『龍-RON-』 村上もとか著 多民族国家大日本帝国と中国清朝末-近代の黎明期って、ほんとうにダイナミックな歴史だ!

龍-RON-(ロン)(1) (ビッグコミックス)


評価:★★★★★plusα星5つ
(僕的主観:★★★★★5つ)


最近、『龍-RON-』を読んでいるのですが、一気に読んでいると、、、、もうこれがとんでもなく面白い。もうなんか、こんな面白いの読んでいて、どうしようか!!!みたいな感情がふつふつ湧き上がってくるほど面白い。これ、僕が高校のころに見たかった物語なんですよね。


あのころ、僕はずっと、大日本帝国や中国の黎明期や、、、、なんというのかあのころの荒々しい物語を見てみたいとずっと深く思っていたんですよね。確か若い頃に、それ系の物語を探して、加藤雅也主演の『落陽』を見て、スゴイ楽しかったのと落胆したのを覚えているんですね。その理由は、当時僕にはよくわかりませんでした。


なんだろう、、、僕が見たいのは「こっちの方向性」というのはあって、、、ようは、大日本帝国軍の悪逆とかイデオロギー的な話は僕は興味がなかったんですよ。また逆に中国人とか朝鮮人とかを悪く書くのも嫌だったんですよね。善い悪いとか、そういう善悪のことは、どうでもいいんです。というか、歴史って、そんな陳腐なイデオロギーとか民族とかそんなもんじゃないだろう!って思いが僕にはずっとあるんだと思うんですよ。いまでも、誰かが善玉のイデオロギー映画を見ると、がっかりします。日本人が凄いかっこよく偉く描かれても、間違いなくがっかりすると思います。だって、かっこよさというか、面白さというか、歴史の凄さってそんなもんじゃないだろうって思うんですよ。

落陽 [DVD]

僕は日本人なので、日本が正しかった的な、どっちかというと日本の正当性をベースにするものを多く体験していると思うんですよね。自分も多分、日本人的に、そうとってしまうところがあるんだろうと思います。なにも、よほどのことがない限り、自分の国を悪くとるのは、平均的にはないと思うので。「なので」、よほど狂っていなければ、韓国や中国の日本人を敵視するイデオロギー映画の方が、今はまだ面白く見れます(笑)。わかりますか?。なぜならば、それはセンスオブワンダーだからです。単純に言えば、自分が慣れて飽きていないものが見れるからです。なので自由主意義陣営を守り抜いた韓国陸軍の英雄である白善菀とか朝鮮を守った李舜臣とか、そういうのが見たいと思っているんですよ。だって、日本ではそんなに見ないですよね。李舜臣はメジャーかもしれないけど。たとえば、中国では、なんといっても吉田松陰が尊敬していた林則徐とか、そういう偉大な人を見たいんですよ。歴史を理解するときに、相手側の視点の最も美しい物語を見て、相手に感情移入してからでないと、バランスってとれない気がするんですよね。善悪二元論の解体の視点を自分で持とうと思って、ダイヴァーシティーを体感しようと思うと、そうするのが一番楽しいって思います。それに歴史認識には当然のことながら反動があるし、また洗脳合戦のところもあるので、「それはそれ」というようなメタ的な意識で見ないと、おかしな方向に行ってしまうし、、、なによりも、バランスの取れた相手側からも、自分からも見れるような「感情移入の自由度」がないと、僕は物語を世界を楽しめないと思うんですよ。少なくとも成熟した市民社会、自由がある大衆社会には、そういった「おおらかな自由」があって、それができる国や社会ほど、僕は豊かで価値のある社会だと思うんですよ。なので、たとえばイデオロギー的には許せないものがあっても、「それはそれ、これはこれ」的に、ナショナリズムエスノセントリズム的な自分の主観が世界のすべて!な発想は一旦横において、なるほど相手側の(善悪二元論でいう敵側の視点)にはいると、そういう風に見えるのか?、そしてそのように見えるような、物語の「積み上げ」っていったいどういう風に生まれてきて、どういう構造になっているんだろう?、みたいな興味が持てると、僕は凄い豊かな世界に生きられると思うんですよ。歴史の総体を知るってことは、こういう視点の自由を手に入れることだと僕は思うんですね。そして、物事はえらいとかえらくないとかではないとは思うんですが、自分が偉いと誇るときの基準は、このような多様性への許容度と視点の自由をどれだけもてるかが、プライドの基準になると僕は思うんですよねー。そういうことがバランスよく社会で受け入れられて、たくさんの相対的な意見が許容されて楽しまれながらも、ちゃんと社会の一体性が回っていることこそ、成熟したレベルの高い社会の証だと思うんですよ。イデオロギーに支えられたり脊髄反射ナショナリズムって、社会がとても未成熟な証だと思います。


『1911』 チャン・リー監督 ジャッキー・チェン主演  辛亥革命についての記念映画
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20120828/p5


『マイウェイ 12,000キロの真実』 カン・ジェギュ監督 オダギリジョー チャンドンゴン主演
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20120915/p2


なので、こういうのとかコツコツ見ています。『龍-RON-』を見ていて思ったのですが、半藤一利さんの歴史も凄い面白いのですが、すべて、当然のことながら大日本帝国から眺めるアジアや中国史なんですよね。中国から見た中国史もちゃんと理解しないと、やっぱり理解が凄い偏っていると思うんですよ。中国は、ここ200年以上、本当に外国には散々侵略されて、悲惨な目にあっているんですよ。しかも国もでかくてずっとばらばらで、本当に苦しみ抜いたトラウマがあるわけです。その切実な彼岸や歴史をベースに見ないと、なんで中国が過剰反応的に変なことを言い出すかの理解ができない。たとえば実際『1911』に出てくる黄興とか僕全然知らなかったんですが、こういうイデオロギー映画がつくられるってことは、凄い有名な人なわけですよ。そういうのの視点を理解していないと、相手がどういう風に感じているのかとか全くわからないままになってしまと思うんですよねー。歴史を勉強するだけだと、全体感、言い換えればあっち側(=自分の感情移入ポイントではない)の感情移入ポイントが理解できずに、???ってなったしまいがちなので、僕はやはりこういうエンターテイメントでコツコツ幅を広げていく方法は、自分にあっているし、楽しいなって思います。


アメリカに住んでいる以前から、僕は仕事で世界中の知り合いがいましたし、自分のマイルールで出張しに行く国の歴史や物語はコツコツ調べて理解しようとする、飲み会とかでその話を振っていろいろな理解を深めようとしてきたので、それと同じようなものですね。政治や歴史の話は、かなりタブーで危ないんですが、僕はあえてふっていました。韓国なんかでも、仲良くなると、バカな人はともかく、いろいろな複雑な意見をみんな持っているんで、本当に面白かった。仕事だと、目的があるんですが、目的だけに囚われていると、長期で面白いことを見出したり、深く長い人間関係を作るのはできないと思うんですよ。一発勝負の仕事って、僕はあまり面白いとは思えない。ビジネス人生、40年や50年もあるんだもの。今の時代のサイクルでは、世界が塗り替わるほどの時間ですよ。それと、いまけっこうはまっているのは、ダニエル・イノウエさんのような日系アメリカ人の歴史を追うところですね。山崎豊子さんの『二つの祖国』以来ずっときになっていた日系移民強制収容所があったManzanarにも先日行ってきたのですが、アメリカは移民の変遷の歴史なので、マイノリティの個別の歴史を深く追跡していると、アメリカの歴史が浮かび上がってくるんですよ。より具体的に深く。

二つの祖国〈上〉 (新潮文庫)


でも、それも、やっぱり一方通行のイエデオロギー的物語ばかりだとなので、しょせんクオリティーが物語としていまいちだと僕は思うんですよ。たしかに、善悪二元論の自分側の視点だけに偏るのを壊して、多様性を獲得する契機にはなるんですけれども、、、日本から見たものでも、朝鮮や中国とかから見たものでも、それはやっぱり一方通行のものだと思うんですよね。それはそれの面白さがるので、面白いのですが・・・・。究極のところ、お前はどっち側だ?と問われると、僕は日本人なので、日本人の視点になってしまう。もちろんだからこそ、上記のジャパニーズアメリカンなどの、どっちにも就けない人の歴史や人生が、凄く興味深いのだと僕は思います。なので、、、、僕の文脈読みの視点でいうと善悪二元論の向こう側にある、クオリティってなんだろう?となるんです。


じゃあ、ここでいう、クオリティってなんだろう???


僕がほんとうに見たいと思っているもののは何なんだろう?


って思ったんですよ。この方向性で、いいところいっているのが、『虹色のトロツキー』や『王道の狗』なんですね。 他にもいろいろありますが、ずっと思考の中で、僕は長年この様な物語が見たいと思っていました。一番いい線いっているのが、『王道の狗』です。けれどもなんでかがわからなかったんですよね。けど、『虹色のトロツキー』の問題点はわかります。一つは、主人公が何をしたいかがいまひとつ、物語的にはっきりしない。これも、日本人とモンゴル人だっけ?のハーフが主人公ですね。この視点の混乱が、物語のダイナミズム、多様性を生み出すと同時に、まぁ『王道の狗』もそうなんですが、善悪二元論の狭間で、どっちにもつかない立場の主人公は、いま一つすっきり勧善懲悪になってシンプルにならないので感情移入しにくいのですね。また、やっぱり尺が少なすぎて、中国と日本や満州国の背景が、描き切れていないので、歴史のダイジェスト版的な感じになってしまうんですね。それに比較すると、大長編の40巻!!の『龍-RON-』は圧巻です。


虹色のトロツキー (1) (中公文庫―コミック版)

王道の狗1 (中公文庫 コミック版 や 3-30)


龍-RON-』一つは、やっぱりこの尺の長さだと思うんですよね。僕自身が、この時代の歴史を、半藤一利さんの昭和史のCDでかなり全体像を把握し始めてきたせいもあると思うんですが、それにしても、やはり長く描かれているので、背景がよくわかる。もう一つは、ずっと、思っていたんですが、『虹色のトロツキー』もそうなんですが、こういう善悪二元論的な物語を描くときには、中国人と日本人のハーフであるとか中国人と朝鮮人のハーフとか、そういう主人公にすることばかりなんですね。『虹色のトロツキー』はモンゴルとのだっけか?。これ、なんでそうするんだろう?ってずっと思っていたんですが、今回、『龍-RON-』を読んでいて、わかったのは、これって、善悪二元論の立場の入れ替わりを描けるからなんですね。日本人が正しい!!!という視点では、どんなにシンパシーを感じても、他の国のために働けば、それが正しかろうが悪かろうが、やっぱり自分の生まれ故郷を裏切るのか?という視点はついて回ります。人は人生や出自を選べず、選べないものを裏切るのは、やはり物語的に、?ってなる部分はあると思うんですよ。でも、この『龍-RON-』は、ずばっと(笑)中国人になっちゃうじゃないですか。もちろん母親が中国人だというのはあるにしても、記憶喪失で人生をやり直し!というのは、おお、そうか、この可能性という過去の視点の持つ可能性を感じるで、そういう主人公に設定するんだ、えらく感心しました。まぁ当たり前なんですが、物語で成功した例を見てこの破壊力を知ったんですよ。これ、村上もとかさん、素晴らしいです。まじで、凄い作品です、これ。

半藤一利 完全版 昭和史 第一集 CD6枚組

あと、もう一つは、中国の皇帝の証を手に入れるという、いってみれば不老不死の実を手に入れる系の中国大陸をめぐる物語類型の典型的なものを、うまくからませることができているのも、興味深いです。このテーマって、中国のこの時代を描くときに重要な物語のドラマトゥルギーの道具なようですね。浅田次郎さんの作品も同じテーマですよね。浅田次郎さんにははっきり出ていますが、この時代の中国の悲願は、国家統一と近代化です。なので、日本における幕末の話と同じテーマだと捉えると面白いんですね。この時には、日本では、国家のシンボルとして天皇を選んだので、その後あまり問題にはならないんですが、中国は王朝のシステムと皇帝家のシステムをぶっ壊しているんですね。ここは重要なポイントなんで、凄いテーマなんですよね。


それは、中国の近代化を阻んでいるのは、この王朝交代の皇帝と民衆というあり方が、西洋化、近代化にそぐわなかったからなんですよね。しかし、革命やこういった古くからあるシステムをぶち壊すと、国の根幹自体が崩壊してしまいかねません。ここに近代中国は苦悩することになるわけです。中国近代史200年の苦悩です。浅田次郎さんの小説が素晴らしいのは、この中国の異民族の皇帝による統治が最高にうまくいった清朝の建国期の物語と、清朝末期の、これが機能しなくなってボロボロになっている物語を接続させて描いていることで、中国の近代がどのように変わっていくかのダイナミズムを描けているところだと思うんですよね。その時に、この王朝の正統性の証というモチーフは、物凄い面白いと思うのです。僕は中国史がまだいまいちなので、中国のエンタメはめちゃくちゃくわしいわけじゃないんですが、きっとこういうテーマはたくさんあるだろうし、今後もたくさん出てくると思うんですよ。この類型は、本当にいろいろなところで良く見ますので。それが楽しみで、楽しみで仕方がありません。


こういう物語類型の母型みたいなものがわかってくれば来るほど、それを軸としてもっと細かいディティールの部分がどんどん理解体感できるようになって、世界の見方がアップデートされていくんですよ。最初のころは、中国社会における皇帝とか不老不死を追い求める話がいったい何を示しているのかまったくわからなかったんですが、こうたくさんの物語に慣れてくると、皇帝(官僚)と民衆の完全に分離した専制社会である中国においては、西洋的なものを受け入れるのが凄い難しかったんですね。そのため近代化が送れ、数百年渡るヨーロッパ社会の先行を許してしまった。文明としての成熟度や地球経済における比率は圧倒的に中国が勝っていたにもかかわらず。この苦しみの葛藤が、中国皇帝のシンボルという、、、誰がこの広大な空間を統治するにふさわしいかというテーマにつながってくるわけです。

中原の虹 (1) (講談社文庫)


おっと話がずれました。クオリティの話ですね。僕この40年ぐらい生きてきて、一番最近興奮して、ジワジワ、これは、、、と思い続けている人の作品があります。それは、


セデック・バレ(Seediq Bale)』 2011年 台湾 ウェイ・ダーション魏徳聖)監督 文明と野蛮の対立〜森とともに生きる人々の死生観によるセンスオブワンダー
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130427/p4

セデック・バレ 第一部:太陽旗/第二部:虹の橋【通常版 2枚組】[DVD]


これです。魏徳聖ウェイ・ダーション)監督ですね。この人のこの作品は、『落陽』を見て感動して落胆した時の、その先にある、もっと見たいクオリティを見せてくれているような気がするのです。安彦良和さんの『虹色のトロツキー』のその先を見ているような気がするのです。しかしながら、、、物語としては、超絶の見事なものであるんですが、これ善悪二元論を超えているわけではないんですね。その最前線にある物語ではあるんですが、超えているというわけではないし、解決方法を見出したわけではありません。では、にもかかわらずこの感動と、、、その感動が数年たった今でも深く僕の心とらえて離さないのはなぜなのか?ということがわかりませんでした。善悪二元論を超えてはない、という部分は、SEKAINO OWARIのドランゴンナイトについて哲学さんと話した話が、僕の思考のポイントとしては、なるほどと思う分なんんで、この話が興味がある人は、僕の過去の記事のタグを読んだり、この話を参照してもらえればと思います。ちなみにこのテーマでは、クリントイーストウッド監督の『グラントリノ』と『インビクタス/負けざる者たち』がいいです。クリントイーストウッド監督は、この辺が物凄い自覚的に文脈を描いているので、ぜひとも押さえたい作家です。


インビクタス/負けざる者たち』(原題:Invictus/2009年アメリカ) クリント・イーストウッド監督 古き良きアメリカ人から人類への遺言
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100815/p5

二元論の超克〜三国志のパワーポリテクス/数字は2よりも3がすごい!
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100429/p2

硫黄島からの手紙』 アメリカの神話の解体
http://ameblo.jp/petronius/entry-10021292764.html

硫黄島からの手紙』 日本映画における戦争という題材
http://ameblo.jp/petronius/entry-10021294517.html

父親たちの星条旗/Flags of Our Fathers』 
http://ameblo.jp/petronius/theme-10000381975.html



さて先へ行きます。では何が、僕をこんなにも感動させ、何かのクオリティのハードルを越えていると思うのか?。これ、馬 志翔(マー・ジーシアン)監督で、脚本は、魏徳聖ウェイ・ダーションさんですね)の『KANO 1931海の向こうの甲子園』のノラネコさんの記事を読んだ時に、わかったんです。ちなみに、まだ僕はこの映画見れていません(涙)。


http://kano1931.com/

スクリーンに映し出される1931年の夏の甲子園には、台湾代表の嘉義農林の他にも、満州代表の大連商や朝鮮代表の京城商といった名前が見える。
日本が広大な帝国で、今よりも確実に多民族国家だった時代。
良い悪いではなく、そこは現在の日本国とは全然違う国であって、この時代の台湾史を描いた本作は、同時に日本史の知られざる一部を垣間見る作品でもあるのだと実感。
歴史は、共有されているのである。

中略

本作では、嘉農野球部の躍進のイメージを比喩的に強化する形で、水資源の乏しかった台湾南部を、肥沃な水田地帯へと変えた巨大水利工事、嘉南大圳が描かれ、大沢たかお八田與一を演じている。
たとえ独立した国であろうと、帝国の植民地であろうと、そこに人が暮らしていれば、悲喜こもごも様々なドラマが生まれ、それは時には「セデック・バレ」の様な抑圧と悲劇を生み、時には本作の嘉農の活躍や嘉南大圳の様な栄光と希望の記憶となる。
悪しき行い、良き行いはあれど、そこに悪い人間と良い人間がいた訳ではない。
解釈するのではなく、理解するという歴史観ゆえに、本作は日本史の知られざるエピソードを描く作品としても、ごく自然に日本人の観客にも受けとめられるだろう。
しかし共有する歴史、それも日本からみると、既に国境によって分かたれ、失われた歴史だからこそ、ある種のノスタルジイと共に、アイロニカルでビターな余韻を感じさせるのも事実である。


KANO 1931海の向こうの甲子園・・・・評価額1650円/ノラネコの呑んで観るシネマ
http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-807.html


ここで僕がなるほどとうなったなポイントは二つです。


1)大日本帝国が、広大な帝国で多民族国家であったこと


2)台湾の新世代のクリエイターが失われた台湾固有の歴史を発掘しようとしていること



重要なのは、2)です。これはセデック・バレにもつながるのですが、台湾のクリエイターが、なぜ日本統治時代の歴史をテーマにした作品を追い、それが広く台湾で受け入れられエンターテイメントとして成立しているか?ということなんですよ。どう考えても、まぁ仮に親日国であり、日本統治時代を悪く思っていないという日本人に都合のいい妄想を抱いたとしても、やはり侵略され帝国に支配されたという歴史は、独立国にとっては、決して肯定的にとらえるものではないと思うのです。なのになぜだろう?。


僕は、この文脈を見て、なるほど、、、台湾は、台湾の固有の歴史をあぶりだそうとしているんだな、と思いました。わかるでしょうか?。現代中国と、自分たちのルーツがどう違うのか?という詳細な掘り起しは、アイデンティティの確認だと僕は思ういのです。



まずは、台湾の固有の部族のセデック族の歴史の掘り起こし。そして、多民族国家大日本帝国の一部であった台湾の歴史を描いてきている・・・・。独立した主体であるためには、自分が「他とは異なる」という独自の固有のルーツの確認が重要な行為だと僕は思うのです。台湾にとって固有なルーツの一つは、この台湾固有の部族の問題と、大日本帝国の統治時代というルーツ・出自です。これは、台湾が豊かな国になり、独立国としての基礎を固めてきているが故に、大日本帝国時代のルーツを客観視できるようになってきたこと、また外省人本省人の対立が、決してなくならないにしても成熟してきたからこそ、マイノリティの問題に言及できるようになってきたのだと僕は思います。ちなみに台湾を全く知らない人がいれば、李登輝さんの人生を追ってみるとか(たくさんわかりやすい本が出ていますよね)、小林よしのりさんのやつが、導入部にはいいと思います。はじめてはいる時のコストが凄い低いので。ちなみに、李登輝さんの人生と台湾史を追う時には、必ず比較で、リークアンユー李光耀)さんの人生とシンガポールの歴史を追うと、興味深いです。日本に対するスタンス、指導者としてのスタンスが対照的です。にもかかわらず、どちらもアジアに繁栄をもたらす歴史に残る偉大な指導者です。この対比は凄い興味深いですよ。特に、中国のこれからの台頭の歴史において、中国民族の先行モデルとしての、この二つの対照的な国家の在り方リーダーシップの在り方は、重要です。

新ゴーマニズム宣言SPECIAL 台湾論 (小学館文庫)


さて、、、、クオリティのバーを超えた、、、と僕が感じ続けていることはなんだったのか?というのを、僕の文脈読みの大きな柱のテーマ、善悪二元論の超克をベースに考えてみたいと思います。実は、これはぼくが橙乃ままれさんが『まおゆう』のこのテーマの解決方法として選んだ手法を評価した時と、全く同じ話なんだなと思うのです。それは、歴史の事実に戻るという方法です。


メイド姉が目指したモノ〜世界を支える責任を選ばれた人だけに押しつける卑怯な虫にはなりたくない!(4)
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100512/p1

英雄譚の類型の倫理的欠陥〜魔法騎士レイアイース(1993-96)に見る、全体主義への告発(3)
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100511/p1

善悪二元論を超えるためには、歴史を語り、具体的な解決処方を示さないといけない (2)
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100510/p1

魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」 ママレードサンド(橙乃ままれ)著  
その先の物語〜次世代の物語類型のテンプレート (1)
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100429/p4

まおゆう魔王勇者 1「この我のものとなれ、勇者よ」「断る!」


ここでまず僕が見たかったものは、なんなのか?といえば、大日本帝国が見たかったんですが、いまの日本人を肯定したくて強いそれを見たいとかそういう陳腐なものではなく、現代日本とはまるで異なる「異世界」としての、異なる文化、文明の世界を見たかったんだと思います。これって異世界ファンタジーや、ここではないどこか、という欲部と結びついたプリミティヴなものなので、とても一般的な欲望だと思います。小説家になろうのサイトのファンタジーでもすごくよく見る類型ですよね。しかし、それがなぜ大日本帝国かといえば、自分のルーツがそこにあるし、日本に生まれ育っているわけで、歴史と現在の自分への「接続感」が、他の他国の歴史とは比較にならないくらいのビビッドさがあるんですよ。自分の知り合いなど直接はなしを聞いた人の話や親族や友人の一族のあり方、自分の「今ある自分」を構成してきているさまざまなマテリアルのルーツと、この歴史という物語はダイレクトに、生々しさを持って、高い現前性を持ってリンクするんですよね。これが外国の歴史では、簡単にこの現前性とでもいおうか、生々しいリアル感は感じないんですよ。やっぱ読書ってのも、スポーツだな!、と思います。身体的記憶を濃厚に使用する頭脳スポーツ(←意味不明(笑))。


僕はいつも思うのは、物語に高い強度を感じたいと思っています。中高生の時にもっともっと本を読んで勉強して体験をしようと思ったのは、より物語を深く広く楽しむためでした。でも本は本のなかで完結しているわけではなくて、幻想、妄想と現実というのは、幾重にも重なり合って相互にひねくれて接続している総体だと思うんですよ。その総体とは何か?といえば、それは現実のことなんです。ようは、僕は究極のリア充(笑)を目指していたんだと思います。現実の様々な宗を、より深く体感した充実を感じること、、、、それが、僕が本から望んだことでした。現実は、ただ現実を生きているだけでは、ただの動物です。歴史の記憶と、目の前の現実の背後にある文脈の総体を甘受することができて、初めて、世界を体感できるのです。


僕は、いろんな立場の人と、いろいろな話しするのが好きですが、たとえばアメリカでWW2戦争にいった人の話を聞いていると、それ「だけ」のミクロの体験に、マクロの歴史や社会構造などのたてと横軸の情報がリンクすると、もうとんでもない強度で、リアルな立体が浮かび上がってきます。自分の祖父と話しているときや、自分の勤めていた会社や取引先の会社の設立の起源など歴史を追うと、ああ!!!だからそうなのか!!!と驚くようなことが、ビシバシつながってきます。この話は、僕が九州のほうでよく仕事をしていたときに、麻生財閥の成り立ちや、炭鉱の歴史、そしてそん孫正義のルーツを書いた本などを読んだときに、おお!だからそうなのか!という感動が訪れたのを今でも覚えています。

『あんぽん 孫正義伝』 佐野眞一著 愛する祖国日本に多様性をもたらしてくれる彼らに乾杯!
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20120809/p1

あんぽん 孫正義伝 (小学館文庫 さ 19-1)


産業や仕事の分析や取引においても、ただ単位そのときの利益だけや機能だけを考えた分析ではなく、時系列の歴史を追った縦軸の分析をこつこつしていると、世の中の構造的な変化の波が、びびっ!!!と理解されるときがいます。ここの出来事は、それぞれ独立しているミクロの体験や出来事なので、それがいっきにリンクすることまれです。けれど勉強し続けたり、そういったミクロを積み重ねてそれをマクロ的に捕らえようとする努力をしていると、、、あるとき圧倒的なエウレカが訪れてくるときがあります。これって、やっぱり勉強するのって面白いなって思うんですよ。そのためには、本をたくさん読んで、動いて、人に聞いて回って、考え抜いていないといけないんですが、、、、これがつながり始めると、もう最高に生きているのが面白いんですね。


一言でまとめると、



歴史ってなんて面白いんだ!!!!!!



です。