『三月は深き紅の淵を』 恩田陸著

三月は深き紅の淵を (講談社文庫)


客観:★★★★星4つ
主観::★★★★星4つ


ある本にまつわる幻想的な4つのショートストーリーから構成される短編集。

先に物語ありき。


語られるべき、語らずにはいられない物語自体がまずあって、作者の存在など感じさせないようなフィクション。


物語は読者のために存在するのでも、作者のために存在するのでもない。


物語は物語自身のために存在する。

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この言葉は、すごく印象に残っている。僕が子供の頃から思っていたこと、そのものズバリだったので。


皆さんもそう思いません??


これは、『麦の上に沈む果実』『黒と茶の幻想』などと入れ子構造になっている作品なので、どれから入っても良いが、好きな人は、この関係する本はすべて読むと、不思議な気持ちを味わえること、間違いない。

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ひさびさに、世界と世界がパラレルにつながる不思議な感覚を体験した。これを、このレベルで体験できるのは、本当に久しぶりだ。

1章 待っている人々


2章 出雲夜想曲


3章 虹と雲と鳥と


4章 回転木馬


上記4章が、この『三月は深き紅の淵に』の章立てで、このすべては、完結した短編です。そして、その全てが、謎に包まれた『三月は深き紅の淵に』という本(短編の中で謎に包まれている本)についての、「それ」にまつわる話です。



つまり、この本は、本について書かれた本なのです。



この小説の中では、謎に満ちた私家版の『三月は深き紅の淵に』に関わる謎が語られます。ようは、メタフィクションなのです。そして、その謎に包まれた本は、4部作となっており、その4部作の名前が、下記です。

1章 黒と茶の幻想(風の話)


2章 冬の湖(夜の話)


3章 アイネ・クライネ・ナハトムジーク(血の話)


4章 鳩笛(時の話)

■本のある生活・・・・・・本という魔物に見せられた人々へ


絶賛である。とにかく、読んでいる時は、物凄い引きずり込まれた。ただ、たしかにパンチが弱い。残念ながら、読み返すことはあるまい。いや、、、、どうかな。。。。どうも周りを見ると、評価はけっこう二分しているみたいだ。しかし僕はおもしろかった。とりわけ、ここ『物語三昧』やアメブロの書評に訪れる人は、間違いなく本が好きな、現代では少ない絶滅危惧種の人々であり、そうした本に魅せられる気持ちを持ち、本・読書自体が生活や思考の一部に深く食い込んでいる人には、この




本という魔物にまつわるミステリー




は、たまらない魅力を放つのではないか、と思う。とにかく、1章が一つの独立した短編なのだが、見事だった。とにかく、その世界にひきこむものがすごい。最初の数ページで、がばっとわしづかみにされ、グイグイひっぱりこまれるので、久々に、耽溺という感覚を味わった。これで、後に全然残らないのだから、それもまたすごいといえばすごい(笑)。


■過去と未来と、あなたはどちらが好きですか?


なにかの評論で、人間には、



過去を志向するタイプと未来を志向するタイプ



がいる、というのを読んだことがある。



いつまでも、過去の記憶を追いつづける意識というのは、ノスタルジーにつながっていく。そして過去の記憶や体験や、悠久の時間の長さの重さを目を凝らして見つめる視線は、それが故に、仙人のような行動的でない、内省的で静謐に満ちた、いつもなにかを反芻し、思い出しているような、「動かなさ」を感じさせる。



逆に、未来を追いつづける姿勢は、キラキラと輝ける遠くに光る何かを目指して、駆け上る高揚感や上昇感を紡ぎだす。過去のことや内面(=心の複雑な森)を振り返ることはせず、ひたすら目的を目指すが故の、若さ、傲慢さ、まばゆい輝きと実践的で行動的なイメージを髣髴させる。




そのどちらがいいというのではなく、人間の求めている本質にかかわるものだ。




前に話したことがあるが、後者の「目的志向」とは、目的という点と現在という点が一直線線で結ばれており、価値は目的の達成到達であるので、現在の点(=今の自分自身)と目的までの過程・プロセスは、全て無意味なものとなってしまう。



また目的志向には、



「そもそも目的の設定方法自体が間違っているのではないか?」



という根源的問いが、いつも内包されており、その不安との不断の戦いという、凄まじい内的緊張が伴う時間感覚である。



そして、それが故に、人間の精神を相当傷つけ追い詰める時間観念であり、同時に、それ故に人間の卑小さと偉大さが、強大なレベルで証明されるエネルギーをもつ。



僕は、この過去と未来のどちらを重視するか、という点で、人間を類型化する癖がある。





■記憶の森へダイビングする・・・・人間の内面とは記憶、記憶とは過去



そして、その視点から言うと、恩田陸は、あきらかに



過去(=人間の内面の記憶の森)



を、追っていく作家だ、と思う。



まだ二冊『黒と茶の幻想』『三月は深き紅の淵を』しか読んでいなが、顕著なので間違いないと思う。そして、それほど強烈にがんがん人が死ぬとかそういうのではなくトリックをも描かないのに、ミステリーと分類されるのも、この人間の普段は隠し持っている「内面という鬱蒼とした暗い森」の闇に光を照らす作業がメインの作家だからだと思う。



ミステリーの定義は、いろいろあるだろうが、この



『隠されたものを明らかにする』という部分



は、その主要の一つだと思う。



そして、一番暴かれたくないのは、やはり記憶だろう。




著者である彼女は、



人が忘れなければ生きていけないような後ろぐらい陰惨な記憶





ありえないような狂気をはらんだ恋情や思い込み



そして



それらによって縺れて、絡まり、どうしようもなくこんがらがってしまった人間の心の記憶をゆっくりと、解きほぐし、あらわにしていく。


「その」作業が、彼女の本質のようだ。




■世界を再現する


だからスペースオペラSF的な感覚やビルドゥングスロマン的なもの(=未来志ね)がとても弱く、なによりも、小説・文学の主題となるべき目的が存在していないため、



世界(過去のもつれた記憶)や関係性を再現する



ことに終始してしまう。



これは抜群に再現するのが上手く確固とした小説世界を形作っているため、良い悪いの問題ではない。ともすれば、未来志向は、現実の豊穣さに目をそむけ、盲目的に目的を追ってしまう傾向が強いので、ダメダメな未来志向よりはむしろ上だ。



しかしながらこれを、世界の再現性ではなく、



主題テーマ(=何を目的とするか?)という近代文学の基準



で評価すると、と




賞を取りにくい作家ではないか?、批評家に評価されにくい作家ではないか?




と僕は思う。



なぜならば、評価の基準がそもそも「ない」のだから。



彼女の書く目的は、人間の記憶(=その人の本質)へダイビングして眺めることであり、その『潜る行為』をミステリーとしてテクニックを洗練させる方向で小説のレベルを上げているように感じる。



彼女の作品が、素晴らしく濃密な小説世界と文章の洗練された見事な構成力にもかかわらず、






読後に残るものがほとんどない




という感想の特徴も、この「世界を再現する」ことが目的で、



主題を人の心に叩きつけて人の心を動かすことを目的としている近代文学ではないからだ。



世界を再現するのは、空気のように「その関係性」を手で触れるような手触りと濃密な感覚で再現することが目的でなので、読み終わると、まさに空気のようになかったものになってしまうのだ。




だから文字に質量があり濃密なのに、底が浅い。




彼女は、物語作家、小説家と称するべきで、文学者ではないというのが僕の結論だ。




ちなみに、ストーリテラーと呼ばれる物語作家は、なぜか女性に多く、女性が長大で広大な長編を書き歴史に残る場合が多い気がする。



ルシー・モンゴメリー赤毛のアン源氏物語紫式部、アガサ・メアリ・クラリッサ・クリスティなどもそのカテゴリーに入る気がする。



逆に、文学作品では、トルストイドストエフスキーなど圧倒的に男性が多い。・・・・まぁぼくの思い込みかもしれないけど(笑)。



これは、男性のほうが目的志向で現実を否定する抽象的なロマンチストが多く、女性のほうが環境に親和的で目的よりも世界そのものに興味を見出す具体性の世界を生きている傾向が強い、ということの証左だと思う。もちろんこれは極論であって、全ての人間はその微妙な比率の中に生きているともうが、極論でいるとこういえるのだ、とは思う。



たとえば、実際のところ、あまりに「世界そのものを再現する」だけに終始すると、物語が動かなくなってしまい、箱男や死霊などのような精神世界で内省しつづける閉じた静謐な世界を描きつづけることになり、ダイナミズムが失われてしまう傾向がある。恩田陸は、少しのその嫌いがある、と思う。




■イメージの氾濫



それと、彼女は、イメージで作品を書いている人だと思う。



作品を創造するときに、論理を軸にする人と、イメージを軸にする人がいる、と僕は思う。



彼女は、想像において、まず『イメージありき』なのではないだろうか?



だから、小説を読むと、雰囲気がよく伝わる。



が、何がいいたいかという抽象的な、さらに背後にある主題が全然感じられない。



それは、論理ではなく、イメージを再現しようとして、文字を、小説世界を書いているからではないだろうか?。



だから、キィッチェなイメージの断片が氾濫していて、まるでJAZZを聞いてインプロビゼーションを感じるときや、モダンアートの意味の分からない断片を見せられたような、感覚が、本を読んでいて再現される。



けれども、イメージは、読む側(=受け取る側)に、同じイメージの対象物があり、



かつ



そのイメージを再現する意識をもって読む人



でないと、ほとんど何を言っているのわからない。




同じ評価を受ける人物では、映画監督の岩井俊二も同じだ。



素晴らしくイメージに満ちた匂いのある作品を描くが、




「結局なにが言いたいのか?は、全然わからない」




だから、主題の欠如で、賞が全然とれない。あれほどの人気を誇りつつもメジャーにもなりきれない。そして、惜しいことに、アーカイブにも残らないだろう。



イメージは、同時代性の感性に支えられるものだからだ。