評価:★★★★★5つ
(僕的主観:★★★★★5つ)
やっぱりSAOは面白いなー。小説としてできがいいし、読みやすい。そして「異世界に行く」という非日常の冒険譚こそ、やはり僕が最も好きな物語の類型。さまざまな意匠はあるものの、これが少年が冒険する物語であるという基本軸がずっと失われないところが、とても美しい物語になっているんだろうと思う。
正直言って、前巻のファントム・バレット編は、キャラクター自体がとても好きになっているだけに、とてもおもしろい出来なのだが、テーマとしては繰り返している(=しかもアクセルワールドと同じ)ので物語としてはだらだら続けているというマンネリな印象を感じかけていたんですが、7巻の「マザーズロザリオ」で、一皮むけたというか、「SAOの持つ主題のテーマ」にさらにぐっと深く足を踏み込んでいて、僕は感心しました。最初の頃から「小説を描く力」については絶賛しているんですが、うまいですねぇ。この展開があるということであれば、「ファントム・バレット編」をマンネリといったのは、僕の不明ですね。すみません。
ちなみに、SAOの主題は、最初から「ゲームの中の体験」と「現実の体験」に差異はあるものなのか?という問いかけです。単純ですよね、ゲームの中の体験が、意味を持つためには?と考えて、その中でも死んだら死にますという設定をつける。そうすれば、ゲーム自体にも現実と同じ意味が発生する。この「問いかけ」自体が、マクロ的な背景となって物語の軸にセットされているので、「この問い」自体が進歩しなければ、物語自体はキャラクターたちに感情移入していれば楽しいですが、真の意味で「面白い!」とは思わないと思うのです。背後の主題(=僕のいい方でいればマクロの主題)とキャラクターたちの関係背が織りなすもの(=ミクロの関係性)がバランスよく関係して前へ進んでいくという状態・・・この時、物語は、一番面白い!という状態になると僕は思っています。
ちなみに、このマザーズロザリオは最後の場面で何度読んでも僕は泣いちゃうのですが、物凄く良くできてはいるけれども、パターンとしては良くある話だし、よく見かける悲劇のパターンです。このお涙ちょうだいの部分をもって素晴らしい!とは言いません。いや、素晴らしく泣けるんですが・・・・うう、、、ユウキぃぃぃぃぃ・・・・いやなにかというと、やはり、この物語自体のソツのない落とし方ではなく、この背景にあるバーチャル装置を終末医療に利用する・・・クオリティオブライフに利用するという設定が非常に興味深かった。まさに、ぱすたさんと砂さんがコメントでいただいた部分こそ、興味深い部分です。川原さんが、元々の主題を様々な展開で広げている一つの方向性として、ここに来たのはとても興味深い。
ぱすた 2011/06/02 21:40この話を読んで感じたことは、将来高齢者はバーチャル世界で生きることを選択するかもしれないとことです。
体も自由に動かないし、話し相手はいない(1日に一言も話さない高齢者は多い)高齢者にとって、バーチャル世界は福音といえる。
現実世界よりもバーチャル世界のほうが、自律しており、他者ともつながり、結果生活の質が高いとなれば、
現実世界に生きる意味はどこにあるのか?現実世界はチューブにつながった状態でいいじゃないか、という結論に至ります。
社会福祉費用を投入するよりも、コスト的にも見合うだろうし、最後の壁は倫理観だけです。
しかし、障害者がよくて、高齢者がだめという理由もないため、現実には選択可能となる気がします。
高齢者がよいということになると、若者でもいいじゃないかという話になりそうですが、
これは、今のゲームと同じで、生産活動をしなければ生活できない(高齢者は生産活動をしてない)という理由で難しそうです。
実際、作中でも学生だけが対象となっているわけです。
ペトロニウスさんがどのような視点で面白いなと感じたか、知りたいです。
砂 2011/06/07 20:51
>将来高齢者はバーチャル世界で生きることを選択する
インセプションで描かれてましたね。バーチャル世界に生きる老人達。
夢であろうとその人たちにとってはそこが現実。
どこが現実で何処が夢かは区別もつかなくて、結局は本人がどう思うかであって本人がそうだと思えばそこがそうなんじゃないかって問いかけるラストだと感じました。
マトリックスは夢を見てる人達を機械からの解放という名目で酷い現実に呼び戻させる身勝手な話でしたが、あの作品は機械が人間に害を加えなければ結構理想に近いシステムなんですよね。
こういった作品はバーチャル世界が現実味を帯びる時代になれば視聴者の感想が変わってくるんでしょうねー。
今の時代は技術による夢のような世界は否定されドMの様な世界を肯定する傾向がまだあるので。
最後に友好的な否定意見って何なんなのか基準がわからないです。
ちなみに、マザーズロザリオだけでは、最初の主題である「ゲームの中の体験」と「現実の体験」に差異はあるものなのか?という問いかけ自体は、まだもう一歩進んでいません。これも1巻の問題提起の敷衍です。ようは、「死」ということと「脱出不可能」という所与条件が与えられると、どこの世界であっても人気にとっては、そこは現実と同じ意味を持つ、ということです。これ自体は、別に不思議でもなんでもない当たり前のことです。しかしながら、バーチャルな世界は、「選択可能である」・・・いいかえれば、現実ともう一つの現実が、二重の状態で「選択性を持って存在する」ことが、重要な示唆です。ここでポイントとなるのは、ユウキらスリーピングナイツの面々、、、、というかユウキなんですが、彼女のように「そもそもそこの世界の中でしか生きられない」という人間と「選択性を持った人間」との権利の扱いはどう異なるのか?またそれらの異なる存在の人間同士が結ぶ関係とはどういうものか?というのが、僕には興味深く感じました。ここまで問題設定がくれば、次は必ずそこへ行くでしょう。あと、「もう一つの世界」が、実際には、本当にどんな世界なのか?というのも、、、まだ未知なるフロンティアですよね。。。フロンティアを描写するだけで、それは見事な冒険活劇になるんですよ、、、。・・・そして、、、どうも何となくわかってきたが、これって、時系列的には『アクセルワールド』ってこのSAOの少し先の話ですよね、、、なるほど、繋がっているんだ、、と思えてきました。