『社会派ちきりんの世界を歩いて考えよう!』 ちきりん著 センスオブワンダーが世界をキラキラさせる

 
社会派ちきりんの世界を歩いて考えよう!

評価:★★★★★星5つ
(僕的主観:★★★★★5つ)



■はじめに〜とにかくいいたいこと

大ファンで毎日読んでいる(更新がない日は過去にさかのぼって読んでいる。一日一読。)ちきりんさんのブログで、『世界を歩いて考えよう!』の書評コンテストをするというので参加してみました。理由は、ちきりんさんが大好きだから、この大好きな思いを表現したくて書きました。大好きです!。(二回いいました。重要なことなので。)うむ、これを言いたかった(笑)。これで目的は達成いたしました。なぜならば、コンテストをするというくらいだから、読んではくれるだろうということで、確実に目に触れる形で、ちゃんと愛を告白しておきたかったのだ(笑)。ちきりんさんのブログで、本当にいろいろな見方を体験できたり、考えるきっかけをもらえてうれしいです。

http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20120602




1)「自分のアタマで考えること」は、快楽につながる?

さて、本の書評をしなければなりませんね。まず、ちきりんさんのブログ、その主張の大きなテーマの本質は、「自分のアタマで考えよう」ということだと思っています。まさにタイトルになっている本が出ていますね。

自分のアタマで考えよう

けど、「自分のアタマで考える」というのは、実はとても難しいのです。僕は、かなりの規模の組織でマネージャーをしていますが、自分の部下や友人家族、たくさんの人と話していて、みんな自分で物事を考えて、自分の言葉で全然しゃべれないんだな、といつも不思議に思うことがあります。もう、人種、国籍、年齢、肩書なんも関係なく、みんな考えていない(笑)。何かの出来事があってその感想を聞くと、それらしいステレオタイプなコメントをくれるんですが、コンサル的にso what?(だからなに?)と、トヨタではないですが5回まで行かなくと最初の1回目で躓くことが多いです(笑)。それ、考えてなさすぎ!と思うんですが、世の中のほとんどの人が、そうだから、とても不思議に思うんです、いつも。



なぜ不思議か?といえば、それは、「自分のアタマで考える」ことが物凄い快楽だからだと僕は思うのです。


なぜ、みんなしないんだろう?、と。



自分の言葉でものを考えて、自分で思考を蓄積していくと、何が起こるかというと、世界がキラキラしてくる感じがするんです。なんか、凄いわくわくする。僕は、だから、いろいろテーマを持って自分で、とにかくしつこく考えるのが好きです。だから、もう何年もこんなウルトラ長文ばかりのブログを書き続けています。別に誰が読んでくれなくてもよくて、自分が思考を積み重ねてきて見えてくるものの、輝きに満ちたワクワク感は物凄い快楽だからです。何度か書いたことがありますが、大学時代の尊敬する教授に、知的な快楽というのは、SEXのような瞬間的な花火のような快楽とは違って、ずーっと花火が上がり続けているような最高なものなんだぜ!!と言われて以来、そんなに凄いのか!と感心して、いろいろ試してきました(笑)が、それは事実だと思うんですよねー。質は違うものですが。



だから、なぜ、みんな、そういうことを求めないんだろう?といつも不思議な気持ちになります。



けど、理由はわかります。「自分のアタマで考える」というのはコストがかかることだし、技術も時間の蓄積も必要なことだからです。そして最も大きな問題点は、自分で思考することによって、物事の見方を自分の身体で感じて、世界かキラキラすることを自明に体感するという経験が、意外と難しいからだと思うのです。



だから、どうやって、そのキラキラするような体感を再現するかの導入方法を、僕なりの経験で説明してみようと思います。





■センスオブワンダーが世界をキラキラさせる〜1人で長期間のバックパッカーのすゝめ


僕は、この類の快楽を、体感する方法で、ずっといいなと思っていることがあります。それは、



長期間(最低一週間以上)の一人での海外のバックパッカー



です。僕も学生の頃に、バックパッカーでかなりの数の国を旅しましたが、旅をして、最初の数日間を超えてくると、なんだかよくわからないのですが「意識がすごく切り替わる」気がいつもすることに気づきました。経験上、だいたい5日ぐらいを過ぎてくると、日本の日常モードの感覚が、何か違うものに切り替わる感じがします。これは、海外から成田空港に帰ってきて、成田エクスプレスに乗っている時に、日本語の表示を見たりニュースを見ると感じる違和感と同じものです。



この「意識の切り替わり」というのが何か?



といえば、言葉が通じない、自分の常識やルールが通じない、そして、同行者がいないので(=一人なのが重要)何をするのでも自分のアタマと意識がきちっとリンクしていなければならない、言い換えれば、日本に住んでいる時のように、周りの空気に従ったり、ステレオタイプな言説や常識に従うといった『作法』が全く通じない、自分の行動が、自分の主人でなければならない、という感覚がもたらすものだと僕は、思っています。



この「意識の切り替わり」には、いくつか条件があって、すぐ思いつくのは、



1)1人で数日間以上、日本語で会話をしない。
  英語が流暢なら、英語もしないほうがいいかも(笑)


2)『地球の歩き方』など、有名すぎる観光地や既定ルートはいかないし設定しない


3)観光地に行くにしてもポピュラーで合理的なルートをなるべく使用しない
 (タクシーなんてもってのほか!出来るだけ歩け!)


4)一つの街を、ぶらっと目的を設定せずにダラダラ歩いてみる
 (ちなみに、目的は、同じ町に数日滞在すれば消失しますので、だから一週間以上の滞在が必要です。推奨は1か月!)



みたいなことすると、切り替わりやすいのです。最初は凄く不安なのですが、それを過ぎ去ると、なんだか周りの景色がキラキラし始めて、非常に前向きで気分がハイな感じになってくるのです。これって、ようは、脳の働きが、普段は周りの風景をの情報を遮断してルーティンワークに従わせているものが、それができなくなってフルに回転している状況なんだろうと思います。哲学的に言うと西田幾太郎の純粋経験とかコリンウィルソンの『至高体験』とか、そんな感じのもの。まぁ難しいのは、どうでもいいのですが。

至高体験―自己実現のための心理学 (河出文庫)


これって、麻薬のような魅力があると思います。バックパッカーにはまる人の精神構造って、こういうのにやられている部分が多いんじゃないかなーと思うんですよ。エジプトとかチベットや東南アジアとかで、なんかずっと日本でバイトで稼いでは、長くダラダラ現地で暮らしている日本人を当時たくさん見ましたが(経済格差を利用したこういう暮らしをする、似たような欧米人も多かった。)、この日本にいては体験できない感覚が病み付きになるんだろうと思います。いろいろ、聞き全く感じから、これってなんというか、薬と同じものなんだな、と思うようになりました。気分が落ち込んだときに、無理やりドーピングでハイにしているようなもの。これって薬と同じだから、「帰ってくることが大事だぞ!」と、友人になったやつらに何度もいいましたが、帰ってこれない人が多いですねぇ(苦笑)。これって「小説家になろう」の素人小説のランキングサイトで、異世界ファンタジーが多い理由と全く同じだと僕は思っています。異世界ファンタジーもののポイントは、「いま、ここでない世界」に行くことによって、当たり前に感じていたことを、もう一度見直す契機の部分が、魅力だからです。


この「意識の切り替わり」によってもたらされる感覚が、SFでいうところのセンセオブワンダーなんだろうと僕は思っています。ちなみに、この言葉は、レイチェルカーソンの下記の作品からきているようです。僕は、子供が生まれた時に友人から送られて初めて読みましたが、『ウォールデン-森の生活』を書いたヘンリー・デイヴィッド・ソローから連なる自然を愛するアメリカ人らしいいい本だな、と思います。ちなみに、このソローの作品も、文明生活を見直すために、文明の届かない森の中の小屋に住んで、自分の内面を見つめなおす過程で自然の美しさを発見する、みたいな流れのもので、どうも、自分の日常に埋め込まれている環境から自分を切り離すことによって感覚を変えるというのは、気分を変える典型的な方法のようですね。

センス・オブ・ワンダー





■テーマを持って世界を体感しよう〜細かい気づきをするには勉強と観察眼が必要


さてさて、僕の文章はいつも導入が長すぎるなぁ・・・・。まだちきりんさんの書評に入っていないよ(苦笑)。さてさて、上記のような、自分を日常から切り離して一人になると、内面の声が聞こえる!(byソロー)とか、いろいろななんか宗教ちっくなことがいえるんですが、まぁそれはおいていて、とっても魅力的な「体感感覚」なので、これはぜひ皆さんい体験してほしいです。長期間の目的レスのバックパッカー的な旅は、大学時代でないと日本社会では難しいので、まずは経験として、学生時代に経験することを、僕はいつもおすすめしています。


けど、、、、、、さっき、薬みたいで、といったのですが、この「センスオブワンダーによる意識の切り替え」って、自分の意志による再現って難しいんだよなーという不満が、たくさんの異国を旅していくうちに思うようになりました。もう少し踏み込んでいえば、なにも、海外に旅をしなくても、日本の日常生活の中で、「この感覚」を再現出来ないか?それのほうが、楽しいじゃん、と思うようになりました。




ではどうするか?



この僕が勝手に名づけているところの「センスオブワンダー」というのは、ようは、基本的に頭をフル回転させて周りの環境の情報を読み取って起きるものなんですが、それって、ようは「他人のステレオタイプな意見や空気に従わないで、自分のアタマで自分言葉でものをよく考えて」、その環境の背後に隠れているものを探したり、小さな違和感を比較して考えることによって、同じような効果が起きるんですよね。



・・・・それって、ちきりんさんが、いつもいっていることだし、何よりも同名の本のタイトルまであるじゃん(笑)。この知的な快楽、、、自分のアタマでものを考えることによる喜び、快楽というのは、まさにこの『世界を歩いて考えよう!』という旅を推奨する話と全く本質的には同じことをいっていると思うのです。いい本は主張したいことの本質がみんなつながるもので、この本を楽しむためには、ブログとその他の本もちゃんと関連させて比較して、共通の何をか自分のアタマで考えながら読むと、絶対に面白いと思います。おおっ、ちきりんさんの主張と、重なったぞ!(←俺、えらい(笑))。ということで、じゃあ、



日常なにも感じず何も情報を読み取らずに「流れて消えて行ってしまう風景」から何かを読み取るためにはどうすればいいのか?




というと、テーマを持って世界を見よう、ということです。僕はよくいう言葉ですが、書を捨て街へ出よう!って嫌いな言葉で、



書を持って街へ出よう!



でいいじゃないか!っていつも思うんですよ(笑)。自分で「流れて消えて行ってしまう風景」から解釈を読み取っていく技術は、最初に言ったように、とても難しいスキルで、誰にでもできる技ではありません。でも、真似したり、ちょっと借りちゃったりすることは、簡単にできます。ちきりんさんが、長い時間をかけて世界を旅して考察を重ねて体験している快楽に比べれば、何十分の一かかもしれませんが、それでも、無味乾燥な風景が流れる(=解釈の存在しない茫漠とした感覚)ことよりは、ちきりんさんの真似をして、こういう見方もあるのか!とセンスオブワンダーを追体験するのは、僕はとっても楽しいことだと思います。何でも最初は、猿真似から始まるんだし。ということで、とっても抽象的な説明になってしまいましたが、では、いろいろな国で具体的な経験から、その背後にある本質を読み取って、とぉーーーーっても、いっちゃうような楽しさを得るには、どうするか?ということを知るには、ぜひ、ちきりんさんの本をすべて買って読んでください(笑)。まぁ、ブログでもいいんだけどね。ブログも更新日毎に、コツコツ読み続けていると、思考をトレースできるようになってくるので、凄くいいんだなぁこれが。


まぁ、自分のアタマで考えて、世界を楽しむってのは、結構難しいスキルだけど、まずはちきりんさの本を読んで、海外旅行をしてみて、彼女の視点やお薦めでものを体験してみて、その次に自分をちょっとづつ付加していくのでいいじゃん、と僕は思います。・・・・そうすると、とっても世界はキラキラ、わくわくする・・・・かもしんないです。ほんとにそうなるかどうかは、わかんないけど、僕はまーそうです(笑)。





3)歴史という時間(縦軸)と旅行という空間の移動(横軸)は、だべるネタとして最高だぜ


まぁこれは、最後に蛇足ですが、、、、長く書きすぎたので、疲れたので最後のつけたし。モノを考える時には、縦軸(歴史・時系列)と横軸(現在の環境マッピング、空間の移動)が、深く考えるのに必要なんですが、やっぱりねー歴史を知って、かつ、空間的に広い距離をたくさん体験してくると、なんというか、『世界』がこんなふうになっているのかぁぁーーーって体感が訪れて、本当に楽しいですよ。そんで、僕は仕事以外では、いま子育てに忙しいので、あまり海外旅行には行かなくなりましたが(まぁ仕事ではよくいきますが・・・)子供の頃、共産党統治下バリバリの中国にいったことがありますが、それと、大学時代に行って、さらに仕事では何十回も訪れているんですが、時間的に言うと20年以上定点観測しているようなものなんですが、その圧倒的な変化には、本当に腰を抜かしますよ(笑)。頭だけで知るだけではなく、その違いを体感して(友達もたくさんいるしね)、自分の「自分史」の中に繰り込まれていると、歴史もニュースも仕事の分析のマーケティングさえも、超おもしろい!!!ですよ(笑)。やっぱねー勉強は、たくさんして、たくさん行動すると、人生はとっても楽しいです。何は、なくとも、それだけで楽しい。僕は、日本のまぁでっか会社に勤めていますが、日本中、世界中に出張に行けて、神様ありがとう!!!といつも、感謝しています。いやーなかなか、家庭ができちゃうと、昔みたいにふらっと数か月中東に行きます、とかそういうのは許されなくなっているんで(笑)。そして、もっともっと、楽しくなるのは、そういうことが好きな仲間とダラダラしゃべることです。これが、もう最高の幸せ。オタキングこと岡田斗司夫さんが昔『オタク学入門』で、ただ単に受け身で体験するのは楽しみとしてはちょっと弱くて、それを好きなやつらで話し合うのが最高に楽しいんだ、みたいなことを言っていたのを思い出します。これって、受け身の喜びよりも、能動的に主体性を持った行動のほうが喜びが大きいと言っているんだと思います。

オタク学入門 (新潮文庫 (お-71-1))


何がいいかって、「ダラダラだべって話し合うの」って、物凄く楽しい割に、お金が全然かからないし、体力もいらないことです。これは、老後リタイアになってから20年間ぐらい?(60くらいから80くらいまで?)も十分楽しめるんですよねー。だから「話せるだけの体験」と「自分のアタマで考えた意見」と、そして「それを話せる友達」を持つことが、人生をチープにより深く楽しめる重要な要素なのではないか、と思ったりしちゃったりします。




ということで、超長くて、いつものごとく、だれが読むんだこれ?という物語三昧の書評でした。