情報圧縮論は、骨太とどう関連するのか?〜教えてGiGiせんせい!

ふとおもったのだが・・・GiGiさんやLDさんのいう情報圧縮の・・・・モジュール論の代表格が、ギアスだとすると、これって、僕は「バロック型の物語」と呼んでいるんですが、、、、バロックってのは、ゴテゴテした装飾のっていう意味ですが、シンプルなものがより過剰に枝はをつけて行くことって意味なんですが、この対置として僕は、「骨太の物語」と呼んでいるんですが、、、というのは、どうも、マーケティングの傾向を見ると、世代ごとぐらいのターム、、、もしくは10年ぐらいで、このバロックと骨太は入れ替わって回帰するような運動を見せるんですが、ある種、バロックがいきついてくると、さまざまな類型をモジュールとして受け手が「教育されてしまって」既視感覚を持つようになるのを利用して、圧縮して物語の譲歩を観客に伝えるってことなんですが・・・すくなくとも、萌とかよくある物語は、この「教育済の類型」を使って、そつなく売れるものを複製するような感じで物語を作るんですが、、、、GiGiさんのいうのは、たぶんこういうただ単に既存類型を二次利用する「だけ」のデュプリケイト化(複製・・とかパロディ)ではなくて、もう一歩違う意味で行っている気がするんですが、、、、それってなんでしょう?というのが質問です。えっと、というのは、いまのルルーシュなんかを見ていて思うのは、やっぱりバロック的な、、、情報量が断片的で、非常に過剰なので、視聴者がわからなくなるんですよね、、、ストーリーの本質は何なのか?って事が。グレンラガンとか、伝えたいことが物凄くシンプルで一つにまとまっているものは、そういう誤解を全く作らないのですが、、、、やっぱり骨太ではないというのは、マーケティング的にも、読者に波及を起こさせるためにもいまいち弱いと思うのですよね・・・えっと、1)バロック型(=パロディと既存二次加工メイン)と2)骨太のドラマツゥルギーと3)モジュール論・情報圧縮の違いをもう少しシンプルに説明してほしいのです。というか、どこが違う?って思っていますか?という質問。LDさんとかも教えてくれると嬉しいなー。