『放浪世界』『二本松兄妹と木造渓谷の冒険』 水上悟志著  水上悟志ワールドは、藤子・F・不二雄先生のSF短編のレベルと同じ感覚というと、凄さがわかってもらえると思います。

水上悟志短編集「放浪世界」 (BLADE COMICS)

客観評価:★★★★★5つ
(僕的主観:★★★★★5つ)

僕の中で、藤子・F・不二雄先生のSF短編のレベルというのは、ハインラインとかアシモフと同じレベルにあるので、同じ匂いというか感じを受ける、というのは、よくよく考えてみると、とんでもないことなんだと思う。SFというのは、「サイエンス・フィクション」のことなんですが、これらの響きが持つハードなものではなく、日常と非日常が少しまじりあった「すこし・不思議」というものが、F大先生の行ったこと、追及したことなんですが、それが、まさにここにあるんです。短編集である『放浪世界』の『虚無をゆく』を、そうとうに練度というか、うまさが増してきて、彼の持つうまさが凝縮されているので、これだけ見ても、一発で、すげぇ!と思うような大傑作です。けれども、この人の物語世界の持つ「ユニバースとしての「つながり」の感覚(これこそが!これこそが物凄いものなんです!!!!!)を感じるには、『宇宙大帝ギンガサンダーの冒険』や大傑作長編である『スピリットサークル』を合わせて読みたいところです。

宇宙大帝ギンガサンダーの冒険 水上悟志短編集 vol.3 (ヤングキングコミックス)

これらを連続で読むと、この人のものつ物語世界の「つながり」が見えてきて、藤子・F・不二雄先生のSF短編が目指した「すこし・不思議」という日常の延長線上・入れ子構造にある非日常の物語と、、、、そして、F大先生が、そうはいっても果たせなかった手塚治虫が目指した壮大なスケールの世界観が、同時に「そこにある」ことがわかると思います。って、文字にするとわかるんですが、ぼく、物凄い水上先生のことが大好きというか、好きなだけでなく、希代の傑作メーカーであり物語作家だと思っているようですね。。。。いや、本当にそれくらい凄いです。ちなみに、同じく短編の『サイコスタッフ』、好きすぎて何回読んでいるかわからない作品です。僕は、「正しさ」というものの、正義の味方というものの答えというか、僕が求める「ありうべき姿」を、この作品に見ているようで、何度読んでも泣けます。マジで、人生物語のを5つ上げろといわれたら入ってしまうやつです。こればかりは、電子書籍ではなく、初版でちゃんと持っています!。というか電子書籍が手に入らん。これが絶版なんて、信じられない。。。。下記で入手可能ですので、ぜひとも買いましょう。

https://www.mangaz.com/book/detail/63721

スピリットサークル (1) (ヤングキングコミックス)


ちなみに、『スピリットサークル』は、物語三昧的に言うと、超ド級の星10個だぜ!的な、ペトロニウスの名にかけて、大傑作レベルの物凄い作品ですので、未見の方は、ぜひこの素晴らしい物語を買って読みましょう!。


スピリットサークル』 水上悟志著 輪廻転生の類型を描く素晴らしい物語
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20150728/p1


サイコスタッフ (まんがタイムKRコミックス)

水上悟志さんの作品には、かなり低年齢に受け入れられそうな、なんというかマンガの、、、個人的なイメージでは、コロコロコミックを読んでいた時のような少年マンガのような素朴さの感じがあって、一見、凄く幼稚(とは僕は思わないのですが)な印象を受けます。ああ、深さがないというか、「子供向け」の少年漫画なのだな、というような印象が。しかし、その「子供向けの素朴さ」が、ある種の「地に足がとてもついている感」を作品世界に生み出しており、仮にSF的に、とんでもないところに世界や発想が飛躍しても、常に「少年の素朴な視点のシンプルさ」が、セットされているんです。これはとても凄いことで、それはなぜならば、この人の持つ物語のスケールは、ハードSF的にぶっ飛んでいる、そこまで難解なことを!といわれるレベルのものを、マクロ的にミクロ的にも追い込んでいく作風なんですが、それが全く「そのように」感じさせず、物語の次元で、少年の視線で、彼の日常に考え得る思考のレベルで足に地がついて、、、、言い換えれば、読む僕らの共感のレベルを見事に維持してシンクロさせてくれながら、、、、手塚治虫アシモフハインラインもまっさおなハードSFの極みまで連れて行くのです。「それ」って、物凄いことですよね。なんでこんな、極端なものを同時に許容して描き続けるのか、とても不思議な気がします。というか、「少年の視点」に寄り添うという「地に足のついた」ところからまったく飛躍しないのに、しかしながらマクロでは、人類の崩壊、絶滅、異なる次元、宇宙への輪廻転生みたいなものまで、飛躍してしまっているんです。このことを考える時に、手塚治虫さんの『火の鳥』の輪廻を扱った壮大な時空間を超える物語を人るの完成系というか、うまくいった例で考えると、その次に、これ宇いった作品を見れるのはいつだろうと、いつも悶々と思っていました。輪廻転生という意味では、日渡早紀さんの『ぼくの地球を守って』とか久米田夏緒さんの『ボクラノキセキ』とかが素晴らしいのですが、どちらも、輪廻を繰り返すというよりは、一回こっきりの生まれ変わりであり、「様々な別お世界・次元」を渡り歩き、それらの時間・空間の並列性や分断性を統合して見せるというハードSF的な視点は入っておらず、仲間内の関係性と人間性に焦点を絞っている作品なので、ここのテーマとは違うんですよね。それに渡来したと僕が、うおっと唸ったのは、大好きな小池田マヤさんの『不思議くんJAM』が、あります。けれども、これは今のところ連載が止まっていますし、やはり、もう一歩分かりやすさという意味では、もっと先が見たいし、まだ完結していない、出来ていない作品になります。

不思議くんJAM(3) (アクションコミックス)

けれども、『スピリットサークル』は、もう既に完成してしまって、このスケールの世界観を、ちゃんと、描き切って、ほぼ体感的に主観的に「分かる」ように描かれていて、、、、、しかも全6巻しかないんですよ!。これで描き切れていること、少なくとも作者が、もともと構想していて、出せるすべてを出し切って物語を完結させていること、、、、物語世界の、主人公の風太の、コーコの、フルトゥナの、すべての登場人物たちの物語が、完結しています。これを超ド級の傑作といわずしてなんといおう!と思います。主人公は、7つの人生、世界を生きることになりますが、この見事な各ストーリーの、ドラマトゥルギーのまとめ方は、水上さんが、短編を極めて重視して洗練して、それだけでなく、その全体像の連なりを「考え続ける」作家だったからできたことだろうと思います。まぁ言い換えると、こんなすごいこと、まずできねぇ!といいたいのです。ミクロ(=等身大の視点)と、マクロ(=ハードSF的な主観感覚を超える世界観のスケール)を同時に並立できてしまっているという点で、本当に凄い。


そんな、等身大の主観視点では、ほとんどわからないスケールのものを、少年の視点で共感しながら体験できてしまうわけです。これが稀有な物語でなくて何であろう!。そういえば、『サイコスタッフ』もそうですし、LDさんとのラジオで、『惑星のさみだれ』について、セカイ系、いいかえれば、世界を救うというセカイの重みと、少年が女の子を救うというか愛するという次元が、間なしで接続してしまう典型というような前提で話していたのですが、、、、、


http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/c2c9f8a45ed276e5b9291c6fd05024bc

https://www.youtube.com/watch?v=YUT4sg99ZhE&list=PLusUXoPKOyjhb1VObOUtGnZKwbe2Qu9NC&index=28


惑星のさみだれ (10) (ヤングキングコミックス)


セカイ系の物語の問題点として常に指摘されるのは、セカイにおいて、世界(=人類が滅びるかどうか)のマクロの問題点が、主人公とヒロインの二人の関係性の愛とか救済とか、そういったミクロの次元に還元されてしまう、、、、『最終兵器彼女』や『涼宮ハルヒの憂鬱』とか、いろいろありましたが、ようは、人類の行く末などというマクロの次元を、好きな女の子との関係「のみに矮小化して還元する」というのが、ヲタクの社会退却というか、社会との接続を嫌う、逃げなのではないかというような批判文脈なわけです。これはこれで今でも正当性があり意味もあるし、当時は有効な射程を持った批判ではあったのですが、まぁ、こう時代認識がずれてくると、セカイ系というジャンルの完成度に、関係のない社会的な文脈で批判することで、かなり価値はなくなった考え方だと思います。とはいえ、セカイ系特有の、社会との接続性を忌避し排除するという特徴の典型の作品が『惑星のさみだれ』なんですが、当時は、その文脈ではなしながら、どうも違うんじゃないか?何かが違うんじゃないか?この文脈で語るべきではないのではないか?という話を、、、、そはいっても、あまりに抽象的な構造は、セカイ系文脈の代表例みたいなものなので、、、、していたのいですが、当時の直観は正しかったことが、『スピリットサークル』ではっきりしたと思います。この人は、セカイ・世界というようなマクロの次元と、主観(=自分からこの世界を見る視点)のミクロの次元を、「どちらかに還元する」ことで、誤魔化すという逃げを一切していないんですね。いやはや、、、、なので、同じセカイ系の構造をしていても、この人の作品は、「人類の行く末をミクロの関係性に還元していない」ので、この人のテイストや考え方は、まったくセカイ系に該当しません。セカイ系の定義も曖昧なので、もう少しいうと、ようは、マクロの話を、強引にミクロの話と関連付けてしまわないんですね。なので、人類の行く末は、過去のハードSFの持っていたリアリティというか、マクロはマクロでそのようにある、という前提は崩れず、そこにあくまで手が伸びない一人の個人として、その行く末に立ち会うわけです。いやはや、、、、。これがどこから来たのだろうか?とか、このことの指し示す可能性は、今後はどうなのか?とか、いろいろ思うところはあるのですが、もう既に深夜の2時になりそうなので、このへんで、やめときます。今日は、短編の感動を書きたかっただけなので(笑)。今後の考えるか手のメモとして、セカイ系の再評価、そして、当時の僕らがセカイ系ってなんなの?といった疑問の答えが、この辺りにあると僕は思う。


ちなみに、具体的な分析まで行きつけなかったので、メモとして、一つ。『虚無をゆく』の主人公のユウが、「安眠室」に行くシーンが、衝撃を受けるほど素晴らしかった。これだよ、この感覚。これが、マクロをミクロに還元しないで、「少年の視点に寄り添う」という稀有なものを映像化しているというか、感覚的に水上悟志ワールドが持つ集大成のシーンの一つだと思う。読んでみて!


こんな短編なのに、庵野秀明さんの『トップをねらえ!』の最終話や『エンダーのゲーム』の最後と同じ感動が感じられたですよ、僕は。それは、同じく、この作品が、壮大なマクロをテーマにした、大SFだからだろと思います。


トップをねらえ! Blu-ray Box

エンダーのゲーム (ハヤカワ文庫 SF (746))



ちなみに、もう一冊まで感想が行きつかなかったですが、これも凄い面白かった。


二本松兄妹と木造渓谷の冒険 (ヤングキングコミックス)

客観評価:★★★★4つ
(僕的主観:★★★★★5つ)


超大型すすめ機動ヤタマルのシーンが、素晴らしい。この人の作品は、絵が素晴らしい。あり得ないような超巨大構造物が、意思を持って動くという点が、絵に表現されているというセンスオブワンダーにいつも僕の心はときめきます。





さて、最後に紹介。藤子・F・不二雄の作品群は、神レベルですよ。この系統の作品群の理解には、ここで上げた全作品(どれも傑作)見るのをおすすめです。



ああ、物語は、本当に素晴らしい♪



藤子・F・不二雄少年SF短編集 (1) (小学館コロコロ文庫)


ミノタウロスの皿 (小学館文庫―藤子・F・不二雄〈異色短編集〉)