『風雲児たち 幕末編』 4〜5巻 佐久間象山の天才と村田蔵六(大村益次郎)の近代国家建設


風雲児たち (幕末編4) (SPコミックス)風雲児たち (幕末編4) (SPコミックス)
みなもと 太郎

リイド社 2004-02-27
売り上げランキング :

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

4巻を読んでいて、佐久間象山(名前しか知らなかったよいままで…)のその天才ぶりに、、、衝撃を受ける。いや、もともとその天才ぶりにもかかわらず歴史評価がかなり低いのは、ものすごい傲慢で自信家だったそうで、同時代にすごい嫌われたそうなんですが、、、この漫画ではそれをずっとギャクにされていて、笑ってみていたんですが…。この4巻で、幕府の手で明治維新を起こすために、ペリー艦隊に対して戦争をしろ!と唱えるくだりは、衝撃が走った。いや、確かに、それは見事な打ち手だ。


徹頭徹尾の開国論者でありながら、、、、、なんというか、天才って、他人に理解されないんだよね(苦笑)。


外国を打ち払え!(=攘夷)などという馬鹿で偏狭なナショナリズムは、後に列強に対して単独で戦争を起こした長州藩薩摩藩が、実際に戦争をして列強のすさまじい強さと自分たちの弱さを悟り、消えうせる。この後、二藩は、徹底的な開国(=貿易による国富の増大)路線にひた走ることになる。軍事学者として、江戸で黒船・・・アメリカ海軍のペリー艦隊とガチで戦争をした場合の被害を、冷徹に分析し、庶民に被害を出さないで、国土の最小限の破壊で、国論を統一する契機を作る、、、、その後の歴史を知っている我々から見ると、佐久間象山のリアルなシナリオプランに、、、、すげぇよ。


しかし、日本ってすごいなって思うよ、、、こんな凄い人材が、鎖国しているド田舎の辺境の島国に生まれるんだから。まぁ本当かどうかはわからないが、吉田松陰が、この主張の「凄み」に全く気づかないというのも、この佐久間象山の天才的な視野の遠さをよくあらわすエピソードだ。史実かどうかはどうでもよく、時代の先を、何歩も先を行く人間の「理解され難さ」が現れていて、僕は非常にぐっときた。


風雲児たち (幕末編5) (SPコミックス)
風雲児たち (幕末編5) (SPコミックス)

そして、村田蔵六のちの事実上の日本陸軍創始者大村益次郎知らなかった、、、全く知らなかったよ(笑)。なんなんだ、このすげぇー人材は!。僕はほとんどこの先の彼を知らないのだが(まだ8巻までしか読んでいない)、この人って、天才的なエンジニアじゃん!。この偏屈さ、合理主義精神、駆動精神、、、やべーよ。まったく立身出世する気もないし、偏屈で偏狭の片田舎の藪医者で終わるはずの変人の百姓に、、、、宇和島藩からお呼びがかかるシーンは、不覚にも涙が出るほど感動した。


この人が、たかだか10万石の四国宇和島藩で、近代国家日本を作り上げる基礎を作り上げるシーンは、、、ぞくぞくした。


すげぇ、、、、こいつ、、、、一人で、たった一人、近代国家を作り上げているよ!!!なんなんだ、このすごさは!!!。

村田蔵六を主人公とした小説『花神』は、『世に棲む日日』とほぼ同時期の1969年から1971年に書かれた作品で、幕末維新史長州編として二つでセットになっている。『世に棲む日日』の方が少し早く始まったが、二つの作品は連載の時期がクロスしている。作品の独立性を意識しているためか、例えば同じ第二次幕長戦争の戦史でも、瀬戸内側での戦闘については『世に棲む日日』(高杉晋作)でカバーし、山陰側の攻防については『花神』(村田蔵六)でガイドするという配慮がなされている。長編二作に分割された長州論だが、この分割は、実は非常に意味深く面白い中身を持っている。まず一つには、村田蔵六という歴史の中にありながら歴史の枠に収まらない特別にユニークなキャラクタ−を描くために、いわば正史としての『世に棲む日日』とは別編の、列伝としての『花神』を用意せざるを得なかったという点があるだろう。


花神』と村田蔵六 − テクノロジー史としての明治維新
http://www.geocities.jp/pilgrim_reader/hero/choshu_2.html


ちょっと検索してみたんですが、、、司馬遼太郎の『花神』と『世に棲む日日』は、ワンセットの物語だったんですね!!!わかってなかった、、、わかってなかったよ、おれ。なんて、駄目だったんだおれ。

花神〈上〉 (新潮文庫)
花神〈上〉 (新潮文庫)


世に棲む日日〈1〉 (文春文庫)
世に棲む日日〈1〉 (文春文庫)


やっぱ、すごいよ、風雲児たち・・・。