『この世界の片隅に(In this Corner of the World)』(2016 Japan) 片渕須直監督 こうの史代原作 日本の第二次世界大戦の戦争表現を変えてしまうような傑作

この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック

評価:★★★★★星5つのマスターピース
(僕的主観:★★★★★5つ)

素晴らしい物語だった。僕は、人生で見たどんな反戦映画よりも、反戦イデオロギーよりも、ああ、戦争はだめなんだなと痛切に感じました。別に僕は、現実的に戦争は嫌でも軍備なくして平和は守れないと思うし、とかいうリアリズムでいつも考えるんですが、、、、なんというか、そういうマクロの小賢しい話がブッ飛ばされるリアリティを感じた。戦争はいけないとかそういう抽象的な話じゃなくて、こんなことが許されていいるのかという慟哭を感じた。。。こんな風に思ったのは人生で初めてでした。凄い作品なんだろうと思います。なんだったんだろう、あれ。


戦争反対とか、そんな表現は皆無で、ただ主人公のすずの日常を淡々と追う物語なのに。だから、凄い。凄い、と思った。


2016年の邦画・アニメーションの豊作ぶりは。信じられない。見る作品見る作品、全部、もう一度劇場で見たくなる。素晴らしい、もうそれしか浮かばない。素晴らしい物語だった。素晴らしすぎた。絶対見にいったほうがいい。これもシンゴジラと同じく、日本の物語の表現を変えるレベルの作品だろうと思う。一つ深い後悔は、、、、なんでクラウドファウンディングで参加しなかったんだろうと、ちょっと思った。なんで、貢献するために、何とかもう一回見にに行こう、とない時間をなんとか調整できないかと、考えるのしきり。



しかし、何だったんだろう、あの映画体験。



久々に、なんか言葉にしにくい、できないクラスのなんかすごい体験をした感じがする。僕のブログは、ちゃんと考えていないで考えながら書いているので前置きも長いし、なんかよーわからんぐだぐだの文章になっちゃうんですが、なんか周りの友人に薦めまくっているんですが、少しでも映画館に足を運んでほしくて、早く書かないとと思っていて・・・・。まだもやもやっとしているんですが、言葉にすると「主人公のすずの主観にフォーカスした作品で、ほとんど戦争のことは全くマクロ的には描かれないし、別に反戦なんか一つもいっていないけど、凄い戦争がいけないものなんだと感じさせる」という最初の書いた言い方になるんだけど、なんかうまく説明できないんですが・・・・・もう少し頑張ってみます。


驚くほど緻密に作り込まれた生活描写を背景に、リアリティ溢れる登場人物の心の機微が伝わってくる。
まるでこの時代にタイムトラベルして、映画に登場する人たちと出会い、しばし生活を共にしたかのような、不思議な感覚。

実写でなく、原作のタッチを生かしたアナログ感のある詩的なアニメーション表現が、より“器”としての普遍性を増している。
爆弾と砲弾の破片が降り注ぐ、恐ろしくリアルな戦争描写がある一方、漫画的なキャラクターの豊かな表情には、誰もがほっこりとさせられ感情移入を拒めない。
人間界の争いなど関係なく存在する豊かな自然の描写は、アニメーション界のマリックと言っても過言ではないだろう。


http://noraneko22.blog29.fc2.com/page-1.html
この世界の片隅に・・・・・評価額1800+円
ノラネコの呑んで観るシネマ



けど、これが戦時下の「日常」を描いた作品であること。「日常」を普通に生きようとする強い意思を持ったすすという女性の日常が暴力によって、ずたずたに引き裂かれていく物語の後半と前半の「落差」が、この作品をとんでもない傑作に仕上げているのだろうと思う。


戦争という暴力によって、日常がずたずたに引き裂かれるのは、なんというか当たり前だし、たくさんの悲惨な表現がある。僕もたくさんの戦争映画や漫画、小説を見て来た。けれども、これがとんでもない強い効果を感じるのは、なぜだろうか。僕は、ここまで戦争が怖いとリアルに感じたことはなかった気がする。小学生の時に『はだしのゲン』を読んだ時も、悲惨で怖いと思いはしたが、こんな世界が壊れるほど怖いと、痛切に思いはしなかった。理由は、これまで見た作品は、今、自分が生きる日常と「地続き」になっていなかったんだろうと思う。



この戦時下にあっても、しかも自分の意志を全く反映できずに嫁に行かされ、家庭のすべての家事をひきうけるのが当たり前という女性の権利が全くない生活がこれでもかと描かれる。いまの僕らの現代からするとありえないような不自由な日常において、すずという主人公は、それでも日常を踏みしめて、受け入れて、豊かに生きている。その日常を「生きる」ということが、深く深く描かれ染み入って感情移入したところから、ズタズタに壊れていく。そしてマクロ的な描写が全くないが故に、なんでそんなことが起きるのかが全然わからないし、仮に分かったところで、自分の結婚すら自由に決められない立場の人が、そんなマクロの出来事にかかわることなんか、まったく不可能な無力感が合わさって、日常と非日常の落差が、凄まじい破壊力を持ったのだろうと思う。



すずさんは、豊かに日常を生きていると書いた。けど、単純に楽しい、というわけじゃないだろう。夫の小姑との関係で円形脱毛症になるくらい苦しんでいるのに、一切文句を言わないし感情が爆発しないのは、一つにはそれが当たり前で嫁が嫁ぎ先でいびられたり立場がないのは、そもそも当たり前の話だったんだろうし、そんなどうにもならないことが、空想や絵に変わっていってしまう、いまでいう天然な人なんだろう、すずさんは。この時代はそれを受け入れていくことしか、そもそも日常を生きる市井の人々にとっては、選択肢はなかったんでしょう。たぶん心を病んだ人や、使えなくて実家に戻されたり、帰るところがなくていじめぬかれたりすることもあったのだろう。でも、どんなに自由になった現代だって、僕は変わらない部分があると思う。それは、日常は生きていくこと、小さな僕らには受け入れて抱きしめていくしかない、ってことです。原作のエピソードで描かれていない部分の一つとして、白木リンさんのシーンがあるんですが、彼女が遊郭に売られて行ったこと、ちょっと、ほんのちょっとの経済環境の差で、すずだって、そうなっていても全然おかしくないことは、見ていれば行くよくわかる。そういう時代だったのだ。そう思うと、自分の人生を、自分で変えられない無力感は、いっそう深まりました。



・・・・でも、すずは、それをちゃんと「抱きしめて生きる」ことができる人だと思う。この感覚の在り方を、昔に、津田雅美さんと羅川真里茂の比較で話したことがあります。受け入れることは、あきらめることとは違う。


細かいネタについては、ネタバレになるので置いておきますが、どの現実の苦しい設定・・・・ひなこがどんなに好きでも二度とテニスはできないことや、滝田の性格などはとにかく「変えようがないもの」として、厳然として存在します。


たぶん未来も変わらないでしょう(笑)。『赤ちゃんと僕』も結局は、母の不在という側面は、最初から最後まで事実としてしか存在しませんでしたし。そのための解放を描いた、というドラマツゥルギーも存在しません。


そう、羅川さんは、悲しみや苦しみを


受け入れて抱きしめていくもの


と、認識しているんだと思います。そして、本当に解決できない現実とであった時・・・・たとえば、最愛の人の死に出会ったときに、人間ができることは、「これ」だけなんだと思います。


つまり物語のドラマツゥルギーをエンドに持っていく行き方が、



津田雅美さんは、負の現実を克服して変えて行くこと、



②羅川真理茂さんは、負の現実を受け入れて昇華して行くこと



を、最終ポイントに持ってくる点で異なるといえます。



だから、羅川作品は、どこまで言っても、物語上の、登場人物たちの「悲しみや苦しみ」という基調低音は、まったく解決されません。ただ、静かに受け入れて、それを噛み締めて前へ進んでいくだけとなります。物語ですし、青春を描いているわけなので、もちろん前向きに成長して行きますし、その悲しみを受け入れて乗り越えては行きます。


が、津田雅美さんのように、解決して、解放された!という印象を僕はまったく受けないのですね。だから作者は、悲しみは、解決するものではなく、受け入れていくものだ、と認識していると、思っています。



・・・・・・・・・・非常に微妙な認識の違いなのですが、伝わるでしょうか?




しゃにむにGO』 23巻 羅川真里茂著/悲しみの受け入れ方
http://ameblo.jp/petronius/entry-10013996319.html


僕は、悲しみを受け入れて抱きしめて生きていくことが、ネガティヴだとは思っていません。「抱きしめる」という表現をしているのは、「悲しい」ことを、自分が不幸であるというう被害者的な物語にして、解決を放棄する理由にするというのとは違うと思うからです。この二つは、全然違うものです。



だからこそ、日常が、深く足についた感じがするのだろうと思う。すずに感情移入するときに、いま生きている生活の実感を深く受け入れているからこそ、深く日常を感じる。それは彼女が、日常を肯定して、受け入れて、現実を踏みして実感して生きているからでしょう。


この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)


最初に、この感じの作品なので(漫画を読んでいたので)、思い込みで80−90分ぐらいの短い映画だと思っていたら、2時間を超える大作だといわれて驚いた。日常の小さなエピソードの塊の原作をどうするんだろう?って。それぞれに小さく完結している話は、全体のドラマトゥルギーを生み出すんだろうか?って。雑な言い方をすれば、飽きてしまうようだれた日常系的な、すずさんほっこり映画にでもなっているんだろうぐらいに思っていました。



けど、2時間、最後まで息一つつけないほど、引き込まれて没入させられて、驚きました。2時間でも入りきらないエピソードが、次々に描かれるスピード感。ダレなどというものは全く感じなかった。そしてその濃密のスピード感にもかかわらず、没入するには理由があったと思います。



それは、緻密に深い思いをもって再現されている戦前の広島の街の美しさです。



ここ10年ぐらいのアニメーションは恐るべき進化を遂げている気がします。演出や基礎技術のレベルが、素晴らしい。前に日常系の到達地点だと絶賛した『ゆゆ式』やそれらの出発地点的な『けいおん』などの作品を、ずっと言及してきましたが、これらの日常系といわれる作品群が、なぜすごく「見れる」というか、深い感情移入や感動をもたらすかというと、一番大きな部分に、基礎的な演出・アニメーションとしての静止画、動画のレベルが、過去に比べたら圧倒的になってきていると思うんですよ。『けいおん』がただの学園の女のたちの日常を追ったものだとしても、そこに描かる季節や空気感、時間の流れを濃密に感じさせる画面の情報量。それが、「ただの日常」言い換えれば、ドラマチックであるとはいいがたい出来事に深い没入感を感じさせるのだろうと思います。この戦前の広島の街の圧倒的な美しさは、これらの技術の積み重ねがあって、生まれてきたものだろうと思います。原作者や監督がいたとしても現場の基礎の経営や技術のレベルが上がっていなければ、こんなものどうにも描けないでしょうから。いまのアニメーションスタジオは、みんなこのレベルで作品を作るので、テレビシリーズでも昔のようなありえないレベルの作画崩壊や演出のレベルの酷さというものが、すごい少なくなった気がします。


この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)


見ている途中、僕は、過去に、日本の江戸時代末期の美しき東京を描写した『逝きしの面影』を読んだ時のセンスオブワンダー思い出しました。

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)


著者が、最初の始まりに、あまりにおうぎょうに大げさに「古き徳川期の文明は消え去ってしまった」というくだりは、ほんと大げさだなーと、斜に構えて読んでいたんだが、それが、具体的な豊富な引用と最新の学説をわかりやすく統合して、説明されていくと、衝撃が胸を駆け抜けていく。途中で、ル・グィンの『闇の左手』を初めて読んだ時のような、全くの異なる文明、異なる世界へ旅をしているような、異世界体験を感じる。ここまで見事で深い異世界体験は、最高級レベルのファンタジーでもなかなか味わえない体感感覚だ。読むだけで、異なる世界へ引き込まれる。


http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20101117/p4
『逝きし世の面影』 渡辺京二著  「異世界たる古き日本」へ僕らをいざなう最上級のファンタジーにしか思えない

そう、戦前の広島は、失われた異世界の日本のようなもの。圧倒的な濃密な生活の日常が、信じられないクオリティで再現される。そして、このすすさんという人が(いいかえれば、原作者や監督が)、現実にすぐ影響されて、「戦時中の日本は悲惨で貧しくて最低の生活」であるようなステレオタイプにそまらないものだったのがよかった。すずが、不幸だと思って耐え忍ぶのでもなくれば、現代の感性や道徳を持っているわけでもなく、物事受け入れていくしなやかな人だったからこそ、へんな夾雑物がなかったのだろうと思う。


世界は美しいのだ。物語は、単純にドラマトゥギーの落差やダイナミズムだけでできているわけではなく、もう半分に現実の再現、現実、モノそのもののリアルという強度の側面を持っている。たとえ戦場で悲惨な地獄が展開されていようと、現実そのもの、モノそのもののリアルが、圧倒的な美しさを持っていることは、疑いがない。その「現実の圧倒的な強度」に触れることは、人間の幸せの原点の一つなのだと思う。なんだか、テレンスマリック監督の『シンレッドライン』を見たときのことも少し連想しました。現代の日本から、過去を弾劾するよな、よくある卑怯な視点ではなく、その時代の、それ以外の未来が見えていない「その時を生きている」人の視点で、先入観なく2時間近く圧倒的な情報量を詰め込んだハイクオリティの「戦前の広島の生活空間」が再現され続けるのです。しかも、すずの主観に徹底的にフォーカスしている演出。



没入しないわけがない。戦前の広島は、それがそこに描かれるだけで、センスオブワンダーをもたらす美しさに満ち満ちている。



そして、物語の最後の最後で、それが、ズタズタに引き裂かれ、破壊されていく。



広島にしても呉にしても、現代の戦争は、街そのもの、空間そのものを根こそぎ消滅させてしまうことが恐ろしい。あれだけ生活を過ごした大事なものが一瞬にして無に帰す。総力戦時の重要な戦術の一つとなってしまう都市の爆撃破壊、市民の無差別殺戮が、戦争犯罪と位置づけられるようになっていく意味を実感しました。ゲルニカで、重慶で、ロンドンで、ベルリンで、広島で、長崎で。


日本は被害者でもありますが、加害者でもあるんですよね。戦争に負けた後、さらっと、街に太極旗が上がっているシーンは、見事だと思いました。原作にとても忠実ですよね。


ちなみに、この作品の日常が暴力で壊されていくことを見て、反米的な感覚が生まれたとしたら、、、というか、そんなこと思いもしなかった。だって、だれ一人、アメリカを憎んでいる人を、外国を憎んでいる人が出ても来ないんだから。それを考えるほうが、おかしい。けど、この銃後の世界は、外地で日本がどれだけの悲惨さによって成り立っているか、それを無知なままなことが、どんなインパクトをもたらすかは、手垢についたイデオロギーもなければ、憎んだりすることもなく、マクロを考えることもない生活空間がずたずたに破壊されていることで、ちゃんと表現として物語として痛切に伝わってくる。


むしろ、そういうマクロ的な表現がほぼ皆無であり、アメリカを憎んでいる人もいなければ、中国や南方のことも全く描かれないことこそが、この映画の物語の普遍性獲得に一役買っていると思う。マクロの欺瞞が、この悲劇から読み取れない人は、どの道、いつの時代でも簡単に為政者に、時代のマクロに騙されるでしょうしね。そこが全く描かれていないことが、この作品の魅力だし傑作の証拠だと思います。そしてにもかかわらず、太極旗のワンシーンのカットは重いと思うのです。そういえば、関係ないですが朝鮮の李鍝王子(日本陸軍中佐でちなみに戦前では日本の皇族扱い)が戦死したのも原爆ででしたよね。お付きの武官であった吉成弘中佐は、殿下を十分に警護できなかったと自決しているんですよね。あのエピソードは、浅田次郎さんがどこかで書いていて、凄い印象に残っているんですよねぇ。まぁ、あこれは、関係ない話ですが。





さて原作に忠実に、昭和9年のすずの子供時代からはじまるのですが、エピソードごとに、昭和の時代が進んでいく様は、まるで終末へのカウントダウンように、胸を締め付けました。



この深い没入と、消え去る前の戦前の日本地方都市の、消え去る以前の「日常の生活空間」への深い没入の後、、、、それは、いまの僕らと変わらず、生きることの苦しさに満ちているけれども、それでもやはり「生きるに値する素晴らしさ」に満ちている世界が、一気に消失して変貌していく様は、凄まじいインパクトを見るものに与えます。



いままでの戦前を悪と描いたイデオロギー映画や反戦映画ってなんだったんだ!!と、思って驚きました。ああいうのは、逆に反対側の価値観に振らせてしまったり、なんでも善悪で考える単純な思考の持ち主を量産して、結局、反対のための反対をして幻想を見ているだけで現実は戦争に戻っていくだけじゃないかと思いました。



この作品は、もちろん、すずさんの魅力的な人柄や、それを主観にして追っていく没入感、またそれを何倍増にも増幅させる戦前の日本の生活空間の緻密な再現など、物語としてもアニメーションとしても、何もかもが超一流です。



けど、それだけではなく、きっと、戦争映画の表現に新しい一ページを加えた気がしてなりません。



だって、日本の戦争体験や戦前を描くときに、もしこの作品もたらす感覚を抜きにして描いたら、とても古臭く、且つレベルの低いものに見えてしまうと思うから。


すずさんの日常は、いままでほとんど描かれなかった、戦前の日本の生きていくことの肯定に満ち溢れている。そして日常生活から溢れ出る戦前の美しい日本を描いている。そして、それが根こそぎ壊してしまう都市への爆撃がいかに残虐な行為なのかを痛切にわからせてくれる。この日常がズタズタに壊されることで、いかに世界が暴力と欺瞞に満ちているか、あからさまにされている。



本当に素晴らしい作品です。



そして、、、、、それでも日常は続いていくことが、昭和20年の8月以降も描かれているところが、凄かった。



本当に凄い映画体験でした。



ぜひとも、こうのさんの他の作品も、読んでほしいです。ちなみに、漫画も映画もどっちも、圧倒的な★5です。


「周作さん、ありがとう。この世界の片隅に、うちを見つけてくれて」
この世界の片隅で、小さな宝石のような映画と出会った。
作ってくれて本当にありがとう。
この映画は、ヒットさせねばならない。


http://noraneko22.blog29.fc2.com/page-1.html


ノラネコさんは、こうおっしゃっている。僕も凄く同感です。



この映画は売れるべき、売れてほしい。そして、時代に残ってほしい。日本人が見るべき物語だと思う。


夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)