『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』 12巻 伏見つかさ著  あなたは恋人と友達とどっちを選ぶのか?という問いの答えを探して

俺の妹がこんなに可愛いわけがない (12) (電撃文庫)

評価:★★★★★星5つ
(僕的主観:★★★★★5つ)


ちなみに、完全ネタバレなので、読んでいない人は読まないように。・・・というか、アホみたいに長いので(苦笑)、まぁ読む人どれだけいるものか・・・・?(苦笑)。


読了した直後にこれを書いているので、他人のコメントや感想を一切見ていないで書いています。ああ、こりゃー物議を醸すだろうなぁ、というのが読了後の感想。そして、なるほど、作者は広げた風呂敷をこのように回収したのか、と納得というか、非常にそのプロセスは興味深いをモノを感じます。


たぶん物語的には、とても中庸なところに落ち着いてしまった。ライトノベルという媒体は、中高生を対象にしており、文学的な「特定の系への最終地点までの追求」を目指したものではなく、基本的にマーケット需要層の心証を害さない規制コードが働くという「制限・条件ハードル」が働くものであると思う。特にメジャー級の作品はね。これを、見事にクリアした考え抜いた結末であるが、同時に、だからこそとても中庸になってしまった。この素晴らしく支持されて読者を感情移入に誘った作品を評価するならば、たぶん結末自体から受ける感覚をベースに全体を評価するのではなく(ふつうの評価はそうするもの)、そこに至ったプロセスの苦悩と思考形態を評価するのが、僕はすべきものだと思う。というか連載系のものは、リルタイム性を評価しないと、単体の完成度で評価しても駄目だと僕はいつも感じます。

単体の評価ってのは、すごくおおざっぱにいうと、一つには、文学作品などの「中身それ自体」言い換えればテクストを単独で評価する志向性だし、もう一つは作家主義的な視点で作家の履歴と生育社会環境をベースにテクストを文脈読みしていくことになると思うのですが、それだけではなく、その中間があると思うのです。そして、ライノベルの媒体はこの中間部分の支配が大きいような気がする。あっ、えっと、要は僕の思考は、「テクスト単体」もしくは「作家その人自身」のどちらを評価するか?という視点に対して、そのどちらの文脈でもない、媒体、時代やエンターテイメントの履歴が持つテーマ性が深く支配してしまうことをいっています。僕は、俺妹だけではなく、エンターテイメントの領域でのライトノベルエロゲー、アニメーション、漫画などのオタク領域の全般に、それなりに統一のテーマ性の「かたまり」がいくつか存在しているように感じるんですよね。

この中で、なんといっても、特筆すべきテーマの一つは、ラブコメの領域に生まれたハーレムメイカーの系譜です。そのテーマのイシューについて、どう俺妹が回答を出そうとしているのか、という視点で見ていきたいと思います。ちなみに、ハーレムメイカーって、僕とLDさんで、物凄い長い期間熟成している概念なので、一言で説明できないので、まずは言葉の意味そのままに考えながら読んでください。


では、どういう枠組みがこの作品全体を貫いているかを、見ていきたいと思います。エンターテイメントとして物凄い成功し、かつライトノベルの媒体の持つ可能性を十全に、というか、あるメモリいっぱいに使い切って完成した絶頂期の作品だけに、この作品を貫徹するロジックは、興味深い。


この作品のマクロ骨格を考えると、終始最後まで、メタ的な意識が支配していた作品だったなという部分に感心します。メタ的とは、このラブコメの物語構造のハーレムメイカー的な系譜の仕組み自体を常に上から鳥瞰している意識があったということ。もう少しわかりやすく言うと、エロゲー的な、選択肢としてのヒロインという選択分岐構造が常に意識されているキャラクター関係の配置がされていたんだということ。さらに付け加えるならば、作者だけではなく、物語の内部にいるキャラクターであるヒロインたちもがメタ的な鳥瞰意識を自然に持っていたところが、とても興味深い。


うーん、どれをいっても小難し言い方になる。もう少し噛み砕いていくと、最終巻は、これまで京介くんとラブコメ的関係を積み上げてきたエピソードを、短編的に繰り返して、それで、それぞれに「妹が好きだからつきあえない」という構造になっていますよね。これって、どう見ても、エロゲーの個々の分岐ルートを個別に終わらせている構造ですよね。ちなみに、分岐のあるノベルゲーム系を経験したことがない人は、さすがにこの意見を読むのが無理があります。おもしろいものがたくさんあるので、やってください(苦笑)。


それで、最後に残った桐乃の分岐ルートに入っていく・・・っていうエロゲーや、ビジュアルのベル系の「分岐ルート」を経験ある人は、まったく同じ「感覚」で、桐乃へ突入していく「感じ」が感じられたはずです。というか、僕は、うわーその他のルートを人う一つ一つ丁寧にふさいで、かちゃっと切り替わるように妹ルートへ追い込まれていく感じがとてもしました。みなさんはどうでしたか?。メタ意識とか鳥瞰の意識というのは、「いま目の前のこと」ではなくいて、全体像がどうなっているか?という分岐ルートのマップそのものへの上の方から眺めている意識があるかどうかということです。


たとえば、妹のしまっていた兄貴の写真を「見た/見なかった」が、ルートの分岐だったという表現が、以前にも今回にも出るという部分です。これ自体は、妹ルートへの伏線回収的なものですが、はっきりとこの表現からは、分岐ルートで小説の物語構造のマップが作者の中で構築されているのがわかりますし、その分岐ルートを読者に提示しているのがわかります。そういう意味では、エロゲービジュアルノベルゲームのシステムをベースにしたラブコメ・ハーレムメイカーと1990-2010年の大きな文脈の正統な後継者のライトノベル展開版だ、といえると思います。ああ、ここでハーレムメイカーというのはざっくりした概念なんで、一人の男の子(=主人公)に対して恋人候補が複数いて、それぞれにヒロイン級のエピソードの積み上げがなされていくけれども、どこかで「誰かを選択しなければならない」という圧力が働いていく構造、とか思ってもらえればいいです。


小説がとてもうまいし、あとで書きますがキャラクターに実在感があるので、相違メタ的な構造が必ずしも臭みを放たずに、自然に使用されていて、たぶんこの小説を10年後見返しても、分岐システムやそのような思考法を背後に認識してみる「リテラシー意識」が失われたとしても、この物語は普通のラブコメとして楽しめる自然さを持っていながら、「にもかかわらず」分岐ルートシステムの申し子であった、そのメタ的意識に貫かれてエンドが構築されているところに、非常に面白さを感じます。


さて、「妹ルートに入っていく」という実妹エンドを選択したのが、この作者伏見つかささんの電撃文庫の選択でした。これをどう見るか?というのが、評価の最大のポイントだろうと思います。


物議を醸すのは当然。だって、僕の中では、黒猫一択!!!!(瑠璃がかわいすぎていつも死にそうです)なので、そんな、桐乃とか選んじゃってるの!ぶっちゃけ、かわいくねーじゃんというか、この距離の感覚は本当に妹なんだよ、、、女として愛せねぇだろう!というか根拠も動機も京介の方にねぇぞ――――!!!!とかいろいろ思ってしまいます。実際に、超できる妹がいるんもんで、これ重なるんだよねー(苦笑)。この悪口のいいあいとかも。そう考えると、ありえねぇぇ―――って思うんだよねー。妹への、家族への愛情って、異性へのものとは全然違うんだよっ!!って、、、、


まぁ僕の意見の根本軸は、そこなんですが(笑)、これらの意見は、気持ちはわかるし正しい読み方ですが、批評的にはあまり意味がないなーと思います。だって、それって、だれだれの子が好きなんだ!という信仰告白にすぎないので、どの子がタイプかということで選択肢のルート選択を評価するのは、メタ的なシステムを評価うする上で、袋小路にはいってしまう話だと思うのです。だって、あやせが好きなもう一人の僕は、あやせが幸せになれないとか、、、、というか、こんなエロ清純な娘をふるなんてありねぇぇぇぇ!!!とか、まだ心が疼きます。


そういう感想は溢れると思うのですが、どのキャラクターを選んだかという視点は、どうしても私情になるので、私情はもちろんもっとも重要なことなのですが(=動機を喚起できたということだから)、それだと相対化になってしまうんですよね。確かに俺は黒猫が好きだけど、おまえはあやせか、、、、、(凄い闘った後)、、、、、そうだな仕方がない、人には好みというものがある、ということで落ち着くんです(苦笑)。これを相対化、といいます。


では、何を見るべきか?といえば、(1)なぜ、実妹ルートを選んだかと、(2)その料理の仕方だと思うんです。


僕は、残念ながらエロゲーマスターではないので、こういう分岐モノの駄作も何もかもやりつくしてはないのですが、たぶん、この業界は、ほとんどの可能性分岐ルートってやりつくしているのではないかと思います。物語の出来はともかくとして、分岐はどんどんバロック化して広がっていくはずで、順番にやっていけば、どれほど複雑で極端なルートでも、生まれてくるはずです。なので、この業界の爛熟度を見れば、ここへの指摘は、知っている人はそんなのは前にもあるぜ、ということになるでしょうね。でも、たぶん僕も読んでいる人も、ほとんどそれは知らないでしょうから、そこは言及しようがない。まぁ知識を競うのではなく、自分の思考で、少ない手持ちの材料でどこまで追えるかが、ものを考える楽しみなので、いいけど。


さて、(1)なぜ、実妹ルートを選んだか、です。実妹ルート・言い換えれば近親相姦ものについてどう考えるか?という文学的な「一つ系統の最後まで追いつめていく」という意味合いでこのことを評価するのは、意味がありません。そもそも、ライノベルというジャンルが、定義もわからずなんとなく支持されて群をなすのは、僕は、これが「文学じゃない」という意思表明なのじゃないかと思っています。ちなみに、定義はあまり細かく書くとうざいのですが、文学は、ある特定の系を追い詰めることだと僕はおもっていて、ここでいうならば文学的に評価うするならば、兄と妹の近親相姦というテーマを上げた時に、たとえば、そのことがもたらす両親の軋轢を描いていない時点で、話になりません。けど、そういう方向の切り口の批判は、まったく意味をなしません。たぶん、読者や支持者は、こう答えるでしょう。「だって、これはライトノベルだから。」と。それは、ある種の揶揄や自己批判もあるのですが、そんなマイナスのニュアンス差し引いても、僕は正統なロジックに思えます。だって、これは文学じゃないので、テーマ性の追求の真摯度合いを競うわけでもリアリズムを競っているわけでもないのだから、「そこ」を軸に話されても、意味がありません。この作品の主軸テーマは、そもそもそこじゃないと思うし。



さて、実妹ルートを選んだのは、「この物語のあるべき姿」がそこにあるからという一点に尽きる。はしくんが「この物語はこういうものなんだ」感が半端ないというtwitterの感想を上げているが、僕もけだしそういう強う主張を感じた。


ようは、最初の打ち立てられたテーマと、というか「タイトル!(=俺の妹がこんなに可愛いわけがない )」に支配されているんですね。


タイトルに支配されているというのは、どういう文脈でいうのかというと、ラブコメの系譜が展開してハーレムメイカーに至っている場合の背景を考えてみるとよくわかります。最初にいましたが、主人公の男(=読者の感情移入ポイント)に対して、複数のヒロインがいて、その属性ごとにファンを作って裾野を広げるというマーケティングがなされています。これは、市場の要請・・・・嗜好の多様化を包括するパッケージにきわめて適合して発展した形態です。単純に、ハーレム、男に恋人候補がたくさんいると思えばいいです。


この仕組みの問題点は、もうすでに明らかになっているんです。


それは、主人公が、恋人を一人に選ぶことができなくなるという点です。


ただ、それは、ハーレムメイカーの起源であるラブコメからすると、本義からすると、そもそもおかしなことです。一人を選ばなかったら、ロマンチックラブイデオロギーに支配された核家族の基本コンセプトが崩れてしまいますし、まぁそこまで遡らなくても、ラブコメって、恋人を作るのがそもそも目的でしょう?(笑)。


一人に選べないということは、すなわち、物語が終わらない、ということでもあります。


なので、複数のヒロインとの、その子が恋人になるべき、選ぶべき理由が積み重ねられまくってパンパンの状態で、誰を選ぶか?ということを考えると、それぞれに、選ぶべき理由を徹底的に積み重ねているわけで、よほど主軸の軸がはっきりしていないと、選ぶ理由がないんですよ。かといって主軸(=メインヒロイン)がはっきりして、その子の「内面を救う」という方向に舵を切ると、それは、「そういう物語」であって、そもそもヒロインが一人の物語になってしまい、ハーレムメイカー的な魅力が失われてしまいます。


さて、袋小路でしょう?


俺妹は、このパンパンに膨れ上がった決断できない状態で、急角度に実妹ルートに入っていきます。なぜか?。僕には、その根拠は、全体通して感じられません。もちろん、伏線はたくさん張ってありますので、妹を選ぶことは、それなりの根拠はあります。けど、「それなり」ですよね?。だって、黒猫派の僕からすれば、、、というか、この流れだと最も恋人に相応しいのは、黒猫ですよね?どう考えても。そうでなければ、すべてを超越するポジションに鎮座するラスボス麻奈実になるはずです。そういった選択肢を、否定すべき理由もなく否定しているんですよね。なので、簡単に批判が出やすい。・・・いや批判というのは言葉がおかしいです。不満、ですね。だって、「俺の黒猫が選ばれないなんて――――!」っておもうでしょう?(笑)。


それでも、妹を選んだのは、究極的には「終わらせるため」に、もっとも宙ぶらりん(=ヒロインを選ばない)で、かつ「選んだ」という実績を創る無難なポイントを選択したということになります。


これは、マイナスのニュアンスや批判ではありません。僕はこの人気の絶頂期で、しかもこれだけおもしろくてたった12巻で話を終わらせた作者と電撃文庫に敬意を表します。だって、この結末ならいくらでも続けられるし、このままいくらでも引き延ばしができるはずなんだもの。そこを打ち切ったのは、長期連載で雑誌の売り上げを確保しようと物語がめちゃくちゃに歪んでしまう傾向がある、昨今の流れからは一線を画す行為で、素晴らしいと思います。そして、最大限の各ヒロインへの配慮も含めて、キャラクターたちを記号と見ない、とても誠実で真摯な態度に思えます。特に僕は、黒猫派なので、彼女の提示した妹との関係の清算というテーマを、京介が重く受け止めて、、、そして作者も重く受け止めて、宙ぶらりんのままにせず、たとえそれが、次善であって、納得がいかなくとも、ちゃんと時間のリミットを考えて、「すぐに現実として決断した」というのは、僕は素晴らしく誠実に感じました。どんな理由をつくろうと、黒猫の指示した問題点は、重要です。引き延ばすことこそが、このハーレムメイカー系統のラブコメにおける、最大のアンフェアな許されざる問題点だと僕は思っています。だれに?って、そこに生きるキャラクターたちにとってです。最大の恋人候補・・・というよりは一度は大好きになった女の子の対等で深く真摯な願いを、そのままほっとくとか鬼畜です、人倫にもとる行為です。って、ハーレムメイカーのたくさんの主人公たちに、いいたいです!。まぁ、そういえば、僕が深く感動したのは、西尾維新さんの化物語シリーズで、あっさり戦場ヶ原を選んだところです。そのせいで、最大ヒロイン候補(というかぶっちゃけ実際のメインヒロインだった)羽川さんをブッ飛ばしてしまったあの「選択」は、僕にはぐっときました。


誰かを選ぶということは、誰かを拒否するということ。そして、現実とは、どんな中途半端でも何でも、選ばないことはできないはずだからです。


小説が、もう一つ現実として、もう一つのキャラクターたちが生きる「世界」だとして、やはりそこに「時間」の概念・・・・何事にも終わりは来るし、リミットとがあることを示すのは、最低限度の作法であり、黄金律であり、グランドルールだと思うのです。もちろんそのルールをずらしたり逆手に取るというような、面白さもあると思うので、ルールに盲目的に従うことが正しいとは思いません。物語の面白さをそこだけで測ることはできないから。けれども、丁寧にキャラクターたちの一度しかない人生の実存を描けば、やはりそこに重要なポイントがあると思うのです。


そういう意味で、文脈読みをしていると、なぜ選んだか?ということを考えると、僕は「誰かを選ぶ」ということよりも、ここでは僕が黒猫派なので、特筆して彼女を上げますが、各ヒロインとの積み上げエピソードが臨界点に達しているのを作者が感じ取ったのではないかな、と思うのです。これ以上「選ばない」のは、誠実ではない、と。これは、ハーレムメイカーの歴史においては、物凄い画期的なことなのです!!(初めてとは全然言いませんけれども)。なぜならば、人気の絶頂期で連載を止めるということが、どれだけの経済的な損失をもたらすかを考えればわかりますよね?。そういうのは、大人の事情で、絶対に許されないのが、常識だったのです。そもそも、物語と全然違うところの最も重要なポイントで、これができないんですよ。


そして、実妹ルートに入ったのは、そもそも「選ぶこと(=決断する)で、時を止めない」ことを、優先させた結果に僕は思えます。


微妙な話なのですが、ようは「誰を選ぶか?」はここではそれほど重要ではなく「選ぶこと」にって時を止めないことを示した、というのが重要なポイントだと僕は感じています。だから逆に言えば、選んだ根拠は、凄く弱いのです。というか、ハーレムメイカーの構図は、抜きんでたメインヒロインが独走状態に入らないことで形成される空間なので、そもそも、選ぶ根拠がないのです。


ただ、唯一この作品が、なんの物語なのか?と問えば、タイトルと主軸の構成が、「妹からの人生相談」であったということに尽きるでしょう。それのテーマは、黒猫たちと友達ができるということで解消しており、ほんとはすでに終わっているんですが、終わってしまうと、物語が終わるので、主軸のテーマを引っ張ったというのがほんとうのところでしょう。誰を選んでも不満があるしおかしいのならば、テーマに戻るというのは、作品の完成度を考えた時に、それしかないと思います。

ちなみに、たぶん、「誰を選ぶか?」、いいかえると桐乃を選んだのは正しかったのか?という疑問が多く語られるのではないかなと思うのですが、そこを語ってしまうと、袋小路で、話が展開しないような気がするのです。もちろん、そこの部分を感情的の論争して友人と話すこと、もんもんと自分の中で納得できないことを抱えること!という「楽しみ方」もあると思います。けれども、もう少し距離をとった俯瞰した感じで全体像の構造がどうなっているのか?と考えると、やっぱりハーレム的な構造(=複数のヒロインがいて主人公の恋人の座を争っている)が、構造として何をもたらすのか?そのためには、「作り手」としてはどうせざるを得ない選択肢に追い込まれていくのか?って言う部分を注目したほうが、話が続くと思うのです。さて、では、この物語の主要テーマに戻ります。


そして妹とのルートのテーマは二つあります。


1)妹の人生相談〜どうやったら自分の趣味が共通した友人が作れるか?


2)ラスボス田村 麻奈実とのハルマゲドン(笑)〜兄貴が好きって感情をどうするか?


なんですが、2)って筋が悪いです。というのは、そもそも麻奈実に勝てる気がしない、、、ということだけではなく、兄貴を好きという感情が、恋愛感情なのか家族愛の感情なのかの区別がついていません。そこに対する言及がないので、???ってなってしまいます。いちおう、恋愛感情に近いというのは、子供のころからの流れでわかるのですが、その動機の根源は何も説明されていません。動機の根源がなければ、恋愛とは「行動の積み重ね」なんですが、京介と桐乃の関係性は、まったくもって仲のいい兄妹であって、なんにも異性をお互いに意識するエピソードがあまりにもありません。コメディーとしてはわかるけれども、よほど実妹ルートに感情移入していない限り、ただの兄貴と妹としてももちろん読めてしまいます。というか、そっちで読む人の方が多いでしょう。桐乃の内面は救う話になっても、だから彼女から何かをもらおうという意識が京介にはほぼない。だから、肉体への興味も、ふうつの健全な視点を除けば、まったく皆無に見えます。それに比べると、黒猫への意識はまさに異性に対する意識で、彼氏彼女を強く感じますよね?(笑)。もう、読んでて、黒猫のエロさに、僕は悶えて悶絶しまくりでしたよ・・・・。


なので、この2)って突き詰めれば、実妹との近親相姦をどう考えるか?というポイントになるので、普通は、ラスボスである麻奈実、そして両親、その果てにある、ザ世間!という究極ラスボスを倒すという話をしないと、物語としては興ざめです。ロジカルに考えれば、そこを描かなければ、このテーマとしては、中途半端ですよ。なので、2)はとても中途半端な展開になってしまうのです。ちなみに、ほんとうは、計算通り子としてのラスボスTHEグレート麻奈実との対決というテーマは、メタ的意識を持ったヒロインたちの最後の逆襲といういう意味で、ほんとうは展開が見たかったテーマです。ここはまだ系として、金鉱の可能性を僕は感じますが、それはまた別のお話。


では、1)はどうか?


これは、2)とは逆に、物凄い筋が良かった!のです。


俺の妹がこんなに可愛いわけがない』7巻 バッファーが無さすぎる裸でむき出しの心で付き合うからこそ、世界は輝きを増す
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20101211/p3


ここで、僕はこう書いています。2010年の末ですね。

最初は1巻で、ヲタクの自意識の反映のくさみが、、、という意見を書いていましたが。。。。見事でしたね。「ここ」を、「友だちとの関係性と絆の構築」にもって行くことで、ここの持っていたアイディア勝負の問題点を完全に包括してしましました。簡単に言えば、こういった「剥き出しの自意識」に対する揺れ動きの部分・・・いってみれば、個人として「イタイ」部分を、イタイものとして「だけ」ではなく、自分が新しい世界と仲間と絆を作っていく「契機」として据えたことで、この世界がぐっと深く、そして広がりと豊かさをもったんだと思います。もう後半の巻では、キリノのヲタク趣味は、一つのアイテムでしかなく、そこに集う「仲間たちの話」になっています。そして、その仲間たちとの青春物語という非常に陳腐でよくある話(話自体は、本当によくあるもんです)が、ぐっと広がりと豊かさを持つのは、それは、80−00年代を通じて行われてきた「自意識の解体」のイタさを、「イタさ」としてではなく、それは、実は新しい自分や新しい仲間、そして世界への契機なんだ!という前提を踏まえた話になっているからだと思うのです。ああ、時代は変わったんだなーとか思ってありしちゃったりしました(笑)←考えすぎですね(笑)。

ここに僕は凄い新しさを感じました。

2010-12-11

この作品の画期的だったことは、ラブコメ(メインヒロインを選ぶこと)という系譜が、たくさんの女の子を回りに等距離に置くハーレムメイカー構造で飽和してきたところで、その次には、どうも友達との絆が来るのではないか?という僕の系譜の予測をバッチリ捉えた作品だったと今思い返すと思います。友達欲しい系の議論はいまたくさんしていますが、この議論のルーツはどこにあったか思い出してみましょう。


ハーレムメイカー・・・・ようは、ラブコメの正ヒロイン以外の多様なヒロインを出して、その子たちとの関係性を等距離に「時を止める」ことによって、日常の関係性がずっと続く構造を、どうも2000年代は多く見るようになっていました。このたくさんの女の子と、さまざまな関係性の積み重ねがあって、かといって「一人に絞る=(彼女となる)」ことをしない関係というのを考えていくと、、、、非常に単純な話、それってどう考えても「友達」ですよね。『魔法先生ネギま』の31人のクラスメイトとラブコメ寸止め構造ってのは、いいかえれば、31人の深い関係の友達との日常があることとなんのわかりもありません。

魔法先生ネギま!(38)<完> (講談社コミックス)

そうすると、そこに、じわっと、、、、どーせ彼氏彼女的なロマンティックラブ、恋人、結婚、そういうものへ「進まない」のではあれば、別に、それは女の子である必要もなくねぇ?って思ってきたんですよね。たぶん(笑)。受け手の意識の変遷はこういう流れだったと僕は思います。そもそも、無菌系とLDさんがいっていたように、自分の感情移入先である女の子の所有者である「男の視点」ですら見たくない(=自分以外の男がいるのが耐えられない)というような脆弱な自意識が、この界隈にはあったにもかかわらず、まぁそれは一方の極なのでなくなったわけではないでしょうが、それ一色ではなくなってきたというのは、やっぱり、結局、関係性を異性の関係にシフトしない女の子がたくさん周りにいる日常って、友達がたくさんいる日常となんの違いが?という風になったんだろうと思います。肉体関係や閉じた対幻想(=恋人)にならない、心底信じられるやつなら、別にヤロー(同性)でもいいじゃないかってなると思うんですよね。同じ構造が僕は、百合や男の娘とかにもあると思っていますが、それもまた別のお話。


まぁそこの系譜の流れはともかくとして、恋人との一体化、対幻想の貫徹、ファムファタルってのは、確かに物語や関係性の在り方の一形態であり、特に男性にとっての救済のわかりやすい母型だと思います。けれど、いったんこれが成就すると、結婚や子育て、そして年収!(金なきゃ子供は育てられないよ!)など現実がすぐ押し寄せてくるので(笑)、実は、ロマンチックラブってファンタジーであって、「これで終わり」ってわけじゃないのは、心中もの(=デッドエンドルート)のテンションのままに死にゆくのでなければ、当たり前の現実です。異性に受け入れてもらって自己幻想が保持されても、その次に現実に受け入れてももらわないと生きていけないので(苦笑)、結局、次の物語に変化してしまうんですよね。これの典型的な物語は、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』です。彼らは、死によって愛を貫徹する、その先を努力しませんでした。それって、少女マンガの思いを受け入れてもらったらそれで終わり、というのとも大きくつながる構造ですね。しかし、これではなかなか救済されたといいにくい。だって、デッドエンド(=死亡エンド)でなければ、人生は続くのですから。ならば、救済の矛先を目先を変えてもう少しサスティナビリティ(=持続可能性)の高い友達ってやつにずらそうってのは戦略的には非常によくわかる流れだったと思うのです。


そして、このあたりの「友達との絆」系統の話題が出始めたころに、いま思い出すと、その最初期に、はっきりとブコメから友達へのシフトを描いたのがこの作品だった気がします。


純然たるラブコメ形式の物語なのに、「友達欲しい系」のテーマのスタート地点とライトノベルで位置づけているんですが、ぱっと見は、まだラブコメやハーレムメイカーの構造がはっきり残っているので、そうは見えにくいけれども、これは純然たる「友達を作ることによる自意識の病からの解放」の物語だと言えます。どう考えてもそうでしょう?。上述に、1)と2)を上げたんですが、2)ってのは、実妹ルートに入ったのではっきりと感じるんですが純然たるラブコメのテーマですよね。この物語の本質が、主人公の京介が「誰を選ぶか?」という物語。裏でいえれば、兄貴を好きだった妹が、兄貴を落とすという物語。


でも、1)は?


1)は、高坂桐乃が友達を作る物語!ですよね。そして、この部分が圧倒的に破壊力のある物語だったのは、間違いありません。



ようは、自意識のイタさって、最初の記事で僕は揶揄しているんですが、これって普遍的なテーマな上に、かつこの時代の自意識の病の系譜をひく重要なモチーフです。このスタート地点をどう料理するか?ってのが、ポイントです。1巻では、兄貴と妹の関係になると、オタクの自意識を美少女に仮託して、それを兄貴が受け入れるという、さまざまに関係性が逆転していたり、記号の配置がずらされていたりするけれども、いいたいことは、とってもストレートで臭みがある話です。だって、僕を見てよっ!だけの話なんですもん。それは切実な願いですが、そういうのは受け入れるのはちょっと難しいです。だって、「僕(=自意識・個幻想)」だけの話なので、周りに人にとってはメリットが何もない要求だからです。


世界と他者に受け入れてもらうための方法は、常に一つしかありません。


それは世界と他者にとって、みんながシェアできるメリットを提示することです。


自分が!!!俺が!!!私が!!!ってのは、どんなに切実でも苦しくても、うざいです。世界と他者は、常にそう判断します。そりゃそうですよね?。だって、世界の中心が自分で、自分が王様で、俺に従っておまえら奴隷になれ!といっているに等しいからです。ちなみに、『新世紀エヴァンゲリオン』で、僕を見てよっ!といううざい叫びが、なぜ社会現象を起こすほど受け入れられたのかは、そもそも、個人の権利を主張することが非常にしにくいところで、社会のマクロと同調圧力の奴隷でしかなかった「個」が初めて、そうはいってもやなもんはやなんだ!と、苦しさを表に出したエポックメイキングなポイントだったからだろうともいます。それはそれで意味がある。それまでは、言うことすらできなかったんですよ。社会に余裕がなかったので、個人の苦しみや、弱者の思いなんか、簡単に踏みにじっていたんですよね。けど、そこで初めて声を上げた!。世界を救えっていわれても、怖いもんは怖いもん!。なんだかんだ小難しいこと言っても、親に認められたいだけなんだし、好きな人に認めて甘やかしてほしいだけなんだ!というのは、万人の望むところの一つだろうと思います。

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けど、ふーむ、、、、もう叫ぶだけでは芸がなくなりました。世界の中心でアイを叫んでも、、、アイ(=I)じゃぁねぇ、、、とみんな慣れてくると、みんながみんなそんなこといってたら、やっぱり世界はまわらないし、結局、承認する力ってのは、こういう中心で俺がぁぁ!!!と叫んでいる人にはないので、ああ、こんな系統の人ばかっかり追っていても、物語を作る側としては、あまり意味がないなあって気づいてきたんだろうと思うんですよ(笑)。


僕が友達が欲しい系の議論で、アンカー(錨・いかり)になる人が、重要という話をしていますが、友達同士が仲間になって集団を形成する時には、お互いに他者を認め合う承認する力や場を形成する力が求められて、これは非常にレアなスキルなので、それほどあるわけでもないし、また運よく「その集団」「その仲間の関係性」に、友達である、仲間である、という「磁場」発生することは、とても稀で運任せなことであり、その偶然に、それを維持発展させようとする思いが相まって物語が生まれるようだと僕は思っています。


ちょっと話が飛びましたね。


ここでは、京介を思い出してみましょう。彼のアンカーらしいふるまいを考えてみると、非常に簡単です。自分に閉じこもっていた妹を外に連れ出し、友達を作らせようと導いたことです。

さて、とはいえせっかく感動したので、そこに戻る。アニメを見てて、オタクの友達を探しに行こうというのをみて、なかなか胸がぐっとしたなー。これって、まぁ意匠やパターンはよくある話なんだけど、ようは「境界を超えることの難しさ」の話なんだよね。普通の女の子の世界に生きているんだけどほんとは、ヲタク趣味がどっぷりで、そのことを話せる友達が欲しいけど、、、というやつ。



まぁいろんな語り口はあると思うんだけど、ふと思ったのは、ここで主人公のキリノがおにいちゃんに相談しったてこと。



というのは、何かに迷ったりぶつかったりするときに「誰に相談すべきなのか?」って、実は昔からよく考えるテーマなんですよね。



ここでは、ちょっと年上の兄貴に相談したわけだけど、この兄貴の受け答えが、見事なくらいいいところを突いている。ようは、自分の殻に閉じこもって素直になれないないことを、「素直になれ」と言って、その次に「友達を探せ」っていっているわけだよ。もうバカみたいに単純なこと。そしてそれ故に普遍的なこと。ここでは物語になっているのでこういうシュチュエーションになっているけれども、ほぼすべての年代、性別関係なく通用するアドバイスだよね。こういう非常に大切なことを、ちゃんとアドバイスできる人って、いいやつだなーと思う。


経験値から学べるものと学べないもの
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20101114/p3


僕は当時読んでいて、この部分にとても感動しています。これは、上記でいうところの「他者を承認する力」ってやつです。ストレートにそこまで行かないとしても、兄貴がとても器がデカくバランスのある視点で世界を眺めていることが凄くよくわかります。この記事の後に、



嫉妬に気づけるかどうかが、正しく相手を肯定できるかどうかの瀬戸際なのかもしれない
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20101120/p2



こういう話を書いていますが、妹は実はとても自分の内的世界の中に引きこもっている問題点を持っています。スペックは、素晴らしいので、とてもそうは思えなくとも、これが自意識の引き篭もりであることは、みなさんはっきりわかりますよね?(笑)。だって、自分の大好きな趣味を、他人と共有していないんだもの。それは、一人で生きているのと何ら変わりません。けれども、通常、桐乃ぐらいのextrovertedな性格をしていれば、正直言って、この内面の孤独感は簡単に隠せるでしょうし、周りの人気にしても彼女のような強さとスペックでそこを表に出しにくい人をやさしく導くなんていことはできません。だって、何もかも持っている勝ち組のリア充やろーにわざわざ更なる助けをしようなんて、誰も思わないですよね?(苦笑)。


でも、思う人がいるんですね。京介はそうでした。彼は、最初の時点で、桐乃に対して、スペック的には全く勝っているものがない状態で、ちゃんとやさしく向き合えています。これは、彼がとても他人を受け入れる力を持った安定した人格を築いていることを示していると思うのです。なかなか、上記の記事でも書きましたが、嫉妬の感情をコントロールするのは難しい。人は比較級の世界で生きているけだものですから。


もう一人います。それは、槇島沙織ことバジーナ大尉ですね(笑)。彼女も、アンカーたる資格である「場を整えようとする意識」というのをしっかり持っています。あっと、話がまた行きすぎている気がする。えっと、アンカー的なキャラクターのポイントは、


1)自意識のコントロールができること


と、


2)場を形成するスキルと意識がある



っていう風になんとなく今思っています。これ以上あるかな?。沙織には、最初期から、黒猫と京介と桐乃らの仲間の「帰るところ」を形成しようとする、強くしなやかな継続する意思が自然に見えますよね?。最初なんか、何にもないところですよ?。ましてや、桐乃と黒猫って、ぼっちにはなるは、協調性はないわ、で切り捨てればいいようないらなそうな奴らじゃないですか、最初のサークルの集まりの中では。まったく空気が読めていない、ダメなやつらですもの。でも彼女は見捨てない・・・・見捨てるかどうかなんて上からの目線ではなく、彼女たちこそが重要な友達になるかもと声をかけ、場所を用意し、継続的にコンタクトするような「環境」を整えていきます。これって、凄いスキルだ!ってことわかりますかね?。単純そうに見えて物凄いコミュニケーション・スキルですよ。このスキルがなければ、このまま桐乃は友達もできずに自分の世界に戻ってしまったし、黒猫も家族との世界の戻っていったでしょうし、、、、と考えると、沙織・バジーナのスキルがいかに素晴らしいものだったかが、わかると思います。


が・・・・ちなみに、この物語が素晴らしいなーと思うのは、ここでは、黒猫と京介と桐乃らの仲間って、彼氏彼女をも上回る素晴らしい「ほんとうの友達」となっていきますが、その契機をつくった上記2)の場を形成するスキルと意識がある、という沙織の動機がどうのように形成されたかが、はっきりとエピソードとして語られていることです。これ、お姉さんのスキルとお姉さんの仲間を見ていて、「自分が作り出せなかった!」という後悔がregret,
remorseが、彼女のトラウマになっており、、、、、そして同時に、ああいう場の形成の「経験」があるからこそ、試行錯誤をして自分なりに、コミュニティを作る技術を訓練してきたことが随所にみられることです。コミュニティ、場、友達、変えるところ、絆、なんでもいいですが、こういうも緒を作る技術の高い人は、大きな特徴があります。


・・・って、ちなみに、僕をよく知っている人は、この場を作るスキルは、僕の最もコアスキルなので、僕の普段をふるまいを継続的に知っている人がいえれば、僕が以下の戦略的に技術的に場をつくろとする癖が、呼吸をするようにするかがわかると思います。わかりますよね?僕と飲んだり遊んだことがある、ねぇみなさん???(笑)。特にLDさんは、たぶんこのことをすべて説明しているので、一発で体験と理論でわかってもらえると思います。自分でもこの辺は、才能だよな、と感心します。仕事ではできる自信がありましたが、片手間の目的もなにもないプライヴェートでも、ただだらだら飲みにいっても、すぐこういうのを形成していきますからねぇ。


長く物語三昧という僕の日記を読んでいる人は、この僕のコミュニケーション・スキルの話を、なぜ俺妹の話でするのかわかってもらえますでしょうか?。僕は、たぶんリア充と絶対認定されると思うし(笑)、コミュニケーション・スキルには超自信があります(まぁ、それってなんだ?って定義がよくわかりませんが)。まぁ、話半分で。とはいえ、自分のキャリアと人生がそれを物語っているので、思い込みだけではないと思います。けどそういった肩書にまみれていても、実は、あまり幸せでなかった重要なポイントがありました。それは「友達がいない」ことでした。このことを10年ぐらい前に友人!にしたら、大笑いされました。お前みたいに友達がいっぱいいるやつが何いってんの?って。・・・この相談相手は、何もわかっていなかったんだなーといまはわかります。


僕は、僕が人生で一番愛するオタク趣味(笑)という、自分の好きな趣味を共有する「仲間」がいないと言っていたんですよね!!!。


境界を超えるのは難しい。いわゆるリア充路線をまっしぐら、社会に出てからビジネスまっしぐらで生きてきた僕には、「その領域での本音をシェアする」人が皆無だったんですよね。熱くビジネスと人類の未来とカネ(笑)を語れる友人はたくさんいますが、熱く俺妹(黒猫ブヒィィ!!)とか漫画、アニメを語れる友人がいなかったんです。愛をささやける最愛の彼女(奥さんのことですね)はいても、奥さんは、エロゲーには興味がないんですよね(←あたりまえ(笑))。子供は・・・・・ふふふふ、いま教育中。。。。


という僕が、ブログを機会に、自分の本音を吐き出す場所を見つけ、そこで友達ができて、その友達が広がり・・・・と、何年か前にブログで、ひたすら、、、、俺はこんなに幸せでいいのだろうか!!!うざい日記を垂れ流していた覚えがありますが(苦笑)、LDさんや海燕さんたちと友達となって、数年が過ぎたころに、自分が異様な多幸感に溢れているのに気づいたんですよね。それは、仲間がいること、それが「場」として形成されて、人生で長く続いていくだろうという持続可能性への確信が「実感」できるようになってきたからなんだろうと思います。ちなみに、頑張って3年はかかります。ああ、そうか、これは、友達!だ、と、気づいたんです。それは、彼女と家庭を築いていくこと、子供を育てていくこと、シゴトで信頼できるチームで大きな成果をもぎ取っていくこと、その産業の未来のために貢献できているという実感を感じていくこと、、、などなど、そういった「自分がある道で出会った他人と関係性を結び絆となり場を形成して」「生きている証」を作っていくことの一形態、、、ああ、そうか同じものなんだ、と。そしてこの「場」の数、絆の数が多いほど、非常にバランスが取れ充実していきます。これが真の充実ってやつだろうと思います。大きすぎても多すぎても駄目です。自分のキャパシティーやコントロール感を奪うものは幸せを奪います。・・・というライフヒストリーが、この桐乃の友達を作る物語と、そして時代性をとてもリンクしているように思えるからです。仕事があって、そっちの友達がいて、そこでいかに高く評価されても「それはそれ」なんです(笑)。自分の「大切な部分」をバランスよく承認されていないと、人は、幸せに歩くのが難しくなるんです。


そして、気づいたんです。僕は自覚的に「この領域」で、自分にとって都合の良い「場」を自分で作る努力をしてこなかった!と。ビジネスや恋人との関係は、あれほど考え抜いて自覚的に努力し続けているのに、友達を大事にしよう!とか思ったことなかったんですよね(苦笑)。特にこの領域では。自然の出会いを待つなんて言う、乙女なことをしていて、30ぐらいまで到達してしまいましたもの(苦笑)。友達って、作って育成してケアしないと、できないんだもん。育てゲーとか育成ゲームや恋愛ゲームを見ればよくわかるでしょう?。植物を育てるように種まいて育ててケアしないと、すぐかれちゃうどころか、種まかないと芽すら出ません。


さて、戻りましょう。僕は営業体験でこのスキルが凄まじくみがかれたというのもありますが、これを持っている人の特徴は、過去に自分の所属していたコミュニティーが消滅してしまい、自分がその支配者・形成者でなかったためになすすべもなく何もできなかった、という強い後悔を動機として抱えている人が多いんです。


僕にも覚えがあります。父の転勤が、大きかったのではないかな、と自分では自己分析しています。僕にとって北海道の小学校時代は、楽園の記憶です。何もかもが素晴らしかった・・・・。けど、東京は、とても冷たい街でした(笑)。競争ばかりで。競争は得意になったけれども・・・勝ち抜いても楽園には戻れませんだした・・・・


まさに、沙織ですよね。そして、このスキルは、凄くセンシティヴな「空気を読む技術」と「空気を読まないで相手の心の弱いところに踏み込んで踏み荒らす技術(=同時に自分ももちろん侵入され返します)」が同時に要求されるのですが、これというのは経験から、絆が形成されるプロセス、procedureを理論的に俯瞰して理解していないと、再現凄くしにくいものなんですよね。けれども、慣れてくると呼吸のようにこれを行使する人が出てきます。まさに魔法のように人脈を次々に広げていく人なんですが(苦笑)、これって、もちろんミーティングスキルやnegotiation skillの訓練を受けたことがあれば、感情曲線などなどメソッドは理論的には解明されて、スキルとしてトレーニングメソッドがたくさん開発されています。特にこういうのはアメリカで発達していますよね。人工的に絆をコミュニティーをつくる伝統があって、グローバルに展開しているが故です。イギリスもですね。コモンウェルス


しかしながら、いまの企業研修では、こんなくらいのトレーニングを受けたことがないっていう人の方が少ないんじゃないでしょうか?って位の当たり前の研修ですが、でもこれを呼吸をするように「使いこなせる人」というのは、本当に少ないです。営業の超優秀な人ってのがレアな才能であるように、「使いこなせる」というのはまた、理論でわかったことは違った部分のマッスルメモリーが必要だからです。マッスルメモリーって、えっと、身体が覚えるってやつです。


また盛大に話がずれていますが、アンカー、錨、、、ようは、LDさんの議論の流れでいえば「ハブ的な機能になる人」ですが、ようは、他人と他人をつなげる「つなぎ目」になる接着剤のボンドのような人です。


なんでこの議論になっているかって、おさらいしてみると、「僕を見てよ!」というこの権利が認められる余裕が社会に出てきたときに生まれた自意識の強さというのは、自分の意思を世界に(それが世界のとってネガティヴなものでさえ)表明できるほど多様性と個の権利が尊重される時代になってきました。セルフエスティーム(=自尊心)の弱さや病が噴出したのは、時代的に端境期だからだったと思います。また言えるだけの余裕が社会にある。基本的に近代以前は、人権はまともに機能しませんし、弱肉強食の事実がほぼ過半を占める世界でした。とはいえ、「俺が俺が!」というのは、いかにもつらい。だって、だれも相手にしないんだもん、そんなやつ。


けれども、そこに異性に受け入れてもらうという救済方法のルートの一つ(あくまで一つですよ!これがすべてでは全然ないっすよ!)が、ラブコメとか、とにかく恋愛でしたね。けど、ではこの恋愛のルートがどう変化したかというと、個性の多様化を反映して多様な異性が登場して、ハーレムを形成するようになったんですね。けど、そうするとその終着点である「異性に選ばれて自己の自意識が承認される」という自尊心の支える救済が機能しなくなるんですよね。


そして、この男女平等時代には、男性側も女性の視点いアイデンティファイしやすいので、女の子側にとっての「自意識の救済」だってすぐ意識されてしまいます。えっとここでは、男の子の見るハーレムラブコメを想定して語っていますが、モノとして、トロフィーワイフとして、ヒロインをヒーロー(=主人公)の獲得物として描いたとしても、いやその子だって、自分の意思があるでしょう?って、積み重ねたエピソードで人格が形成されると、すぐ読み手がビビッドには脳して感情移入してしまいやすいのです。なぜか?って、それは時代でしょう。時代的に、いまの社会で、女の子をトロフィーワイフとだけ見るのって、たぶんもう無理なんですよ(苦笑)。もちろん、性差の分厚い関係性の蓄積が簡単に変化するとは言わないですが、そうはいってもねー。だいぶ一世代前とでさえ、全然違うと思うもの。


まぁその変化は置いておいて、とすると、たくさんの女の子がいて、それらと深い関係性を積み重ねて、かといって、単純にすべての女は俺のもの!とならないとすれば、、、、それは、等距離の深い関係にある・・・・「友達」ですよね。となった。その時にふと気づくのです、、、、主人公の男は、彼が、彼さえが、ボンド(=接着剤)の基軸として、物語を進めない(=鈍感系主人公!!)と決めてしまえば、仲良し友達空間が継続して緩やかに幸せな日常が続くのです。鈍感系の主人公の極致である、『僕は友達が少ない』の小鷹くんですね。

僕は友達が少ない 1 (MFコミックス アライブシリーズ)

しかし、、、、、鈍感系のアンカーの在り方には、大きな問題点があります。それは、フェアでない!不誠実だ!!(笑)ということです。そりゃーそうですよね、明らかにわかっているのに、女の子の告白を無視するとか、鬼畜ですし、誠実でないですよ。男としてとかいうよりも、人間として、ねーよそんなの。では、、、、ここで重要になるのは、等距離の関係性を「つなぎとめておく」コア、核、アンカーになる接着剤はどういうものなのか?という発想です。


ちゃんと読んでいてくれる人は(笑)、俺妹にこの(1)自尊心のコントロールと(2)場の形成のスキルという2点が、とてもきれいに展開していることが見て取れるでしょう。


さて、もう一度、

1)妹の人生相談〜どうやったら自分の趣味が共通した友人が作れるか?


高坂桐乃が友達を作る物語!


というこの物語の主軸のテーマに戻ってみましょう。ふむ、友達を作る!というテーマは、、、、どうですか?、この物語全体で全うしていますでしょうか?。


ええ、もちろん、と僕は答えたい。これほど、本当に友達がいいなぁーーーーとしみじみ感じさせる物語は、なかなかないって思いますよ。なぜならば、桐乃の友達が出いること、というのは、自分の自意識の病・・・あきらかな「ぼっち意識」からの解放示していますし、なによりも、黒猫や沙織との関係性は、これからも深く長くずっと続く強いサスティナビリティ(=持続可能性)をもっていることも凄くわかります。男女の恋人関係ではないので、この関係性が、長く続くことがはっきり見て取れます。壊れる契機が少ない。「自分の好きなこと(=実存・趣味・日常で利益がなくてもやり続けること)」に結びついた関係性というのは、恋愛とはまた違った部分のもろさがある一方、恋愛関係にはない強さがあります。



この時に、、、、では、大きな問題点が立ち上がり浮かび上がってきたのが見て取れます。



その問題点とは、恋人と友達とどっちが大切なのか?という問いです。


もっと具体的に云いましょう。京介は、黒猫を友達とするのか?彼女とするのか?。桐乃は、男(=恋人)をとるのか?黒猫(=友達)をとるのか?。どういう問題の立て方でも言葉尻はどうでもいいのですが、『僕は友達が少ない』でもありましたが、よくあるサークルクラッシャー問題(笑)とかと似ていますが、少女マンガでよくあるシュチュエーションの再定義です。


自分の友達が、自分の好きな人を好きになってしまったら、どうする?。


というやつです。ただ、よくある話ですが、単純によくあるものとして思考を停止をしないで、上記ずっー――――と長く語ってきている系譜の論理の配置を念頭に関げてください(笑←めんどくさい)。ここでは、


ブコメのロジック(=異性と恋人となる)

友達が欲しい


という二つのドラマトゥルギーの交差が起きていることがわかります。この文脈から考察すると、では、作者はどのような選択肢がありうるのだろうか?という問いに変化できると思います。京介が、誰を選ぶのか?というのは、そういうことです。



・・・・・はぁはぁ、、、、一気に書いているんですが、泣きそうです・・・・長くて・・・・もう誤字脱字とか、論理破綻とかそういうのは許して、、、いつか本を書くことがあれば(←ねーよ)、なおしますので(苦笑)。ラジオに間に合わせようと、超努力中です。。。。クンフーだ。。。



さて、この長々の論理の展開を見てもらうと、恋人と友達とどっちを選ぶのか?という問いが、物語の最前線として、これらのテーマの重要な設問になってきたことがわかります。『僕が友達は少ない』の小鷹くんは、鈍感を装って「選ばない」ことで友達を維持しようとしました。しかし、これが、物凄い悪手なのは、わかりますよね。だって、それって、何様だよ!のアンフェアなことです。


現代は、アンフェアなことが最もやばいことのような基準に僕は思えます。アンフェア(=不公平)というのは、この個が重要視され多様性をセレブレイトする現代では、もっとも許されないこととみんなが感じるからです。しかし個には才能と価値の差があって、、、、というのは、マルクスら経済思想家の平等に関する議論ですね、まぁそこまではいいや。えっと、またずれた。


再度議論を戻すと、ラブコメの系譜の果てに生まれた、ハーレム構造、僕らがいうところのハーレムメイカーの構図は、関係性を等距離に置くことで、カップルができないという時間が止まる引き延ばしをもたらしました。ここでは、各ヒロインと、過去のラブコメだったらメインヒロインにしかありえなかったようなドラマトゥルギーが用意されていて(あやせたん!!)、エピソードが積み上げられていきます。その洗練度合いは、凄まじいレベルに進化してきました。もう、ちょっと読者が個別のヒロインに肩入れすると、もうその子の正ヒロインのルート以外理解しがたいと思えるほどです。だってみんな!思わない黒猫でしょう!!!、というのは個人的な感情。


しかし、タイトルは、、、、(笑)。『僕は友達が少ない』もそうなんですが、タイトルこそがメインテーマなんですよね(笑)。そりゃそーだ。



タイトルは、


俺の妹がこんなに可愛いわけがない


なんですよね(笑)。うん、そうだよね(苦笑)。何を主軸で書くか?手いえば、桐乃なんですよ。だって、正ヒロインなんですもの。そうです、LODさんがいう、やつらの登場です(笑)。って、違うか。わからない人は、LDさんの記事を読みましょう。


天元突破!雨宮ゆり子!
http://www.tsphinx.net/manken/room/clmn/j_amemiya1.html


そこで戻りましょう。現代のハーレム構造を描くと、誰かを選ぶことは、事実上不可能になります。そこで、誰かを選ぶ(=終わらせようとする)というと、一周して正ヒロインを主要テーマを持ってくるしかなくなるんですね。一週というのは、上記のLDさんの二番手ヒロインの逆転構造の系譜を読むと、これまで強固だった正ヒロインの座が、二番手以降に奪われていく革命のプロセスを描写したものです。これは、個の重要性と多様性が、、、って例の話です。マーケットの受け手の志向形態の変化ともリンクしています。シスプリとかAKB48、アイドルマスターとかは、この流れの系譜ですよね。絶対的なアイドル、、、山口百恵松田聖子中森明菜ぐらいで、、、そういうのって終わりましたよね。それ以降は、集団になっていった。バンドブームとかね。これが多様化、バロック化していくプロセスが、ハーレムメイカー化という流れだったのが、最近は、この逆回転がどうも起きているように僕は思えるのです。それは、ハーレムがバロック化していきついた果てに、、、そうはいっても、やっぱり「選ばないといけない」だろうという素朴な当初のルールが戻ってきたんだろうと思います(笑)。というのは、各個別のヒロインとの関係性を、誠実に深くちゃんと積み上げれば、そりゃーそうなるに決まっていますよ。


この時の「正ヒロインを選ぶ」というのは、とてもメタ的で、強い再帰的な意識があります。なので、無意識に一人を選べない。選ぶということは、他の選択肢を否定するということが強い認識として同時にあるわけですから。


だって、個別ヒロインとの関係性の積み上げを鳥瞰して、分岐ルートとしてそれを見ているからです。なので、正ヒロインを攻略するルートに行くためには、いったん、個別ヒロインとの関係性に結論を示す必要性があるのは、論理的必然です・・・・って、おいおい、京介は、ちゃんと全員ふって行くんですよね、順番に。ちゅーか偉いよ。誠実だよ。そしてフェアだよね。


なので、僕は、まず2つの点から、この結論を支持するんですよね。


一つ目は、物語を収めるとすれば、正規ルートに戻るしか、小説という分岐ルートが使えない(使う作品もあるがそれはSFに近くなってしまう)時系列のメディアでは、「まとめよう」「終わらせよう」とすると、方法がないのです。なので、ダラダラ続けないのならば、これが正しい。


また、もう一つ重要なポイントは、黒猫というほぼ正ヒロインの座を奪ってしまった2番手であるにもかかわらず真のヒロイン(まなみがいるので3番手ですらある)の黒猫が提示した、妹との関係のドラマトゥルギーをちゃんと結論つけなさい、という願いに答えて、時を止めないで、ダラダラ結末を出さないで、関係性をひとつ前に進めた「意思」に、黒猫への強い愛と誠実さを感じます。これは、とてもメタ意識です。


そして、この黒猫の意思が、自分を選ばずに妹を選びかねない方向へ強く京介(=好きな人)を押し出す倫理的な姿勢が素晴らしいと思いました。それは、この物語が友達を作る物語であり、桐乃という女の子にとって、彼氏よりもはるかに価値があるとさえ云える真の親友は、黒猫だってことです。その黒猫が、自分の親友にとって最も大切なことを、下手したら自分よりも優先させているところに、このラブコメと友達づくりの物語の交差を感じました。


ここで言われていおるのは、友達ってのは、競争相手ではなく、、、、たぶん相手のドラマトゥルギーを尊重することってことなんだろうと思います。別に、正直に言えば、京介も桐乃もとても常識人に育っていることもあり、特に兄妹で恋愛するという要素はありません。また、かりに多少あったとしても、いや、それはしない方がいいよね、という世の中の常識やルールの方が意味があるくらいのレベルのドラマの種しかないと思います。生き別れてお互いを兄妹だと知らなかったとか、そういうのがあれば、まぁわかりますよ?でも、別に普通の家でしょう?。あえて、それを選ぶ要素は特にないと思うんですよね(苦笑)。なので、仮に今回のように京介と桐乃がカップルになる道を選んでも期間限定で解消するという、おままごとといったら言い過ぎですが、そういう仮のもので昇華出来るレベルのものなんですよ。だったら・・・・なにも、あやせとか黒猫とか、幼馴染の最も心が許せる麻奈実とか、そんなちょっと得難いぐらいの彼女候補がいるんだから、そっちであってもかまわなかったじゃないか、と思いますよ。桐乃と京介にお互いが、だいたい不可能な唯一性を感じるって人は、ほとんどいないと思います。だってこの二人の最も重要な価値は、兄と妹であるって関係性なんだもん。


にもかかわらず、黒猫が、桐乃の持つドラマトゥルギー(=兄との恋ね)を昇華して展開するようにプッシュするのは、単純に、友達だから、です。友達ってなんだろう?って思うと、たぶん、寄り添うこと、一緒にいること、だと僕は思っています。まぁ彼女や異性や家族もそうだと思いますけど。その重要なポイントは、相手の持つ本質を全うさせてあげるように協力を惜しまないこと、だと僕はいつも思っています。もちろん、これは、恋人や家族になり、関係性が近ければ近いほどこの「協力」の重荷はでかくなります。逆に友達ぐらいだと、、、、「見守って応援する」がやれる限界値だろうと思います。


なので、黒猫は、沙織は、そうしていますよね。たとえば、あやせは、桐乃のヲタクエロゲー趣味を、どうしても認めることができませんでしたよね?。個人的には嫌悪感でいっぱい。これは趣味や感覚なので、しゃーないですよね。でも「彼女がそうであること」は認める。そしてプレゼントにフィギュアをという話のように、何とか理解しようと努力しています。これって、友達ですね。お互いの本質を理解しよう。そして本質を承認しよう、という気持ちです。もちろん交互にね。寄り添うって、「一緒にいる」ってそういうこと。何をするわけではなくとも、相手の感情や行動とシンクロするってことです。


えっとうまく説明できているかどうかわかりませんが、なので、黒猫は、桐乃の親友として永遠にそばにいようと考えると、彼女の兄貴との関係の部分のドラマトゥルギーが、それなりに昇華されなければ、ずっとそれをひきづってしまうことを、よく理解しています。人間ってそういうもんです。ちなみに、しかしながら、ほとんどのこうしたドラマトゥルギーの種は、育たないまま、打ち捨てられて、我慢して、忘れて、取り残されて人間というのは生きています。けれども、それは、とても幸せとは程遠いことです。人間は、自分の本質、自分の内部にあるドラマトゥルギーを展開しないと、何か不遇を感じながら生きていくものです。今回の、疑似恋愛ともいえる期間限定の京介と桐乃の恋愛が、最終的にどこに行くかといえば、すれ違ってしまった兄妹という家族の関係性を、より安定して深い穏やかなものに変える力があります。それ以上のなんか、何ちゅーかなー恋愛って感じしないもんなー。まぁここは近親相姦云々というよりは、


黒猫のディスティニーレコードでしたっけあそこにあった、黒猫と、桐乃と、京介の穏やかな3人で仲良くしている姿がなくなってしまうんですよ。


もし黒猫と京介が結婚しても、そういうの抱えていたら、あんまり仲良くならないと思うんですよね。そういう意味では、何が足りなかったといえば、本来スーパーマンのように見えた兄貴がそうでない知って、、、というような、期待と失望のはざまで、もっと深く話し合ったり、お互いケンカしあっていれば、京介と桐乃の関係はあそこまで冷えなかったと思います。まぁ、普通は、そういうもんだと思いますよ(笑)。僕も優秀な妹がいましたから、よくわかります(笑)。思春期の頃は、お互いにそんなにはらわって話せないもんですから。別に兄妹で家族なんだから、それで十分なんですが・・・・黒猫としては、それは嫌ですよね。だって、桐乃とも親友でありたいわけだから、3人が仲良くなるという未来が描けなければ、、、、。


なので、親友として、そして、黒猫から見た時に、親友と彼氏をの両方を得たければ、桐乃をけしかけるのは、賭けではありますが、いい点をついているんですよ。まさかほんとに、兄妹で期間限定とはいえ付き合うと思わなかったでしょうが(苦笑)。


まぁ何が言いたいかっていうと、友達ってのは、その人の持つドラマトゥルギーの種、、簿kの言い方では本質をマ全うするのにサポートして応援してあげるものなんですよ。桐乃だって、黒猫と京介が恋人関係になるのを、いろいろありつつも後押しするような言動があったと僕には感じられました。相手を友達と思うなら、いろいろ思うけれども、そういう気持ちだってあるはずなんです。単純な戦いの相手ではないのですから。


という意味で、僕は、黒猫をこの物語の軸とした時に、彼女が桐乃と京介の穏やかな3人で仲良くしている姿を最終ゴール地点に置いているのは、物語の主題上も、彼女自身の重要なこと、、、彼氏と親友の気持ちを重要視して応援すること、という意味で、、、、つまりは、ラブコメと友達という目的の両方を満足させようとすると、理にかなっているんですよ。


なので、僕は、この物語の結末に至る構造は、非常に理解できるし、感情的にも自然だと思いました。




閑話休題



・・・・・・・・しかし、でも僕には、やっぱり感情的に納得できません(笑)。なぜ、黒猫じゃねぇんだぁ!って。だって、いやー京介は絶対に黒猫と結ばれてしかるべきだろう!結婚するならこの子しかいないよ!!!っ思うんです、僕のフォースが!(笑)。まなみ派だと、彼女になるかもしれませんか、この二人のどちらかであるのは、積み上げからいって、間違いありません。そして、考えすぎてメタ的に動きすたという意味で、まなみは、僕は候補から外れると思うのです。外から動かないで、待ち続ける人に、チャンスはまわってこないと僕は思う人なので。



・・・・そう、この感情的な納得のいかなさは、、、、しかし、僕は実は、あまり持続しないんです。ここで、この物語の関係性の俯瞰図を、よりもっと広く引き伸ばしてみることにしましょう。えっと、つまり見る視点を変えてみます。



ココロコネクト』の下記の僕の記事を覚えているでしょうか?。


ココロコネクト ミチランダム』 庵田定夏著 伊織の心の闇を癒すには?〜肉体を通しての自己の解放への処方箋を (2)
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20121126/p1


まさに正ヒロインとして登場してきたと思った伊織ちゃんは、そのまま主人公視点に近い太一と付き合った、、、と思ったら分かれてしまいました。ほんとうの恋だけど終わってしまった、と。これ、僕は素晴らしいと思ったんですよね。この時僕はこう書いています。

このテーマは、「この先」があるんだけれども、この作者が見事だったのは、「この先(=セカンドステップ)」は、太一とではいけませんと、はっきりと伊織ちゃんに意識させて物語を止めているところです。


ファースト・ステップの恋の物語は、ここで終わった…けど、『終わったという認識』は、認識論的な段階での解決はしたんだ!という納得感を彼女たちに与えています。だから、伊織ちゃんは、ねじれたこともなく、またファーストステップの次元でうろうろすることもなく、次の恋では、きっとちゃんときれいに正しい形で、セカンドステップに踏み込んでいくことでしょう。ちゃんと段階を踏んで、へんに物事をねじれさせないのも、正しく生きていくコツです。


伊織ちゃんは、自身の持つ闇、自身の人生のテーマについて、かなり重いものであるにもかかわらず、高校生レベルで解決できる限界ぎりぎりまでちゃんと物語を進めています。そして、それについての納得もあるので、そこに戻ることもない。これは、うん、素晴らしいね。物語としてもいいし、なによりもこの子の人生にとって、凄くいいモノであろうと思う。いい小説でした。

なぜこれが正しいかの細かいコンセプトは、本を読んで解説を読んでもらえればいいと思いますが、重要点は、人生というスパンでものを考えた時に、この恋はどういう意味があったのか?と問い返す俯瞰的な視点です。


同じように、桐乃と京介のこの二人の期間限定の恋人はどのようなものをもたらすでしょうか?、と考えてみましょう。


うん、間違いなく、一旦ちゃんと結論をつけたこの恋のおかげで、二人ともいい恋に未来は進むでしょう。特に京介の視点で見れば、僕は10年後は、普通どう考えても、黒猫と結婚しているだろう!って(笑)思うのです。いやまーまなみでもいいんですが。たしかブルーレイの特典が、10年後の小説でしたよね。まぁもしかしたら10年ぐらいでは、同じ関係性が続いているかもしれませんが・・・・。黒猫の描いたヴィジョンが実現している可能性って、ものすごく高いと思うんですよね。3人が、幸せそうにくつろいでいる空間。


別に人生は、高校時代では、全然終わりません。人生は、まだ長く続くのですよ。


たかが10数年です、、、、僕は今、アラフォーですが、かるく高校時代の3年間の何倍もの時間を過ごしています。平均時寿命の80歳まで生きるとしても、高校卒業してから60年以上は軽くあるわけですよ(苦笑)。


その時にとても大事なのは、青春時代にどんな決断とプロセスと体験を持ったかという「思い出」です。


「思い出」だけで、人生はその後何もなくても生きていけるほど、付加価値の高い二度と得られることのできない素晴らしいものです。ちなみに、それは、なにも素晴らしいもの、ポジティヴなものとは限りません。沙織が、お姉さんの作ったコミュニティーで何もできなかったという絶望とトラウマは、彼女の後の人生のオーガナイザーとしての動機と能力を与えることになりました。人間は、レバレッジなので、さまざまな原体験を核に「自分という形」を作り上げていきます。あやせにせてもかなこにしても、中学生で、好きな男の子に自分からはっきりと行動を起こして「告白」できたというのは、得難いものになるはずです。だって、主体的に行動することこそが、人生のマスターになるための最も重要なものですから。そして、その告白に対して、ちゃんと高い物語性(=納得性)を持って、ストレートに答えがかってきている、というのも、凄く良い経験だっただろうと思います。そしてこれがすっきりロジック的に、あたりさわりのないものであった(期間限定の恋じゃーねぇ)が故に、たぶん桐乃の本音もみんな知っている状態で、京介と桐乃とも関係を続けていけるじゃないですか。たぶんこれって、10年を過ぎると、物凄く価値がある行動だった!ってことになると僕は思うんですよ。誰と京介が付き合うというか、結婚するにせよね。


・・・・結婚って、自分たちだけがするものではない、と僕は思います。


家族が、、、というのは必ずしもそうではないんですが、結婚した後も、家族ぐるみで付き合いたい場合は、その人の大切な親友や家族とも、同じような関係性を構築していかなければ、点と点の関係性になってしまいます。もちろん、二人だけの世界をつくることも多いし、あまり干渉されたくないので、そこに閉じるような対幻想の空間は容易に作ることができますが、けれどねぇ、、、僕は、それは、ちょっと残念だろうと思います。なかなか難しのは承知です。まぁもともとそういうふうに育っている人は、一発なんですがねー(苦笑)。


ブコメの対幻想(=異性と一対一の閉じた空間による救済)では、そこで物語が終わってしまうんです。思いが受け入れられたら、終わりだから。だから実は、これって究極のバッドエンドかもしれません(苦笑)。そしてこれまで見てきたように、この系統のブレイクスルーの方向性として、対幻想ではなく、友達をつくろう(=共同幻想)へ向かって開かれていく様を見ています。


そうすると、、、、うーむ、僕はやっぱり、この妹正ヒロインの物語において、麻奈実と黒猫(瑠璃)の実施した戦略が非常に対照的で面白かったです。



麻奈実は、幼馴染と世間的な正しさという強力な武器に、桐乃と京介を時間をかけて自然に距離をとるようにしかけました。


黒猫は、かなり後から出会った上に桐乃と親友であったがために、3人で仲良くできることを目指しました。


10年後、どっちが勝つでしょうか?。


まぁ、、、、黒猫だよね。ちなみに、よく考えてほしいのですが、黒猫がもし京介を自分の彼氏にしてしまって桐乃ルートを顧みなかったら、、、僕はたぶん、あとでラスボス麻奈実さんに勝てなかったのではないか?と思うのです。どこかで、麻奈実にかっさらわれてしまうような気がします。桐乃とのことががずっと残った上で麻奈実とも戦う二正面作戦は、とても厳しいと思うですよねー。


けど、麻奈実が最も恐れる敵は、桐乃でした。なぜって、幼馴染の蓄積に勝てるのは、家族しかいないからです。「思い出の蓄積」という観点ではね。でも、桐乃と京介の疑似恋愛ルートが終わったら、僕は桐乃は絶対に、黒猫(もしくはあやせ?)を応援すると思うのです。少なくとも、麻奈実はぜったいにない(笑)。・・・・これって、物凄いアドバンテージじゃないですか?(笑)。特に結婚後、強い。


とかとか思ったわけですよ。僕の中では、10年後は、瑠璃と結婚していることが確定しているので(笑)、、、、って、まぁだれともでもいいのですが、要は、人生単位で俯瞰してみると、上記の相手に誠実であるために、まずは決断して、すべて断ったという流れは、わかるなーって思ったんです。確かに、ライトノベル的な限界点に見えるかもしれないですが、実はそうではないと僕は思う。これは、この系を描くと、一度は見て見なければなら元型のモデルなんだろうと思います。


なぜならば、この結論によって、はっきりわかったことがあります。ハーレムメイカーの宙ぶらりん問題点の不誠実さを解消する方法が。一度正規ルート(=正ヒロインルート)で、結論をいったん出してすべて断ったうえで、次の10年に舞台を変える!という方向性です。この物語は舞台が高校や中学であって、それ以上の射程を描いていないので、この物語をこのまま進めることは難しいかもしれません。けれども、この系のドラマトゥルギーを展開する着地点が、時系列を広く見るという方向に広がるのだ、ということはわかりました。『ココロコネクト』もそういう可能性を感じました。そして、最近でいえば、竹宮ゆゆこさんの『トラどら』の後が『ゴールデンタイム』という大学生活の青春物語になっていたことも、射程が広がりを持ちつつあるんだと僕は感じてします。




はぁ、、、もう少し書きたいことがありますが、、、タイムリミットです。ちょっと愚だぐた書きすぎたが、まぁ、いまの時点で言いたいこと言えることは、それなりに網羅したと思います。読んだ人、お疲れです。


今日の夜、ラジオをします。