから皆殺しをしているわけで、そうした「種族殲滅戦争」において、お互いを害虫(皆殺しにしてもよい)と判断しているルールの中で、人権をとくことの無意味さを、あげつらうように強調するのが、この人の作風なんですね。ようは、個や個々の属性の(マイノリティの)権利が際限なく拡張されていくと、社会の存続可能性が壊れちゃう。なぜかというと共生するためのプラットフォーム(=お互いがある程度我慢せざるをえない)を破壊しちゃうからですね。もう少しいかえれば、マイノリティの権利を守るために、マジョリティを殲滅皆殺しにしていいって発想につながってしまっている。ウィルスの話で、ある特定のウィルスと共生している民族を守る話をしていたら、人類が絶滅しちゃったという、この話です。それって、サスティナビリティなさすぎじゃない!という話。この辺の整理は、もっといるし、今後知恵を考え出さなきゃいけないけど-----人権を盾に権利ばかり主張していると、「多様なみんなが生きる器」まで壊しちゃう可能性が高いんですよね。うわ、これ興味深い。人権の範囲拡張をガチガチに言いすぎると、多様性の否定になるんだ。。。それを「どういうことなの?」と表現するときに、ファンタジーの世界では凄いやりやすいんですよね。ゴブリンとかオークとか、要は亜人種をどこまで人間ととらえるかって話と接続するから。人間と亜人種との違いをどこに置くのか、ってすごいSFになる。もしくは、どうしてそういった「共通性の高い、しかし違い種族が生まれたの?」という問いになる。『BASTARD!! -暗黒の破壊神-』とかだけど、どっかでこの遺伝子組み換えをデザインして生態系を設計したやつがいるんじゃないか?って発想につながりやすいもの。んでもって、これ敵対種族とすると、KAKERUさんの殲滅戦争(=ルール)をしているんだから!という話になる。これって現代の問題点の物凄く見事なカリカチュアライズになっている。この発想を、逆で考えると、「どこまでが人間か?」という問いで、『Vivy -Fluorite Eye's Song-』とか『ソードアート・オンライン』のアリシゼーションシリーズなんかもこの類型の派生形。この線引きをどう考えるか?ってのは、AIやロボットものでよく問いかけられる問いですよね。人間なるものの境界線の設定は、常に物語の最大テーマの一つ。『デビルマン』の「シレーヌよ、血まみれでも君は美しい」です。

ふかふかダンジョン攻略記 ~俺の異世界転生冒険譚~ 1巻 (ブレイドコミックス)


メリトクラシー能力主義)によるグローバル化が進むと、「何者でもない僕ら」の不安が交わる

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それともう一つ関連で、、、、前回の記事、今「何者でもない僕ら」って不安が多く生まれているよね-----という話があったんですが、それと『コンテナ物語』の岡田さんの解説がつながってんですよね。えっと、数ある岡田斗司夫さんの動画の中でも、この二つは、特に素晴らしいと僕は思っていて、無料公開終わったからコンテナ物語のほうは最後まで聞けないんですが、結論が素晴らしんですよね。


コンテナの効率化が、世界経済に影響を与えて、僕らが住む「グローバリズム化が浸透する地球」が描写された結果------普通の能力の普通の仕事をする人が住む場所がなくなっていく究極のメリトクラシー社会になってく僕らの住む世界があぶりだされていきます。考えただけでも怖い。。。僕も、たいがい世界中で仕事しているし、いまはアメリカの会社で働いていたりするけど、そんなグローバルエリート(笑)な自分でも、もうあまりに新しい仕事が難しすぎてついていけないって、青色吐息になるので、普通に生きていくことすら難しい時代だと思いますよ。こわすぎ。。。


その社会では、「普通の人」が仕事とを見つけるのはほぼ不可能で、「何者かである!」くらいの極端に頭のいい人でなければ、生きていくの難しい社会になってきています。


だから、社会から「何者かであれ!」という強烈なメッセージに反応して、人々は苦しむことになります。


これメリトクラシーグローバル化は、コンビネーションなので、ぜひともここで上げている二つの本を読むのはおすすめです!。


人類の課題の最前線。


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コンテナ物語 世界を変えたのは「箱」の発明だった 増補改訂版



さて、ここまでいったところで、「共存不可能性」が「種族の違いによるディスコミュニケーションによる殲滅戦争」というテーマって、なんかあったけ?と思いながら、これだ!と思いだした作品。



■分かり合えないので、どんどん違う種族になってゆき、経ては銀河を分けた永遠の戦争闘争状態になっていくこともまたSF

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ちなみに大好きで何度も見直しているアニメに村田和也、虚淵玄原案の『翠星のガルガンティア』(2013)というのがある。この「種族の違い」という話を、SF的に広げていったら、どこへ行きつくかの、究極地点の一つだと思っていて、子供にも見せておかなきゃ!といつも思う傑作です。SF的にえば、「よくある発想」といえばよくあるものなのですが、なんというか構成が素晴らしくいいのと、映像によるインパクトが、うおっ!!!って思うのです。


ネタバレですが、

遠い未来、宇宙に進出した人類は「人類銀河同盟」を結成し、宇宙生命体ヒディアーズとの殲滅戦争を続けていた。銀河同盟軍のパイロットレド少尉はヒディアーズとの戦闘から撤退する際に母艦のワープに巻き込まれ、人型戦闘機「チェインバー」に搭乗したまま未知の宙域に転送されてしまう。

翠星のガルガンティア - Wikipedia


人類銀河同盟 VS 宇宙生命体ヒディアーズ


この2つの殲滅戦戦争が、物凄い長きにわたって続いているのですが、その起源がわかったときに、おお!と思うのです。僕のブログは、面白く物語を楽しむガイドみたいなもので、あまり親切にわかるように説明しないのですが、ぜひともこの記事の中のものをすべて見てもう一度この記事を読んでいただければ、ペトロニウスが何を言わんとしているのかが、実感をもってわかると思います。


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↑アニメを見て、この記事を読んでもらったという前提で(笑)、話すと、この二つの争いって、


人類銀河同盟(保守派) VS 宇宙生命体ヒディアーズリベラリズム


なんですね。これが20世紀末に、コミュニケーションの断絶があって、お互いがお互いを無視していった結果・・・・・

それと、LDさんが話していたのは、これスターシードの物語なんですね。宇宙に進出した人類の「人類銀河同盟」と、宇宙生命体「ヒディアーズ」と争いを描いているんですが、これどちらも、人類なんですね。最大のネタバレですが、まぁSF好きな人には、見た瞬間連想するくらいのレベルの話なので、まぁこのブログはネタバレ基本なんで。


そんでもって、どちらの選択も、見事な覚悟があって、よし!!!とLDさんは喝破している。チェインバーという戦闘機械が人型であるのも、戦うためにデザイナーズベイビーや極端な全体主義国家の形態を選んでさえも、人類銀河同盟は、「人型であること」を貫いているんですね。やつらには、どんなことになっても、人類である!ということに殉じたんですよ。かっこいいやつらです。同時に、宇宙生命体ヒディアーズ(自発進化推進派イボルバーの共生体)も、宇宙で生きていき繁殖できるために、人であること捨てた人類ですが、そうして全宇宙に大繁殖していくわけです。これも、覚悟がいけてますね。


旧地球において、自発進化推進派イボルバーとコンチネンタルユニオンの争いがあるのは非常にわかるんですよ。人類が人類でいることはどういうことか?という線引きは多分に感覚的なもので、こうした感覚的に相いれない戦いは、宗教戦争のよなものですものね。際限がない。僕はこういう基本的な理念の奥にある感情的なもの、底の基底まで行くと、人間って、コンサヴァティヴがリベラリズムか、はっきり分かれる気がします。これって、理論や論理じゃなくて、感情なんじゃないかって。自発進化推進派イボルバーとコンチネンタルユニオンは、LiberalismとConservatismの究極の対立な気がします、その帰結も、そうなるよなーって感じが凄いします。ガンダムSEEDの新人類「コーディネイター」と遺伝子操作されていない通常の人類「ナチュラル」との対立とかを思い出します。

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A)人類銀河同盟(保守派)

保守派は、人間が違う生物になるなんて許せない!とヒト型を貫くんですが、その結果、長いヒディアーズとの戦争に勝ち抜くために、超極端な軍事全体主義になっているんですね。「そこ」が、保守派の一番譲れないポイントだったということ。自由とか全くない超軍事独裁全体主義でも問題ないわけですよね(苦笑)。

B)宇宙生命体ヒディアーズリベラリズム

同時に、自発進化推進派イボルバーつまりは、ヒディアーズにとっては、ヒト型であることなんか、意味をなさない。これって、遺伝子操作によって環境によってどんどん変わっていってもいいじゃないか!、それが生物だよ!という思い切りの良さがります。これ人間の格差をなくそうと思うと、一番ありっちゃーありな手段ですよ。人体改造して、違う生物になってしまえば、人類の格差とかなくなるし!!!って。←こいつも極端だけど、とても合理的なのは合理的(苦笑)。


ぼくは、この二つの発想の違いに、コンサバティズムリベラリズムの、まぁ極端ケースですが(笑)を感じてしまって、お互いに、もう相手とは話してらんねぇ!と思い切った結果、種族が違うところまで分裂してゆき、そしてお互いの殲滅戦争になって数千年(笑)とかなっていくわけですよ。まぁ、どっちも、どっちだよ、と思いますが(笑)。いやに、現実感がある発想だと思うんですよねぇ。


ああ、思い出してきたんですが、これってはるか未来の海に沈んだ地球の巨大船団「ガルガンティア」を舞台にするんですが・・・あ、ケビンコスナーの『ウォーターワールド』だと思えばいいんですが、「船団」ものなんですよね。船って、共同体であり、どのように目的に対して「共存していくか」に特化した共同体なんですよね。ちなみに『ウォーターワールド』は、だいぶ大コケした作品ですが、ユニバーサルスタジオのショーっがあって、これ何回も見に行っているので、物凄く印象に残っています。水に覆われてしまった地球での、水上北斗の拳マッドマックス的なお話です。

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この作品のテーマが、「共存」だというのもわかります。ウーム、2013年で、これが出ているんですねぇ。さすが。もう一いっかい見直したい。ちなみに、海賊船というのは、非常に興味深い共同体で、このあたりは、「共存」を考えるとき、アソシエーション(目的を持った共同体)を考えるときには避けては通れないものです。それが面白おかしく説明されているので、岡田さんの以下のものも超おすすめです。

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などなど、最近ペトロニウスの思考の、あれこれでした。