永遠の日常というのは実は、スラムの中を生きる世界だということ

昨年からの難民問題の流れや、率先して難民を受け入れていたドイツで起きた事件だったことを考えれば大々的に報道されるのも無理ないが、しかし、これを知った英国の人々の最初の反応は「ああ、来たか」みたいな既視感だったのではないだろうか。 というのも、ムスリム系移民による大規模な性犯罪は以前から起きていたからだ。 例えば英国では、サウス・ヨークシャー州ロザーハムでパキスタン系移民のギャングたちが約16年間にわたって実に1400人の十代の子供たち(最も年少で11歳)をレイプしたり、監禁したり、強制売春させていたことが明らかになって大きなニュースになったことがある。これだけの大規模な犯罪だけに、地元ではみんな薄々知っていたが、ムスリム・コミュニティーは英国人コミュニティーからのレイシズム攻撃を恐れて沈黙していたし、警察も「セックスは合意の上」として少女や親たちからの通報をまともに取り合わなかったと言われている。ムスリム・ギャングに囚われた自分の娘を奪回しに行った英国人の親が、逆にレイシズム攻撃をしたとして逮捕されたケースもあったという。どうにもやり切れないのは、被害者の女子たちの3分の1がソーシャルワーカーが介入している問題を抱えた家庭の子供だったことで、ミドルクラスの家庭の子たちが被害者であれば十何年もこうした犯罪を続けることができただろうかと思う。少女たちはギャングに洋服や欲しい物を買ってもらい、酒やドラッグを与えられ、集団レイプされ、殴られ、ピストルで脅されて北部の様々な街で売春させられていた。1997年から2013年まで続いたというこの組織犯罪については、2014年に報告書が発表されており、「レイシストだと言われるのを恐れていた」ために犯罪を半ば容認していた地方自治体の失態が指摘されている。


左派はなぜケルンの集団性的暴行について語らないのか
ブレイディみかこ | 在英保育士、ライター 2016年1月16日 10時31分配信
http://bylines.news.yahoo.co.jp/bradymikako/20160116-00053462/


この記事、サウス・ヨークシャー州ロザーハムでパキスタン系移民のギャングが16年間にわたって、1400人の少女をレイプしたり監禁したりしたのがずっと続いていたという記事を前にイギリスでの記事を読んでいて、意味がよくわからなかった。なんで?、なんで、そんなひどいことがほっておかれているんだろうというのが頭にリンクしなかったのだ。イギリスの地方の何らかの特殊事情があるのか、と流していて、ふーんという風に忘れていた。が、この前起きたドイツでの事件と、このフレディみかこさんの記事で接続されていうのを読んで、そういうことだったのか!!!と衝撃を受けた。これは、すべての先進国にこれから共通する問題であって、決して特殊事情じゃないんだな、ということが理解できたのだ。逆に、構造的な問題だとわかって、胸がいたいというか、やるせなさに、腰が砕けそうになったけど、、、。これ、アメリカの黒人ゲットーの問題、税金を多く払う層が隔離された高いサービスの自治体をに引きこもる問題などなどと同じ話なんだ。

こちらはガーディアン紙のGaby Hinsliffの言葉を借りたいと思う。

昨日、英国の複数の新聞が、移民・難民のことを「人口統計的な時限爆弾」と表現していた。移民・難民には圧倒的に若い男性が多く、若い男性は圧倒的に暴力的犯罪を起こす確率が高いからだいう。

それは知らなかった。これまでは、欧州が恐れる「人口統計的な時限爆弾」とは、高齢者への年金を提供する若年の勤労者が足りないということだったのだが。

出典:Guardian:Gaby Hinsliff "Let’s not shy away from asking hard questions about the Cologne attacks"

前者と後者の時限爆弾はリンクしている。

が、より大きいのは後者だ。

だから若い移民を受け入れることを「ミステイク」とか言っててもはじまらないのだ。

欧州だけではない。

自国の若者が家庭を持ち、子供を産んできちんと育てて行ける経済を選択していない国は、すべてこの爆弾を抱えている。


また、「ケルンのカーニバル(謝肉祭)や、ミュンヘンのビール祭オクトーバーフェストでも、多数の男性が女性を強姦する事件は起こる。したがって、ケルンの事件だけを特別視すべきではない」という意見もある。

 これに対し、1991年から10年間にわたり、ドイツの公共放送局ARDのアルジェリア特派員を務めたザミュエル・シルムベックは、「北アフリカアラブ諸国では、公共交通機関の中などで、男性が女性の身体を触る性犯罪は、日常茶飯事だ。ケルンで起きたのは、アラブ世界で毎日起きていることが、場所を変えて起きたにすぎない」と指摘している。

 彼は、「アラブ世界では、多くの女性たちが男性からの蔑視に苦しんでいる。その背景には、イスラム原理主義がある。ドイツのリベラル勢力の間では、アラブ世界で起きている女性差別の実態がほとんど知られていない。今回の事件をきっかけに、イスラム教に関する真剣な議論を始めるべきだ」と述べている。

 ドイツでは確かに、これまで外国人が犯罪をおかした場合に、メディアがその出身国や難民であるかどうかを詳しく報じないことが多かった。メディアは、市民の間にある外国人、特に難民に対する偏見が高まることを恐れたのである。さらにメディアは「イスラム教徒に対して反感を抱いている」と左派勢力から批判されることも恐れた。

 筆者自身、ケルンの事件が起きるまでは、特にARDなどの公共放送局が、難民流入について否定的なニュースを極力避けようとしていることに気づいていた。だがケルン事件以降、メディアはこうした「自粛措置」を大幅に減らしている。連邦内務大臣のトーマス・デメジエールも、「犯罪者の出身国の公表を控えることは、許されない」と発言した。


ケルン暴力事件で露わになった「文明の衝突
欧州難民危機と対テロ戦争の袋小路(中)
熊谷 徹
>>バックナンバー2016年1月19日(火)

http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/219486/011800012/


僕はこの記事を読んでいて、数年前に、永遠の日常に向かっていた日本の物語のテーマは、スラムになるんじゃないか?ということを話していたことを思い出しました。それは、高度成長と人口ボーナスという特殊事情による、特殊な状況が許した永遠の日常であって、こんな経済的成長が背景になくなれば、動機が失われてしまい、成長が失われている空間には、仲間と戯れる永遠の日常が訪れるのではなく、スラムの中で生きる生活になるのではないか?と。そして、たぶんグローバル経済にリンクする成長する大都市圏と、そこから切り離されるか緩やかな後背地となる地方に分化していく、都市国家の時代が生まれるのではないか、と。


これを解決する力学はひとつしかなく、それはナショナリズムナショナリズムによる、国民は平等でなければならないという圧力が、大都市圏と地方の格差を平準化する圧力として、働きます。しかしながら、そこには、激しい民主主義の中の争いが生まれて、どこに転んでいくかはわかりません。タイのタクシン派の争いは、これだと僕は考えています。世界中で、この大都市圏と地方の格差をめぐる争いが始まっていると思います。それが、民主主義を成立させなくしています。日本や西ヨーロッパやアメリカのように、国土の均等の発展が、既に展開したところは、実は可能性は高いと思うのです(田中角栄!)。既にユニバーサルサービスがある程度実現している。言い換えれば、地方のインフラストラクチャーが、老朽化されているとは言えども、あるからです。でも、新興国には、それがありません。なので、グローバル競争にリンクできない地方は切り捨てられるだろう、と僕は想定しました。


大都市と後背地方都市はグラデーションにリンクするので、大都市のグローバルサービスを受けられる層と、それが受けられない層が、グラデーションで広がっていく形になるのではないか、と、、、そのグラデーションが、スラム的な空間を形成していくのではないか。それがどんなところ???というと、僕がすぐ思い出すのは、傑作『EDEN』で描かれたケンジが住んでいたところです。場所はよくわかりませんが、雰囲気的にはどう見ても大阪だと思うんですよね。たぶんこの世界の日本は、先進国として原父連邦の初期加盟国なので、言い換えれば地球連邦政府の初期設立国なわけで、たぶん今のポジションとそんなにかわりません。それだけの富裕国の第二の都市である大阪も、貧困に沈む層に行けば、ケンジのような「どこにも抜け出すことのできない」永遠の日常の中で生きています。ヤクザ、マフィア、売春、ドラック、暴力、憎しみの連鎖。アメリカでいうゲットーですね。中産階級という分厚いベールの下に隠れていた層。

『Straight Outta Compton(2015 USA)』 F. Gary Gray監督 African-American現代史の傑作〜アメリカの黒人はどのように生きているか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20150915/p1

先進国の持つ病〜社会が成熟していくと失われるモチヴェーションー希望がなくても頑張れるか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20111203/p1

EDEN(17) (アフタヌーンコミックス)

このことを二極化、と呼ぶのは、僕には抵抗があります。マルクス的な、富めるものと貧しいものの二元論でイデオロギー化するほど、ことは単純じゃない。なぜなら、それはグラデーションだから。また、人類のフロントランナーに立ち、莫大な労力とエネルギーを投入するフロンティアにたつもの無くして、人類の膨大な需要はまかなえないと思うのです。フロンティアを征服するエリートがいてこそ、世界は拡大成長するからです。中世のように、世界が成長しないで分配だけする世界は、時が止まった世界の終わりのたそがれの世界であることはもうわかっているのです。平等への可能性や、少しでも虐げられた人が減るのは、実はそうやって駆り立てられて前に進んでいる時、成長している時でしかありえないと僕は思っています。ちなみに、どんな世界?と思う人は、SFの『結晶世界』とかおすすめです。バラードの作品はいいですよ。ちなみに、遠藤さんの『EDEN』や『オールラウンダー廻』は、まさにこの世界観なので、これもお勧めです。これを読むと、僕らの日常とまさに地続きなことが凄くよくわかります。

結晶世界 (創元SF文庫)

オールラウンダー廻(18) (イブニングコミックス)