『魔法先生ネギま!』『UQ HOLDER!』が示した00-20年代の日本エンターテイメントの文脈(1)~人類の監視者としての不死者・吸血鬼が100年を超える人類の進歩を見つめる

■はじめに

魔法先生ネギま!』(2003-2012)シリーズ『UQ HOLDER!』(2013-2021)最終回(192話)~18年間ありがとうございます。2022年2月。『UQ HOLDER!』の連載が、192話で別冊マガジンで終了しました。8年半の連載でした。が、前作『魔法先生ネギま!』から数えれば、2003-2022年で、約19年、ずっと追い続けてきた大好きな大サーガロマンの終了でした。感無量です。赤松健先生、そしてかかわったすべての方々、素晴らしい物語をありがとうございました。これは普遍的に残る大傑作として、物語を閉めてくれました。こんなに嬉しいことはないです。ほぼほぼ、僕の社会人、結婚年数と重なり、この間、なんと子供が3人生まれましたし、挙句の果てに、ペトロニウスは、いまアメリカのカリフォルニア州オレンジカウンティで暮らしています。

■ブログがメディアの最前線だった頃、連載を追いながら物語の謎を解釈していくコミュニティの先駆けとしてのネギまシリーズ

Amebaの旧ブログは閉めてしまったのでうろおぼえですが、2003-4年頃から読み始めていて、ガチに、はまったのは、65〜66時間目『僕だけのスーパーマン』&『雪の日の真実』読んだ時でした。物語三昧のブログは、なぜ続けられたのか、なぜ楽しくなったのかの原点は、ネギまの連載の解釈を毎週追うことで、映画ブログだったものが、急速にオタクブログにかじを切っていった(笑)のが、はじまりにして原点です。ブログというメディアはいまではすでにすたれている少し古いメディアですが、まだこのころは目新しさがあり、かつ週刊連載の、連載を追いながら物語の謎を分析したり感想を言うというスタイルが、始まったばかりの時代の最先端でした。今でも思い出しますが、中央線の満員電車に揺られながら、死んだ魚のような目をしながら社畜をしていたリーマン・ペトロニウスが、ネギくんのがんばりやゆえの笑顔に励まされて、なんとか今日も会社に行くかと頑張っていたのを振り返ると、なんと長い年月が過ぎたのか、感無量です。だぶん、ブログで謎解きや感想を言いながらコミュニティが形成されていく現象の、ほぼはじまりの現象だったんじゃないでしょうか。本当に懐かしい。魔法先生ネギまの感想は、かなりリアルタイムで書いていたのですが、『UQ HOLDER!』はそういう追い方はしなくなってしまいました。単純に、アメリカに引っ越した時期と重なるので、忙しすぎて追うえなかったのと、当時は電子書籍がなくて、週刊マガジンを手に入れることが物理的に無理になってしまったからです。自分史とも重なるので、なんだか感慨深い。

■連載の最終回の直後の感想

`Youtube`の方は、初見の読了直後の感想です。
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目次-『魔法先生ネギま!』『UQ HOLDER!』が示した00-10年代の日本エンターテイメントの文脈(1)~人類の監視者としての不死者・吸血鬼

■ミクロとマクロが交錯する長い物語が終わった後の喪失感
■1万2千年後ってなんでなんだろう?~近すぎず遠すぎず、まだ人類が生き残っている
■「最も救われない層を、どのように救うのか?」という人世代前の古い答えに対する、真摯な追及と、その普遍的な答えに
■700年生きたエヴァンジェリンの恋の行方~エヴァが幸せになったんだというのが感無量
■一代の英雄・個人では世界を救えないならどれくらい時間がかかるの?-祖父、父、息子の三代100年を超えて1万年を超える人類の監視の使命を持つ不死者へ
■人類の監視者としての不老不死・吸血鬼モノという独創
■1万2千年後でも人類が大繁栄している理由は?‐人類の革新はどうやって成し遂げられたのか?

魔法先生ネギま!の方は、その(2)で解説します。まず最終回の考察です。

■ミクロとマクロが交錯する長い物語が終わった後の喪失感

素晴らしい物語が終わった後には、喪失感がある。何かが終わってしまったという喪失感が。つらく苦しいことなのですが、それ以上に、何か大事なものを見たという感慨が胸に、訪れる。この喪失感が訪れたことは人生でもそんなにないのですが、わかりやすい比較でいうと、庵野秀明監督の『ふしぎの海のナディア』を見終わったときです。もしくは、『未来少年コナン』の最終回。ぱっと思いつくのは、『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』のアトラやクーデリアと暁のシーンとかも素晴らしかったなぁ。


看護士のイコリーナ・エッチーノが、流れ星を見ながら「もうこんな想いをしなくて済みますように」と祈るシーン。これ自体も『サイボーグ009』のフランソワーズの「私たちにできることはもう、祈ることだけなのね」のオマージュだとか。これに、当時幼い子供だったマリー・エン・カールスバーグの回想として未来の視点になり、彼女がサンソンと結婚している未来が語られる。こういう長い長い物語では、それぞれのキャラクターに思い入れがあるために、「その後どうなったのか?」もっと言えば「キャラクターたちは、幸せになったのか?ナディアとジャンは結婚したのか?」とか、そういうミクロの結果が知りたくなる。それが十全に語られる大団円のシーン。この「未来のエピソード」を入れることで、「その後の歴史、その後の関係性が継続くして、時が流れている」悠久の感覚を演出できるので、僕はこれがとても好き。

宮崎駿の『未来少年コナン』では、機帆船「バラクーダ号」の船長だったダイスと元インダストリア行政局次長のモンスリーの結婚シーンで始まりますね。そして、コナンが住んでいた「のこされ島」に移住するシーンで終わっています。これも素晴らしかった。

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』で、クーデリアが独立を果たした火星の行政官になっていること、アトラと暁の住んでいるシーンは、ああ、この後、三日月の家族は生き残って家族を継いでいくんだなぁというのが感じられて、何一つ名前の残らなかった鉄華団のメンバーの遺志は、思いは、継続していくんだなという悠久の時が感じられて素晴らしかった。

ただし、この大団円のシーンを入れるには、それまでのキャラクターたちの、群像劇的な積み重ねがないと難しい。これって映画でも難しい。2時間程度では、この「積み重ねの深さ重さの関係性」が感じられないからだと思う。ネットフリックスなどで一気に見ただけでも、訪れにくいと思う。長期のアニメシリーズでないと、この「喪失感」が訪れにくい。よく比較に出すのは、栗本薫さんの『グインサーガ』シリーズです。栗本さんは、物語を作っているときに、実際にグインサーガの世界というのが「存在していて」、ただ単に自分がそこにアクセスして、自動筆記のタイプライターのように「実際に存在するその世界」を写し取っているだけのようにいつも感じるという発言をしていました。長く長く、グインサーガの物語に耽溺していた僕は、まさに「グインサーガの世界があって」そして「キャラクターたちがまさに存在している」という感じがしていました。栗本薫さんの文章によって、「その別の世界」にアクセスしているような感じ。


最終回の大団円は、この「アクセスがぶちっと切られる」ような感じなんです。だから「喪失」するような気分になる。


これって物語の世界が、キャラクターが「実在している」というような思い入れというか、長く長く引き込まれて物語世界にいないと起きない感覚なんですよね。そしてこの実在感が起きるには、僕は、マクロ(=その世界がどうなっているか?の大きな歴史の流れと積み重ね)とミクロ(=キャラクターたちの動機、実存、ドラマトゥルギーが十全に展開されている)が交錯している必要性があると思っています。


これを『UQ HOLDER!』の192話の最終回で重ねわせると、

ミクロ:エヴァが幸せになってよかったね!


マクロ:作品全体のテーマである「普通の人たちの建設が世界を救う(=ラスボスを倒しても世界は救われない)」答えが有効だったことが、1万2千年後の人類の繁栄によって示されている

こういうことになります。僕は、読んでいてこれを実感しました。この2つの点を、『魔法先生ネギま!』と『UQ HOLDER!』はどう答えたのかを、さらに詳細に考えてみたいと思います。


■700年生きたエヴァンジェリンの恋の行方~エヴァが幸せになったんだというのが感無量

まず最初にミクロの話をしたいと思います。赤松健のコアは、エンターテイメント作家であると思いますので、読後感がいいかどうか、キャラクターたちのドラマが全うされているかどうか-----つまり、主人公たちが幸せになれたかどうかは、重要なポイントだからです。とりわけ『魔法先生ネギま!』では、本来見たかったナギとネギがラスボスを倒すエピソードを丸々省略して、マクロ的な答え-----100年以上かけて人類を救うという結論に飛躍したために、ファンに失望されたのわけですから『UQ HOLDER!』では、エンターテイメントとして閉めたいところ。

批評的な立場としては、「ラスボスを倒しても世界は救われない」という問いに真摯に向き合い、これまでのエンタメでは描かれてこなかった100年、3世代以上かけてエネルギー問題などのインフラ、社会の構造のあり方自体を変革するという「答え」を出したところに、素晴らしい価値がある物語でした。しかしながら、批評的に素晴らしい答え、言い換えれば構造的に新しいものは、エンターテイメントの予定調和や感情曲線から外れることが多く、時代を代表していたライトノベル平坂読の『僕は友達が少ない』(2009−15)の結末が、散々フラグを立てておいて、誰とも結ばれないエンドに非難轟々だったことを思い出します。はがないの、書かれたテーマ、それに対する、見事な結論として批評的には、時代を代表する新しさがあったものの、感情移入している読者にとっては、ラブコメなのに誰とも結ばれないというのは肩透かし以外の何者でもありませんでした。

エンターテイメント的な陳腐な終わりかたで、「その時のファンの心の喜び」を選ぶのか、「時代を越える価値として新規性やテーマへの答えに殉じるのか」は、作家性が、エンターテイメントにこだわるか、テーマに対する問いを答える文学的な表現にこだわるかの違いに分かれます。赤松健は、明らかなマーケティング志向、かつエンターテイメント性の重視の作家「であるにも関わらず」、『魔法先生ネギま!』では、ファンの失望を買っても、作品としての深さ鋭さを選びました。これは多分、『ラブひな』と同じことはしないという作家の意思があったのではないかと僕は感じます。


では、『UQ HOLDER!』では?


リアルタイムで追っていた方々はわかると思うのですが、僕はだいぶの分の悪い物語の展開だなぁと思っていました。問いのは、最終話の前の回でも、マクロ的なもの(=ラスボスを倒しても世界は良くならない)への、『魔法先生ネギま!』以上の答えを出せていないし、かつミクロ的な視点では、主人公であるエヴァと刀太のキャラクターとしての、人間としての結末が、よくわからないままでした。この問題を、たった最後の一話で回収するのは、僕は無理だと思いました。もし、この2つの両方ともに、ちゃんとした答えが出なかったら、駄作でおわってしまいます。人生の大きな時間を費やしてファンであった作品が、駄作で終わるのは嫌だなぁと思ってちょっと怖かったです。何しろ、2022年の前半では赤松健は、自民党の比例公認候補として、参議院議員に立候補しており、そちらに軸足を移す-----というか、そもそもそんな忙しい中で連載をしていること自体がおかしいほどで、これはあまりアイディアが出ないかもなぁ、と半ば諦めていました。

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最終決戦近辺は、大ゴマが多く、パソコンなどの大画面で見た方がいいような、電子書籍の時代には似合わない「映画的なショット」で描かれており、壮大さはさすがでしたが、映画的に技術の密度が上がれば上がるほど、シナリオ的なオチがどこに行くのか不安になっていました。この辺の、「終わりがわからない」ドキドキ感は、連載を追ってこその醍醐味でした。


そして-----驚いたのですが、最終回の読後感が素晴らしくよかったんです---------まず感情を素直に言えば、


エヴァが幸せになっているのが、感動したんです。


いろんな視点でこの「感想」を分析できるんですが、3つほど視点を出してみたい。


1)エヴァちゃんが、なぜか刀太に惚れ直しちゃっている?なぜなのだろうか?

2)エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルが背負った不老不死の700年の地獄をどうやって相対化するか?

3)エヴァちゃんは、これは幸せになれそうだって感じがして~なんで幸せになれそうなの?


ペトロニウスの物語評価は、マクロとミクロが交錯する物語なんです。しかしながら、これは難しい。マクロの課題が前に出る物語は、個々の人々の人生はどうでもよくなって、マクロ(歴史)の変化や結論を描くものになりやすい。ミクロ(=個々のキャラクターの字図問屋幸せ)を描くものは、マクロ(歴史や政治経済)の大きな動きを描写しなくなってしまうからです。ネギまシリーズは、僕にはとてもSF的で「物語の文脈やテーマ」を重視した物語に思えるます。実際に、すべての課題設定に誠実に、しつこく答え続けています。にもかかわらず、エンターテイメントとのバランスが凄くよくて、尚且つ、これだけ長いシリーズで群像劇であるにもかかわらず、個々のキャラクターのミクロの物語を完結させています。

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エヴァに行く前にも、桜雨キリヱたちも全員ちゃんと幸せにして、がっつりオチをつけている点も、素晴らしかった。マクロの文脈にこだわる作風だと、こういうキャラクターの幸せっていうのを無視しやすいんです。ただし、あまりに桜雨キリヱたちが幸せになってくれていたので、もうミクロの話はこれで終わりかなとも思っていました。物語的にもそれでおかしくはありません。結城夏凜も時坂九郎丸も幸せにしてくれてとても嬉しかったのですが彼女らは不死者です。不死者の時間感覚を持つ人には、100年以上の時を見る人類の監視者としての役割が付与されるので、マクロの問いに関連する人々です。なので、この場合、桜雨キリヱのドラマトゥルギーが全うされていれば、ミクロ(=個々のキャラクターの持つ問題点)の問題は解決していると捉えてもおかしくありません。

UQホルダー不死身衆No.9桜雨 キリヱ(さくらめ きりえ)のミクロのドラマは、「リセットOKな人生(リセット&リスタート)」という不死身のネタが示しているのですが、親に虐待されて殺されて生き延びることのできなかった幾多の子供たちです。彼女は、虐待ネグレクトを受けて死亡する幼少期を何千何万回潜り抜けて、それでも生きる意思を捨てずにここまで辿り着いています。時々、定年おような感じに、人生を諦めてしやすそうな儚さがあるのは、この世界の過酷さと地獄を、あまりに体験し続けたからだと思うんですよね。これだけ人生を苦しさを繰り返して感情が摩滅していないのが不思議なくらいなのですが、この子を救う方法なんて、もう抱くことでしかあり得ないと思うんですよね。言葉や恋心とかそんなものでは、無理。これ、連載が途中から『週刊少年マガジン』から『別冊少年マガジン』に映ったので、エロ表現が緩くなったんじゃないかなって思うんですよね。いやーガッツリSEX描いてて、よかったなー。というのは、正直エロさよりも、ああ、よかったねぇ キリヱとずっと心がほっこりしていました。ちなみに、蛇足ですが、ドラえもんの「人生やりなおし機」だったか道具で例えられたりここの不死身のネタなどが、藤子・F・不二雄のSF(少し不思議)的なガジェットが満ちており、そういった重箱の隅をつつくところの情報密度が画面だけではなく高いのも、連載を追う楽しみでした。

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なので、本筋に戻ると、もう最終回は、マクロの話に特化して、エヴァのミクロの話をするってことはないなって思っていたんです。それが、驚くほど感情曲線にそう形で、エヴァが幸せになっていたので、驚いたんです。


では、具体的に、「どういう風にエヴァちゃんが幸せになった!」とペトロニウスが納得したかです。


まず大前提で、押さえておきたいのは、この物語始まった地点から、700年の不老不死の時間を生きたエヴァンジェリン・A・K・マクダウェル、既に感情を磨滅していて、あまりに「長く多く」を見すぎたがゆえに、「幸せにはなれない」という文脈が隠れているんですよ。ネギまシリーズは、かなりの様々な日本エンターテイメントのアーカイブを利用しています。なので、不老不死という物語について、原点を考えるのならば、日本では、高橋留美子先生の『人魚の森シリーズ』です。このテーマはエンタメを楽しむときの基礎概念みたいなものなので、ぜひともこの類型がどのような踏破を行ったかは、いろいろな作品を楽しむのをお勧めします。『真月譚 月姫』『ヴァンパイア十字界』『ポーの一族』『ヴァンパイア騎士(ナイト) 』『ダンス イン ザ ヴァンパイアバンド』『ウェディング・ドレスに紅いバラ』(田中芳樹の小説ですね)、『トニカクカワイイ』『Re:ゼロから始める異世界生活』『白暮のクロニクル』『BLOOD ALONE』、西尾維新による『化物語シリーズ』とかとか、あげたらきりがないですが、こういった作品群を、ぜひとも読んで比較するのをおすすめします。アメリカだと、トム・クルーズで小説の『夜明けのヴァンパイア』を映画化した『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア( Interview with the Vampire)』や、なんといってもティーンズの少女に大旋風を巻き起こした『ヴァンパイア・ダイアリーズ』などのラブロマンスもおすすめです。原初にさかのぼりたいのならば、もちろんブラム・ストーカーの『吸血鬼』です。ちなみに、この吸血鬼のテーマを、見事な角度で料理した傑作短編に藤子・F・不二雄先生のSF短編『流血鬼』もあります。

91年、イケメン・ヴァンパイア兄弟に愛される女子高校生がヒロインの作品『ヴァンパイア・ダイアリーズ』が発行された。01年、人間界に普通に住むヴァンパイアと女性の禁断の愛を綴った小説『サザン・ヴァンパイア・ミステリーズ』が発売される。03年には、10代を対象としたヴァンパイアとのラブロマンス本『トワイライト』が発行され、「ヴァンパイアはセクシーで美しく、孤独で一途。優しいけれど獰猛にもなり、身を徹して愛する女性を守り抜く。女性にとってまさに理想の男性像」と女性たちを夢中にさせたのだ。そして、三作品とも大ベストセラーになったのである。

なぜアメリカで吸血鬼ブーム? 『ヴァンパイア・ダイアリーズ』がヒットした理由(2011/10/13 16:00)|サイゾーウーマン


これらを読むと、不老不死の問題点が、これでもかと語られます。『人形の森』シリーズを見てもわかるように、悲劇で苦しいものなんですよ。


「死ねない」イコール愛する人が死んでいく、愛する人たちと同じ時間を共有できない


ことなんですね。だから、これらの物語は、


同じ不老不死の伴侶を探す旅


になります。ただしちょっと難しいのは、不老不死になるということは、「その人個人が持つ実存=ドラマ=動機=生きる理由=解決したい問題」が、ちゃんと、意味ある形でリンクしていないと、幸せになれないんですね。普通の恋人でも、なかなか運命の人、生涯を共にするのによかったとも思える人に出会えるのなんて、かなり確率低い。しかも吸血鬼の場合、相手も不老不死になっていないと、同じ時間を生きられないというかなり厳しい条件がつきます。


しかしながら、エヴァの伴侶に相応しい人は、誰になるのか?と思った時に、もちろん主人公の近衛刀太しかいないのですが、彼ではダメだったんですよ。本質的に。最後の最後で、そうか!と気づいたんですが、エヴァが誰に惚れているかというと、ネギくんのお父さんのナギ・スプリングフィールドですよね。これ何でかって、彼女の内面を追ってきてわかったんですが、数百年の時を生きることで感情が摩滅しちゃって、自分よりも「より広く高い視点でものを見ている人」でないと、好きになれなくなちゃっているんですよ。要は、年上好みになってしまった。近衛刀太と最初にダーナの次元の狭間の城出会った時は、普通の女の子として刀太を好きになれたのですが、その後、あまりに長い時の生きることで、人生がかなり摩滅してしまったんですね。その上、子供の刀太を雪姫として育てているので、視点が母親もしくはお姉さんいなってしまっているんです。だから、初恋の人でもあり、息子でも弟でもある刀太は大事な人ではあるんですが、「恋愛対象」というわけではもうないんですね。


そういう彼女が、人生の伴侶として、刀太に惚れ直すのは、彼が、たかだか700年しか生きていない(笑)エヴァに対して、1万2千年の不死の孤独を生き抜いてきた「先輩が」-----言い換えれば年上の存在になったからなんですよ。下記のコマとか、ずっと雪姫(エヴァ)がはるかに長生きしている年上の母親目線で刀太に接してきた長い物語を振り返れば、大笑いのギャグ的なシーンになるんですが、よくよく考えると深すぎませんか。ここで立場がはっきり逆転しているさまが描かれているからです。

ラストシーンを見ていると、このあと、いきなり雪姫の姿から少女のエヴァの姿に戻っているのは、彼女の心象風景を表しているような気がします。というか、そうとしか考えられません。これ演出でしょう。雪姫で対する時は、母親なり年上の存在なんですね。愛は深いけど、恋じゃない。でも、少女エヴァの姿になったのは、恋をしているからなんですよ。


エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルが背負った不老不死の700年の地獄をどうやって相対化するか?、この様に問いをたてましたが、つまりは、刀太は、不死者の大先輩になったんですよ。たかだか700年しか生きていない、小娘という視点で、常時、刀太が語りかけているのが、一コマ一コマみれていけばよくわかります。

この「愛している」というお互いが言い合うシーンをの表情を細かくみていると、非常に繊細に演出されているがわかります。この「少女して、自分より大人で経験値が有る刀太」に惚れていることを表すように顔が赤なっていますが、この700年の不老不死で人類の悲劇を見続けてきた魔女が、その人生を相対化するには、説明したように刀太がそれ以上の化け物になっていまいといけません。最下のシーンの最初からこの辺は、見事に演出されていて、再開した最初に、エヴァの名前が言えませんよね。

桜雨キリヱの回想シーンでも、明らかに、はっきりと「忘れてしまっている」ワンクションが挟まっています。

そして、とりわけ、この表情。



これ、怖くないですか?。明らかに、彼は1万2千年を生きて、化け物になって化け物になっているんですよ。だからこんなに感情が乗っていない「表情」をしている。これ明らかに意図して、無表情なのに笑っている絵を描いています。この辺、赤松先生さすがです。そして、このコマのすぐ下のこまでエヴァが顔を赤らめているのが、本来はおかしいのに自然に感じるのは、そもそも700年生きるエヴァが化け物だったからですよね。化け物の先輩なので、彼女は怖くないんです。この辺のミクロの感性が繊細に演出されているは、読んでいてたまらなかったです。だって、これは、ヒロインへの、最も苦しんだ主人公に対して、クリエイターが、どれだけ繊細に深く思いやっているかの証左だと僕は思うんです。でなければ、感情的にエヴァが刀太に惚れ直して、それがすなわち彼女の700年にわたる地獄の相対化になるなんている離れ業にはならないと思うんですよ。


このあたりは、初見の`Youtube`の感想で熱く語っていますので、そちらもどうぞ。


さて、ミクロ的には、非常に感情的納得がありました。そもそもこの物語は、実は、刀太ではなくて、エヴァの物語だったことを最後に思い出しました。だって連載の最初のページが、エヴァの独白から始まっていうますよね。



この孤独の苦しさが、こんな美しいシーンで終わっています。




では、ミクロはクリアーした。でも、一体マクロの問題意識に、『魔法先生ネギま!』を超えてどういう結論を導いたのでしょうか?


さて次は、マクロをどの様に料理したかに移ってみたいと思います。



■1万2千年後ってなんでなんだろう?~近すぎず遠すぎず、まだ人類が生き残っている

これ見たときに庵野秀明監督の『トップをねらえ!』(1988-89)のラストシーンを思い出させました。SF的に、1万2千年って、ちょうどよいのかもしれませんね。数百年だと、年代的に近すぎます。けれども、数億年とかなると、人類が滅び去ってしまっている可能性が高い。その中間で、ほどほど。最近では、『ドント・ルック・アップ』(Don't Look Up)2021のラストシーンを、凄く思い出させました。PlayStation 4のゲームの『十三機兵防衛圏』も思い浮かびました。この連想は何なのだろうか?-----というのが、この考察の原点です。。



1万2千年後という時間の幅が、いったい何を示していると考えればいいのでしょうか?


僕はですね---------SF的なテーマでいうと、人類は、未来に繁栄しているのですか?という「大局的な大所高所の視線」に対して、まぁ、人類、いろんな厳しいこと(=ヨルダのこととか)はあっても、究極的には、繁栄していくよね、というめちゃくちゃ楽観論だと思うのです。これは重要な大局観です。いまの延長線上で、ロングスパンで、人類はどうなるか?と考えるときに、究極、悲観か楽観化は、「世界観を分ける」です。これは重要だと思うんです。というのは、ハインラインアシモフ以降、SFというのは、どちらかというと世界は滅びるとか、人類は生きるに値しないとか、悲観論で埋め尽くされているからです。こういう素直な楽観論を示されると、いやいや人類は「今のままでは」絶対にめちゃくちゃになるとか滅びるという感覚が、つい最近まで当たり前だったと思うんです。グレータ・トゥーンベリさんの地球温暖化の警鐘にしても、全体的な大局的なマクロの視点では、悲観論のほうが大勢を占めている気がします。でも、エンターテイメントの領域は、むしろ現在の過酷なサバイバル状況、気候変動など天変地異、人類の能力主義による巨大な格差の拡大などなどがあるにもかかわらず、楽観的で未来を信じるトレンドが大きく締めている気がするのです。

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これ、人類は、「『魔法先生ネギま!』『UQ HOLDER!』の時代、いいかえれば1990年代から2100年代くらいまでのマクロの課題は、すべて克服しているということを示しています。九州・熊本県阿蘇に住んでいた近衛刀太が、都のエレベーターに行くとするのが、2086年でしたね。そうすると、次に出てくる質問は、より具体的になります。「その1990-2100年代の人類の課題をどのように解決したのか?」ということに納得性がないと、いくら絵でそれを表現してもだめです。ネギまシリーズの大きな特徴と特異性は、僕はこの「解決の具体性」という点だと思っています。たとえば、イデオンでもガンダムでのニュータイプでも、「人の革新」と言われても、実際のところ何なの?という具体性が思い浮かびません。ニュータイプが何者なのか?という問題意識がガンダムシリーズで、問われ続けながら尻つぼみになるのも、問題が具体的ではないからです。デビルマンでも、人は「生きるに値するか?」という問いは、天使から「人は善なるものか?それとも悪なるものか?」という質問が大きくされますが、これも凄い観念的かつ抽象的すぎます。極限状態で、殺し合いをしたり、世界を滅ぼす決断をしたからといって言って、「人間なるもの」すべてが、善だとか悪だとか、判断しようがありません。

あとで、ネギまシリーズが、問題をどう具体的に設定したかの話は解説したいと思いますが、人間や魔族がなぜ「自分の住んでいる世界=土地」をめぐって、絶滅戦争になるかと問えば、住む場所を支えられるほどのエネルギーがないからだとはっきり明示しています。なぜ地球とは別の空間に「生きる世界」を創造したのかといえば、それは多様な異なる種族が距離をもって「生き延びる場所」を作り出すには、常に辺境に行って、別の世界を創造しなければならないのだということも、明示されています。これはさまざまなファンタジーで、地球とは別の世界が舞台になっている「その具体的な理由」を見事にマクロ的に説明しています。

これを敷衍して、もう少しわかりやすく説明すると、たとえば、小野不由美の『十二国記』、香月美夜の『本好きの下剋上〜司書になるためには手段を選んでいられません〜』のユルゲンシュミットです。地図を参照に拾ってきたものを出しますが、これらの形は明らかな人工的に「作られた」感が示されています。どちらにせよ、人工的に異なる世界が創造されたのがほのめかされているのですが、だれがどういう目的で作ったのかまで射程が届いていません。これだけの大傑作、隠された設定はあるのだろうと思うのですが、しかし物語にリンクして描かれていません。「それ」がテーマじゃないからです。『BASTARD!! -暗黒の破壊神-』などの設定もそうですが、近代的なファンタジーの「誰かの手によって創造された別世界」というシナリオを、合理的に説明しようとすると、何らかの意図と目的があって、「別の世界が創造された」とならないと、説得性がありません。宮崎駿の漫画版『風の谷のナウシカ』の墓所がまさにそうでしたね。そしてそのどれもが、あきらかに「元の世界」もしくは「オリジナルの地球」では生きていけなかった難民や差別された人が、別の世界の安住の地に逃げてきている暗喩、もしくは現生人類を皆殺しにして新人類が住む場所を創造したことがさまざまなところで示されています。これを物凄い明示的にSF的に、合理的にネギまはシリーズは説明しています。



「魔法世界(ムンドゥス・マギクス)」とは「現実世界〔旧世界(ムンドゥス・ウェトゥス)〕」と対になって存在するもう一つの世界である。獣人や妖精などが存在し、魔法技術を基盤とした独自の文明が発達している。魔法の世界といっても夢とメルヘンにあふれているわけではなく、地球と同様の現実的な世界である。総人口は人間・亜人合わせておよそ12億人程度。
この世界に地球から移住してきた人間、新しき民は「メガロメセンブリア」(旧世界の魔法使いの間では「本国」と呼ばれている)を盟主とする「北の連合(メセンブリーナ連合)」を、先住の獣人ら古き民は「南の帝国(ヘラス帝国)」を形成し共存してきた。しかし、20年前に「完全なる世界」が対立を煽り両者は戦争状態になった。真相を暴き、世界を滅亡の危機から救ったのがサウザンド・マスターに率いられた「紅き翼」であった。
その正体は異次元の火星が超膨大な魔力によって人工の異界と化したもので、魔法世界に存在する全てのものが魔法で生み出された幻想で成り立っている(12億人の内「人間」はメガロメセンブリアの6700万人であり、それ以外の亜人は「幻想」である)。しかし、長い年月が経つにつれ、幻想を維持するための魔力が枯渇を始めており、近い将来に幻想が消える=魔法世界が消滅するとされている。その為「完全なる世界」は「黄昏の姫御子」である明日菜の「力」を使い魔法世界を消滅させ「人間」は「楽園」である「完全なる世界」へ送るという「救済」を実行しようとしたがネギ達が阻止し、ネギが代替案としてテラフォーミングによって依代である火星を地球と同じ緑溢れる星に変え、魔力の源である生命を育める環境にすることによって魔力の枯渇を防ぐ「Blue Mars計画」を提案、推進していくこととなる。

ウィキペディアより

これは「魔法世界(ムンドゥス・マギクス)」の解説ですが-------「異次元の火星が超膨大な魔力によって人工の異界と化したもの」この設定を、膨大なエネルギーで人類の亜種が住む場所を創造して支えていると考えれば、エネルギーの枯渇による「資源=住む土地の争奪戦争」をしていることがわかります。


このように異世界が作られた「構造」を明らかにすることで、人間が善か悪かなどと言って観念的な問いではなくて、「具体的にこの問題に対処するためには何が必要か?」という問いに突入できるのです。人間が悪だろう善だろうが、「この問題」に具体的に解決策をもたらせれば、善悪の二元論の命題設定は意味を失うからです。ここ!これが、どれだけ凄い赤松健先生の答えかは、強調してもしすぎることがないと思うんです。だって、異様に日本の物語、特にエンターテイメント(主にロボットヒーローものからきている命題意識)は、人間が「全なのか悪なのか?」という中小命題にこだわり続けてきたからです。これは、明らかにWW2(第二次世界大戦)への反動意識だと思うのですが、あのような「悪」をなくすにはどうすればいいか?ということと、「戦争をなくす」という命題が、密接にリンクしてしまっているからだと思います。ここでは、「戦争を起こす存在である人類」と「絶対悪という抽象概念」が、イコールになっている日本特有の不思議な信仰観念があると僕は思っています。これに対して、見事なブレイクスルーの類型を作り出した赤松健には、いくら賛辞を送っても足りないくらいだと僕は思っています。


そして、だからこそこのエネルギー問題を解決するには、人間が善だとか悪だとか(言い換えれば難民や違う種族を受け入れられるかどうか)、戦争をやめられるなど、「問いの性質上」どっちになるかよくわからない曖昧な観念の問答ではなく、明確に、技術のイノベーション(技術革新)によって、社会の在り方自体を変えてしまえば、この問題は「超えることができる」と示すわけです。だから、ネギまの最終シーンは、「ラスボスを倒す」ことではなくて、「起動エレベーターの建設が途中(=100年以上かかる)」という絵でした。これは大変に具体的な物語の展開をしており、ここまでの射程距離を持った作品は、日本のエンターテイメントの中では、かつてなかったと僕は思っています。いまでさえも。なぜか、人間が悪か善か?、戦争をなくせるか?というような観念的で、答えようのない質問に人々は吸引される癖があるようなんです。


これだけ「具体的な解決方法」を示す作品です。『UQ HOLDER!』では、この「先」の視点を、答えを、物語類型を、どのように描いたのでしょうか。なぜ1万2千年後の人類は、繫栄しているのか?この大きな視点をベースに、この問いの構造をさらに深めて考えてみましょう。ちなみに、この軌道エレベータやエネルギー問題を宇宙進出で解決しようとすると格差が生まれるという関連の問題意識は、ハインラインの『楽園の泉』と幸村誠の『プラネテス』がよいです。


■「最も救われない層を、どのように救うのか?」という人世代前の古い答えに対する、真摯な追及と、その普遍的な答えに

物語三昧では、1990年代から2010年代までの20年ほどの大きな日本エンターテイメントのテーマは、「最も救われない層を、どのように救うのか?」というものだったとして描いてきました。いろんな物語類型のドラマとの問題意識と絡まりながらも、この問いは追及され続けてきました。しかしながら、このテーマは、既に2020年代では、すでに「終わってしまった・解決済」に見えるというのが、現在の我々アズキアライアカデミアの結論です。


最も救われない層とは何か?


といえば、神山健司監督の『東のエデン』(2009)で語られたニート( Not in Education, Employment or Training, NEETは、就学・就労していない、また職業訓練も受けていないことを意味する)がまず表に出てきます。これはのちに、検索すると、2022年時点での年齢が39歳~51歳程度の就職氷河期世代やロストジェネレーション世代と呼ばれている部分と呼ばれていて、「高度成長期から低成長時代に入ったタイミング」で正社員になれず日本的なアンシャンレジーム(=正社員を労働貴族とするピラミッド階層)の最下層に奴隷的に位置づけられてしまった人々------なんですが、この辺の困窮や、世代のパラダイムが変わってしまったのに、マクロの犠牲になっている人々-------もっというと、自分の力や努力ではどうにもならない時代の犠牲者であるにもかかわらず、社会のマイナスを押し付けられて「自己責任という美名のもとに」過酷な底辺労働をさせられたりする未来がない希望がない層。

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この層の人々が、現世での栄達やリア充をあきらめて-----------異世界に転生して、違う人生を生きたら救われるんじゃないのか?と思ったことが、小説家になろうの類型の生み出す最初の「火付け役」になったんじゃないのか?と思っています。


この最も救われない層とは何か?ということが、物語にどのように表れてくるのか。その変遷や具体例。ずっとこの20年話してきましたので、そのあたりはブログの記事を検索ください。


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UQ HOLDER!』は、まさにこのテーマを追求した作品だったと僕は思っています。だから、近衛刀太が都に出てきたときに、いろいろ動くときに、周りにスラムがあったりするのは、軌道エレベーターが建設されて人類のエネルギー問題が緩やかに解決されて以降としている時代にさえ、格差と貧困と地獄があることを、描いていたんだろうと思うんですよ。なぜスラムを繫栄を描くのかは、軌道エレベーターで人類は繁栄の道を歩んでいるのですが、仮にそうだったとしても、激しい格差が、富める中産階級とスラムの下層住民の間に構造化していて、という設定を描いたんだろうと思います。


けどね、このテーマ、2020年代の現在では、どっかにいってしまったんです(笑)。


格差がなくなったのか?といえば、逆です。この時よりも、能力主義によるグローバル化が、どれだけ中産階級を破壊して「普通の人々が普通に生きていく道」を閉ざしているかは、より先鋭化しています。にもかかわらず、この問いは、映画ではまだ鋭く問われていますが、マンガやアニメ、テレビドラマの領域では、だいぶこの問いに対する共感が薄れているように感じます。というのは、2010年代の後半に入って、最も救われない層を救おうとするテーマが古臭くなって、意味を失ったからだと僕は感じています。

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それは、「救われない層を救う」とい発想そのもの自体が、相対化されて陳腐化したからです。


単純に、エネルギー、資源がまだ十分にあった時代だったので、1990年代や昭和の匂いがする発想では、「より充実している者」「よりか富める者」が、はっきりいえば、富める先進国が、弱者を救うというような「構造」が成り立っていたんです。もっと端的に言えば、お金があったので、「弱者を救う」なんていう傲慢な問題意識が、倫理的に浮上したんですね。恵まれているものが、貧しいものを救わないのは、卑怯だ!という倫理問題だったんですよ。この問題構造が、全員が生き残るのが難しいぐらい貧しくなった------言い換えればプラットフォームや基礎的なエネルギーが失われて、先進国も富める者も、みんなが「同じスタートラインで」競いあっているのならば、こうした倫理問題発生しないですよね。ようは、なぜ、さまざまな作品が、絶滅戦争のように「妥協なく」殺しあうような物語を描くのかといえば、条件は様々違えど、「みんなが生き残るのに必死」であって「他者を救うほどの余裕のあるものは誰一人いない」ことを、明示するためなんですよ。『進撃の巨人』が最終的に絶滅エンドを模索することや、ひたすら生き残るために愛する人すらも、家族すらも殺しまくる『ハンドレッド』のようなドラマがアメリカで人気が出るのも、まさにそういうことです。

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一言でいえば、「弱者を救う」などという命題が意味を持ったのは、恵まれている人がたくさんいた、「恵まれた時代の甘え」だったんです、というのがみんなにいきわたった。


この時代で、「最も救われない層を、どのように救うのか?」という古い問いは、ばかばかしくて問われません。もちろん、それなりに古き良き時代の記憶がある年齢の層には、これは機能します。しかし、現在のミレニアルや30代以下の人には一切共感を生まないでしょうね。これがわかっていないと、20年代の先の物語は描けません。同時に、理解できなくなってしまうと思います。世代間の意識格差は大きい。


なので、『UQ HOLDER!』は、物語がだいぶ迷走している。近衛刀太って、いったい何を動機にして、何を目的にしているのか、いまいちわからないんですよ。ネギ君と比較すると、明確にわからない。ネギくんは、父親の背中をあこがれをもって追う、「打ち捨てられて消されてしまう火星の人々を救う」、同時にそれが波及すれば被害を被る地球人類も救うという使命が、十全に機能して、目指されていました。でも事実上、ナギとネギの親子が、この問題はほぼほぼ解決してしまっているんです。もちろん「猶予期間」ではあるものの、人類の未来は、ほぼほぼ明るい。この迷走や動機のあやふやさは、ヨルダ・バオトが設定した問題意識は、既に古くなってしまっているからなんです。ガンダム00の時も話したんですが、軌道エレベーターがあって、エネルギー問題を解決した人類は、楽観的に緩やかに太陽系の外へ進出していくであろうことを考えると、マクロ的には、問題ないんです。なので未来は、問題なし!となると、、、既に100年近くたっていることを考えれば、「過去に苦しんだ人々を救う」というのは、うーん無理があるし、もう忘れてもいいんじゃない?という流れになっているんです。


■一代の英雄・個人では世界を救えないならどれくらい時間がかかるの?-祖父、父、息子の三代100年を超えて1万年を超える人類の監視の使命を持つ不死者へ


上記に2点。なんで、1万2千年後か?、そして踏みつけられた弱者をどう救うか?というのが、大きな問題意識だと僕は考えました。


魔法先生ネギま!』においては、どうしたら世界を救えるか?の問いに対して、抽象的には、「ラスボスを倒しても世界はよくならない」という命題がビルトインされていました。もっと具体的に敷衍すると、ヨルダ・バオトというラスボスは、踏みつけられてきたこの世界の弱者たちの怨念によってできているわけで、踏みつけられた弱者を救えなければ、倒しても意味がない構造になっていました。「自らを倒した敵に憑依して乗っ取る」「報復型憑依能力」の精神生命体なので、「ラスボスをとにかく倒せばいいんだパンチ!」と殴って倒す旧来の古いタイプのヒーローでは、倒すことができないんです。このタイプのキャラクターは、『コブラ』や直近では、『月姫』のミハイル・ロア・バルダムヨォンなどを思い出しますが、このあたりの人口に膾炙したキャラクターの設定を、深いマクロの問いにつなげていくところは、見事とうなりますね。

ヨルダ・バオト・アルコーンとの問題意識に対する解決方法は、ゲーミフィケーションによる人類の家畜化だ。------徳弘正也による傑作『狂四郎2030』またはラナ&リリー・ウォシャウスキー姉妹による『『マトリックス(The Matrix)』と同じ解決方法です。

よくよく考えられているシナリオで、『天元突破グレンラガン』が典型的ですが、ラスボスの相手の意図が悪ではなく、より「ある程度の犠牲はあるが、世界を救える度合いが高いもの」であった場合、倒すことが解決策にならないんです。この場合、解決方法がわからないので、ラスボスを殴って倒して、「時間的猶予を稼ぐ」という解決方法を、これまでの物語は選んできました。しかしながら、それを超えないと、解決しないラスボスの構造にしているんですね。

魔法先生ネギま!』は、この命題に対して、世界のよりたくさんの虐げられる弱者が生まれてくる「構造そのもの」を変えなければならないという結論に至ります。そして、それは、敵を倒すのではなく、たくさんの弱者を助けることをしなければなりません。そのために最も必要なことは、英雄ではなく、社会の人類の、そして何よりもテクノロジーの進歩でした。



雪広みぞれのこのセリフは、『魔法先生ネギま!』『UQ HOLDER!』が到達した地点を指示しています。



そして、これが、祖父(ナギ)、父(ネギ)、息子(刀太)の三代100年かかる事業の長期的視野になっています。山口晋監督の『機動戦士ガンダムAGE』(2011-2012)などが当時凄く思い出されました。「戦争をなくす」というテーマを背負ったガンダムサーガには、この命題が重くのしかかっていて、それが故の設定だったと僕は考えています。


解決方法が、普通の人々の進歩による技術革新であるとすれば、それをどうすれば、人類の、世界の救済という方向性に向けることができるのか?これが次のテーマになります。


ちなみに、僕の理想のヒロインというか人間像は、TYPE-MOONの『Fate/stay night』の遠坂凛鎌池和馬の『とある魔術の禁書目録』の白井黒子なんですが、それに連なる誇り高いキャラクターとして雪広みぞれも連なります。彼女が不死者でないというのも、寿命で死んでしまっているというのも、素晴らしく美しい。僕は、彼女がとても好きです。こんなかっこいい女、惚れちゃいますよ。



ここで示されているのは、「ラスボスを倒しても世界はよくならない」ことから、「普通の人々の建設が」「普通の人々の進歩」が世界を変えて救うんだ、という結論があります。


不死者 VS 普通の人々


という構図が描かれているんですね。だから、しのぶとみぞれのシーンは重要なんです。彼女たちは、「普通の人々」の代表。相当の業績を上げた、人類のトップエリートですが、特にしのぶは、ほとんどなにもないところから、彼女って中学も出ていないところから、そこまで上り詰めているっていう描写になっていますよね。それ以上に、普通であることの大きなのは、才能や業績ではなく------死すべき存在であること、です。


僕は、このシーンがとても好きなんですが、事実上のヒロイン、主役であるのアスナの最後に出てくるシーンは、この一コマです。「人として生きた」って。彼女の生い立ちから考えて、なんて美しい終わり方って思いましたよ。これが不死者に対して、人間であることの価値、意味、証は、言い換えれば「死んでしまうこと」だって言っているんですよね。

しかしながらこの物語類型(=人類を救うには100年かかる)を選択すると、必然的に、問題が起きます。主人公たち、普通の人々が、「そんなに長く生きられない」からですね。少し歴史を振り返ると、その結論は、実は、エンターテイメントでは、大きな問題点をはらむことになりました。


1)山口晋監督の『機動戦士ガンダムAGE』(2011-2012)などで実験されているように、世界を救うには、最低限100年単位の大きな時間がかかる。


2)一人の英雄に頼ることではなく、たくさんの普通の人々の周知を結集しなければ、世界レベルのマクロの複雑な問題は解けないし、責任を取り切れない

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これは物理的に、みんなが感じるようになってきたことです。


まず大きな問題点は、100年以上かかるんですよ。いいかえれば、一人の主人公の寿命(たとえば30年から長くても60年)では、足りないんです。これがエンターテイメントにとって致命的なのは、わかるでしょうか?。そうです、主人公が変わってしまうんです。『機動戦士ガンダムAGE』を見ればわかりますが、短い間に3人の主人公が出てくるので、「軸がぶれてしまうん」ですよ。『魔法先生ネギま!』と『UQ HOLDER!』も同じ欠陥を持っています。ナギ、ネギ・スプリングフィールドと近衛刀太の3人の主人公がいるんです。ネギ君が、火星を支えられるだけのエネルギーを獲得するために全人類の発展のスピードを速めようとしたときに、やはり100年近く時間がかかっています。大きな技術革新があって、それを全人類、全地球にインストールするには、それくらいはかかってしまうからです。少なくとも、30年より短いことは、この速い技術革新の現代でも不可能でしょう。



■人類の監視者としての不老不死・吸血鬼モノという独創~脱英雄譚の終着地点


この話をまとめると、物語三昧でずっと考えられてきた「脱英雄譚」の話の終着地点をしていると思うんです。CLAMPの『魔法騎士レイアース』(1993-95)を見たときに、ペトロニウスが感じたことが出発点です。どうも英雄ってのは、世界を救うことの代償として、自分自身の自己犠牲を使っているよね、と思ったことからでした。英雄の物語というのは、自己犠牲のやせ我慢の物語だと思ったんですよね。

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とにかく英雄が本気で、世界を救おうとすればするほど、苦しむ。人類のための生贄になっているんですよね。選ばれた才能があるんだから仕方がないじゃないかって、「その他の人々」は思えますが、なかなか難しいのは、主人公は、すなわち感情移入のポイントなんですね。だから、主人公の苦しさに共振してしまうと、なんで英雄が世界を救わなければならないのか?、そんな苦しみを一人の個人におしつけるのは卑怯ではないかという倫理問題が発生してきたのが、1990-2010年代のエンターテイメントの大きなテーマだったようです。

僕は、「シンジ君がエヴァに乗りたくなかった問題」と呼んでいますが、なんで世界を救うために、僕(=シンジ君)が犠牲になって、怖い思いをしてロボットに乗らなければならないのか?。エヴァのアニメで、ついにロボットもの主人公は「僕はロボットに乗りません」と宣言するに至ったと思っています。これは、ポリティカルコレクトネスの浸透で、ブラック企業が許されなくなってきた(笑)の比例していると思っています。ほんの少しまで、1960-70年代くらいまでは、個人と全体であれば、全体の大義の方が上回ったんですよね。全体の暴走は危なくもあるが、全体がなくなってしまえば、個人もまた生存できない。だから大儀(=大きな物語)のために死ぬことは、個人が犠牲になることは、仕方がないとおもわれてたと思うんです。それは、物語にもはっきり表れていた。『魔法騎士レイアース』の話も、まさにそれでしたよね。世界を支えるためには、個人の幸せは犠牲にするというシステム。でも、それを直接見ちゃうと、支持できなくなっていく。だったら、世界か個人か選択するというような方法ではなくて、両方が成り立つシステムなり具体的な解決応報を探すべきだ、という流れに物語は進むんですね。ここに至るまで、すくなくとも、戦前の1900年代から、120年近くかかっているわけです。日本は、とても自由で開かれた社会に、じわじわ進んでいて、とても素晴らしい。

少し前までは、そもそも、具体的な「解決の可能性の可能性」すら、見えなかったからでしょう。でも、たぶん、我々が生きている現代、この1980-90年代以降は、なんとかなるんじゃないか?という感触も出てきた時代だったと思います。理由は簡単。日本が、豊かになったからです。もちろん、90年代以降に本は縮小を続けていますが(笑)、それでも、1960年代以前よりも物質的には、途方もなく豊かになっており、個人の権利が守られています。「それ」が理由だと僕は思います。全体と個人のどちらが大事かというのは、「外部環境による」と僕は思っています。成長していて全体に余裕があるときは、個人の権利が限りなく拡大していきます。言い換えれば、個人がどんどんわがまま(自由)になる。けれども、全体が縮小して余裕がなくなれば、個人の権利なんて言っていられなくなる。全滅の危機の時に、個人の小さな権利の話をしても仕方なくて、重要なのは、何とか生き残れるかどうか?という議論になるので、その場合には、全体のために個人が犠牲になるのは当たり前になります。単純に、物理的なメカニズムだと思うんですよね。


この不老不死の吸血鬼ものに対して、『UQ HOLDER!』は、たぶん僕が知り限り初めてのテーマを作り出しています。これは、ネギまシリーズの独創だと思います。


それは、人類の監視者としての吸血鬼です。


不老不死の吸血鬼の物語類型を、「超長期間の政策の実行」という形で描いた秀逸な作品としては、『ヴァンパイア十字界』という大傑作があります。

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しかし、これもある種の「英雄譚」になります。なぜならば、主人公のローズレッド・ストラウスが、責任を背負って物語の展開を、解決を自ら実行するからです。しかしながら、それでは、「普通の人々」-----モブの集合体が、世界を漸進的に変えていくという人類の進歩は成し遂げられません。


不老不死の吸血鬼という「能力」をどのように使うのか?という視点では、これまでの物語の最高峰は、ローズレッド・ストラウスのように、英雄が、世界を救うという英雄譚だったんです。


けれども、ネギまでは、それができません。なぜならば作品のテーマが、英雄であったナギは、世界を救えなかった。世界を救うのは。「普通の人々の進歩だ」と設定されているからです。


では、不老不死をどう使ったか?


という問いに対して、不老不死の人々が、別の異なるコミュニティーを作って(=UQホルダーね)、彼らが彼らの日常を生きながら、人類の行く末を超長期間に渡って監視者になるという設定です。これによって、読者は、超長期間の「物語の行く末」を観察できるようになります。


えっと伝わっていますでしょうか?。えっとですね、「普通の人々の進歩」という答えを設定すると、論理必然的に、最低限の技術イノベーションによる社会改良は、100年単位(=3世代を超えて)かかるという、実際の前提条件ができてしまうんです。


でもね、こうすると、ガンダムなどで見ればわかるんですが、「主人公のだれに感情移入するか?」ってエンタメの基本が、こわれちゃうんですよ。実際に、ネギまであっても、ナギ、ネギ、刀太と、どれに感情移入するかは、なかなか難しい。この場合、ネギまが終わって、UQホルダーになったので、主人公とそれを取り巻く人間関係が変わり、そして何よりも「読者の世代が変わっている」という現象が起きています。


これを「一気通貫で100年以上の人類の動き」を、「受け手にエンタメとして視点の一貫性をもって再現する」というのは至難の業なんです。直近、これに成功しているのが、『Vivy -Fluorite Eye's Song-』ですね。これは、AIの物語という形をとりました。

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これに対して、「伴侶を探すラブストーリー」といったミクロの物語に投じていた物語類型に、星新一眉村卓藤子・F・不二雄ばりのセンスオブワンダーの奥行を与えたのが、この不死の吸血鬼に人類の監視者としての使命を与えるという発想なのです。


これは、独創だと僕は思います。


■1万2千年後でも人類が大繁栄している理由は?‐人類の革新はどうやって成し遂げられたのか?

しかし、それでも様々な課題が残ります。人類の大きな方向性を考えるときに、「1万2千年後ってなんでなんだろう?~近すぎず遠すぎず、まだ人類が生き残っている」の章で、人類が楽観的に大繁栄をしているというパラダイムに、赤松健先生は回帰しているのが凄いということを言いました。これは、アシモフハインラインなどまだまだ「人類の輝かしい進歩」が信じられていた時代のSFの感覚です。しかし時代が下り、公害や気候変動など、人類に対する悲観論がまだ大勢を占めている現代で、このような「先を描く」のは、僕は凄いと思うんです。たいていのSF系統の楽観論だと、シリウス星系やバーナード星系に人類が広がっている物語が描かれますが、これもそれとリンクしていますよね。


しかしながら、2010年代の感覚的に言うと、それは可能なのか?という疑問が感じられます。


だって、貧富の格差は拡大し、メリトクラシーによる差別は横行し、気候変動はめちゃくちゃです。これをどのように解決するのか?。が描かれないと、本当はおかしい。そこには、Youtubeの解説でかなり説明しましたが、ある仕掛けが描かれています。ようは、ヨルダ・バオトというラスボスの「倒し方」にそれが表れているんですよ。この辺の物語の描き方が最高。しかもさらっと描かれているので、たぶん解説しないと、わからない(笑)。これは誉め言葉です。それだけ、物語の感情曲線や共感を損なわないで、SF的なマクロの設定などを描いているからです。それがわからなくても、十分楽しいものこそが、エンターテイメントです。もう長文すぎてだいぶ説明する気力がなくなってきたので、わからんという人は、下記の解説を聞いてもらえれば。

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造物主(ライフメーカー)始まりの魔法使い、ヨルダ・バオトというラスボスの設定した問題は何だったのか?


それは、この世界で虐げられて打ちのめされた人々、犠牲にされて圧殺された人々の魂をどう救うのか?という問いです。


2020年代では、この問いは効力を失ったと僕は書きました。なぜかというと、全員にとって生き抜くのが過酷な環境であれば、それは虐げられたのではなく、「生き残ることしかできない」というあきらめが支配するからです。「サバイバル=生き残れなかったら」それは、倫理的には仕方がないという結論になるからです。この問いが、意味を持つには、特権的な恵まれた人々がいないと成り立ちません。もう一つパラダイムの転換があって、「世界をやり直す」ということは、倫理的に許されない罪悪だという「前提」が人々にエンターテイメントで生き渡ったことです。だから、「死んでしまった人々」のことは、受け入れて、未来をよくするしか「できない」という現実が広汎に共有されたんだと思います。


しかし、ネギまの物語では、この問いがヨルダ・バオトというラスボスの「あり方」として生き残ります。これだけ世界が残酷ならば、ゲームの、異世界の、自分が幸せな「夢の世界」に逃げ込んで何が悪いのか?という人類総家畜化計画です。


これに対して、人生は、人類は生きるに値する!と言い切らなければ、その可能性を見せないと、この悲観論には答えたことにならないんですよね。すでに、エンターテイメントとしては、2020年には、この問いには答える必要は既にありません。上記に理由は書きました。けれども、素晴らしい名作は、「立てた問」に普遍的にこだわり、それに対して「普遍的に答える」ものだと僕は思っています。

それが、↓これです。



これサラッと書いてありますが、「人々の共感応力をほんのちょっと上げる」ということを示しています。


なんで、がっつりではなくて、「ほんのちょっと」なのでしょうか?。それは、この社会が公正で自由な社会------人間が人間である自由を維持するためには、競争はなくせません。そうしなければ、人類総家畜化になってしまうからです。しかし、そうであれば、競争による格差と差別、そして人々の殺し合いはなくなりません。


ここに、2つのものを挿入するといっているんです。


1)ほんのちょっとの共感応力の向上を全人類120億に与える

ほんのちょっとなので、ミクロの個人の自由意志には影響しません。しかし、全人類なので、数千年、数万年単位の方向は、ポジティブに向かいます。これは、強制的に人類を「優しくリベラル」にしたら、それは全体主義による洗脳であり、自由意志の否定だっていう問題意識とリンクしています。


2)全人類すべてが少し「新人類・ニュータイプ」になって、それを掛け算で、一万二千年という時間的長さと、銀河系を超えて宇宙に広がるという「地理的広さ」を与える

これによって、悲劇の濃度を薄めようとするのです。まだフロンティアは、残酷なコンプライアンスがない競争社会は生きているけれども、主軸の人類の中心部では相当安定した幸せな社会が広がっています。ここで重要なのは「少しだけ新人類、ニュータイプ」になるという答えです。これまでのSFの古典では、「新しい人類に進化してしまう」と、「旧人類(=オールドタイプ)」との違いからの断絶や、種族絶滅戦争を招いてしまうことを回避できなかぅったからです。『幼年期の終わり』の問題意識に対して、見事にこたえていると思うのです。


こうすれば、これまでのSFや物語が示してきたあらゆる限界を突破して、「普通の人々の進歩=人類の未来」が、1万年後という超超期間を過ぎても、ポジティブに発展する!といっても、決しておかしくない方向になっています。


これ、僕は見事!!!!!赤松健先生、凄すぎる!とうなりました。


■おわりに

はぁはぁ。。。長かった。これと同じくらい、ネギまのもまだ描き途中です(笑)。


必ず、ちゃんともう少し整理して、リライトして、どこかでちゃんと解説の本出すつもりです。なぜならばこの漫画とともに、僕の人生の大きな部分があったうえに、最初から悩んでいた問題意識に、普遍的に答えを出してくれたからです。ちゃんと、誰が見なくても、残しておきたいのです。


誤字脱字の、わけわからん長文ですが、言いたいことは一つ。


このような素晴らしい物語を生み出してくれた赤松健先生、そして関係者一同の方に、感謝。素晴らしかったです。