ハーレムメイカーは、物語の時間性を奪うか?(1) 何を語って、何を目的としているのか?議論の前提を振り返る

かなり前の書いて、うち捨ててお蔵入りになっていた記事です。少々議論としては古いのですが、まーせっかくなので、ハーレムメイカーを考えるヒントとして、載せておきますので、興味がある人は見てください。





■直線的な時間感覚から、回帰的な時間感覚へ
基本的に、定義をはっきりさせようと考えているのだが、たぶんそれは難しい作業になるのではないかな、という予感がします。なんか、やっていて難しんですよね。なので、ちょっと議論を、大きなベースに戻してみましょう。

「日常」と「非日常」のダイナミズムの中で、「日常」によっていくことは、回帰の時間感覚(=目的LESS)の方向へシフトすることだ、というのが僕の議論の大元です。ここに置いて、日常世界のノスタルジー喚起というドラマツゥルギーを固定化する手法を採用しようとする時に、「関係性の固定化を繰り返すという」手法が繰り返されます。このことを言いかえると、「時が止まった」と僕は表現します。


人間の実存感覚には、A)目的を持って「それへ向かって生きる」という直線的な時間性と、B)「いまここ」に充実を見出す回帰の時間性の二つがあると僕は考えています。同じ世界を縦割り(未来に向かっていく)で見るか、横割り(現在と過去を見る)で見るか、という差です。充実(=幸せ)を、未来における目的の達成を持って感受するか、それとも、過去と現在の結果である「あるがままの、まったき現実」と共生・共時感覚を見出すことで感受するかという違いです。ちなみに、精確な用語ではなく僕が使っている俗語になりますが、「非日常」がA)にほぼ該当し、「日常」がB)に該当します。だから、A)で直線的な駆動をしている時間に、B)のあり方を投入すれば「時が止まった」かのような印象を受けるんです。B)は、精確にいえば時が止まったわけではなくて、時が回帰して、世界の大元の構造自体が変化しないというだけで、時間が止まっているわけではありません。


物語の類型は、こうした分類で世界感受の仕方を分けた時に、各ジャンルの需要のあり方から派生して、A)とB)の具体的な表現方法と組み合わせ比率というものが、生まれてきました、と僕は考えています。とりわけ、目的志向によって動機を駆動する近代システムでは、A)をどれだけ人の心のに洗脳して強い動機を持たせるかというもの(=洗脳装置)と、B)それに抵抗して、生きることの充実を求めるという、洗脳返しの戦いの歴史として記述できると思います。つーか、その側面を僕は、いつもフォーカスして議論しています。


その文脈を、さらに歴史的な流れで考えると下記となります。


80‐00年代の20〜30年間というのは、50−70年代の直線的な目的至上主義を尊びそれに疑問を持たないあり方(=高度経済成長と物質的な水準の低さの組み合わせ)から、その(1)否定と(2)回帰の時間感覚へのパラダイムシフトが起きた時代でした。まぁこの辺は、社会学の成果でほぼ前提の話ですので、僕の議論はこの歴史上の流れのパラフレーズだと考えていただければ嬉しいです。


基本的には、A)の否定から、B)へ向かうという文脈が支配的でした。まずこのことが、大前提で、この前提があるが故に、すべての概念を等分に議論する必要性を僕は感じません。やった方がいいとは思いますが、めんどくさいので(苦笑)。まっ、学者ではないですからね、そういう議論はやってられません。まー僕の議論は、感覚印象ですから、いいでしょうこれで。。。

ちなみに、ルイさんが、漫研で「恋愛ゲーム20年歴史と問いかけること」で書いている流れも、ほぼこの流れを辿っています。最も、社会的な文脈でそうなったというよりは、そもそもポルノとしての機能からA)が要請され、A)の構造(=たくさんの女の子を口説く)が完成を見た時に、唯一性へのコミットを上げることによりその強度(=ポルノとしての性的な快感)を獲得しようとしていった意味で、B)へシフトしたので、それは機能の要請だという議論の流れになると思います。ポルノとしてのエロゲーは、ただ単に女の子の数・種類を等距離に置いて、カタログを眺めるように脱がせる、Hシーンを見せるというジャンル上の最低スペック(=本質)を持ってます。それが、多人数との薄い関係性ではなく、より深く個々のキャラクターとの濃密関係性を持とうとする方向に進みます。言い換えれば、そもそも前提として「1対多人数」であったものが、「1対1」へ志向されていったという流れです。

この後、アージュの『マブラブオルタネイティヴ』やTYPEMOONの『Fate/StayNight』のような、唯一性の選択というものを、パラレルワールドの中で為すという劇的な進化に到達しました。これらの作品が、スペック(数字の高感度)を上げて、だれを口説くのか?を決めていくような並列構造のシステムではなく、ほとんど一直線の小説に近い物語形式を採用しているのは、もちろん偶然ではありません。選択肢を拒否する方向へ進んできたからなんです。

ちなみに、最終形態としては、マブラブですね。Fateは、並列に世界が存在していて、「誰かを救うことはだれかを捨てること」というこの世代の美少女ゲームの到達点の、強度が強い系統であって、並列世界同士の人間が唯一性について、悩むなどという異様に真摯な部分まで踏み込んでいません。マブラブオルタは、お互いが別の世界からの相手という前提で、唯一性をどう貫くか?というような、メタな構造を徹底的に利用し尽くした構造で、まさにこのジャンルの神の到達点です。


ちなみに、これら美少女ゲームの歴史は、特殊例で、基本的に小説、そして漫画、アニメーション等のサブカルチャー領域では、逆の論理を辿っているように思えます。それは、国民国家及び経済システムの強い要請で形成されたオンリーユーフォーエバー症候群といわれるような1900-1930年代の近代化時点に形成された処女・童貞信仰などの一夫一婦制への、そもそも「一人の人を愛するべきだ」という1対1の幻想を壊す方向に、社会が進んできたからです。美少女ゲームと逆の道筋ですね。そう、リベラリズムによる、選択制の向上です。いってみれば、道徳・倫理の観念を壊すことが大衆・サブカルチャー領域での流れだったと思うのです。まぁこれも、もちろんポルノと同じ動機で、「欲望」が駆動になってはいますが、大きな流れとしては、物質的な水準の向上による選択肢の多様化という時代の流れに即していること、そもそも近代リベラリズムの本義である、選択肢の多様化という思想上の正統性がそれを支えてきたんだと僕は思います。

だから、まず恋愛モノの中で最初期に生まれたのが、ヒロインを選べない、という現象です。いや、もっとぶちゃけて言うと、二股とか、泥沼の三角関係というやつです。このあたりは、LDさんが、つまり正ヒロインのライバルの格上げという議論を、雨宮理論でしてましたね。この歴史上の流れも、このあたりの議論の補強になりそうです。


まずは議論の前提が用意できてきたので、詳細の定義は言ってみましょう。


■ハーレムメーカーと恋愛原子核は、水準が違う〜構造と力
ハーレムメイカーという用語は、この流れの一パターンであるところの、舞台を用意する手順にとてもマッチしているので、閃いてきたものです。女の子(男の子でも可能、またはすべての環境でも可能)との関係を等距離にして「日常を戯れる」ためには、ハーレム(=多人数の女の子に愛される)というものを作り出して、なおかつ、その関係性を「止めて」置かなければならないという至難の技が要求されます。この舞台を作り出すもの、という意味です。

実はこれは「現象の断面」なんですね。もうちょっといえば、そういう「構造」があるということ。つまりそういう環境を作り出すというものであって、この次の議論として、この止まった設定が用意されたとすると、主人公が、(1)この止まった世界を維持し続けようと動機を持ち動くのか、(2)それともそれを壊そうという風に動くのか?という分け方をすることができると思います。LDさんとルイさんがおっしゃっていた、受動と能動の差は、このハーレムメイカーという現象における力学のかかる方向性の問題だと思うんです。


とすると、大元の概念としては、


ハーレムメイカーの中に、受動と能動があると考えるべきなんですね。だから分け方としては、


ハーレムメイカーという「現象」において、


・受動性(その世界のあり方自体を壊す動機を持たない)/恋愛原子核


・能動性(その世界のあり方自体を壊す動機が持つ)/?(Fate衛宮士郎型)


があると考えられます。この分け方自体は、僕は妥当だと思います。簡単にいいかえると主人公が、ハーレムを維持したいか?それとも、本当に好きな人だけを救い愛したいか?という問いかけです。感覚的にもわかりやすいものですよね。

ちなみに、ということはハーレムメイカー能動の名前を付けないと、そこが穴になる。ハーレムメイカーは、現象そのものとしてどっちの志向性も持っている現象と僕は考えているので、本来定義づけるのならば、「能動性」のほうにも名称をつけなければいけないんですが、うーん、いい名前が思いつきませんねぇ。なんかないでしょうか?。とりあえず、代表例でお茶を濁しましょう。Fate衛宮士郎型とかにしておきましょうか。これは、セイバールートを指して、この作品が、日常と非日常を等分に近い形でハイブリットした上に、強烈な能動性で物語を駆逐するというハーレムメーカーの到達点の一つと僕は認識しているからです。これもなんかうまい言葉があったら、ぜひご提案を。

さて、恋愛原子核という言葉は、この「受動性」の部分を受け持つことになる。この言葉で妥当かどうかは議論の余地があるんですが、まーめんど臭いし、まずは議論を進めていかないと、話が進まないので、とりあえずこれで行きます。恋愛原子核は、アージュのマブラブというゲームを経験していると、非常にしっくりくる言葉なのですが、、、、。あっ、でも、これも『マブラブオルタネイティヴ』全体をすると、主人公白銀猛は、そもそもハーレムに安住するヘタレを、叩きのめすというメタ構造になっているところでの、恋愛原子核(=何も根拠がなくても女の子がやってくる)という意味なので、本当は皮肉なんですよね、これは。

とにかく、用語の定義は重要ですが、あまりに整合性を求めたり、正しい形を求めることは僕は学者じゃないので、しません。理由は、何よりもめんどくさいというのと、そもそも議論は進めていくことが重要で、誤解なども含めてそれを訂正したり話し合っていく過程が重要であると思うからです。どーせ、物語を楽しむための分類なので、この辺の作業を楽しく、だべれるといいですねぇ。

話を戻して、恋愛原子核の、根拠がなく女の子がよってくるという意味ですが、重要なのは、「根拠がない」という部分です。「根拠」とは、この後この「時間が止まった世界」に、唯一性をもたらすことによって、すべての人を平等に扱うことはできないという時間進行上の圧力がかかり、「正妻」、いいかえれば「正ヒロイン」との話が「進んでしまう」ことという一連のドラマトゥルギーの力学の一部を指しています。

詳しく考えてみると、つまり、ある人が、ある人を好きになるとなると?そこに根拠(=理由)があるとすれば、その理由がもっとも正当・正統性を持つものが、競争に勝ち抜き唯一性を獲得するということが、読者にとっての納得をもたらすことになります。受け手の納得性というのは凄く重要で、ここに「論理性」が要求されてしまいます。ほんとうは、なんとなく勘で、とか、流れで、というのが恋愛の真実ですが(笑)。そもそも「正ヒロイン」には、「正ヒロインとして決めたのだ!」「正妻以外はすべて妾(二号)だ!」という道徳上のパラダイムがあったので、論理性は全く無視されていたのですが、時代がすすむにつれて、「この流れでは」本当は、2号さんだった人こそが、「ほんもの」のヒロインだったのだ!という大逆転現象が起きるようになってきました。そのエポックメイキングな出来事が、LDさんのいう『ななか6/17』ですね。まぁこの作品が、thersholdになったかどうかは別として、こういった流れがありそうというのは言えそうですね。

さて、一応武器は揃いました。僕は、ハーレムメーカーというものは、力学のない「構造」として、つまりシャッターで撮った静止したものとして理解しています。この構造がどうやって出来上がっていくか、またそれが、次へ向かう過程の「力」の部分には、「非日常」から「日常」へ向かう圧力が存在するという風に議論を進めています(90-00年代の特徴)。これが僕の中の歴史観と概念なんで、とりあえずこれで僕は話を進めていきます。あまり瑣末だと議論するのがしんどいのですが(これだけでもうへとへとな量です)ご意見反論あれば、どしどしください。


さて、そもそも僕の議論の肝は、ハーレムメーカーの定義ではありません。あまりに印象的な言葉であったので、とにかく力技で、定義を考えてみたんですが、そもそも僕の大元の議論は、「日常」と「非日常」の持つそれぞれの時間感覚のハイブリットが、どれくらいの比率でありうるのか?、また、そもそもかなり強烈な差がある概念であるこの、「日常」と「非日常」をどのような形で、くっつけることができたのか?という議論です。この真逆の世界観を、うまく使用している例が、とりわけ昨今には多数見られるようになってきており、この比率がうまくできたものが、素晴らしい作品になっているというのが僕の印象だからです。


さて、大枠の議論の仕組みが見えてきたので、個々の議論に入っていきたいと思います。

続く