『GUNSLINGER GIRL』 相田裕著 静謐なる残酷から希望への物語(2)〜非日常から日常へ・次世代の物語である『バーサスアンダースロー』へ

GUNSLINGER GIRL(15) with Libretto!II (電撃コミックス)


GUNSLINGER GIRL』 相田裕著 静謐なる残酷から希望への物語 1
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130103/p1

上記の続きです。

さて、前回の1で設定した命題は、袋小路の物語類型であるスタート地点を考えると、『ガンスリンガーガール』というのは道具となりきる追い詰められた人間の逃げ道のなさの残酷さを愛でる?悲しむ?話になってしまい、物語が広がってオチに収束しない構造をしている、ということでした。それはつまり、ではどうやってこの物語を終わらせることができるのか?という出口を探すという「文脈読み」になると思います。作者の相田裕さんは、10年をかけてこの構造をどう料理したのでしょうか?。それを見てみたいと思います。

■イタリアの南北問題とメガリージョンに起きる社会不安を〜欧州の地域主義と極右の台頭は人類の未来のモデルケース

イタリアのマフィアと国家、そして分離独立を狙う五共和国派のテロリストの対立を、その悲劇のスタートである「クローチェ検事の暗殺事件」とするマクロの世界観設計は、架空のイタリアという設定ながら、見事な時代背景とのシンクロしているテーマだ。というのは、これが、イギリスでいうスコットランド独立と同じような、豊かな地域がネイションステイツの統一体制に反発して、独立を志向することと、極右の台頭が著しい90年代以降の時代を正確に戯画化していると思うのだ。この問題に、EU、ヨーロッパコミュニティという人類の歴史の中での壮大な実験をヨーロッパ大陸は実施している。


GUNSLINGER GIRL』 6〜10巻 相田裕著 成熟した大人の恋の物語の挿入から生まれる立体感
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20081028/p1

5巻ぐらいからが顕著なのだが、格段に画力が、また漫画の構成の力が、上昇している。そこで、格段にこの世界がリアリティを帯びてくることになった。それは、単純に、イタリア社会の、さらに言えばヨーロッパ市民社会の構造的マクロの問題点が、描かれるようになってきたからだ。たしかに、全巻読み返してみると、イタリア社会の問題点は、この物語の当初のテーマ設定に深く組み込まれて作者が設計していたことが伺える。しかしながら、それが全然表に出てこないように感じられるのは、非常に単純な理由で、イタリア社会の「具体的な手触り」を描写をするだけの画力や漫画力が不足してからではないかと思う。マクロの世界観を描くには、そのディティールを具体的に手触りのレベルで「絵として」表現できなければならない。これが非常にうまく言っていている例は、『パイナップルアーミー』から『マスターキートン』でその手法の円熟味に磨きがかかる浦沢直樹さんだ。

パイナップルARMY (Operation 1) (小学館文庫)MASTER KEATON 12 完全版 (ビッグ コミックス〔スペシャル〕)

ヨーロッパ社会のことを知りたいのならば、これに勝るマンガはないと思う。なかなかヨーロッパ的なものをというものを体感できる媒体、物語などなどは、非常に限られてくるのだが、この2冊は、本当に見事だ大傑作だ。特に『マスターキートン』を読むと、欧州の典型的な物語や歴史が、ミクロレベルの手触りでよくわかる。そしてそれがヨーロッパ社会の歴史のマクロを同時に主題として描きながらなされているところに、この作品の傑作としてのレベルの高さがわかる。まさか・・・・これらの大傑作を読んでいない、ということは、、、ないと思うのですが、物語三昧の読者ならば、この作品はぜひ読んでみて熟読してください。本当に素晴らしい物語だし、現代の欧州や米国、、、特に欧州の現代的な物語が見事に詰まっており、これを熟読しておくと、さまざまな欧米で描かれる物語が非常に理解しやすくなります。ベトナム戦争でのアメリカ人が被った傷や、IRAと英国とのテロの抜きがたい恨み、ナチスドイツの残した恨みそういった現代EUが抱える様々な物語の基本構造が、素晴らしいエンターテイメントと見事な漫画力(脚本、絵、構成そういったすべてのもの)による最高レベルのエンターテイメントを味わうことができます。


えっと、ようは、5巻以降の漫画力(特に大ゴマまでの風景のショットがいい!)が加わることによって、この作品のマクロのテーマが、浮き上がってきているんですよね。そもそも、義体と担当官の関係性は非常に袋小路な出口がないミクロの物語であったのですが、それがマクロの背景を浮かび上がらせることで立体的に感じられるようになってきたんだろうと思います。ミクロの物語自体は、出口がない、そこだけで完結してしまい、時間を進めると「心中(=二人で対幻想を全うして自殺する=逃げるでもいい)」しか論理的には出てこない閉塞感があふれているのですが、ここでマクロのテーマが登場することによって、時間が経過する、ということの容赦なさが描かれることになり、物語がダイナミックに動き出すことになったのです。


ここは説明が明らかに不足しているのですが、対幻想および個幻想(=ナルシシズムの檻)というものは、基本的にその構造として「時が止まることを志向している」と僕は考えています。対幻想(共依存の恋愛と考えればいい)が、自殺・心中に至るのは、なぜか?。それは、相手と自分の二人の世界だけを世界の中心にして世界そのものを拒否すると、そもそも生活することを拒否することになるからです。竹宮恵子さんの『風と木の詩』のジルベールとセルジュの関係がその基本的なモデルと考えてもらえればいいです。シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』でもいいですし、僕が好きな栗本薫さんならば『終わりのないラブソング』の竜一と二葉の関係でもいいです。

風と木の詩 (1) (中公文庫―コミック版)

基本的には、B=トラウマを抱えた受け身の人格(=ジルベールコクトー)と、それをA=癒して守ろうとする(=セルジュ・バトゥール)のような庇護欲と被庇護欲との対の関係になっています。エヴァQでのカヲル(=A)とシンジ=Bの共依存も同じ関係に言えます。Bの人格の闇や子供時代のトラウマを、ひたすら「守ろう」とすることでこの共依存関係は、時を止めることを求めるのです。どの作品でも読んだことがあれば一発でわかると思うのですが、社会生活や「他者との関係を築く」ことを完全拒否するのです。これって二人の恋愛への引き篭もりと考えればわかりやすいです。なにがないかというと、お金が無くなるのです!(笑)。要は生活していけなくなるんですよね。


・・・ちなみに、この関係を、唯一社会に繋ぎとめるのは、Aが圧倒的な財力と強い立場を持って養えるだけの『器』を持っている場合です。個幻想の、時を止める終着点の一つであるハーレムメイカーが壊れるのは、「誰か一人の女の子を選ばなければならない」という圧力があるわけで、もしこれが、おれには甲斐性があるんで、全部まとめて面倒見てやる!!!と人格の許容度とお金の許容度があると、この話の収束点はなくなります(笑)。アニメの『フタコイオルタナティヴ』とかここへいこうとしてたなー(笑)。ようは、おれに甲斐性があるから、みんな癒して愛してやる!!的な結末。まぁ、これもありなんですよね。男でも女でも、複数を愛して、それを従える力のある人格というのは、結構いるものです(笑)。特に一夫一婦制はカソリックによるある種の倫理の設定なので、別に人類普遍の原則では全然ないんでね。


おっと話がずれた。ようは個幻想や対幻想は、社会との接点を絶って自分たちの妄想を純化しようとする力学が働くものなんですね。共同幻想(=国家)による引きこもりは、要はナショナリズムの高揚による他者を従属させる侵略意思と帝国の形成です。しかし、これが、対話(=コミュニケーション)がない、ナルシシズム(=一方通行の関係性)であって、変化もなければ未来もないことであるのはよくわかると思います。


なので、対幻想は時が止まる(=自殺)力学が物語のドラマトゥルギーに内包されています。ところが、共同幻想のレベルには、時が止まるということは基本的には内包されていません。(SFで人類の歴史を小さく見る場合には、ありえますが。)というのは、共同幻想、二者間の閉じた世界ではなく、第三者の視点以上の広大で多様な他者が存在する視点は、時間が止まるということは不可能だからです。仮に主体者(=物語の仮の主観視点)が死んでも、世界は続いていきます。わかりますでしょうか?。妄想とかそういう人の心の中の外にあるものが「世界」だからです。


なので、時間が止まる力学のある「対幻想」に、イタリアの社会やヨーロッパのマクロ(=歴史)を挿入することによって、仮に、主人公が死に絶えたとしても世界は続いていくという物語の力学がなのに設定され確立されたということです。なので、本来は時が止まる方向へ収束することを描くミクロの対幻想の物語であった初期のガンスリンガーガールの世界は、物語が「動き出す(=時間が挿入される)」ことになったのです。


これは、凄いことです。というのは、ミクロの対幻想系の物語を描く人、もしくはそれが好きな人は、マクロがほとんど描けない(=これ高河ゆんさんがいつも僕は思い浮かぶ)ケースが多いのです。というか、ほぼ不可能といってもいいくらい、マクロが描けない。ようは、相田裕さんは、自らの刻苦と連載の進展によって、この問題点を克服して成長したということなのです。これをもって、僕は、この作家は成長していて、凄いなーといったのです。対幻想の引き篭もり系のイメージが好きな人は、その幻想がぶち壊される国家やマクロを描くのを凄く嫌い拒否する傾向があり、それを克服するのは、まさにナルシシズムの克服であり、本当の意味での成長だからです。



マクロがどのように描けているかは、最初の引用文で描いたし、ちょっ疲れたので、ぜひ本編を読むか、マスターキートンを読んでください(笑)。まぁ、ひとことでいうと、極さの台頭の反動での極右の台頭の歴史的流れと、EUとしての超国家統合が進むが故に地域主義が台頭してゆくこと、先進国の中でのメガリージョンとそうでない地域との格差が大きくなることでの社会不安とテロの台頭、という「現代」の最先端の歴史のマクロが描かれているってことです。よくぞ、イタリアなんという日本から縁遠い世界で、この設定を思いついたなと感心します。


ちなみに、非常に細かい部分がすべて本筋と絡んでいる論理構造をしているので、いちいちあげているときりがないのですが…社会福祉公社と極右のテロ組織であるパダーニャの二元的争いの執着地点として、エネルギー不足によって再度方針が変わり、稼働した原発を舞台に核ミサイルの発射ボタンを軸に描かれることも、非常に現代の時代性を先取りしています。原発はFUKUSHIMA以降非常に新規に作ることは難しくなりましたが、今後緩慢に、メガリージョンと地方という地域格差によるテロリズムと社会不安の増大の解決のために、新規エネルギー獲得と経済成長目的として、新規に原発が稼働するストーリーは、非常にありうる流れです。そして、その稼働や設置場所をめぐって、同様の地域主義によるテロと社会闘争は激化を増すでしょう。そういう時代のリアリティを見事に包含しているところなんぞ、ほんとさすがです。


■成熟した大人の恋の物語の挿入から生まれる立体感

実は、サンドロ自身も、未来のない実験動物のような義体の少女たちと、ほとんど大差なく人生の無目的な無意味さにいらだっていて、またクローチェ事件の生き残りの兄弟のような、そもそもこの制度を作り出したものと違って、暗殺者の少女たちと同じように、しょせん歯車の一部でしかない。もう、社会福祉公社は、巨大な官僚システムになりつつあるから。彼はその歯車として、生きている実感を持っていない。生きるための何か?を探して生きているにすぎない。ペトルーシュカがあと5年しか生きられないと聞いてサンドロは、「5年先なんて、自分だってどうなっているかわからない」と考えているのが典型的なのだが、ようはね、このサンドロとペトルーシュカの関係は、実は、徐々に「対等」になろうとしているんだ。わかるかなぁ?。リコやヘンリエッタが、明確にクローチェ事件の復讐という兄弟の「目的の奴隷であり道具」であるという大前提があるんだけれども、サンドロにとってのペトルーシュカは、仕事のパートナーにすぎないんだ。つまりは、「同じように目的LESSの感覚で、同じ目線で世界を眺めている」んだよね。どっちかが、どっちかの道具ではないんだよ。だからこの二人の間に生まれる感情は、対等なものなので、とても深い愛情に感じるし、それはまがいものではない。だって、権力構造がないんだもの。そして、この二人の恋愛が、1期生の盲目的で隷属的な少女と担当官との関係と比べ、どれくらい自由で、そして人間らしいかは、よくわかると思う。この恋愛物語、、、まるで美しいフランス映画を見ているようなスタイリッシュでドラマチックな物語が挿入された途端、このガンスリの世界が物凄く豊穣でリアルに満ちてくるように僕は感じるようになった。



GUNSLINGER GIRL』 6〜10巻 相田裕著 成熟した大人の恋の物語の挿入から生まれる立体感

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20081028/p1


論理的にこの文章では、この話が個々にはいるのですが、前に書いたので、割愛します(笑)。対等な恋愛をスタイリッシュに描くと、本当にきれいなフランス映画のような濃厚な良さがあります。僕は、ペトルーシュカとサンドロのカップルが一番好きです。対等な恋愛は、やっぱいいです。ほんものの愛だと僕は思う。

GUNSLINGER GIRL 8


■3つのテーマをバランスよく描くことで生まれる物語としてのダイナミズム

さて、

1)クローチェ兄弟とリコとヘンリエッタ(=義体の1期生)の対幻想の「つくるものと」「つくられるもの」という支配者と被支配者の従属関係


2)サンドロとペトルーシュカ(=義体の2期生)による対等な恋愛


3)イタリアの地域主義とEUの歴史マクロ構造を主軸とした対テロの善悪二元論的な構造


この3つの、この世界設定の「逃げ道のなさ」を等分に描き、それぞれの異なるエピソードを描き続けることにより、この世界の残酷さを際立たせて美しく描きながら、1)→2)への時系列の動き、3)によるジャコモらパダーニャ社会福祉公社という永遠の殺し合いを続ける組織の壊滅によって、この世界が「逃げ道なく、時が止まること」なしに、「逃げ道のない世界の残酷さ」を描ききるということが可能になりました。これはが唯一可能なのは、それぞれのミクロの話はバリエーションがありながらもすべて袋小路で消えてしまう物語ではありますが、3)があることによって、世界が消えてしまうことがないからです。この3つを等分に、高い力量で描いたからこそ、全体のテーマがリアリティを獲得してダイナミズムを感じさせるのだろうと思います。ちなみに、3)を描くことで、ともすれば劇画的なリアリティーが強くなってしまって、それを打ち消しそうになっていました。1)と3)は、相性が悪いので、極を描くとバランスが悪くなってしまいがちですが、2)を描くことで、この世界の「ガンスリらしさ」がバランスをとっている。本当に絶妙な物語のリアリティ水準を保っていると僕は思います。



■ラストエピソードの「希望(スペランツァ)」が指し示すもの〜メガネっ子のギフテッドって、やばいかわいさだ(笑)

ラストエピソードの「希望」が、素晴らしくよかった。なぜならば、この作品トータルの課題点、長々と積み重ねてきた「展開」を占めるのにふさわしい構造になっているからだ。別に、僕があまりにスペランツァがかわいすぎて、悶えているだけではありません(笑)論理的に、このエピソードを持ってくることによって物語が見事にしまる構造をしているからです。ちなみに、言うまでもないですが、イタリア語で希望は、Speranza(スペランツァ)ですね。



それは、この「未来がない物語の構造」に「未来を描く」には、3)のマクロでは、


3)二元的争い(国家とテロの終わりなき構想)の終着点である両社の共倒れを描くことにより、欧州・イタリアがが新しい歴史のステージに入ったことを見せることで、二元的な争いの構造からの脱出を図る


1)→2)の発展的流れの先として、『つながる命』という形で次世代のスペランツァを描くことで、袋小路であった1)と2)のミクロの物語に、出口を与えました。


この物語の帰結は、もし、この15巻にわたる厚みのある描写と3)の「続いていく世界」が描かれていなければ、あまりに陳腐でよくある話な上に、そもそも、最初の1期生たちの絶望的な状況から安易にそこが描かれてしまうと、正直、まったくリアリティがありません。また、そもそも「聖なる残酷な美しさ」がこの物語の基本であるがために、単純にこれを繋げると、この「コアの美しさ」を簡単に毀損してしまうのです。それが故に、単純にここに「つなげる」ことはできませんでした。その本当にギリギリの線で、この次の時代につながる命という「希望」をここにエピソードとして挿入するのは、絶妙です。僕には、非常に感動的に胸に迫りました。この物語の1)の「聖なる残酷さ」を愛している層の人々には、このエピソードは付け足しだし、意味のない、価値を壊してしまうものに感じられたと思います。けど、もしそう感じたとしたら、その人は、相田裕が描いてきた2)と3)の厚みを理解しないか拒否している人だと思います。まぁ、そういう楽しみ方はあると思いますが・・・。そもそもガンスリのコアは、そこだしね。けれども、15巻を通しての「完成度としてのガンスリンガーガール」の価値は、1)〜3)のバランスにあるので、そこから逆算すると、スペランツァの次世代につながる希望の話は、描かれなければなりません。そうでなければ、2)-3)を厚みを持って描いてきた意味がなくなってしまうからです。あと、少なくとも、絶望の残酷さを描きたいのならば、2)は描く必要性が全くありません。むしろ邪魔です。


ラストエピソードが、これまで描いてきたことの超圧縮の答えとして描かれているのは、非常にうまい構造をしています。それは、少女時代のスペランツァと、アカデミー賞の授賞式でスピーチする20は超えているであろう成長した後の大人の女性のスペランツァが、1話の短い中で一気に「時間の経過を感じさせる」演出を考えるとよくわかります。1)−2)のミクロの物語は、人生を奪われた、成長できなかった少女たちの話であるのがそのコアです。その未来の無さで、人生を生き切ったという話です。そして、生き切ったからこそ、それをサポートした大人たちがいたからこそ、ギリギリの針の穴を抜けるようなありえない確率で、「次世代の未来」に話がつながったのです。それが、この単純なエピソードの1話で、話が示されています。見事だ、と思いました。


蛇足というか、同じ意味合いのエピソードがもう一つあるのですが、ロッサーナに娘がいること、そして、ロッサーナのもとへサンドロが、愛したペトルーシュカの遺言によって北欧に向うというエピソードがあることも、同じ構造を感じさせます。この流れだと、ロッサーナとサンドロは結ばれるでしょう。そうすると、娘がいるんですよね!。というか、まさにスペランツァと同じ構造です。あげればきりがないくらいすべてが論理的につながっているので、エンリカの幼馴染の女の子が彼女の遺言で軍警察を志願した話がありましたが、最後に彼女がジャコモを撃てなかったことや、復讐を求め続けてきたジャンに「ジョゼが殺されてまた復讐を続けますか?」という問いに、静かに目を閉じ「どうだろう(=そうは思わない)」と答えるシーンも、ジャンが復讐の輪廻から脱出しているエピソードであって、これも、彼がいくつもの過去の回想をするシーンがはさまれていることからも、時間の経過が彼を変えさせたことを如実に示しています。


すべては、マクロ的に憎しみから永遠の殺し合いを続ける逃げ道のない輪廻の世界から、人はどう脱出できるのか?という、「争いの消えることはない人間社会」に生きながら、常に問うべき希望をこの物語は指示しています。故に、僕はこの物語を素晴らしい物語だと、傑作だと、ペトロニウスの名にかけて!(めずらしく出た!)確信しました。素晴らしい物語を本当にありがとうございました!。


何度も言いますが、僕が傑作と認定する(しやすい)基本は、ミクロとマクロを等分に描き、ミクロの解決がマクロの解決とつながる物語類型の作品です。なので、「歴史を描く群像劇」が僕の物語としての結論というか最終着地点になりやすい。この『ガンスリンガーガール』も、テロとの永遠の戦いという人類の歴史の事実であり真実を描きながらも、ミクロの物語の解決が、それが次世代につながり憎しみを断ち切っていくマクロの滔々たる流れと未来を指し示しています。なので、傑作だと思うのです。スペランツァのエピソードがなくとも、このことは描けていましたが、これを明示的に示すことで、見事に物語の論理構成が締まりました。




■非日常から日常へ次世代の物語である『バーサスアンダースロー』へ



しかし、これでもまだ終わらないところ、相田裕という作家の凄いところです。この人、超一級のエンターテイナーであり物語作家ですね。今後に凄い注目です。


ガンスリの結論は、非日常の人類社会の闇でその構造を支える人々の、絶望の中に一筋の希望を指し示す物語でした。それは、スペランツァやロッサーナの娘が、普通の日常を生きていくことを支えることでもありました。これだけのハードボイルドで、世界を描いた見事な作品を描いた後、相田裕は、次にどんな作品を描くのだろうか?と思っていました。


そこへ次に来たのは、『バーサスアンダースロー』でした。


はっきりいってさまざまな点で物凄い見事で戦略的なのですが、そういうテクニカルな評価よりも、非常に論理的で時代にあった目の付け所に、この人わかってるなーーーーと感心しました。


『バーサスアンダースロー』がどんな作品かというと、これ同人誌であるにもかかわらず、文化庁メディア芸術祭、審査委員推薦作品ですよね、いや、文化庁すごいよ目の付け所が凄い。よく見つけたな、こんなの。なんというか、本当に目利きだなっ!て思う。だって2009年ぐらいでしかも、同人誌だぜ!。


僕は、2010年(2年前)に物語三昧のマンガ部門1位にあげているんだけど、その時の文脈評価と今も変わらないんだけれども、これからは、僕は日常の仲間との絆と断念が描かれるというのが、重要な次世代の物語のポイントだと分析している。ちなみに、最近では、LD教授による(ルイさんとの共想の概念だと思うけど)男女同数比率の物語が次世代の物語のポイントになるという話が、内輪で盛り上がっています。この作品は、その文脈にストレートにつながっているんですよね。


天元突破雨宮ゆり子〜LD氏による古典的序列第一位ヒロイン構造の崩壊を分析した見事な批評
http://www.tsphinx.net/manken/room/clmn/j_amemiya1.html

ちなみに、上記のBGMは絶対に聞きながら読んでください。第4回で、僕はいつも感動で号泣します(笑)。

これって、LD教授による雨宮理論から序列一位のヒロインの古典的物語構造が壊れていく過程のその先に生まれる、ハーレムメイカーなどの記号の器を消費者が愛でる多様性を許容する記号的ヒロイン構造の獲得(=ネギまアイドルマスター、咲SSとつながる文脈)という文脈を超えるのはどうするか?という問題提起の、最初の


絆と断念


は僕の視点で、


男女同数比率物語の登場過程の分析

はルイさんとLDさんの分析ですね。ちなみに、男女同数比率物語では、ルイさんとLDさんは、『まじで私の恋しなさい』と『ペルソナ4』などの内容から、今後は、男女同数比率の作品がメインお座を獲得していくのではないか、その時は、『仮面ライダーフォーゼ』などのハブ的ポジションで、周りの人間の個性を負のトラウマごと許容する「場」としてのキャラクターが次世代のキャラクターの重要なポイントになるのではないか、という分析をしています。このへんは、LDさんが語ってくれるので、僕はこのへんにしておきましょう。僕はまじこいとペルソナ4は、僕はやっていないので、これ↓であっているかわからないですが…たぶんこれでいいんですよね?<LDさん

真剣で私に恋しなさい! 通常版ペルソナ4 PlayStation 2 the Best

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ちなみに、そもそも、ハーレムメイカーの系譜では、その究極系として、女の子がいる世界に、主観視点の男の子(=主人公)すら必要ない、自分以外の男の影も見たくないという超ダメ人間的思考の果てに(=そんなに僕らは弱いんだ!(笑))日常系・無菌系(LDさんによる造語)と呼ばれる作品群が昨今登場してきました。ちなみに日常系と無菌系では定義が違います。その無菌系の特徴は、雑菌である男の視点を排除して、ひたすら女の子たちがきゃははうふふと戯れる世界を「眺めていたい」という、男の子の最後にまったりと、バニラ的に落ち着く最後の究極的なポイント(笑)で、ここにいたっては、エロやパンチラ(=ライトエロ)すら必要なくなるという、枯れ具合!(苦笑)。草食的男子、ここに極まり、そして男の子の女の子化へ(笑)と向かいます。この系譜は、『らきすた』、『みなみけ』、『けいおん』などを上げれば、あーそういうことね、と思うと思います。この次として、僕は、古典的普通の恋愛が戻ってくるのではないのか?一周してさ?という命題のもとに、見つけたのが、昨今の僕のスーパー一押しの宮原るりさんの『恋愛ラボ』(ラブラボ、と呼びます)です。これは見事に、日常系・無菌系から男女同数比率への流れを一気に描いていて、去年ぐらいから僕のダントツ一押しだったんですが、遂にアニメ化します!。


恋愛ラボ 5 (まんがタイムコミックス)

この古典的恋愛ラブコメへの回帰は、ジャンプの『ニセコイ』などのもそうなんだけど、モゲマスのような記号的なコミュニケーションツールとしての物語消費と同時に、エピソード重ねの古典的積み上げによる非常に王道のラブコメが戻ってくるのではないか?という今の分析の文脈の正しさを証明するものだと僕は思っています。そして、王道のラブコメや日常の男女同数比率の物語は、なにが特徴か?といえば、非常にアニメ化やドラマ化や映画化がしやすいという特徴があります。男女同数比率の物語というのは、要は青春群像劇で、僕はぱっと思うと、『白線流し』とかを思い出します。ようは、月9とかでも簡単いコンテンツが描ける。メディアミックスの時代においては、これは重要なポイントです。あとアニメ化しやすいというのは、単純にできるという意味だけでなく、時代の文脈にあっているので、その辺機微さえわかって演出すれば、売れやすいと思うのです。


まだ商業化していないので、この文脈をフルに抑えた上に、完成度の極端に高い『バーサスアンダースロー』とてもおいしい作品だと僕は思うのですが、、、、、。これ、次どうなるんでしょうかねぇ?。


海街diary 1 蝉時雨のやむ頃

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ラヴァーズ・キス (1) (別コミフラワーコミックス)

海燕さんの『ゆるオタ残念教養講座』新年初ニコ生「『GUNSLINGER GIRL』を語る」 (番組id:lv120795676)のラジオでいろいろ語りましたが、この相田裕さんが、ガンスリという極端に非日常の世界の、そのワンセットとして『バーサスアンダースロー』を描くその感覚を、天才、吉田秋生さんの海街ダイアリーシリーズとの構造の同一性を指摘しました。吉田秋生が、『BANANAFISH』や『YASHA』などの非日常のダイナミックな物語を描く、その地続きで、対極のの鎌倉の日常を描く物語として『ラヴァーズ・キス』(これも実写映画化しましたね)と『海街ダイアリー』シリーズを書いているのと同じことだと思うのです。これは、シェアードワールドになっているんです。同じ世界とは言いませんが、ガンスリの非日常で日常を求める物語が、希望(=スペランツァ)で日常につながっていったことによって、その「日常」とは何か?というのが、『バーサスアンダースロー』へとつながっているのです。そして、もう一周して残酷な人類の営みを知った我々は、日常を、ただのお気楽な無菌系のような日常とは、描けません。吉田秋生は、濃厚な死の匂いと断念を強く織り込みながらも、淡々と続く日常の楽しさと美しさを前向きに描いていきます。


・・・そして、『バーサスアンダースロ』の特筆的なところは、同じような、断念(=主人公は野球のやりすぎでこたを壊したピッチャー)を抱えながらも日常を前向きに楽しく生きていく(ちなみに男女は、バランスよく描かれる)というこの文脈の最先端を構造的に持っているだけではなく、、、非日常のドラマが、何一つ起こらない中での物語ドラマを描くという、物語の構築力、技術力が非常に試される試みを行い、完全い成功しています。これは生徒会ものですが、重要なことは過去のヲタク文脈を一切拒否していながら、時代の最先端だということです。ここには、『ココロコネクト』や『ハルヒ』のような宇宙人?も超常現象も起きません。また僕の文脈で言えば、ゆうきまさみさんの『究極超人あーる』のような意味のないことに喜びを見出すという無意味の部分を価値を見出すというな時代的な文脈もありません。ただ単に、生徒会が運動会でリレーに参加する、というだけのお話です。いわゆるヲタク的文脈ガジェットが全く存在しないのです。これは、本当に素晴らしい作品です。そして、何より、凄いのは、ただそれだけの話が、胸を打つような青春の話になっていて、本当におもしろい、ということです。読んでみれば、わかります。ヲタク的視点でも、一般人的視点でも、どの視点でも、おもしろく読めてしまうところに、この作品のメジャー的な凄さを感じます。マーケティング的にいうと、ターゲット層の幅が広いんですよ。だからこそ、文化庁というような、パブリックの視点で評価されるんだろうと思います。ガンスリは、全体では古典的骨太な作品ですが、入り口はとってもニッチですからねぇ。そういう意味で、これほどの「幅」が描ける、相田裕という作家は、本当に凄い、と僕は思いました。・・・・べた褒めですね(笑)。2010年ぐらいに、バーサスで同じこと言っているので、ガンスリ完結前にこれがわかっていたということで、なかなか自分的には、目利きだな(←自画自賛)に思っています(笑)。


以上、僕の相田裕論でした。・・・・長かった。ラジオは、そんなに長く聞けないと思うので、文章に起こしておこうと、頑張りました(涙)。誤字脱字、読みにくい点は、ご容赦を。


■参考記事

GUNSLINGER GIRL』 相田裕著 静謐なる残酷から希望への物語 1
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130103/p1

GUNSLINGER GIRL』 6〜10巻 相田裕著 成熟した大人の恋の物語の挿入から生まれる立体感
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20081028/p1