「認識の変換のトレーニング」にブログを読み続けるのは向いているかも

ゆるく考えよう 人生を100倍ラクにする思考法


ちきりんさんの本が出ている。


ふと思うが、ここ1年くらい、毎日必ずちきりんさんのブログを確認して読んでいる。余裕がある時は、過去の記事を少しづつ読む。一気には読まない。飽くまで、毎日少しづつ、ずっと。そういうブログがいくつかある。ふと思うと、「本を読む」という行為よりもこっちの方が、「濃い行為」のような気がする。漫画でも連載を追う方が、アニメでも毎週楽しみにしてみる方が、一気に見るよりも深い余韻や記憶を齎すように。


本を読む目的には、「情報摂取」と「認識の変換のトレーニング」の二つがあると僕は思っている。情報を集めるのはひたすら多読。そんで読み捨てる。二度と読まない。事実や「見方」だけ手に入れば、それで十分。


対して、「認識の変換のトレーニング」の場合は、本は何度も読み返すし、気に行ったフレーズを書きぬいて、何度も読んで暗記しようとする。これ半年ぐらい本気で暗記し続けて、自分の話し言葉の中に織り込んでいくと、自分の認識がその文章と一致してきて、頭の構造が変わる気がするんだよね。だから本気の読書は、繰り返しっ読んで(最低熟読3回以上)そんで、気にいった書きぬきだして暗記して、ロジックの展開を自分で暗唱して見せたり、、、。


「認識の変換」ってなんだよ?


それは、自分の主観から自由になって、「他の見方」を自分の主観に組み込んでいく作業。「モノの見方」というのは、人間はぬぐいがたく主観的なもの。もっといいかえれば、頑固で、わがままで、他人の意見に耳を貸さないもの。それは性格とかではなくて、人間の認識の構造は、そもそも主観以外で世界を認識なんかできやしないもの。西田哲学的な「純粋経験」、物事を「あるがまま」に受け取るというのは、確かにとても大事で重要なものだと思うが、ある意味それはフィクション。人間は、物事を「あるがまま」に受け取れないからこそ、人間なんだと思う。それが「個」というもの。だから「物事をあるがままに受け取る」ということをするためには、「純粋経験」が発動するような、一回性の受け取り方にできるように場を整えるなどながある。しかし、それは二次的な話。なぜならば、基礎条件として人間は自分の主観のものの見方から抜け出して世界を見ることはほとんどできないものだから。このグランドルールを押さえておかないと、物事を勘違いしてしまう。


いいかえれば、常に主観の認識の変換というかグレードアップを図る必要がある、ということ。どういうことか?っていえば、二つの作用にわけられる。


1)自分の主観の認識がどのような文脈になっているかを理解して思えて出して客観視しておくこと(=それが個性であり自分自身)


2)客観視した「自己の主観文脈」以外の「異なる他者の文脈」に対して敏感になり勉強し続けること(←しかしそれは非常に難しい)


ブログを読み続けるとか、本を精読するとか、ようは「自分の主観以外の主観(=他者)」を徹底的に、共感共有していくことによって、自分の「こだわりのある主観文脈」を上塗りするという作業を繰り返すということ。僕はよく『極端な意見』や「自分と正反対の意見」をなるべく追い続けるということを主張するのは、そうすることによって、自分の主観と「その曲の主観」が、自分の認識の中に並立ことによって物事をニュートラルに、、、、いいかえれば「あるがまま」に見るとのに近い状態を作り出すことができるのだと思う。


けど忘れては言けないのは、自分にとって大事なもの、自己の証明となるのは、そして自分が一番「楽しい状態」は、1)の自己の主観文脈によって世界を眺めていることだ。人間はそういう生き物だ。だから、主観を放棄する見方ができるというような、ファンタジーという夢を抱くべきではないと僕は思う。そしてだからといって、自分の「凝り固まった視点」だけで世界を見ていると、致命的な間違いや、「あるがまま」に世界を見る一回性の美しさが失われてしまう。


だから、具体的にやれる方法としては、自分が「どうやって世界を眺めているか?」の文脈を客観視して、よく見つめて「自分がどういう人か?」と確認し続けること。そして、それに合わせて、接続できる(あまり遠い価値観は理解できない)異なる価値観などを、じわっと時間をかけて2)理解して自分のものの見方に取り込んでいくこと、で認識を深くしていく、というのが、僕は大切だと思っている。


まぁ大切とかいう前に、わがままな主観の化け物である「個人」というやつが、それでも世界の真理に到達していくには、こうした多様性の価値観を、自分の主観を軸にして接続していくことでしかありないと僕は思っている。