『オリガ・モリソヴナの反語法』 米原万里著 収容所文学とは?②

オリガ・モリソヴナの反語法

■文学の背後にある国民的テーマ


それぞれの国には、近代文学の大きなテーマがある。例えば、日本近代100年の文学テーマは、私小説。その根本は、アジアのど田舎で極東と呼ばれる辺境の地で、近代化を試みようとするときに、個の自立がテーマとなる。


詳細の説明は、ここでは避けるが、ようは夏目漱石森鴎外二葉亭四迷正岡子規田山花袋岡倉天心などなどの明治から昭和初期の文学者たちが悩んだ「こと」のことです。


一言でいえば、アジア的で科学も資本主義も個人主義も無い辺境の原住民が、近代化に目覚め、弱肉強食が極まり、負けイコール民族の滅亡・奴隷化という、人権もクソもない世界戦争の真っ只中に飛び込んだ、ちょんまげ姿の田舎モノが、不断の緊張と努力と狂気で、独立と誇りを守り抜くには、




「いったいどうすればいいのか?」




という悩みです。




一部の旧制高校帝国大学を出たエリートは総人口の0.01%に満たないし、義務教育もない時代です。



だって、数年前まで、ちょんまげに刀ですからね。指導者がいくら喚いても、アジアの土民である日本の農民たちは、いっこうに迷信は捨てないし、資本主義の精神は理解しないという絶望の中での、悩みです。



その深い悩みが、廃刀令や廃仏令などの気の狂った法律の制定となりました。(とはいえ、この辺境の土民時代の初期に、広く議論を尽くす民主主義の基本である五箇条のご誓文を出している明治政府は、凄い!!)




この田舎モノが遅れて近代化すること、つまり全世界の最先進資本主義国に追いつくために、野蛮な土民・原住民の日本人が、どうやって国民全部が伝統や思考をすべて「まったく新しいものに変化するか?」という眩暈がするような困難さというのが、アジアに先駆けて近代化を断行した明治からの日本の根本的な悩みです。 この急激な変化ゆえに、凄まじい悲惨な惨劇がいくつも生まれました。




それが敷衍した現代の悩みが、共同体主義が極まった社会構造を有する日本において、欧米一神教的な個人主義の確立を目指すことです。





しかし、それ自体が非常に不可能なので、共同体主義的な社会慣習と、個人主義的なシステム(法律等の社会インフラ)や人格の確立を目指すエリートとノンエリートの対立というテーマが発生し、自分を個人主義(自意識を確立した)を確立しているエリートとみなす「自分自身」が、やはり日本的、あまりに日本的な共同体的体質を持つことへの悩みというテーマが発生しました。


この、自我の確立を目指すが、そもそも共同体心性の日本人にはまず無理ということへの、深い悩みが、日本近代文学100年の基礎の一つである私小説の温床となりました。




こういった、その国の固有の文学テーマというものが、各国にはあります。その根本的背景を知らないと、




「いったい何に悩んでいるのかがまったく不明」




です。この小説や文章の背後に隠れている大きなトラディショナルなテーマにアクセスできないと、真の意味が理解できません。




日本では、田山花袋がなぜ愛人の布団の匂いを嗅いで泣いたのか(笑)は、自意識の成立がどうやって生まれるのか、というテーマが背後にあると知らないと、ただの変態です(笑)。夏目漱石の作品も、背後に自意識の個人化がなければ国が近代化せず、個人化がなされれば日本的な真の伝統や固有性が失われるという恐怖があったことを理解しなければ、真の意味は理解できません。



さて、では、ここでロシアには、固有の文学が在るか?といえば、もちろんあります。ないわけないですね(汗)。ドストエフスキーやソルジィニーチェンを生んだ国ですから。僕もそれほど詳しいわけではないですが、ヨーロッパ文学と、人類最大の実験の一つであるコミュニズムに基づいた社会の創設という経験が、脈々と受け継がれています。


さまざまなテーマがありますが、非常にヨーロッパ的で、コミュニズム的な、「収容所」をここではテーマに上げてみたいと思います。




■人間を家畜扱いできる遊牧民的発想



どうもですね、これははっきりしたことではなく僕の感覚なのですが、もともとの出自に遊牧民が多かった東ゴート族フランク族などの古ゲルマン系などは、牧畜的な発想をする傾向が強いようで、人間を家畜と同じような動物として扱う傾向があるようなのです。




アメリカの憲法にある「すべての人間は幸福追求の権利がある」という一文の「人間」という定義があきらかに有色人種やアジア人は「含まれていなかった」という事実を思い起こさせるのですが、欧米の法でいう「人間」の定義は、凄く狭くいというのは事実で、白人以外の(下手をしたら白人の範囲も狭い)人間は、あきらかに家畜と同じレベルの「別種の生物」扱いをする伝統があります。アメリカ革命当時の『人間』の定義には、もちろん黒人や中国人は入っていません。






さて、家畜とは?





このヨーロッパ社会の人間と認識できない相手を、家畜と同列に認識する、ということはどういうことか?。


あのですね、このへんの感覚は、豚や羊の飼育を考えるといいのですが、もっとどぎつく言うと、やはりアウシュビッツユダヤ人虐殺が、好例です。


アウシュビッツでは、数百万のユダヤ人が、処理されました。


たとえば、その皮膚を剥いで乾かしてランプを作っていたことや、死体の灰や脂肪の油でランプの原料をつくっていたりしたのは有名な話ですよね。それを普通に工業製品として、売っていました!!。 ようは、人間を一人の魂ある人格としてとらえないで、徹底的に『モノ』として認識しているのですね。日米戦争時のアメリカ兵が、日本人の首を狩って煮詰めてしゃれこうべを飾りに本国に送っていたのも結構有名な話ですよね。いやなにも、アングロサクソンやゲルマンばかりが酷いといいたいわけではありません。中国人が伝統的にジェノサイドを好んだり食人(カニバリズム)の傾向があることは有名ですしね。これは、善悪の問題ではなく、数千年の歴史の傾向の問題です。


僕がココで言いたいのは、遊牧民や家畜を追う遊牧民には、自分の食用のために飼育し、選別し、全てを解体して食用や実用に使用するという文明的な智恵と伝統があるということです。



この対象が、同じ人間でなければ、全ての生き物に適用されてしまいやすい、というのは、道理ですよね?。



ヨーロッパの民族浄化や人間を、家畜同然に狩り集めて、一箇所で飼育して、選別して、解体して、食べたり実用にするというのは、古代から連なる伝統なのです。



これは、事実かどうかは僕も分かりませんが、ユダヤ人のアウシュビッツ虐殺やスターリン強制収容所の管理ノウハウやボスニアヘルツェゴビナ民族浄化を見ると、僕は、そこに家畜管理の発想を見てしまうのです。



カンボジアポルポトによる大量殺戮や中国のジェノサイドの伝統や、日本の細菌部隊の人体実験など様々なアジアにおける野蛮さもたくさんありますが、このヨーロッパ並みの執拗さには、かなわない気がします。また、同じくらい酷くても、少し質が違う気がします。なぜならば、家畜の選別という古代からの智恵と伝統が隠れているからです。



まぁ、もともとコミュニズムが色濃くヨーロッパの伝統を滲ませているので、コミュニズムが絡むと、凄まじさが加わる気がしますがね。



■収容所文学としてのオリガ・モリゾウナ



さて、近代国家は、優生学や遺伝学・骨相学などなど疑似科学とともに進んできた経緯があります。このオカルト紛いの疑似科学は、チャールズ・ダーウィン種の起源の発表による適者生存の理論を援用しつつ、世界中の近代国家に広まり一大勢力を築いたので、僕はとても興味深く思っているのですが、これは、



家畜選別のための理論



としても、非常に有効に使用されました。例えば、ユダヤ人といいますが、もう人種的には、ほとんど血が混ざりすぎてよく分からないのです。それを無理やり定義づけたり、民族を無理やり差別するために、この理論は広く援用されました。


こういった疑似科学による選別や、家畜的に借り集めて一箇所で飼育する発想が、近代的な装いをしたものが、



収容所



というやつです。しかも、疑似科学ですから、さまざまな科学的手法によって、選別や飼育がなされます。ここで、凄く思い出されるのが、ソビエト帝国スターリンによる強制収容所ヒトラードイツ第三帝国アウシュビッツですね。この二人が最も、徹底的にこのシステムを使った人です。



僕は、この発想を見るたびに、浦沢直樹の『MONSTER』や福井晴敏の『終戦のローレライ』の超能力研究所や事実としては、『マスターキートン』のルーマニアのチャウセェスクの子供などを連想します。

Monster (1) (ビッグコミックス)終戦のローレライ 上死の泉 (ハヤカワ文庫JA)総統の子ら〈上〉 (集英社文庫)

実際に、そういった人体実験や選別は、第三帝国ソビエト、戦前の日本では繰り返し行われ、実際にたくさんのデータが残っていたといいます。戦後のアメリカとソビエトの医学の大発展は、その人体実験の資料を根こそぎ奪ったからだといいます。


■奪われるナショナリティ


米原さ万里さんの『嘘つきアーニャと真っ赤な真実』や『オリガモリゾウナの反語法』とても興味深いなとおもうのは、スターリンソビエトでスパイ容疑など国家反逆罪で粛清されたり収容所送りにされた両親を持つ子供が、



ある施設に集められて、過去の一切の情報を抹消させる



というくだりです。これは、調べてみましたが事実のようで、そうすると、その子供が施設で育っても出自や民族がまったく分からないそうです。



えっ!それって民族浄化(ethnic cleansing)」 だよね。レイプによる血の抹消ではなくて、ナショナリティを消し去ろうとする考えかたは、コスモポリタンを目指したコミュニズムの理想ですよね。つまりですね、数千万人規模の粛清が、ソビエトでは行われましたが、その時に妊娠していたり置いてきぼりにされた子供は、すべて施設に集められて、一切の出自をわからなくしてしまうので、自分が何人で、どこで生まれて、どんなナショナリティや文化を持っているのかが、大量分からない大量の人々を生み出したのです。



「自分が何者か分からない人々」の大発生



そして



それを科学的に選別して実施する『強制収容所』というシステムが、いかに、ソビエト・ロシアや東欧に暗い影を落とし、そして深い民族としての傷となり、大きな文学的テーマになっているかが分かるというものです。これは、ナショナリティを超えようとした、コスモポリタニズムやエスペラント語コミュニズムという深い深いヨーロッパ的な理想をにもつながる負の側面であるからして、当然、両義的で文学の思いテーマです。この作品には、その収容所体験が個人に及ぼす凄まじい影響を非常うまく物語りに取り込んでおり、我々日本人には、体験しようがないものを、追体験させてくれる力を持っていました。

コーカサスの金色の雲 (現代のロシア文学)
コーカサスの金色の雲 (現代のロシア文学)

これは、『魔女の1ダース』にあったが、スターリン強制移住で、住む土地を根こそぎ変えられた!!コーカサスの凄まじい歴史が描かれており、腰が抜けるほどびっくりしました。朝鮮人中央アジアへの強制移動も、スターリンが行ったことですね。これが傑作『プルンギル』の下書きにもなっています。

魔女の1ダース―正義と常識に冷や水を浴びせる13章 (新潮文庫)
魔女の1ダース―正義と常識に冷や水を浴びせる13章 (新潮文庫)

プルンギル-青の道 1 (BUNCH COMICS)
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