『明治維新とは何だったのか 世界史から考える』 半藤一利 出口治明著  一言でいうと半藤一利さんが幕末史で描いている反薩長史観

明治維新とは何だったのか 世界史から考える

客観評価:★★★★☆4つ半
(僕的主観:★★★★★5つ)

■異なる極と極を公平に見るとき世界は立体的に見える

この辺は予備知識もあるので、さらっとすぐ読める。どちらも大ファンかつ、歴史観が自分の見解と同じなので、読みやすかった。しかし充実の一冊。この二人の相性はとてもいいですね。どちらとも、薩長などのメインストリームの出身ではないし、ビジネスマンとして人生成功してからの転身?というか、なので、とても議論や視点が地に足がついている。あと、年上の(笑)半藤さんが、経済のこと世界史からの視点がよくわかっている出口さん委、尊敬を払っている姿勢が、とてもいい感じ。そしてそれは、そのまま、彼らの歴史評価の姿勢とつながるので、いやはやこの二人の対談は、読む価値ありです。


この本は、一言でいうと半藤一利さんが幕末史で描いている反薩長史観。ただこう言う言い方は、出口治明さんは、余りお気に召さないかも。僕も、そうした特定のイデオロギーのように言うのではなく、薩摩長州の暴力革命を否定的に見る視点は、既に歴史の事実認識からは、正しいと思います。


では、薩長土肥革命をどうとらえるか?という設問に、暴力革命で、単に徳川への恨みを晴らしたかっただけ、ときっぱり、いいきります。


これは多分に感情的というか反薩長的なイデオロギーに見えるでしょうが、日本の近代国家の基本路線をだれが設計したのかと考えると、グランドデザインを描き、徳川の鎖国体制を自ら終わらせた第一の功労者は、阿部正弘とお二人は考えます。彼の設定した、開国、富国、強兵のグランドデザインを、第二の功労者である大久保利通が現実化した。路線は定まっていたので、暴力革命を起こす必然性はなかったはず。日本近代国家の基本を描いた「五箇条のご誓文」も、そのほとんどは幕府の官吏によってベースが作成されており、あそこで暴力革命をする必要性はなかった。近代国家の路線は、ほとんど幕府がやっていることは、最近の歴史学の本では、明らかにされている。その感覚から、こうきっぱり言い切られると、とても納得感があった。この辺りは歴史の事実がどんどん明らかにされている部分なので、いろいろ読んでみてぜひ事実を確認してみてください。少なくとも、戦前の薩長史観、それに続く皇国史観において、かなりイデオロギー的な世界観の修正が多分になされており、このストーリーからすると、江戸幕府は暗黒の専制君主でなければならないので、正当に評価されてこなかったのは間違いないです。実際は、江川太郎左衛門など、様々な信じられなりくらい有能な近代化のテクノクラートが幕府側にいて、基盤を作り上げているのです。あまり難しい本はちょっと、と思う方は、みなもと太郎さんの『風雲児たち』をお勧めします。これを読むと、日本の近代化が、単純に革命(明治維新)でなしとげられたものではなく、長い長い積み上げがあって成し遂げられていることがよくわかります。イデオロギーによるゆがみを取り除くためにも、一度は極端に振って、薩長がすべて悪かった(笑)ぐらいに半藤さん的に考えてみるのは、とてもいい思考実験になると思います。


さらにもう一歩言えば、僕もLDさんという私の友人の問題意識が、ずっと残っているのですが、それは、これほど幕府側がほとんどの近代化の基盤を準備して、しかも阿部正弘がトップとして、強いリーダーシップで、幕府の鎖国を終わらせて、その先を見据えて政治を進めている「にもかかわらず」やはり、暴力革命は、必要であったのではないか?という視点です。私は、立場としては明らかに薩摩長州の暴力的なふるまいにはネガティヴですが、それでも「何かのきっかけ」がなければ、世界は本質的に変わらなかったのではないか、という視点は、まだ悩ましく考えるところです。保守主義的な立場から言うと、革命行為はほとんどなににも資さない最悪の行為ですが、しかし、何かの祝祭的なものがなければ、社会は変われないのではないか、という視点は、とても興味深いものがあります。これは、フランス革命が必要だったか否か、という視点につながる考え方なのだと思います。日本の明治維新、薩摩長州による暴力革命を、どう評価するかは、この視点が重要なので、今後も考えていきたいところです。ただ、歴史のイフはありませんが、もし、若くして過労死してしまった阿部正弘が生きていたら、というのはとても興味深いです。

風雲児たち 幕末編 30 (SPコミックス)

とはいえ、これだけこき下ろしているのに、巨大な人物だった大久保利通と西後隆盛の二人を、お二人は高く評価しています。薩摩藩というよりは、「この二人」が、人間として凄かった、という感じですね。ということは、軒並み長州の評価がすべてにわたって低いということになりますね。この二人の早すぎる死により、小物感漂う伊藤博文山縣有朋が、「明治維新」などという神話を作り、自分の権力の正当化をした、と喝破します。明治維新というような神話は、大久保利通が暗殺されて、後ろ盾を失ってしまったので、特に大したこともしていない吉田松陰を大人物にして、正統性を確保しようとした。要は「明治維新」という神話の捏造ですね。権力の正当化には、前政権の問題点をあげつらい、自信の期限についての神話を捏造するのは、権力が行う基本です。


また大久保利通の死が早すぎた。それにより、山縣有朋が軍事国家の路線を進むことになる。当時本当に優秀な人間は、みな岩倉使節団に選ばれており、それに選ばれなかった山縣が、日本の国の国の創造を担ったのは皮肉。西南戦争においてはっきり効いていたシビリアンコントロールで、それによって大本営にいちいち連絡しなければいけないので苦労をした参謀長の山縣が、統帥権の独立(帷幄奏上権)などという、先進国でまともな国ではないものをつくってしまった。韓国併合時に、朝鮮総督府における軍事指揮権を、伊藤博文が獲得しており(この時、二人は天皇を巻き込んで大ゲンカしている)、この時にきちっとシビリアンコントロールを制度化すれば、日本はもう少しまともな国になれたはず。しかし、なあなで、伊藤と山縣の人間関係で沈めてしまったのは、とても残念。松下村塾門下生。。。。というか、お二人とも、吉田松陰松下村塾門下生にかなりきつい。


などなど、日本の近代化を導いたと自信満々の薩摩や長州出身の人には、非常に痛い話ですが、こういった視点が、極論やイデオロギーに染まったものの相対化になり、立体的な歴史を考えるきっかけになれば、と思います。ちなみに、この後の日本の国家戦略は、山縣有朋の路線が大きな影響を及ぼしていくので、この視点をベースに、川田稔さんの議論につなげていくと、さらに連続性が見れて面白いと思います。僕は、川田さんがこの本で、いくつかの日本の指導者たちの国家戦略の路線の違いの戦いを描いているのですが、そこで、アメリカとの同盟を考えていた原敬と、アメリカと同盟を組むと奴隷になり下がって従属国になってしまうと恐れたその他の指導者たち、特に軍事的な独立性を強く意識した山縣有朋が、多極的な政治同盟の中で、アメリカとの対等性を確保しようとあがく姿は、今日につながる重要な認識だと思っているんです。僕が本を読む時の大きなテーマで、


アメリカと付き合うことはいいことなのか?、また地政学的に隣国なので逃げられないとしたらどう付き合っていけばいいのか?


という視点が常にあります。ちなみに、この大きな流れを描いているのは、下記3冊が僕はとても心に残った本で、おすすめします。まだまだ不勉強なので、これとは言えないですが、日本が置かれている、置かれていた環境の構造がこれらを読むとうっすら浮かび上がってきます。


戦前日本の安全保障 (講談社現代新書)

日本の「運命」について語ろう (幻冬舎文庫)

永続敗戦論 戦後日本の核心 (講談社+α文庫)


ちなみに、半藤一利さんの言葉。大日本帝国は、薩長が作り、薩長が滅ぼした。最終的に、大戦争を収めたのは、鈴木貫太郎、米内光正、井上成美など、賊軍出身の人々。薩長の連中が、軍国主義の下地を作り、日清、日露の大戦争を何とか勝ち、さらに勝手な神話つ捏造して、その後の日本をリードして、昭和の軍隊をあの無謀な戦争に導いた。


仁義なき幕末維新 われら賊軍の子孫 (文春文庫)


賊軍の昭和史


世界史としての日本史 (小学館新書)