『AngelBeats』 岸誠二監督 麻枝准脚本 時間の流れを超えるモノ超えないもの

Angel Beats! 1 【通常版】 [DVD]


※先週の初めに書いて、記事をあげるの忘れてました。

11話まで見終わった。うーん、おもしろい。今期は、あたりだなー。忙しくて(休日の今日も会社に出て11時ごろ帰宅・・・)なかなか見る暇なかったが、2話同時に見た。ユイ(でいいんだよな?…名前うろ覚え)の話で、涙が・・・・ううう・・・・・。感情ゆさぶってくれるねー。

結末がどうなるかわからないんだけれども、12話で終わりとするならば、すくなくとも1-11話の・・・つまり全体の過半をしめるテーマは、いずみのさんがいうように「未練を報わせ
る」ってテーマだろう。前にも書いたんだけれども、この物語って、基本的に「報われない現実で命を落とした」人が、別の世界で「報われなかったものを昇華する」という構造になっていますよね。非常に高いクオリティ(最近のアニメは、、、レベルが高くなったよなー映像の・・・)を持ちこんで、一話一話で伝えているのは、これですよね。まぁ僕らもそうですが、生きていると、いろいろ報われない残酷な現実って多々あります。いわゆる、貧・病・苦ってやつですねー。で、この作品の脚本って、その「報われない現実の悲惨さ」を見せつけるって手法をとりますよね。。。ユイの全身麻痺の話とか、大好きだった妹が死んじゃってそれを克服しようと医者になろうとするけど電車事故で死んじゃう音無くんとか、ゆりっぺの兄弟が強盗にみんな殺される話ってのも、救いようがないよねー。基本的にこういう「どうしようもない悲惨な話」を上けてにぶつけておいて、感情揺さぶるってのが基本型。それが素晴らしい映像のクオリティで描かれるんで、、、いやまーしんどいですよね(苦笑)。でも、物語としては、死んで目覚めた後、広大な学園都市に「閉じ込められている」からそこから脱出したい、そのためのキーは、それぞれが死ぬ時に残した無念さを昇華させることってのは、よくできている。というか、この手の脱出劇の物語類型では、基本的なパターンです。ここのエピソードと、全体が絡まるにはとてもいい手法。


凄い面白いんだけど・・・毎週期待するんだけれども、、、何かが足りない気がするんだよね・・・・。もう一歩考えると、この作品はたぶん「もう一度見直す」ことはないと思うんだ。僕は、日常でたくさん漫画とか映画とか見るので「二度見る」というのは相当好きじゃなきゃ見ない。そこには「大きな差」があるんだけれども、そうさせるほどのものがない。何なんだろう?こんなに毎週楽しみなのに、、、と思っていたんだが、、、何となくわかった気がした。


というのは、この物語って、主軸が個々のキャラクターの「無念を昇華させる話」で、その「身も蓋もない不幸な現実」を受け手に叩きつけて、「その不幸さによって感情を揺さぶる」という形式をとっている。この形式自体に、面白くない!といって怒る人はいると思うけれども、それは趣味の問題。けどそれ以上に、そういった個々のエピソードを束ねて、作品全体として「語りたいこと」が、この作品は弱いと思うんだ。12話の落ちで、たぶん、これが「未練を報わせる」ための話だっていう並行世界の脱出劇の類型で収まるとは思うんだ。まぁ多少の差異があっても、この類型であることを出ないと思う。でもね、そうすると、、、、この「身も蓋もない不幸」ってのは、全然昇華されないんだよね。「物語的に」。

えっとねー、つまりね、物語の大きなテーマとしては、「現実には何も報われないで、ああいう悲惨な現実がありました(死後の世界で幸せな夢見れたからそれで成仏しようね!)・・・・まる。になってします。・・・いや、個々のキャラクターレベルの次元では、どれも昇華されているし、昇華されているからこそ、それぞれの魂は安らかに成仏?しているんだと思うし、ぐっと涙が出るところからも、物語的に完結しているんだと思う。音無やユイの話とか泣いたーーー(笑)。・・・でもね、これって動物的反射の次元を揺さぶっているだけで、感情を「揺り動かすためだけに揺り動かしている」んだと思う。以前、アージュの『君が望む永遠』の記事を書いた時に、動物的快楽のボタンの連打と呼んだが、それと同じで、動物的涙腺のボタンの連打、とでも呼ぼうか・・・・。これはこれで、見事な手法だとは思うし完成されているけれども、、、では、それを束ねた物語のマクロの次元で、、、、トータル、何が言いたいの?ってことが、僕にはわからない。というか、構造としては破綻していないけれども、、、、手段が目的化しているんだよね。つまり、「泣かせること」が優先され、個々のキャラクター単独の物語を完成させる次元が遥かに優先されている。いいかえれば、極論過ぎるんだけれども、「トータルで言いたいことがよくわからない」んだ。


少なくとも、物語のカタルシス問い次元では、起きているエピソードと最後の「報い」のバランスが凄く悪い、と感じません?。というのは、起きた不幸があまりに身も蓋もなくて、それが報われるには、もっともっと「大きな何か」がないと、僕には納得できない。「物語的には」。・・・意味伝わるでしょうか?。もちろん、いやいや、この「物語」は、そういった「苦しみ」を見せることなんだよ?という意見も言えるでしょう。プロレタリア文学ではないですが、そういった「悲惨さ」を直視させるという「目的」で書かれる前衛芸術的な目的の物語も、ありちゃーありです。物語のスタンダードから少し外れるけれども。


えっと、物語のスタンダードは「めでたしめでたし」で終わる物語、というイメージです。「めでたしめでたし」というのは、数字があっているという意味に考えてもらえばいい。つまり、10!っていう出来事が起こったら、10!もしくはそれ以上の出来事が結末やオチにあって、それがバランスされるというイメージです。けど、このAngelBeatsって、10!って不幸があって、、、、その報われ具合が、2とか3とかなんだよねー。だから、あんまり納得がいかない。ただ、難しいのは、トータルのバランスが悪くても、個々のエピソードのバランスは取れているし完成度は高く演出レベルも高い。。。。ので、凄くいい作品であることは否定できない。単純に「だからダメ」ってのが言えない作品なんだよねー。その不幸さの「釣り合いのとれなさ」に、たまらなく美しく残酷で切ない色彩があるのは、この脚本化の才能だと思う。素晴らしいもの。


でもね、こうだとすると時代文脈依存になるとおもうんだよね。 


つまり、個々のエピソードのレベルが高くて、その「全体を束ねる主張(=物語の主題)」が弱い場合は、これって、「受け手がどういう文脈で個々のエピソードを解釈したか?」ってことが・・・・見るとき「正しさ」になる。物語を支配する主題的な支配装置がいないわけだから、解釈の多義性が許されるわけだ。・・・ああ、そういう意味では、現代的な物語なんだなー。それでも、クオリティが保たれるところが、現代のアニメーションの演出力が、「世界の再現」としては高いレベルにあることを示しているんだと思う。


ちなみに、11話でこの戦線の目的に新し思想が出てきました、とゆりがいって音無しの存在をメンバーに知らせるんだけれども。ここでも、物語として、根本のところで「現実に帰る=現実を受け入れる(=音無の意見)」ことを是とするか、それとも抵抗を続けるか(ゆりの意見)は、まだどっちが正しいかは宙ぶらりんになっている。『天使』という存在、、、言い換えれば、この世界に上位者が存在することを11話に至っても否定しているということは、この物語世界の原理は、人間が決めること(=上位者がいない)になっている。脚本家のある種の思想なんだと思うけれども、「この神がいない世界」で、「神を恨むこともできないような不幸な現実が起こったとしたら」それは、「誰のせいでもない」ということになる。その時にどういう風に、その現実を受け入れますか?という問いだ。まさに、神が死んだ現代なんだけれども、こうしちゃうと、物語としていいたいことは「それぞれが決めてくれ」と投げているともいえるんだよね。どちらかというと音無に軍配が上がる流れではあるが、圧倒的に「そっちが正しい」というのではなく、、、という感じだもの。


さて、さらにもう一歩踏み込むと、きっと、「受け手が自由に個々のエピソードを解釈する」場合に、もっとも同時代的にシンクロしやすい解釈のツールは何か?と問えば、そこは、やはり「充実と退屈の問題」のサブの問題系である、「日常と非日常のバランスと接続問題」になるんだと思う(←非常に買ってな決めつけ(笑))。というか、僕には、なんとなーく、そういう物を感じる。というのは、これって日常(=現実)で不幸なことが起きて死んじゃって、非日常(=学園世界)にいるって設定ですよね。つまりは、日常(=現実)に帰りますか?帰りませんか?という問題系になるわけだ。このエピソードを貫くメタな主題が弱いという仮説(少なくとも、僕には積極的な主題を感じませんが・・・皆さんどう思う?)、、、まぁ、これが妥当性がある仮説かどうかは、読んでいる人の感覚にも任せるとして、そうだと仮定すると、現実に帰るべきか(=現実を直視する)という、問題になるわけですよね。ここでいう現実って、、、、、「あの身も蓋もない不幸があふれている現実」なわけですよ。


ここで態度が二分されるのは、仕方がないことですよね。


これってリア充問題とか非モテの議論にリンクするので、僕はそのどっちが正しいかはいまはどうでもいいんですが(今回については)、この作品のトータルの評価を決めるための軸が、受け手の感覚や体験に依存してしまう、言い換えれば、その時のパラダイムに参照されて解釈されてしまう・・・・・ということはつまり、時代文脈依存型になります。それって、どれだけ盛り上がっても、リアルタイム性の「その時の感性」に頼っているものということになると思うんです。


感性という言葉は定義不明で僕はよく使いますが、、、、うんとねーようは、ここでいうのは、主題となる個々のエピソードを解釈するメタな「物語の言いたいこと」がないモノという意味で今回は使っています。つまり感性のモノってのは、「時代の文脈性」…受け手のその時の「感情」にリンクしているんですよね。どういうことかわかりますか?、見る「時」が違えば、解釈が簡単に変わって変動してしまうモノ、なんですよ。


それって、、、、、僕のような古典主義的な・・・・確固とした骨太の「言いたいこと」がうざいほどはっきりしているやつが好き!という人には、一時の消費するモノとして以外は、価値を持たないんですよ。もちろん個々のエピソードに対する偏愛や、こうした「報われなさ」の数字のバランスが崩れているその危うさにこそ物語の美しさを感じる人にとっては、最高の作品と感じる可能性はありますが、、、少なくとも僕は、「もう一度は見ないな」と思うのです。なぜならば、この作品を通して感じるメッセージが、毎回ぶれるし、リアルタイムの「お祭り性」が失われれれば、時代との即応性を失うのでさらに主題がぶれる。。。。なら、もう一度見なくてもいいや、似た作品の「次のモノ」を見ればいいやーと思うのです。


・・・否定しようとしていたが、、、、逆に言うと、「時代との即応性を失った」場合には、逆に、個々の受け手の感情とうまく繊細に響き合うセンシティヴな作品であるのかもしれない・・・。



ちなみに演出力が高く、かつ秀作かつ佳作のような作品としては、『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』も同じなんだが、こっちは、普通の作品だなーと思いつつも、確固とした骨太の物語(=全体を貫く主題)があったし(LDさん曰く物足りないが・・・)、かつ物語の主題は、後で見返したとしてもぶれることがない、、、という意味で、「もう一度見直してもいっかな???」ぐらいの作品に感じる。レベル的には同じ印象なので、その差は、、、、、ということでした。


ソ・ラ・ノ・ヲ・ト 6 【完全生産限定版】 [Blu-ray]