『紫色のクオリア』 うえお久光著 アルフレット・ベスターへのオマージュ

紫色のクオリア (電撃文庫)

評価:★★★★4つ
(僕的主観:★★★☆3つ半)

うん、傑作だ。これが、通常のライトノベル的に、読み捨てられて、来年いは絶版になって手に入りにくくなってしまうかと思うと・・・・残念だ。非常に素晴らしい作品。それにしても、ライトノベルって領域というかブランドというカテゴリーってまさに、よく出来た!って思うよ。こういうカテゴリーがなければ、こういう作品は出てきにくかったろう。


この作品を語るべきポイントは、下記に書いたの後半の『1/1,000,000,000のキス』のスピード感になるんだろうけれども、第一章の『毬井についてのエトセトラ』の、世界とのズレを・・・・この世界とは異質なものがあることに気づいていく、じぁーっとした恐怖感、気味悪さは、最高だなぁ。こんな感覚、がんばってフィリップ・K・ディツクを読んだ時以来だ・・・。これをほとんど、労力をかけず読めるのだから、この平易さ大したもんだなぁ・・・。いや、ガクちゃん(毬井の親友で主人公)が、あっさり×××に××されるくだりは、マジ?ってすげーひいた。いやーこれ、確かに物凄いホラーだわ。

毬井ゆかりにはニンゲンが、ロボットに見える。


そんな一文から始まる、この物語。非常に秀逸な作品です。


アルフレッド・ベスターの鬼作『虎よ、虎よ!』のオマージュ

まずなんといってもアルフレッド・ベスターの鬼作『虎よ、虎よ!』を強烈に連想させる後半の『1/1,000,000,000のキス』が、素晴らしいスピード感で、、、この「感じ」が再現できるのは見事なオマージュだと思いました。これイーガンなんかよりは、もうぜんぜんアルフレッド・ベスターを連想すると思うんだけど・・・というか、このスピード感は、「まんま」じゃん。ましてや、はっきりとジョウントって単語が作中に使われているし。あのSFの伝説に残る鬼作を、非常にわかりやすく、誰にでも理解できる平易な筆致で再現できるんだから、作者大した技量です。おもしろかった。ともすれば、????となった、スピード感だけの『虎よ、虎よ!』に比べても、非常に明快で分かりやすい。

難しい、という意見もあるようだけれども、まぁこうした並行世界の理論は、今のエンターテイメントで人口に膾炙しているし、なによりも、このいくつもの可能性と選択肢に溢れた世界感覚・・・それにがあるにもかかわらず何かのシステムに支配されている感覚というのは、後期資本制の社会に生きる我々の直感と合致するので、たぶん文字が普通に読める人であれば、意味は分からずとも感じることができるだろうと思う。十分中学生にだってわかると思うよ。


■並行世界ものは、個のナルシシズムを打ち破る倫理を問う物語

並行世界という概念が、個人の内面世界に閉じていって「個のナルシシズム」に閉じ込められる形になって、そこから脱出するというモチーフ・・・倫理を問われるという意味では、まさに僕が最近言い続けている話とミートするものですね。これって、やっぱり万物理論とか並行世界とか観測問題とか・・・・そういう言葉は意匠に過ぎない気がするんだ。


結局いいたいことは「他者が存在しない孤独から抜け出せ」ということと、言い換えれば、個人の主観から見える可能世界ばかりを追わないで、一度体験して起きてしまったら「取り返しのつかないいまこの時という一回性」を、「他者と・・・・大事な人と」分かち合おうってことを言っているに過ぎない。この話の類型は、やはり個のナルシシズムの回避と、それをするための「他者との出会い」なんだと思う。



そういう意味でいうと非常にわかりやすいのだが、けど「if」・・・つまり最終章には、ちょっと不満。いやこのテーマを収束させるには、あの終わり方で充分なのだが。。。。ある種行くところの限界まで行ってしまったガクちゃんが、「いったいどこで間違えたか?」という「ミクロの心の問題」・・・つまり個のナルシシズムに逃げ出したガクちゃんへの倫理的戒めと答えというふうにとれば、「if」は、非常に正しい収束だが・・・・。しかし、これはエヴァンゲリオンの旧映画版やきみまる(東毅)さんの『RETAKE』にも繋がる話だと思うんだが、なんでいつも毬井が殺されるのか?というマクロの問いには、全然答えていないんだよね。イヤなんとなく分からないでもないし、世界が個人の心や願いによる「世界の改編」を認めなかった、というふうには十分解釈できるし、それでこの物語は収束するんだけれども・・・ミクロの心の問題としては、鮮やかな解決を見ているんだが、しかしながら、やっぱりマクロとしては解決できていない、と僕は思う。「if」以外の終わらせ方は物語のテーマ上おかしいし、完璧に成立するんだけれども・・・この類型の作品をずっと追っている僕としては、実はもう一つほしかった・・・。まぁそんなんでこの傑作を壊す必要はないんだけれどもさぁ。


その素晴らしさは素晴らしさとして、この類型の物語へのやっぱりどうしても思う不満は、「マクロが描けていいない」「他者が本当の意味で描けていない(=そりゃそうだ個のナルシシズムからの脱出だから)」そして・・・・他者同士が、生きる「至高の現実」たる「この世界」が描けていないと思うんだ。


だって、「そういう風に世界が見える毬井の物語」・・・・・彼女がなぜそうであったのか?、、、彼女がその才能を使用して世界にどんなことを為すのか?、そういうものを持ったガクやアリスたちとの関係がこの後、「どう紡がれていくのか?」って話が全然ないんだもの。もちろんこの物語の主題は「そこ」にはないし、こんな普通の人々の設定で「それ」を描くのは、あまり面白くないだろうから、そんな必要性は物語上ないんだけれどもさ。。。。


・・・これは、告発というかマイナスをいっているのではないです。もっと大きな視点で、この手の類型には、大きな穴があるということを言いたいだけで、、、この『紫色のクオリア』は、個のナルシシズムを見事に昇華して分かりやすく書いた素晴らしい物語なので、ぜひぜひ読んでみてください。



閑話休題



ちなみに、、、、加則くんのドリルって・・・・なんだったんだろう。どうしても、Hな想像しかできないんだが・・・(苦笑)。


虎よ、虎よ! (ハヤカワ文庫 SF ヘ 1-2)