『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』カート・ヴォネガット著〜マクロの視点は狂人だ!

ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを (ハヤカワ文庫 SF 464)ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを (ハヤカワ文庫 SF 464)
カート・ヴォネガット・ジュニア 浅倉 久志

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評価:★★★★★星5つ
(僕的主観:★★★★☆星4つ半)

正式名は

"God Bless You, Mr. Rosewater, or Pearls Before Swine"


□テーマは「お金」。一部に偏っているお金を、恵まれない人に再分配できるものなのか?いやそもそもそんなことに意味があることなのか?


大富豪の跡取り息子エリオット・ローズウォーターは、戦争中に負った心の傷をきっかけに恵まれない人々に愛とお金を与えようとする。それも限りなくたくさんの愛とお金である。要するに彼の持つ全てを与えようとするのだ。その行為により彼は父親の信頼を失い、妻は精神に異常をきたす。ついには、彼の博愛的行為が精神異常の証拠であるとして、莫大な財産の相続権を奪おうとする輩が現れるのだった。ヴォネガットの描く究極の愛と優しさの物語。鋭い皮肉は優しさの影に隠されてはいるが、鋭さは変わらず。とことん人を愛することは、やはり狂気と言われても仕方が無いのだろうか。

「僕は芸術家になろうと思う。」


「芸術家?」


「僕はこの見捨てられたアメリカ人たちを愛して行きたい。たとえ彼らが役立たずでなんの魅力もなくてもね。それが僕の芸術ってわけさ。」


優しく愛すべきエリオットの運命を思うと可哀想になってしまうが、それでも最後は、「やったね、エリオット」と拍手を送りたくなる。切なくて、哀しくて、そして爽やかな小説だ。

http://joel.way-nifty.com/cactus/2006/01/post_ca65.html
サボテン島のハリネズミさんより

一言でいえば、大金持ちの御曹司が、恵まれない人にすべてを分け与えようとする物語。

総括的にいうと、この単純な平等と再分配の物語に、凄まじい皮肉*1だからだ。なんというロマンチスト!!))をこめているところ、そして、エリオットの抱く夢の実現のために、最後の最後で物語の「オチ」をつけるつけ方が、あまりに素晴らしく感動した。はっきりいって、翻訳が硬すぎるし、内容も頭に入りにくい偏屈な書き方をしている。最後まで読み続けるのがいささか大変なのだが・・・けれど・・・・そのすべてを一気に包括する最終数ページの感動のために、その苦労は問題ないと僕は思う。


□なぜそんなことをするの?〜エリオット氏の動機があまりに見えないことへの不安


全編最初から読んでいると、読者には、不思議な疑問点が、繰り返されると思う。???????と。それは、この主人公のエリオット・ローズウォーター氏が、さまざまな才能に恵まれていて、しかも気が遠くなるような巨大な資産を自由に使える立場にあり、第二次世界大戦でヨーロッパ戦線での英雄であり、、、と、何もかもそろっているし、しかも、若い頃の彼は、特にそんな博愛精神にあふれまくるような理由も過去も描かれないのです。


それなのに、なんですべてを捨てて、貧しく恵まれず、、、しかも、救う価値もない屑ども(エリオット自体が決して貧乏人に幻想を抱いていないのは作中で何度か繰り返される)を、救うことに献身的になるのかが、まるで理解できないからなんです。しかも、ビルゲイツカーネギーのようにファンドでも作って、寄付するだけならば、まだわかるが・・・・。彼は財団の運営の一番末端の部分を、ものすごい汚い小屋に住み続けながら、電話番まで兼ねてやりつづけるんです。


理由がわからないので、不安になるんです。読者を代表しているエリオットの父親である上院議員が最もそれに悩みます。なんで、息子はこうなってしまったのか?って何度も問いかけます。ここでは書かれていないが、上院議員のエリオットの父親は、まちがいなく共和党リパブリカン)だろうと思う。それは、財産を持つ、税を納める(=公共に資する)選ばれた人間が、指導者にならなければだめで、財産を所有しないで公共を考えられる余裕を持てない衆愚・大衆には、マクロを管理する(=政治をする)ことはできないという、古典ギリシア民主主義的な意見を何度も述べているからです。アメリカって、実はエリーティズムがとても生きている国で、そもそもギリシア型民主制度からして、貴族による寡頭政治や選ばれた市民・シティズン(=税を納めるだけの財産を所有する特権層)が政治を行うべきという主張は根強い。代議制民主主義は、それの妥協案だからね。

話がそれたけど、この物語のキーポイントは、



1)なんで彼がそうなったの?



2)どうやってこの問いに答えをだすの?



3)それが周りのどういう効果をもたらすの?



という3点がすぐ思い浮かぶ。1)と3)は、作者は、結局のところ作品中では漠然としか答えをださない。明確に答えを出したのは、見事な「オチ」があった2)だけで、実は、これだけでは、この作品全編に漂う疑問点は、解消されないのですね。動機がわからないままに物語が進むんですよね。けど、、、実は、ちゃんと類推すると、結構饒舌にヴォネガットは、語っている気がするんです…それを分析してみましょう。



□文学はマクロの視点を、一人の個人に背負わせてしまう



マクロの次元を個人で担うというのが分かりにくいと思うので、具体例をあげてみよう。たとえば、最近のかなり人気のあるエンターテイメント系でいうと、


衛宮士郎

アンリマユ

トップを狙えのノリコ


なんかがそうだ。こういうのは多いけれども、エンタメとしての面白さをちゃんと維持しつつ、この視点を語れるのは、実はとても監督の力量がいるようだ。文学でいえば、アーネスト・ヘミングウェイの初期の作品群で、『兵士の故郷』などがすぐ思いつく。これも、アメリカ人で戦争帰りの男が、主人公だ。考えてみれば、サリンジャーの『ライ麦畑で捕まえて』も、このエリオット・ローズウォーターも、そのすべてがアメリカの帰還兵であることが特徴だな。そういう意味では、戦争体験が原因で、日常をミクロの個の次元で体験することができなくなって現実とのアクセス感覚を失うというのは、アメリカ文学の主要なテーマなのかもしれない。このテーマがなぜ生まれたかというのは、興味深いテーマですね。 ベトナム戦争帰りの帰還兵の社会問題やそれを扱った文学作品なんかも同系列なんでしょう。

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やや話がずれたが、、、文学ではよくある主題なのだが、エンターテイメント系の小説ではこの手の文章は珍しい。理由は簡単だ。読解するのに非常に力がいるので、文章の背景を読み取る力がないと、読めない(=理解できない)ので、大衆には受けにくいのだ。まず基本的に、マクロの次元の発想とミクロ(=個)の次元での発想は、思考の概念レベルがまるで違うので、コミュニケーションがほぼ不可能であるという前提に立って、まったく理解不能な言語を話していることを、同じ言語で表現しなければならない。云っている意味がわかりますかね?。


表面的に同じ日本語を話していても、意味のレベルで全く違うことを話しているために、コミュニケーションがまったく成り立っていないってことです。わかりやすい漫画などではよしながふみさんの『愛すべき人々』ですし、ミュージカルの『レ・ミゼラブル』のジャンバルジャンなんかもそうですし、思想的にいえば、カール・マルクス共産主義の理解のされ方もなどが有名なものです。具体的にいえば、平等を理念的に創り出そうとしたフランス革命ジャコバン派ロベスピエールなどもそういう系列にはいるんでしょうねー。よしながふみさんは、平等という抽象的な概念を、個人が獲得してしまうと、いったいどんな風に世界を眺めうことになるか?って事が、見事に物語になっている。これは見事です。そして、このことを理解して、世界や人々の言動を眺めると、相当世界は違って見えるはずです。

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とにかく、エリオット氏のようなマクロの視点は、基本的に、一般社会から見たらほぼ狂人の思考であり、現実世界での結末が大量殺戮や人間性の否定に結実することでもまた、繰り返されるパターンです。大量殺戮にいたって至ってしまうケースが多いのは、善きことから出発しているののだけれども、そもそもこういったマクロの視点というものは、「個人(=エゴ)の否定」と「私有財産制度(=個人の尊厳と欲望)の否定と制限」という思想とメカニズムを内包しているからだと思われる。ようは、個の次元の価値を認めないって発想だからね。

この辺の話は、ここで書きました。

新暗行御史』/Classic.16 洪吉童伝(ホンギルドン伝説)〜義賊の伝説はコミュニズムの原初形態http://ameblo.jp/petronius/entry-10004704548.html

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この物語の核心部分は、エリオット・ローズウォーターという個人が、博愛・平等という抽象的な概念(=全体にかかわるマクロの視点)を体現しているということだ。それが一般的な感覚である妻や彼の父親や、外部の弁護士事務所の人間からすると、狂人にしかみえないのは、ミクロの立場にいる人にとって、マクロの次元を個人で担うことが理解できないからだ。「個」の次元で世界を眺めている普通の人々にとっては、抽象的な概念を個人で体現してしまうことは、殆ど狂気に見えるのだ。


□文学を読むことは、このマクロの視点で描かれる哲学的な、そして実践的な問いについての教養がないと、わけがわからなくなりやすい


僕は、昔、とういっても中学生ぐらいにドストエフスキーカフカヘミングウェイトルストイなどの文豪といわれる作家を読み耽っていた時に、どーしてもいまいち腑に落ちなかった。確かに物語としては素晴らしいダイナミズムではあるが、、、なんだか、もう一歩これらの作品の背後にあるはずの本質に、自分は触れていないような感じがしたんです。


ある時、何かに打たれるように、これらの主人公たち・・・・サルトルが描いたロカンタンの吐き気や、『異邦人』のムルソーのつぶやきや、ウィリアムブレイクが詩に乗せたの生命の肯定と賛歌、、、、『罪と罰』のラスコリーニコフの叫び、ムイシュキン公爵の冷静な視点、、、、そしてそのすべてを包括した問いを発する『カラマーゾフの兄弟』の三兄弟・・・・イワン、アリョーシャ、ミーチャの語っている言葉が、腑にすっと落ちた時がありました。それは、これらの物語が、物語のダイナミズムとしてミクロとマクロといったり来たりしており、その壮大な物語の体系の中で、内面に起きていること外面に起きることが何の説明もなく飛躍して結合し、そして常に内面での問いがマクロの視点へ飛躍するということが、誰も教えてくれないし、説明もそれないたいのだが、作法として起きており・・・・そのことを自覚的に考え、かつそこで語られている抽象的でマクロの視点であるテーマを個別に分析したり調べたりすることによって、 作者が、その作者の代弁者である主人公・キャラクターたちが、どんなマクロの問いの悩んでいるのか?なにを語っているのか?がわかるようになったからなんだと思います。

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文学作品を読む(=読み解いて理解して腑に落とす)にはかなり高度な1)教養と2)トレーニングがいります。


ここで書いても仕方ないので、細かく説明しないのですが、簡単に説明しましょう。


1)教養


たとえば、上記のエリオット氏の芸術家の問答は意味がわかりますか?。えっとそうですねーたとえば

「兄さんの仕事は半分終わった。あとは残りに半分をすればいいんだ。」


「なんだねその半分の仕事とは?」


「兄さんの死者を蘇らすことだ。結局それはまだ死んでいないおかもしれないのだから。」

これは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の一節で、アリョーシャが、兄のイワンに対して語るセリフです。そのあとのイワンの答えがこれです。


「ぼくは神を認め、人間には知ることのできない神の英知と目的を認める。生命の根底に秩序と意味があることを信じ、永遠の調和を信じている。


・・・・・『宇宙』が苦闘しつつ目指している『言葉』を僕は信じる。


・・・・どうやら僕は道を誤っていないようだね。ところが、結局のところぼくは、神の造り給いし世界は認めていないのだ。」


カラマーゾフの兄弟』 ドストエフスキー

意味わかりますか?(笑)。


まぁドストエフスキーは物語のエンターテイメント的構成がそれほどうまい人ではなかったので、いきなりマクロの視点の中小問答が、会話に挿入されるので、普段からこういうことを考えてこのテーマの背後にある問いや原理を知らないと、そもそもさっぱり意味不明です。この会話は、


人間の人生は、生きるに値するものなのか?。


という背後に隠れているといがあって成立するんです。上記で「人間には知ることのできない神の英知と目的を認める」というのは、イワンは、人生は生きるに値する何らかの価値があるはずだということに対して、肯定するという立場をとるという宣言です。基本的に、人生は生きる価値がないものだよ、というのはショーペンハウエルから始まって、カミュカフカなどの作品に何度も出てくるモチーフで、、、このテーマを発する物語は、生きる価値を感じなくなってしまった主人公が、その非現実感や生きる動機の消失によつて、世界が無味乾燥になってしまったことで、、、それによって人生を無価値にして自殺したり、無気力で周りから殺されてしまったりする姿を何度も描いています。イワンも、その道へ転びかけますが、そうじゃないんだ!と力強く宣言したんですね。


ところが、それに続くセリフで「ところが、結局のところぼくは、神の造り給いし世界は認めていないのだ」というのは、人生を生きる価値があるだろう!ととりあえず信じることはできるのだけれども、、、人生の無価値を克服するための具体的な方法は、まだイワンは見つけていないので、、、、実存主義者の意固地なところは、それを個人の・・・自分の力だけで見出すことができないのならば、人生に価値はないので、今のところその具体的方法を見出していない僕には世界は無意味だ、ともいっていうんです。


ちなみに、アリョーシャの半分終わって、死者を蘇らせろ!というセリフは、イワンが自分を苦しめているもの(=世界は無価値だと感じてしまう自分の体感感覚)に気づいたので、気づいた時点で仕事は半分終わったといっていて、残り半分は、自分の中で死んでしまっている自分の壊れている世界を体感する感覚を取り戻せ!って語っているんです。


すごい端折りましたが、、、このへんの訳のわからないようなマクロの問答は、その背景にある実存主義哲学のテーマやさまざまな問いの原型を日常的に考えていないと、さっっぱり意味をなしません。けど、、、この背後にある本質的な問いの構造がわかってくると、非常にシンプルな問いを、さまざまな方法で克服しようとチャレンジしている様は、もうハラハラドキドキのエンターテイメントなんですよ。


解釈は多々あるのでしょうが、一言でいうおならば、ドストエフスキーのキャラクターたちは、ほとんどが、実存哲学における実存の問いを発しています。まぁ分かると思いますが、エンターテイメントと文学を分ける境目というのは、僕はこの抽象的でマクロな視点という・・・・肌で感じられる体感感覚から飛躍した次元を、1)うまくわかりやすく伝えられるかどうかという技術論と、2)めでたしめでたしの物語性を重視するか、問いへの答えを重視するかという2ポイントにあると思っています。


たとえば、『新世紀エヴァンゲリオン』なんかは、僕的言葉によればには限りなくエンタメ的な文学作品なんです。それは、ヲタクでなくてとも魂ふるえるような演出力や感情移入しやすいキャラクタ造形や戦闘やロボットなど、広範囲な人々に届きやすい同時代性のある記号パーツで構成されているなど、最高度のエンターテイメントのレベルを維持しながらも、最終的にはナルシシズムに逃避する観客への攻撃とうメタレベルの結論・・・・これは、文学的な・・というか、、、ようは問題設定の大前提にある大きなテーマへの答えを優先させてしまったわけで、れはとても文学的な指向だと思うのです。あっ、「文学」・・・リトレイチャーをですね、文字で描かれたモノだけというような単純な定義では話していないので、その辺はご理解よろしく。



2)トレーニング



・・・・なんか、話が長くずれてながくなりすぎたので、簡潔に云ってとりあえず記事にUpしまうね。えっと、僕の物語評価には、マクロとミクロのリンクというものを重要視するという発言が何度もありますが、



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ミクロとマクロの接続の失敗・日常と非日常の対比演出?
http://ameblo.jp/petronius/entry-10028096433.html

宗教的救済を志向する主人公・ナルシシズムからの脱出劇の典型?
http://ameblo.jp/petronius/entry-10028793362.html

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http://ameblo.jp/petronius/entry-10028881114.html


これは、まったく異質な次元のもので、たとば経済学でいう合成の誤謬の理論のように、マクロとミクロ全く異なる原理で動いていますし、、、、そもそもマクロの視点というものは、ミクロの人間の個の次元で世界を眺めている人にはさっぱりわからない異質なものです。このミクロ次元とは、いわば動物の次元です。惚れたはれた、嫉妬や尊敬など、単純な心理的な体感の世界です。だから、ミクロの次元で話されると、人は非常に感情移入しやすく共感(もしくは拒否)がしやすい。けど、マクロで前提もなしに語られると、非常にわかりにくいし、そもそも用語が抽象的なのでトレーニングによってその概念を、理解しておかないと、通じているようで(同じ日本語ですからいおむことはできる)実は、全然通じていないことが多い。ようは、文字は読めても、文脈は読めないということです。たいていの古典的な文学作品は、その同時代には、なかなか分かりやすいガジェットや記号や萌えキャラクターを使用していますが、それは異なる時代の異なる土地に住む我々には入りにくい。なので、当然ながらその背景にある抽象的な次元の共通性を読み取ることが、導入部で最初に来るというエンタメとは逆の感受形式が発生します。

*1:この作者は、とんでもない皮肉やでロマンチストなんだろうと思う。カート・ヴォネガットさんの作品は、僕はこれが初めてなのだが・・・・この作品には、お金持ちと貧乏人の両方が出てくる。エリオットを媒介にしてそのどちらの世界も垣間見るのだが、・・・・僕は金持ちにせよ貧乏人せよ「そのどちらとも」「救うに値しないゴミに見えた」。どう見ても、愛すべき対象の貧乏人どもは生きるに値しないクズばかりで、、、そして、それと全く同列に金持ち連中も腐っている。・・・・・こういうふうに描写すると、当然僕らには、その視線が愚かな人間を、愛しく見守る神の視点になるわけだ…なぜならば、、、そのすべての愚かな営みこそが「人間なるものの営みだ」ということになるわけで、そこに差を見出すことができなければ、それは平等という視点((ちなみに、金持ちと貧乏人という二項対立を設けて、そのどちらもしょせん欲望に駆動される腐ったゴミでしかありえないという冷徹な分析は、ロマンチストでありながら、ちょっと極論すぎるとも思うけれども、リアリストだな、と思います。金持ちが、貧乏に申し訳ないと思うと、どうも憐憫で目が曇り、貧乏がさも清く正しいモノであるような言い方をよくしますが、はっきり云って貧しいということはほとんど中身も比例して貧しくなるものだ。貧すれば鈍するんです。・・・・とはいえ難しいのは、ではお金があれば比例して心が豊かになるかといえば、これがそうでもないところが難しい。けど、物質的に豊かである方が、総じて余裕があり、選択肢を追いこまれたいやしい決断をしなくて良くなるというのも事実。・・・・・実に村上龍的な言いかただな(苦笑)。誤解を招きそうですが、取り合えず言い切っておきます。