目次
<魔法先生ネギま!>
■ネギまシリーズとしての全体の評価〜このシリーズの文脈を追うために
■ハーレムメイカーの物語類型から脱却〜日本的ハーレム構造の基礎を作った『ラブひな』を超えて
■父親への憧れを乗り越えて「自分自身になるために」〜日本的な母性での回収ではなく、厳しい父性を乗り越える物語
■「自分自身になった」後に目指すは、世界の救済〜しかしラスボスを倒しても世界は良くならない問題
■世界(=プラットフォーム)の奪い合いをしているときに、正義はどちらにもない
■世界を救済するには、エネルギー問題を解決しなければならない〜エネルギー問題は、常に資源の争奪競争
■超鈴音(チャオリンシェン)編と小夜子のレブナント編の類似性〜世界をやり直したにも関わらず、やり直しを認めないエピソード
■世界の理(ことわり)を曲げることは許されないというグランドルールの提示〜00年代に示された並行世界の世界線に対する倫理的回答
■ネギまの最終回が物議をかもしたことと、「はがない」の終わり。エンターテイメントは、スカッとしなければならない。
■エンターテイメント的解決に重ねることを拒否したネギまのラストシーン〜最も見たいであろう英雄がラスボスを倒すエピソードの割愛
■脱英雄譚の物語としての結論〜世界は一人の英雄が救うわけではなく、脇役たちの組織の絶え間ない活動よって変わっていく
■ネギまシリーズとしての全体の評価〜このシリーズの文脈を追うために
ネギまシリーズが、ペトロニウスにとってなぜ人生とともにあるほど好きだったのか、考察してみたいと思います。
■ハーレムメイカーの物語類型から脱却〜日本的ハーレム構造の基礎を作った『ラブひな』を超えて
僕がこの物語を読み始めたのは連載が開始されてから少したった頃でした。だから、2003-2004年頃(22年からみて19年ほど前)になります。今も決して廃れたわけではないですが、この時代、アニメや漫画などのエンターテイメントでのキーワードは、ハーレムでした。Wikipediaによれば「1人のキャラクターに対し、数多くの異性キャラクターが恋愛対象として対置されている設定のフィクション作品を指す」とあります。鎌池和馬によるライトノベル『とある魔術の禁書目録』(2004-)に出てくる主人公の上条当麻を指して、僕は「ハーレムメイカー」の類型と名づけました。主人公の上条くんが、さまざまな困難を解決していく物語の各エピソードで、様々な女の子-----ヒロインを助け出し、そのヒロインが主人公に惚れてしまうのですが、エピソードごとに次々に新しいヒロインが登場して、いつしかさまざまなタイプの女の子が溢れんばかりに彼の周りにいるようになる。「にも関わらず」主人公は、一人を特別に選ぶということをしないで「寸止め(=ハーレム)」のままで、恋愛という意味では、物語が停止してしまうものを指したのでした。2022年の現在も連載が継続していますが、上条くんは、唯一のヒロインを選んでいません。これを外側のマーケティング的な消費者の視点で見ると、「ツンデレ」「めがねっ娘」「幼馴染」「吸血鬼」「姫騎士」「ケモミミ」「委員長タイプ」なんでもいいのですが、さまざまな属性を持ったヒロインを登場させることで、多様なニーズに応えうるものでした。この辺りは、日本のエンターテイメント(漫画アニメ)を追っている人ならば、わかるわかると頷いてもらえる、最盛期は越えたにしても、いまなお色褪せない、王道の物語類型です。まぁそりゃ、さまざまな属性の女の子がたくさんいた方が嬉しいよね、というのはわかります。単純に、ティーンエイジャーくらいの年代の少年・青年をターゲットにするならば、さまざまなヒロイン属性を用意した方が、受け手のニーズが多様でも引っかかる率が高いというわけです。この物語類型の発展は、そういった横軸の機能論で分析するだけではなく、縦軸の歴史時系列を物語の内部から追う事でもできます。機能論は、今言ったマーケティング的な商品多様性を求めているという話に尽きるので、物語内部の発展経過を、時系列的に分析してみましょう。難しい言い回しはさておき、この原初のモデルに、赤松健先生の『ラブひな』(1998−2001)があると、僕は考えています。「起源」の論争は色々起きるので、これが正しいとは言いきりませんが、この時代からオタクをやっていて漫画やアニメを見ていた人からすると、この作品の斬新さ、そして人気の盛り上がりは、この類型の始祖の一つ言っておかしくないと思います。
浦島景太郎は幼い頃に女の子と交わした約束を果たそうと、東京大学の入学を目指す19歳。しかし、彼はすでに2浪の身。家を追い出され、祖母が経営する東京近郊の温泉旅館を頼るのだが、そこは彼の知る昔の姿とはまるで違っていた。唐突に「女子寮」の管理人となってしまった景太郎は、ドタバタに翻弄されながらも、東大入学、そして「約束」に近づこうと奮戦していく。
ウィキペディアのあらすじにはこうあります。主人公の浦島景太郎と成瀬川なるのラブコメなんですが、一つは、本作のヒロイン「成瀬川なる」が、事実上ツンデレ類型の始祖であり原型であること。もう一つは、ひなた荘の管理人であることによって、常時、複数のヒロインとのラブコメも同時並行で進むというハーレム構造が完成形として出てきたことの二つにより、エポックメイキングな作品です。この作品以後、「そのやり方があったのか!」ということが、共有される類型の基礎フォーマット(似たパターンを発展させられる)となったと思います。前原しのぶ、青山素子、カオラ・スゥ、紺野 みつね、乙姫むつみ、浦島可奈子、サラ・マクドゥガルなどなど、どの子が最も好きか?、かわいいか?とか、どのこと景太郎が結ばれる「べき」か?などなど、当時の盛り上がりを覚えている人は、懐かしいと思います。まだまだ過渡期の原型なので、メインヒロインのなると景太郎の本筋のラブコメでがしっかりあるという意味では、まだまだハーレムメイカーとしては、発展途上の、古典的な意味でのラブコメでした。
ここで何が問題になったか?
ハーレムメイカーにおいては、たくさんのヒロインが登場します。そして古典的王道の主人公とヒロインが結ばれるというドラマの軸の重力にひかれて「どの子が正ヒロインとして選ばれるべきか?」ということが、大きなテーマになります。だから、それぞれのヒロインの個別エピソードが生まれて、それぞれのヒロインの魅力を最大限に引き出すようになるので、往々にして、ただ単に女の子の可愛さだけを延々と描く形になりやすい。例えば、誰でもいいですが、忍ちゃんとの個別エピソードが盛り上がっても、「次の順番のヒロイン」を演出しなければいけなくなるので、しのぶのエピソード(僕の用語で言えばドラマトゥルギー)としては「寸止め」の時間停止状態になります。主人公と結ばれてしまったら、他のヒロインとのルートが選ばれなかったことになるので、そこで話が終わってしまうからです。なので、延々と主人公の景太郎とヒロインたちが、戯れるエピソードが「並列的に並ぶ」ことになります。
これはですね、クリエイターにとってとてもストレスフルで、我慢がしにくいことのようなんです。単純に、物語が進まないこともストレスですし、要は絵(=萌え絵なちょっとHなヒロインのお風呂シーンとか)と個別エピソード(景太郎とイチャイチャする)だけ書いていればそれなりに人気が得てしまうというものなので、何年もずっと書いていると、「このままでいいはずがない(=主人公ヒロインも成長しないですから)」という不満を感じるようです。この類型を描かれるさまざまな漫画家の方に直接聞いてても、みなさん長く書いてると、何もかもぶち壊して皆殺しにしてやりたい(笑)とか、かなりストレスが溜まるようです。いわゆる日常系と言われる女の子(大抵4人)が戯れるだけの漫画・アニメにも、常に付き纏う問題意識です。『けいおん』や『ゆゆ式』をイメージして貰えばいいですが、要は『あずまんが大王』でプリセットされていた「卒業するかどうか問題」です。学園ものは、サザエさん状態の永遠の繰り返しに突入することを止める装置が、「卒業」=学園生活の終わりだからです。卒業すると、「同じところで時間停止ていられない」「成長して未来に向かわなければいけない」という圧力が高まるので、物語を進めなければいけなくなります。ハーレムメイカーや日常系の魅力である、「ずっと変わらないままで戯れる」ができなくなるんですね。
このことに対して、赤松健がどのような物語のドラマをセットしたか?。景太郎が「東大に行く」というものです。この約束は、ヒロインと結ばれる根拠にもなります。この時、景太郎がロールモデルとして、目指すべき目標となっているのが、瀬田記康になります。3浪して東大文学部考古学科に行って、好きなことをして生きている人で、これは正しく、景太郎の未来の姿でした。最終回で、景太郎は、瀬田とほぼ同じ立場になっており、お揃いのメガネで同じ性格として描かれています。ここで物語は古典的な成長物語(=目指していた憧れの人との同化)とヒロインなるとの結婚(ハーレム維持ではなく一人を選ぶ)という完結を迎えます。これを批判的にネガティヴにとらえると、景太郎の師匠として登場していた瀬田さんに同化することで、物語の世界が繰り返しているような循環の錯覚を感じられます。要は、永遠にひなた荘での日常が繰り返されているような安心感を読者に与えてしまいます。批評的な言葉で言えば、「外部に出ることがない」感覚がしてしまいます。もっとわかりやすく言い換えれば、景太郎は、予定調和の循環の中で「既に存在している役割」に同化しただけなので、何らかのオリジナルな挑戦(=自己の確立)をしたわけではないとも言えるのです。
とはいえ、エンターテイメントに、そこまでの激しさはいりません。これはこれで、見事な終わり方であり、人気も含めて大団円だったと思います。当時、個人的にも不満な全くありませんでした。
しかし、この『ラブひな』で描かれた物語の構造に対して、次の作品であるネギまでは非常に発展的かつ批判的に構造を構築している、と僕は考えています。なので、このハーレム系統の類型を脱出するならば、どこへ向かうべきかという当時のクリエイターたちの葛藤が集約されて現れていると僕は思っています。日本のエンターテイメントの独創でありニーズの集約点とも言えるハーレム類型をどのように批判的発展させるかは、まさに日本エンターテイメントの本道がどこへ向かうのか?、クリエイターたちの求めている大きなトレンド時代に文脈の答えを指し示していると思うのです。
まず、発展的なのは、ハーレムメイカーの構造をさらに激しく展開させたことです。
麻帆良学園本校女子中等学校の3年A組生徒は、なんと31人。
マーケティング的な属性も、ここに極まれり(笑)と当時震撼したのをおぼえています。『シスター・プリンセス』『週刊わたしのおにいちゃん』『フタコイ オルタナティブ』などなど、登場した時、そこまで行くのかと恐怖を感じたものもありますが、この辺りのハーレム類型の物語の発展史は、ちょっと距離を置いてみると、本当に意味不明な物が多いです。シスプリの12人の妹たちとか、なんだよそれって物凄く摩訶不思議な印象です。でも、当時の「流れ」では、ああそれはありだなって思うものだったんですよ。属性どんどん増やすのは、当然限界が見えるまで走らなければ七位-----ラオウ(北斗の拳)のように拳を振り上げるべきという強いエネルギーが当時ありました。
しかしながら、当時の分析でも書いていますが、たくさんのヒロインとイチャイチャすると、物語が進まなくなってしまうところに違和感があるのがハーレムの構造的問題点でした。だって、女の子の人生で最も厳しいトラウマを救済したりして、雰囲気がめちゃくちゃよくなって、結ばれる直前で「次のヒロイン」にどんどん移っていたらあまりにも不誠実じゃないですか。普通に考えて。「そこまで盛り上がっていながら」何にもしないで、次の女の子に行くってのは、あり得なくないでしょうか。例えば、凄まじいトラウマを抱えている女の子の全てのトラウマを生きる意味を取り戻すさせてあげたりしたら、普通その子と結ばれて仕舞うのが当たり前じゃないですか。けど、スルーするんですよ。そのドラマチックなエピソードを。このことは、女の子が告白しても「聞こえない(もしくは聞こえないふり)」をする鈍感形主人公としてメタ的に批判されていました。
けど、ネギまの主人公のネギくんは、10歳の先生なので、職業的立場としても生徒と結ばれないし、またエロス的な意味でも結ばれません。最初の数巻では、ちょっとHな学園ラブコメ的な日常が続くのですが、『ラブひな』での構造を非常に批判的に発展させているなぁと感心していました。
少し遠回りして、この時代のクリエイターたちが持っていた課題意識について振り返ってみたいと思います。ハーレムメイカーの物語類型にある致命的な瑕疵は、もちろんそれは魅力の裏返しでもあるのですが、リアルタイムで体験している人には、じわじわとわかってきました。要は、あまりに「甘やかされすぎて」、読者、受け手、消費者が、少しでも傷つくような物語の展開を許容できなくなっていくことでした。具体的にどういうことかというと、通常、古典的なラブコメのドラマトゥルギーの基本は、「すれ違い」や「勘違い」によって、主人公たちにとってマイナスのネガティブなエピソードで「落して」それが、誤解だったということが判明してイチャイチャするという「上げ」の反復によって構成されています。このドラマルトゥルギーの通常の展開から必要であり、かつ予測としてこのあとポジティブに誤解が解けることの予測が容易であってすら、受け手が我慢できないので、アニメであれば見るのを打ち切ってしまうというようなことが、実しやかに語られました。実際には、いつの時代も安楽なものばかりではなく、コンテンツには多様性があったので、これはある種のパラダイム(時代の常識)となった思い込みなのですが、少なくとも、当時、僕はクリエイターやプロデューサーなどたくさんの人からこの手の不満を聞きました。また実際に受け手のネットでの評価でも常にこの問題が語られていました。個人的な感覚では、00年代後半から10年代前半が激しかったと思います。この時、自分史的に忘れられないのが親友のルイさんというネットで感想を言い合う仲間が言った言葉です。
「僕たちは、そんなに弱くないよ!」
これは五十嵐雄策によるライトノベル『乃木坂春香の秘密』(2004−2012)のアニメの展開に対しての批判でした。今は亡き彼と吉祥寺でお茶の飲んでいる時に話した話です。一言で言うと、通常のドラマトゥルギーの構成は上げ下げのダイナミズムで構成されて起伏を作るものなのに、いっさいのストレスとなる「下げ」の展開を「入れなさすぎる」ので展開が平坦になってしまいすぎている。それは、作り手が、受け手の心が弱すぎてそう言ったストレスに耐えられない(=視聴しない。売れなくなる)と想定しているから。
しかし、それはあまりに受け手を馬鹿にしているし、そもそも展開に起伏がなさすぎると、物語自体がつまらなくなってしまう。ルイさんが言いたかったのはこういう批判意識でした。しかしながら、この物語の起伏がない日常のみを描くという形で、この類型は、我々がいうところの無菌系、そして日常系である『けいおん』や『ゆゆ式』に結実していくことになります。まさか、ラブコメの基本である少年と少女という恋愛関係自体が既にストレスなので、感情移入対象である少年(=男)すら消毒して、消去して、なくしてしまえば、少女たちが同性で戯れることになり、そこに恋愛というドラマトゥルギーが発生しなくなるので、とても安楽になるといった極端まで物語が展開するとは、当時の我々は想像だにしませんでした。今考えると、ルイさんの言説は間違っていて「僕たちは、そんなに弱かったのか!」とも言えるののかもしれません。
2022年になり、00年代、10年代の文脈をバーズアイで概括できる我々は、ハーレムメイカーの物語類型の問題点に対して、さまざまなクリエイターが挑戦してきた経緯が見えます。2003年にネギま!の新連載を始めるにあたってハーレム系の創始者である赤松健が、この課題にチャレンジしていないはずがありません。現在では、さまざまに抽象的に課題やイシューを特定できていますが、当時であれば、この問題意識は、すなわち起源の一つである『ラブひな』をどう越えるかということだったと思います。そういった「批判的な意識」があるのならば、下記の点はクリアーしなければなりません。
1)主人公が憧れの人と同化する(=景太郎が瀬田化する)と、永遠に物語が循環してしまうので、これを避けなければならない
2)ハーレムメイカーの「ヒロインたちを選べない・選ばない」という問題点をどのように超えるか?
3)主人公がヒロインとのラブコメに逃避しないのならば、一体なんのために生きているかの目標を示さなければならない
こうしたメタ的な批判意識が、ネギまシリーズには、深くビルトインされており、それが物語が進むにつれて、見事に消化され展開されていく様は、連載を追っていてゾクゾクしました。次の章では、それを追ってみましょう。
■父親への憧れを乗り越えて「自分自身になるために」
ネギま!が、2003年にはじまった時に、もちろん『A・Iが止まらない!』『ラブひな』の赤松健が描くんだから、美少女のいっぱい出てくるラブコメになると誰もが思ったと思います。実際、僕は、「65時間目:僕だけのスーパーマン」、「66時間目:雪の日の真実のエピソード」まで、31人の生徒とイチャイチャする学園ラブコメだと思っていました。なので、実際のところ、巻数にして8巻までは、嫌いではなかったですが、それほど注目していませんでした。それがこのエピソードで、主人公のネギ・スプリングフィールドが、子供の頃、巨大な大災害、いや魔族によるテロにあって、自分の住んでいた村が、育ててくれた人々が壊滅しているという経験あっていることがわかります。10歳の男の子が、中学の先生をするほど、勉強していたり、強い目的意識を持っているという設定には、読んでいて違和感がありました。だからヒロインたちにモテるんですが、そういっても、「そのように10歳の子供がなる」というくらいの強い動機も持つには、何か余程のトラウマや人生の目的がなければあり得ません-----そう思っていました。それが、示されたエピソードでした。当時の物語三昧旧館の記事を抜き出してみてみましょう。
この65〜66時限目が、僕の中で「ネギま」が「ラブひな」を超えた瞬間でした。読んでいてのた打ち回ったのを覚えています(笑)。ネギまを読む時に原点の中の原点で、ここをしっかり押さえないと、あらゆる彼のその後の行動が意味不明になってしまったり、ご都合主義すぎていやになってりしてしまうので、重要だと思うので、僕は自分の記事ですが、何度も読み返しています。物語にも、抑えるべきーキーというものがあって、そこを見抜けば、すべての複雑な構造にある種の秩序を与えることができるので、自分なりにその物語は「どんな物語か?」のキーを抑えておくととても読むのが深くなります。ビジネスでいうKSFですね。ちなみに、僕は何度も書いていますが、1〜2巻を初めて読んだ時に、こんな駄作もう読めねーと、1年ぐらい打ち捨てていたんです。それが、何となく読み直して、あれっ?って思い、、、そしてこの8巻を読んで、ああっこれは傑作だ、と唸りました。それにこの展開がきちっと進むのならば、ラブひなを超えたな、と思ったんです。
中略
ネギくんの、強い目的意識がどこから来るのか?
これに強い説得力を持たせることに成功すれば、すべての属性は正当化されうるし、そもそも佐々木まき絵やのどか、ゆえっちが、ネギ君を(10歳の子どもを!)好きになるのも、それはネギ君が、普通の男性(僕らでさえ!)持っていない、強い目的意識に貫かれて行動する男性!!であるという部分から出こそあるので、そうすると、あ〜ら不思議萌えの基本である「なんとなくうっすらラブな関係」も、ご都合主義の恋愛関係のシーンも、非常に納得がいく(笑)ことになります。
もう既に完結しているので、ネギま!がどんな物語だったか?という問いには、一言で答えられます。
父親の背中を追う憧憬の物語です。
そして、
父親ナギと母親アリカが目指したものは、世界の救済です。
119時間目 フィナーレdeてんやわんや
これが既に、
1)主人公が憧れの人と同化する(=景太郎が瀬田化する)と、永遠に物語が循環してしまうので、これを避けなければならない
2)ハーレムメイカーの「ヒロインを選べない・選ばない」という問題点をどのように超えるか?
3)主人公がヒロインとのラブコメに逃避しないのならば、一体なんのために生きているかの目標を示さなければならない
全てメタ的に答えているのがわかりますでしょうか。この本を読む人は、ネギまシリーズを読んでいる前提なのでだいぶ端折り気味ですが、ネギ・スプリングフィードという少年の目標・憧憬に対して、父親からはっきりと「俺になるな(=同化するな)、自分自身になれ」と、言われています。これが、「景太郎が瀬田化した」ことへのメタ的な次への挑戦であるのは、明白ですよね。言葉でだけではなくて、この後、ネギ君は、「自分の強みとは何か?」と考えて戦闘のスタイルを考えていくうえで、父親やアスナのようなタイプではない、彼らにはなれないというのを痛切に実感していきます。そして、その果てで、もともと、とても「小利口」で頭がよくて生真面目な自分の本質を、どのように伸ばせるかということに気づいていくのですね。これは、勝木光さんの『ベイビーステップ』というテニスマンガで、どうやって才能あふれる天才たちに平均値でどれもバランスがいい代わりに、特に目立った強みがない自分が勝つか?ということを考えぬ来て試行錯誤の果てに答えを出していくのと非常に重なります。ここでいわれているのは、「自分」は、「自分自身にしかなれない」ということです。憧れで、「父のような目標」を動機にして、成長していくのはいい。しかし、「その人自身に同課はできない」ということを通して、「何が自分自身か?」と問うていってこそ、成長なのだということがここで示されます。これは、『ラブひな』で永遠のループに入ったように見える「安楽な世界」に逃げた、もしくは回帰しているのではないか?という批判に対して、物語で具体的に、それを超える方法を描写して進化しています。このあたりの、挑戦を続ける分析能力は、赤松健の見事さといえるでしょう。
またハーレムメイカーの類型として、好きな属性の女の子を選び放題になるというマーケティング的な、「売れる路線のいやらしさ」をこれでもかと追及しているにもかかわらず、10歳なので恋仲としてラブコメ路線が、物理的に寸止めになる点も、赤松健の倫理性を示していて面白い。『ラブひな』ではそれがない構造に対して、メタ的にストッパーを作るのは、とても批評的な物語の作り方だと思うのです。またこの部分は、前にしました「父親の背中を追う」という憧憬をセットしている時点で、「女の子と仲良くなる」ことよりも「自分が成長して父親を超える」という目的が優先するので、ハーレムにならないんですよ。このへの仕掛けも、本当に意識的で、この人のセンスは凄い論理的だとうなりました。もう少しわかりやすく言うと、ハーレム構造の始祖でありながら、ハーレム構造に対するメタ的な批判を取り入れる物語を作ろうとしているわけです。
■日本的な母性での回収ではなく、厳しい父性を乗り越える物語
『ラブひな』のハーレム構造、「景太郎が瀬田化した」同化の物語の構造に対して、非常に批判的批評的に、次作を設計しているのは、最前線の作家だとうなります。少し、マクロ的な視点で俯瞰して見ましょう。
もともと日本の文学批評の中には、大きな批判的意識があります。日本の物語というのは、大きく「母なるもの=マターナルなものに」に抱かれて救済されるという傾向、問題点があると。これは柄谷行人でも宇野常寛でもよく言われることです。まぁざっくり過ぎますが。もっと噛み砕いて、わかりやすくいうと、これまで話してきたハーレム=たくさんの女の子に愛される、必要とされるとか、永遠に時間が止まった(=成長がない)楽園のような世界で、自己回復ををする。言い換えれば、幸せになって、救われるというのが、日本人の持つ理想の一つなんですね。大雑把(すぎるけど)にいうと、森林などの自然が豊かで温暖な列島に生きていた日本人は、豊穣なる大地の恵み(=女神や女性神に対応する)に同化することによって幸せになることが、簡単だった。だから、それでいいじゃないかというポジティブな意識がある。これに対して、一神教を産んだ砂漠の世界では、そんな甘ちょろいこと言っているとすぐ死んでしまうので、父なる神という強い、「乗り越える壁」を設定して、それとの激しい葛藤を経て自分自身の自己を確立して、壁=困難=父なるものを倒して、克服して、支配していく。
母なるもの(=日本的なもの) VS 父なるもの(ヨーロッパ近代的なもの)
という二元的対立を想定して、母なるものに「逃げるのはダメだ」と言いたいんですね。これをより卑近な例に落して、例を考えると、例えばラブコメのハーレムのように、「自分を好きな人ばかりがいる」という安楽な状況に包まれて、「ヒロインたちから何一つ強い要求を受けない、成長が止まった時間で」、ウヘヘヘヘとか楽しんでいるような物語はクズだ!と言いたいわけです。文学批評や批評家というものは、とにかく、自分が偉そうなポジショニングを取りたがるので、〜はダメであるという否定しか言いません。
この文脈で言えば、2000-2010年代に日本エンターテイメント世界で一世を風靡したハーレムものや日常ものが、全否定されるのはわかりますよね(笑)。
でも、批評家というのが偉そうでダメだなぁといつも思うのは、「じゃあどんなものがいいか?」って何も言わないんですよね。批評家は批判するのがコアのスキルなので、創作できないのが悪いとは言わないんですが。しかしながら、具体的に、どこへ行けばいいの?とエンターテイメントのクリエイターが問いかけても、何一つ答えないんです。批判して否定するの「だけ」が仕事だからです。
僕は、『ラブひな』をメタ的に批判解体して、主人公の動機をセット(=乗り越えるべき厳しい父なるもの)して、安楽さに逃げるのではなく、進んでいくこの「世界の苦しみに解決を具体的にもたらす方法を考え実行させる」という道を選んだ、赤松健先生は、素晴らしい答えを描いていると思っています。こういった批評意識とクリエイターの意識というのは、なかなか両立しません。これがとてもはっきりと色濃く出ているところに、赤松健の作家性があると僕は思っています。
だから、ネギくんが強い動機を持って、前に進む。しかし、憧れの存在と同化することは、ダメだと喝破されます。
自分自身になりなさい!
とはそういうことです。物語のキャラクターのドラマ、ドラマトゥルギーの設定として、成長を目指すビルドゥングスロマンに舵を切っているのがわかります。
では、キャラクターの動機はわかった。では、お父さんのナギ・スプリングフィールドが抱えていた「世界を救う」という課題に対して、いったいどのように赤松健は答えたのでしょうか。この問題意識は、富野由悠季さんを中心とする日本のクリエイターの大家が、なかなか具体的に答えを出せないまま、今日に至っています。それについて、この物語は、どんな解決策を描いたのでしょうか。
■普通の人々が世界を救う
思えば、カテゴリーで「愛しのウルティマほら」ってつけていますね(笑)。ネギまシリーズでいつも思っていたのは、細かいネーミングセンスが、SF的でとても素敵。基本的に本筋と関係ないような情報量の多さが特徴の作品だったので、そこを追わなくても、問題ないのですが、センスがとても秀逸でいつも悶えていました。 例えば、テロ集団の「完全なる世界(コズモ・エンテレケイア)」や、たかみちが所属していた魔法使いの団体「悠久の風(Austro-africus-Aeternalls)」や、龍宮真名が所属していたNGO団体「四音階の組み鈴(カンパナラス・テトラコルドネス)」、世界救世軍「白き翼(アラアルバ)」とか、無駄にかっこいい。ラテン語やギリシャ語が、使われてて、この辺のセンスが好きだった。アルビレオ・イマ (クウネル・サンダース)のパクティオーカード称号:BIBLIOTHECARIUS IRONICUS(意地の悪い司書)とかのカードのデザインや用語も無駄にかっこよくてこの辺りの情報量の極端な多さ、豊穣さはこの作品の特徴でした。異様に書き込まれた密度の情報があるのに、それは別に読まなくても、話はサクサク進むところも赤松健のエンターテイメント作家として矜持と好みが感じられます。
僕はいくつかの組織の名前がカッコ良すぎるのがいつもニマニマお気に入りでした。ただかっこいいというだけではなく、これは物語の本質に関わるのですが、ネギまシリーズの貴重低音に流れている「ラスボスを倒しても世界は良くならない」という日本エンターテイメント界の大命題が、世界観に深く刷り込まれているように感じるんです。例えばね龍宮真名やタカミチたち、脇役といってもいい登場人物からはては、主役であるネギ君にせよナギにせよ、彼らが世界を救った大英雄と世界に語り継がれているのは、「ラスボスを倒した」からではなく、そのため世界の構造が変わってしまったことによる難民や、人類の発展に取り残されている貧困層を救うことに、その生涯を捧げていることから来ていると描かれています。これはこの作品の、人類を救うための最終結論として「普通の人たちの建設を信じる」とリンクしていて、最初からこの物語のコンセプトが、「そこ」に向かっていたったことを表しています。66巻(18年)にわたる大長編シリーズであるにもかかわらず、命題が全くぶれていないところにも、感動します。「四音階の組み鈴(カンパナラス・テトラコルドネス)」という組織名がすごく好きで、自分で世界を救うNGOを作ったらこの名前をつけたいなとずっと思ってました。ええとですね、「なぜぶれていない」と僕が思うのかといえば、主役も脇役も、さまざまな魔法使いたちが、「人類の救われない人々を救うため」に、様々な組織をつくって、長年活動していること-------それだけではなく、魔法を使えるものはノブレスオブレージとして、人々を救う使命があるという理念、動機、あるべき姿、建国の理念、伝統-------なんでも良いのですが、魔法使いという「存在」の「あるべき姿」としてのエートスが、作品世界全体にセットされているんです。変にマクロ的な説明をするのではなく、物語の中に自然に、「そうあるのが当たり前」として描かれている。だから、さまざまな組織の名前が溢れることになるのです。この作品は、SF的ガジェット(どうでもいい情報)の密度が高いです。なんでどうでもいいというかというと、可愛い女の子がたくさん出てきて、よく脱げて(笑)、ネギくんや近衛刀太が誰を好きかというラブコメで話が十分読めてしまうので、「頭で考察することがほとんど必要のないエンタメ」になっているからです。にもかかわらず、一見どうでも良さげなガジェッドの密度が束になっていくと、この作品が大命題にしているSFや物語の大きな問題意識に対する「答え」やストーリーの結論に、がちっと結びついていくところが、たまらなくゾクゾクするんです。僕の用語で言うとマクロ(=この世界はどうなっているのかと言う謎?)とミクロ(=個々の主人公たちが何をしたいか?幸せになれるか?)のドラマトゥルギーが、ガチっととかみあっているときに、この感覚が訪れます。
■「自分自身になった」後に目指すは、世界の救済〜しかしラスボスを倒しても世界は良くならない問題
ペトロニウスの物語評価のポイントは、マクロとマクロが組み合わさっていることです。上記で、主人公のネギ・スプリングフィールドくんの動機が、憧れの父を追い越して、自分自身になること、であることを確認しました。これは、赤松健先生の『ラブひな』でなしえなかったメタ批評的な進化だと思います。そして、では、その父親、ナギ・スプリングフィールドの物語が描かれて、明らかになっていくにつれて、お父さんが解決しようとしていた物語が明らかになっていきます。彼は、いわゆる古典的な意味での英雄で、世界を救おうした人でした。世界を救う=ラスボスを倒すということです。古典的な意味でと述べたのは、悪いやつを探してゆき、最後のラスボスに行きついて、そのラスボスを倒せば世界が良くなるという典型的なドラマトゥルギーの足跡を踏むからです。しかしながら『魔法先生ネギま!』において、この「ラスボス(=悪)を倒せば世界が良くなる」という公式について、常に激しくこだわって、問い返されていることがうかがえます。簡単に言えば、ラスボスを倒しただけで、本当に世界はよくなるのだろうか?という疑問です。
この「ラスボス問題」がたどってきた日本エンターテイメントの足跡は、とりわけ富野由悠季作品の系譜を通して、『物語の物語』で何度も確認してきました。「悪」の大ボスを設定した時に、その「悪にも何らかの理由があって、悪を為しているのではないか?」という「相手への理解」を要求するのが近代文学の基本だからです。この悪の内面を探る旅というのは、さまざまな効果を物語にも取らしました。一つは、悪の内面が、個人的な家族を殺されたなどの恨みであった場合、それはどこまで行っても個人的なので、いきなり「話がしょぼく」なってしまうんです。悪にふさわしいスケールが要求されるのですが、インフレーション(どんどん妄想的に大きく中身がなくなっていく)を起こしていくのですね。この究極の形態が「絶対悪」になるのですが、それが天使の姿で人間の悪を断罪するようになります。しかし、この場合は、人間に悪がないことを証明しなければいけなくなるので、基本的に『デビルマン』的に、天使に人類が男児されて絶滅エンドを迎えるという袋小路になってしまいました。なので、この善と悪というロジックでは、最終的に「悪と善が混じっている存在である人間」は、悪の側として断罪されてしまうというのが究極の袋小路になるのです。これを避けて、天使にならずに、個人的な「しょぼい恨み」ではなく、「悪を為すにふさわしいリーズナブルな理由」をクリエイターたちと、一緒に歩く受け手の読者たちは探していくことになります。その典型的なわかりやすい例が、『バトルスピリッツ 少年激覇ダン』の異界王や『天元突破グレンラガン』のロージェノムになります。彼らは、むしろ人類を守るために「悪」を為しており、その指導者として清濁併せ呑む器、大きなビジョンは、はっきり言って子供のように暴力で敵を倒せばいいと考えている勇者や英雄に比べると、はるかに勝る存在感を放ちました。彼らが提示しているのは、何もしなければ人類が滅んでしまうから、「悪」を為してでも人類を全体主義で管理しなければならないなど、究極の選択肢を突きつけるものでした。しかし、かつてのすべての英雄、勇者は、この問いにまともに答えることができませんでした。唯一出来ることは、その悪のラスボスを倒して、「未来に何とかする・なる!」といって時間的な猶予を獲得することだけでした。いいかえれば、誰も世界を救う方法を示せなかったんです。
これに、唯一見事にこたえたエポックメイキングな物語が、『まおゆう魔王勇者』(2010)です。勇者と魔王という二元的な敵対をする主人公たちが、「この世界を救うためには戦う以外の具体的な方法を考えなければならない!」と話うところから物語が始まるのです。二人の天敵が和解後に最初に始めたことは、なんとじゃがいもを植えることでした。これはのちの物語の基本類型を変えてしまう大きなインパクトをもたらしました。ここは長くなるので、僕の過去の記事を読んでください。
『魔法先生ネギま!』のラスボスは、造物主(ライフメーカー)「始まりの魔法使い」と呼ばれる「ヨルダ・バォト」です。『魔法先生ネギま!』の最終回は、2012年ですが、すでに『まおゆう魔王勇者』のインパクトを経験した後では、これをただ単に倒して終わりというわけにはいかなかったようです。たしかに、英雄たるナギは、ラスボスは、造物主(ライフメーカー)を倒して世界を救ったのですが、それは明らかにこれまでの「ラスボスを倒しても世界はよくならない」という構造を意識しており、ただ単に「時間稼ぎの猶予」を確保しただけでした。
繰り返しますが、『魔法先生ネギま!』『UQ HOLDER!』の大命題として、として「どうやったら世界が救えるのか?」と言う背景の日本的文脈の問いが常に隠れていました。31人の女子中学生のクラスの担任になるドタバタラブコメディからはじまったとは思えない、異様なストーリーに物語は突入していくところが、この作品の驚くべきところでしょう。日本的文脈と僕が呼ぶのは、この命題には、日本エンターテイメント界が、とりわけガンダムを創造した富野由悠季さんからが続く、「どうやって世界を救う?」が、展開して「戦争をどうやって無くすか?」になったのですが、「人間が自由意志のある人間である限り、戦争は無くならない(=それが人間の世界)」という筋道の問題意識が、見事に各エピソードで展開されており、当時(2000年代)からの物語のテーマの最前線が、ずっと意識されているように感じるからでした。
■超鈴音(チャオリンシェン)編と小夜子のレブナント編の類似性〜世界をやり直したにも関わらず、やり直しを認めないエピソード
ここは、気力が尽きてしまったので、次回まとめるときに追加します。気力尽きたので(苦笑)。
超鈴音編と小夜子のレブナント編は、基本的に「同じ物語類型」のエピソードです。けれど「問いの本質」と「エピソードの洗練度合い」は進化しています。レブナント編を見ると、上記のエピソードでもはっきりしていますが、2010年代の「打ち捨てられて死んでいくルーザーたち」をどうやって救えばいいのか、という問題意識に満ち満ちています。そしてそのルサンチマンをばねに、復讐で世界を滅ぼすことの正当性がこれでもかと語らているところは、もうほんと素晴らしいに尽きる。また、一流のゾンビ映画の設定を、こんな短いエピソードの中に洗練して構成しています。もし世界を本気で滅ぼすならば、というシュミレーションが、ここでは見事に描かれています。もう「起きてしまった時点」で、世界が滅びるのが確定している。僕は、自分の大好きな映画、テリーギリアム監督の『12モンキーズ』(Twelve Monkeys)を思い出しました。
■世界の理(ことわり)を曲げることは許されないというグランドルールの提示〜00年代に示された並行世界の世界線に対する倫理的回答
ネギまの学園祭(9巻 - 17巻)編の超鈴音(チャオ・リンシェン)編と、『UQ HOLDER!』佐々木 三太(ささき さんた)と死霊魔術師(ネクロマンサー)の「幽鬼(レブナント)」小夜子のレブナント編の二つで、この命題は凝縮して語られている。
この2つのエピソードは、全体から言うと「なくてもいい」独立したエピソードになっているところが興味深い。
チャオリンシェン編は、時間操作懐中時計「カシオペア」の存在によって、やり直しが可能な世界になっている。
小夜子のレブナント編は、桜雨 キリヱの「リセットOKな人生(リセット&リスタート)」によって、バイオテロによって世界が滅んでしまったが、無かったことにしてリセットされている。
この複雑な物語構造も、赤松健先生の特徴で、言葉で説明すると、この複雑さがよくわかります。この二つともが、パラレルワールドの問題意識-------「一度しかない人生の生をやり直してもいいのか?」と言う日本のエンターテイメントに何度も問われ続ける問題意識を見事に抽出して、一つのエピソードに挿入しています。これは、エロゲーの全盛期に生まれた「分岐する世界のパラレルワールド」を使って、さまざまな分岐の系を体験することによって全体像を見渡そうとすると言う物語類型が、広がったことから来ています。ネギまシリーズは、こうしたパロディ的なものが凄く多いのですが、素晴らしいのは「単なるコピー」では全然なくて、この物語累計のハラム問題意識を深く掘り下げて、それがエンターテイメントとして許容できるギリギリを攻めてくるところです。2000年代は、「小説家になろう」やライトノベルで生まれてきた「転生して人生をやり直す」と言う類型が後半に広まった時期です。この類型には、常に、「転生して過去の経験や進んだ文明の知識を使うチートと言う「卑劣さ」をどう処理するか?と言う問題意識が常に付き纏っています。この二つのエピソードで、赤松健がどのような答えを出したか?というと、「人生は一度きりであり、どんなに不幸なことがあっても。やり直しはできない、すべきではない」というとても普遍的な結論に、ドラマトゥルギーの納得とともに描かれています。
普通ですね、エンターテイメントにするということ(=文脈を読まない、楽しみだけで見る人の満足を得る)は、チートで卑怯でご都合主義になるものなんですよ。なるもの、というか、「そうしなければならない」のです。読者の喜びをうるためには。だから、ご都合主義的な、チートさ、嘘臭さというのは、常につきまとうものなんです。ところが、「それではいけない」というかなり普遍的な結論に到達(=読者に感情的な納得をもたらす)するために、通常、長い長い尺が必要になります。ところが、これを、とても短い中編エピソードとして、「まとめ切ってしまう」ところに、赤松健の才能を感じます。いや、ちょっとありえないですよ。これ、ものすごい作品を読み込んで、こうした文脈に、考察に考察を重ねていなければ、こんなことできなですもん。
話が本質からずれたのですが、当時の2006年の物語三昧の記事を引用してしてみましょう。
『超さんが 変えようとしている 不幸な未来とは 地球・・・或いは 人類の存亡といった究極的自体に関係しているでしょうか?』(夕映)
『いや・・・そんなSFめいた大袈裟な話はないさ 奴の動機の源泉は今現在も この世界のどこかで起こっているありふれた悲劇と変わりはないだろう』(真名)
えっと、この質問が、既に答えですね。ゆえの質問を、言い換えると、もし仮に、チャオが、人類の存亡に関わることで歴史を変えようとしているならば、それは正しいことだっていっているんですよ、この質問形式だと。わかりますよね?。つまり、『不幸な未来』というのは、チャオ個人にとってなのか、人類すべてなのか?ということによって、事の正統性が変わる、といっているんです。
いきなり飛びますが、ドラゴンボールのトランクス編は正しいんです。というのは、もし、トランクスが何かしなければ、人類は滅びてしまいますよね?。それは、過去を変える正当な理由です。それは、わかりますよね?。人類全てが消失してしまうことならば、人類という人間全てにとって、なくなるよりは、救ったほうが良くて、誰一人それによって損はしない。無か有かですから。けれども、龍宮は、それは、人類ではなくチャオにとって不幸なことであって凄い不幸な厳しい出来事かもしれないが、しょせんは個人の問題だって言っているんです。
さて、では、その不幸が・・・・たとえば、チャオの家族とか自分の愛する国とかが皆殺しにあったとかいう非常に、厳しい出来事だとしましょう。それを、理由に過去を変えたい!と考えることは、非常に理解できます。そして、過去を変えたとしましょう。そうするとね、その過去が変わったことで、今度は連鎖的に、それに関わる全ての歴史が書き換わってしまいます。もしかしたら、そのチャオの不幸によって幸せになった人もいたかもしれません。ある一つの出来事が起きることによって、連鎖的に発生する全ての事柄・・・・・そのすべての事柄に関わる人間の、思い出、営み、悲しみも含めた行為の全てを、個人の正しさによって、破壊してしますのです。正しさってものは、残酷なものです。極論ですが、たとえば、戦争で人を殺しまくった王様が、間違っていたといえるでしょうか?。たとえば、死ぬほど人を殺しまくった織田信長がいたからこそ日本が統一国家になり、その後、死ぬ人が激減したかもしれません。もし彼に殺された人々が歴史を変えて信長を殺したら、日本の戦国時代という内乱が、他の国に征服されるまで継続して、もっともっと多い人が死んだでしょう。・・・・・・それは、信長に家族を皆殺しにされた生き残りが、信長を殺せ!と言うことが正しいのか、信長を生き残らせるのが正しいのか?、どっちだと思いますでしょうか?チャオが、もし信長に殺された人々の子供だったとか、仮定してみたときによくわかると思います。たとえば、もっと卑近に考えると、日本は先の戦争で、たくさんの人が死にました。では、これが凄い悲劇で、家族が皆殺しにあったとします。その人が、その悲しみをバネに、日本が戦争に負けない、自分の家族が死なない未来をつくる為に過去を変えたとします(これって、『ジパング』(笑)ですね)。その結果、たくさんのアメリカ人が、中国人が死ぬかもしれません。それって正しいことでしょうか?。
つまりね、世界には、ルールとか過去と理(ことわり)があります。一番大きなものは、時間は元に戻せない、ということです。あたりまえですが(笑)。
しかし、それを個人の動機で曲げてしまうと、その動機の出発点は、家族を殺されたくないとか言う純粋な動機でも、それに波及して、その代わりに誰かが死んでしまったりすることが発生してしまいます。だから、個人の動機で、世界の理を曲げることは、許されないんです。倫理的に。
「起きてしまった事」は、受け入れこと以外の選択肢がないんです。
何かを変えるならば、「過去を変える」のではなく、「未来を変える」べく動くべきなんです。・・・・・・・いっていることが伝わるでしょうか?。ちなみに、会社や国家で、制度論・・・・もともと決められた制度をを変えるときに、凄まじいリアクションがあるのは、世界に『所与(元からという意味で)に与えられているルール』を変更することには、非常に倫理的に問題がある行為なんです。だって、みんなそのルールを前提に、がんばって生きているわけでしょう?。人々が、信じ、マクロで人生を支配しているルールを変更することは、凄い難しいことなんです。だって、考えても見てください、明日から銀行に預けているお金は、国のものです!、ルール変えました、とかいわれるのは許さないでしょう(笑)。チャオのしようとしていることは、どんなにキレイゴトで言いくるめようとも、そういうことなんです。それを個人の動機ですることは間違っているんです。Fateのゲームの感想で、死ぬほど長くこのことを書きましたが、どーもシンプルには説明にしくい。・・・だから、これを赤松さんが、どのように物語りに組み込むか楽しみです。個人の不幸を動機とする、「歴史の改編」は、絶対に許されない悪なんです。それは、究極のナルシシズム。
2006/10/19 153時間目 綾瀬夕映の答えの予想~世界の理を曲げること
■エンターテイメント的解決に重ねることを拒否したネギまのラストシーン〜最も見たいであろう英雄がラスボスを倒すエピソードの割愛
ええとですね、ここでは「ネギま」の最終回が、なぜラスボスを倒す大団円で終わらなかったのか?ということを話したい。それは上記にあるように、ラスボスを倒しても世界は良くならない問題という意識が、強く深くあったからだと僕は思っています。また、この世界の問題を解決するために、ネギ君が選んだ方法は、100年単位で人類の技術のイノヴェーションによる底上げですから、まだ始まったばかりだったんです。なので、この時点で、ラスボスを倒したので、良かった!という「終わり方」にできなかったんだろと思います。それはある意味エンターテイメントのルールに真っ向から逆らう形であり、有機であったと僕は思います。LDさんや僕のような、物語をメタ的に解析する人は、この「終わり方の凄さ」「批評的な意識」にしびれるほど打ちのめされましたが、もちろんそれゆえに、普通のエンターテイメントとして楽しむ読者に不評でした。特に、キャラクターのドラマトゥルギーが終わっていないことは、かなりの不満を残したと思います。この選択をしたからには、そんなのあたり前なので、「それでもなお」やったことは、本当にさすが、としか言いようのないチャレンジ精神だと思います。はがないこと、『僕は友達が少ない』の平坂読さんの2015年の最終回を思い出します。
■脱英雄譚として〜世界は一人の英雄が救うわけではなく、脇役たちの組織の絶え間ない活動によって変わっていく
さて、ネギまの物語としてペトロニウスが感動した部分は大分網羅してきたと思います。脱英雄譚というキーワードは、僕らが書いた本『物語の物語』の7巻の解説でその全体構造を詳細に分析していますので、そちらをどうぞ。ただ、もうすでに前述の様々なもので、ネギまが、前作のラブひなのみならず、日本のエンターテイメントが陥りやすい問題意識をすべて、具体的に超克しようという野心作であり、個々のアイテムエピソードで、その問題意識が20年近い連載の歩みの中で、ずっと維持されているというとんでもない強い軸を持った作品であることがわかると思います。しかしあえて言うのならば、2点。
一つ目は、なんと超絶の英雄として描かれたナギもネギも、かけたにもかかわらず。「ラスボスを倒す」というエンターテイメントの要求する結論を、わざわざ「描かなかった」てんです。これはすさまじい問題意識です。ましてや、明らかなマーケティング志向の強い赤松健の作風から、ウルトラチャレンジングな試みです。けれども、日本のマンガ、エンターテイメント、ラブコメの類型として、「このような一歩」があることが、どれだけ深く意義あることになる代りません。それを、やってのけた赤松健先生に尊敬しかありません。ちなみに、UQホルダーで、ナギがラスボスを倒すエピソードを丸々やり直しているので、「書こうと思えば楽勝で書けた」のもまた、憎い。
もう一つは、やはり、「ラスボスを倒す」以外の、具体的に「世界を救う方法」を物語としてありありと描き出したことです。これは、食糧問題を解決するためにじゃがいもを植えるという、いまでは当たり前になってしまった「世界を救う方法」を物語に持ち込んでエンターテイメントにした『まおゆう魔王勇者』に匹敵する、エポックメイキングな解決方法でした。起動エレベーターによるエネルギー問題の解決。緩やかなイノベーションによるの普通の人々の成長によって、難民問題、資源争奪戦争を回避する。エンターテイメントとは思えない、富野由悠季らによって問われてきた、「戦争をなくすためには」「悪をなくすためには」といった究極の問いへの、具体的な解決。これをエンターテイメントで描けたところに、凄みがある。本当に素晴らしかったです。
が、しかし、、、、、でも、この100年かかるその結論を、「具体的にどうキャラクターたちが生きるか?」を物語では、ネギまでは描いていません。それが、次の続きであるUQホルダーに引き継がれていきます。
この続きが、下記の記事です。
『魔法先生ネギま!』『UQ HOLDER!』が示した00-20年代の日本エンターテイメントの文脈(1)~人類の監視者としての不死者・吸血鬼が100年を超える人類の進歩を見つめる
petronius.hatenablog.com
■参考
思い出として、自分のメモメモ。
『ネギま!』の続編『UQ HOLDER!』完結、連載8年に幕 参院選出馬の赤松健氏「新しい冒険に行ってきます」(写真 全3枚)https://t.co/DbBzovKEod
— ORICON NEWS(オリコンニュース) (@oricon) February 8, 2022
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別冊少年マガジン 2022年3月号 [2月9日発売]https://t.co/RH0ease89l
— 赤松 健 ⋈ 公式サイトOPENしました (@KenAkamatsu) February 9, 2022
★別マガ3月号出ました!UQホルダー最終回(192話)が載ってます。8年以上の長い間、応援ありがとうございました。アニメ化もして頂いて満足です。
8p書き下ろしのコミックス最終28巻は3月9日発売予定です🥳#UQHOLDER
赤松氏の前作『魔法先生ネギま!』(2003年~2012年)の未来を舞台にした続編で、2013年8月より『週刊少年マガジン』にて連載がスタートし、その後、『別冊少年マガジン』へ移籍。『魔法先生ネギま!』を含めた『ネギま!』シリーズの累計発行部数は2600万部を突破しており、2017年にはテレビアニメ化もされた。コミックス最終28巻は3月9日に発売される。