『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』12-14巻(1) 空気の支配を受けないのが本当の友達

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (14) (ガガガ文庫)

客観評価:★★★★★5つマスターピース
(僕的主観:★★★★★5つマスターピース

Youtubeで話をまとめておきたいと思う。これ、リアルタイム最前線で追えた時代を代表する作品だと思う。2011年から2019年までの連載。事実上2010年代を支配した、大きな作品だと思うんですよね。僕はこの作品を見るときにずっと、2つの大きな問題意識を持ってきました。まだまとまっていないので適切な言葉かわからないのですが、

1)リア充と非リア充の対立をどのように超えるか?

2)雪ノ下雪乃という女の子を救うこと-ラブコメは学園を超えられないので家庭の問題には踏み込めないのをどう超えるか?


この設問は、2010年代のエンターテイメントの主軸の問いかけで、かつ「いまだきちっと答えられたことがない」問題でした。少なくとも、僕は、見たことがなかった。しかし、このメジャーな、3期までアニメ化して描き切られるほどの時代的な作品で、しかもライトノベルがエンターテイメントの最前線で代表的な位置だった時に、この難問を設定し、それにすべて、きっと読者も納得する形で、時代に並走しながらすべて応えきりました。渡航さん、凄いクリエイターです。僕は、この作品とともに過ごせた、幸せを忘れないでしょう。


1)リア充と非リア充の対立をどのように超えるか?


この問題には、様々な時代の空気や問題意識が隠れていました。自意識の空転問題、非モテや「救われない層をどう救うか」など、どうしても充実できないらだちにどう答えるか、がさらに奥のレイヤーだと思います。こうしたいらだちが深く共有される中で、「日本的学園カースト」と「空気に縛られる病」への告発という形で、問いは展開していきました。

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』 渡航著 (1)スクールカーストの下層で生きることは永遠に閉じ込められる恐怖感〜学校空間は、9年×10倍の時間を生きる - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』 渡航著 (2) 青い鳥症候群の結論の回避は可能か? 理論上もっとも、救いがなかった層を救う物語はありうるのか?それは必要なのか?本当にいるのか? - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』8‐9巻 渡航著 自意識の強い人が、日本的学校空間から脱出、サバイバルする時の類型とは? - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために


ココロコネクト』のところでも書きまくっていましたが、この問題意識は、ライトノベルに2010-2020年のこの10年にライトノベルに集中していたように僕は感じます。なんでだったんでしょうか?。まだ言葉になってはいないのですが、思考の履歴としては、「充実していない自分」というものを認めた時に、充実しているように見える「敵」を探し出して、その分裂と対立を揶揄したりすることで、この問題意識を炙り出していったのだろうと思います。善悪二元論における、敵と味方、悪と正義みたいなものですね。このタイトルが、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』であるように、学園の世界で、ラブコメのエンターテイメントという舞台から、日本的空気の支配者である学園カーストの上層部・・・・リア充を敵視しようとするのは、非常に納得の構造です。


まだ整理できてないのですが、問題の構造として、


1:リア充自体が敵である(本当に敵なのだろうか?、彼らを知っているのだろうか?)


2:非リア充非モテである自分の自意識の空転自体が敵である(自分で気づかなければならない)


この2つのレイヤがあって、俺ガイルは、1)について突っ込んで、答えにたどり着いた作品でした。ちなみに、2)の自分自身が「自分で自分を苦しめているのだ」という認識にいたる話は、ずっとトラウマの世界の留まり続ける永田カビさんのエッセイマンガ(これは、エッセイで物語ではないですが・・・・)や、その自意識をユーモアにして笑う(自己相対化)類型のたとえば『巴マミの平凡な日常』などを思いつきます。これランダムに適当に上げていますが(笑)、言いたいことは、自意識の空転の領域に留まり続けると、とんでもなく苦しんで、苦しみ続けて出口がない感じで、このステージにいると、とにかく苦しくて、どんな救いの手も拒否してしまいますし、とにかく選択肢がない。なぜないかといえば、自分自身で何がしか変わろうということを拒否しているから。同じ問いかけをずっとグルグル繰り返すことになります。それでは、救いようが無く物語になりにくいので、この類型には、そういう自分を相対化して笑ってしまおうという方向性もあります。巴マミさんのあの絶妙な、30才超えたOLな自分への揶揄は、笑ちゃいます。ちなみに、自己相対化できて、自分を客観化できれば、実はそこからの脱出にもう少しなんですよね。脱出するのも地獄(現実を突きつけられなどうにもならないことを認めるわけだから)、それがいいのか、実は微妙なんですけれども。解決に向かったという部分では、『ココロコネクト』と『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』が思い出されます。


さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ

巴マミの平凡な日常 (7) (まんがタイムKR フォワードコミックス)


特に、『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』は、傑作だと思っていて、永田カビさんバリに、トラウマの自意識の空転を極限まで推し進めて、それを執拗に描いていて(笑)、本人は、全く努力もしないし、何も変わらないのに、世界が変化していく様を見ていくのは、とても興味深い連載の展開です。これこそ、ドラマトゥルギー(物語の自然な展開の圧力)だ!と思います。もちろん、子供時代のトラウマにとらわれ、自意識が空転してしまえば、、、、一度そうなってしまうと、「そこから抜け出ること」はほとんど不可能に近い困難なものになります。この自意識の地獄、ナルシシズムの地獄(ナルシシズム=思い込みの世界から抜け出せないのが悪いとは言えません。人間はそういうものだと僕は思います)から具体的に抜け出る方法は、よくわかりません。たぶん、個人の話になるので、一般化して語れる話ではないのでしょう。

私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い! (16) (ガンガンコミックスONLINE)


ただリア充敵視というものが、何に結び付いていたかで、実はこの「抜け道」を求めての旅の履歴がわかります。


リア充爆発しろ、という言葉は、まず端的に言って、「恋人とイチャイチャしている」ことへの揶揄といら立ちであったこと、物語の世界では、ラブコメに結び付いてたと思います。いいかえれば、恋人がいれば、できれば、この自意識の地獄、充実しない不遇感から抜けられるということです。


しかし、これは、非モテ・・・・もてないということに代表されるように、「そもそも不可能だ」という結論になります。また、もちろん、どんどん「何の理由もないのに主人公が女の子から愛される」ハーレムメイカーというような、ハーレム構造に行き着くことにもなりますが、これにはみんな「納得がいかなかった」ように思えます。欲望は満たされますが、「愛される理由がない」ので、充実が訪れないからです。言い換えれば、充実は、「自分が納得して、これでいいんだという肯定感」なので、何の根拠もなく女の子たちから愛されても、それは負担でしかありません。なのでこのハーレムメイカーという構造から、男の子が消えて、女の子同士の日常系になっていくことからもそれはわかります。


また、ちなみに、その女の子同士ということでラブコメが展開するドラマトゥルギーが働き、百合ものが展開しますが、これもまた女性同士という「困難さ」が世の中に認められて普通になってしまうと、同じ設問に戻ることになります。『桜トリック』でお話ししましたね、これ。


petronius.hatenablog.com


もてない人は、どうすればいいのか?。と。


ちなみに、僕の考えでは、「なぜラブコメはだめなのか?」「異性に救済される・する」ではだめなのか、というのは、なんとなくですが、「一人の人間と真剣に向き合って」「関係を深めていく」と、どうしても「いまのままではいられない」こと・・・・相手の本質トラウマに向き合ってそれを救済(変える)ことをしなければならないし、それは同時に自分のトラウマと向き合って自分を自分で救済する必要があるので、「そこまでヘヴィー」なことはしたくないし、そもそも自分の「現状の心の傷・トラウマに直接向き合って直視する勇気」がない問題がすべての根本なので、このドラマは、難しいんです。かといって、「そこまでアクセルを踏み込まない」で、ハーレム状態でちやほやされているのも、人間にとっては、実は「変わらない自分が常に背後から告発されること」になるので、この辺りは難しいところです。



さて、では、、、、これが面白いですが、リア充になるために必要なのが、恋人でなければ、何なのか?と考えた時に、この答えが



友達



になるんですね。


第12話 「僕は友達が…」  そうか、恋人じゃなくて、友達が欲しかったんだ!これはびっくり目からうろこが落ちた。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130329/p1


僕は友達が少ない 1 (MFコミックス アライブシリーズ)


ここで「学園カーストの上層部」に所属する人々が、友達同士で、パリピ?とか、「楽しそうにしている」姿に嫉妬を覚えたんだろうと思うんですが、これは重要なポイントです。この流れが僕が言うところの


ほんとうの友達が欲しい症候群


友達欲しい系


というカテゴリーになっていくことになると思います。

「なぜ、ほんとうの友達が欲しいと思うようになるのか?」という起源の問題

さて、先ほどの3つ設問に戻ってみましょう。なぜ、「ほんとうの友達」が切実に欲しい、と思うようになるのか?。それは、(2)の「ほんとうの友達」の定義に関わるのですが、これは、いろいろな人の話をずっと聞き続けた結果、絶対的に自分を裏切らない相手という意味だということがわかってきました。僕はいつも、人というのはなぜ、こういうような0と100の極でしか問題を捉えないのだろう?と不思議に思うのですが、レンジで物事を捉えないのですね。「まぁまぁの友達」とかいうのはないんですね、要求事項に。100の絶対的な裏切らない友達というのは何を言っているかといえば、神様を要求しているような「絶対性」を要求しているに等しいです。それって、もちろんのこと100%不可能なことです。これって何を言っているのかというと、僕の勝手な仮説なんですが、地獄のようなスクールカーストの学校空間における、「神様」を生み出している信仰なんじゃないかな、と思うのです。極論過ぎる?(笑)。意味するところは、学校空間という荒涼とした永遠に続く地獄の中で、何もすがるものがなかったので、妄想で神様(=絶対性)を生み出して、それが手に入れば、救われる救済されるという思考のループにはまったんじゃないかな、と思うのです。

http://petronius.hatenablog.com/entry/20130406/p2


この「友達が欲しい」というドラマを、学園ものの舞台で描くと、必然的に「ほんとうの」という問題意識がついてくる。それはなぜかというと、日本的空気の病、学園カーストの構造を前提にすると、言い換えれば、僕等が住んでいる日本の学校という空間では、リア充が「おれの方が充実している」と常に「マウントしてどっちが上か殴り合っている」「万人の万人に対する闘争」している政治闘争空間としてうつっているのですね。これは真実だと思います。「空気を読む」というのは、いかにその場ののりを支配して、自分を上層部位置付けて、空気の権力でカースト下層部を制圧するかという政治闘争なわけです。これがすなわち、ずばり「いじめ」の定義でもあるわけです。


なので、友達と学園というテーマを日本で展開するのならば、「いじめ」のような空気をめぐる権力闘争をどう勝ち抜くかということ、そのサバイバル闘争こそがテーマになります。


・・・・・苦笑。厳しいですね。でもこれ社会でも同じなので(笑)、日本固有のテーマですね。ちなみに、一つの解として、『ココロコネクト』は見事な展開をしているので、小説をすべて読むのはおすすめです。いまだ色あせない傑作です。


ココロコネクト 文庫 全11巻完結セット (ファミ通文庫)



ココロコネクト』 庵田定夏著 自意識の病の系列の物語の変奏曲〜ここからどこまで展開できるか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20121003/p1

ココロコネクト ミチランダム』 庵田定夏著 伊織の心の闇を癒すには?〜肉体を通しての自己の解放への処方箋を (2)
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20121126/p1

『コロコネクト ユメランダム』 庵田定夏著 あなたには思想がない〜Fate/staynightの衛宮士郎のキャラクター類型と同型(3)
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20121030/p2

ココロコネクト』 庵田定夏著  日本的ボトムアップの世界でのリーダーというのは、空気の圧力を結集する特異点
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130930/p1



ということで、ではこの友達が欲しいという問題意識に、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』がどう答えたかということですね。

海燕さんが、そろそろ、この学園ものの文脈に流れる、善悪二元論的ラスボス(=リア充・モテ)物語類型に対して、懐疑を感じているんだろうと思うのですが、僕もこの感覚と意見にとても共感します。僕は前回のラジオで、俺ガイルの葉山くんの設定とエピソードがとても共感する、と書きました。あきらかに、モテ・リア充かつスクールカーストの頂点に、その実力で君臨する葉山くんは、圧倒的な存在感を放っています。ぼっちの主人公ヒッキーに比べれば、月とすっぽん。軽蔑の対象となるはず・・・・が、違うんですね、スクールカーストの空気の奴隷という支配くんの外側から外を眺め、外側の力学を使用して、自分が傷つくこともいとわずに内部干渉をするヒッキーに対して、あきらかに、屈折した憧れと共感を持っています。スクールカーストは、三角形のピラミッドで表現できる単純な、権力構造です。しかしながら、違うルールから見た時に、葉山くんは、ヒッキーがとてもうらやましく感じているのだろうと思います。


http://petronius.hatenablog.com/entry/20130406/p2


www.youtube.com

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どれだったかわからんが、とりあえずはっつけておこう。あんまり張り付けるなと怒られたんですが、、、許して、、、、。


えっと、この話はずっととしているのですが、要は、善悪二元論の敵と味方の話と同じで、敵だと思っていたけど、ちゃんとコミュニケーションをとっていくと、同じ人間だったという話ですね。むしろ、ヒッキーに対して、葉山君が嫉妬さえしているという構造が、炙り出されていきました。


俺ガイルで、何が示されたかというと、ヒッキーという主人公が、奉仕部という活動を通して、様々な人と関わっていくなかで、彼がリア充(葉山)が提示できる選択肢や問題解決能力と、別種類の、非リア充でぼっちだからこそ取れる選択肢や問題解決能力を示していくことが、この物語の前半部というか、全体を通してのコアです。ようは、学園カーストヒエラルキーの上層部にいれば何でも解決できるわけではないってことです。このことは、ずっと示されていて、リア充で学園カースト上層部の人間たちほど、「空気に支配された奴隷」で「常に弱者の池にを捧げて(=いじめ)いないと恐怖でおかしくなる」ような、凄まじく孤独な地獄を生きているやつらだって、いうことが、分かってきてしまったんですね。


ここで、リア充vs非リア充という分類は意味をなくします。


ようは、「ほんとうに充実している人々」は、「空気による支配を受けない行動・発想ができる人である」と話になっているんです。


一段上のロジックレイヤーが表れているんですよ。リア充vs非リア充の二元対立の一つ上の話をしているのですから。


そして、この物語の中でもっとも、「空気による支配を受けない」人は誰なのかといえば、明らかに主人公のヒッキーなんですよね。


ヒッキーが、ぼっちだから、非モテだから、非リア充だから、空気の支配を受けない「といわけではない」のはわかるでしょうか?。


空気の支配を受けるのは、モテ・非モテリア充、非リア充関係ありません。等しく日本的学園世界に生きる人間は、全員支配されます。それは構造的な問題だから。できることは、個別の出来事に対して、「そうではない選択肢」と「行動を示し続ける」ことを通してしか示せません。


・・・・・ヒッキーであり、奉仕部そのものであること僕は思います。


こうして、様々な学園イベントを、空気に支配されない手法で解決し続ける積み上げを通して、ヒッキーは、「空気からの支配」から自由になっていきます。彼は、「そういう人」なんです。魅力的な男の子だと思いますよ。最初から僕は言っているんですが、ヒッキーは、社会に出たら、、、いやでなくても、強い人です。空気や常識みたいな、「当たり前に見える構造」、、、言い換えれば現実を変える意思と行動力を持っている人なんですから。


なんか、言い方が大げさになってしまった(笑)。空気からの支配からの自由とかだとなんか大袈裟ですが、やっぱり、ヒッキー魅力的ですよね。だって、周りに左右されにくい人、自分自身の内発的な意思を信じているんですもん。



さて、これが、「ほんとうの友達」とは何かの、「ほんとう」の部分にかかっていることは、わかるでしょうか。「ほんとうの」というのは、空気の支配を受けない関係性のことをいっている。何かの構造的な圧力のものに出来上がる関係性ではなく、内発的な「自分の自由意志によってえられ、作られ、継続していく」ものが、本物なんだよ、という結論。『ゆるキャン△』もそうでしたよね。

petronius.hatenablog.com


ゆるキャン△ 1巻 (まんがタイムKRコミックス)


この辺りは、みんなわかってきたんだよなぁ、としみじみ思います。ああ、物語が続いていくことって素晴らしい。これが平和の価値なんだろうなぁ、としみじみ思います。いろいろクネクネ回っても、ちゃんと進んでいく。


ここで、俺ガイルは、素晴らしい業績を、示したんだと思います。それは、「本物」って何かと問えば、それは「空気の支配に抗うことだ」ということ。リア充たちであっても、モテる人々でも、等しく空気の奴隷であり、それへ自覚的に戦いの意思を示し続けることは、痛く、苦しく、孤独で、難しい。いやむしろ、リア充と呼ばれる人々は、無自覚に奴隷になっていて、自覚すらないことが多い。だから、ヒッキーは、かっこいい男の子だと思います。


そして、この大きな展開、果実が、いまだ半分しか物語が進んでいない時点で既に出ているからこそ、この作品のポテンシャルに、時代を代表するくらいの力を感じていたんだろうと思います。


もうこれで終わっていいくらいなのに、この物語は最初から、雪ノ下雪乃の救済というドラマをセットとしていました。ここで難しい問いの構造になってしまいました。というのは、充実が欲しいというテーマに対して、「本当の友達」関係を作れれば、それが最も価値のある安住の居場所になるという答えにたどり着いて、リア充の葉山くんすら嫉妬させ敗北感を感じさせるところにまでヒッキーは到達します。奉仕部の、ゆいちゃんとゆきのん都の3人の「友達関係」は、その価値を持つんです。


でも、そりゃあ、普通の問いですよ。男女ですもん、いや異性でなくたって「そんな特別な友達関係」を築けたら、「相手のことが好きになる」というのはおかしくありません。ここで時代の流れとは逆のドラマが生まれるわけです。恋人じゃ救われない、友達がいい。そうなったはずなのに、、、、、


そこにセットされていたのは、


2)雪ノ下雪乃という女の子を救うこと-ラブコメは学園を超えられないので家庭の問題には踏み込めないのをどう超えるか?


という問いでした。


これがどんな形で、解決されるのだろう?、、、、特に、ゆいちゃんと雪乃とヒッキーの関係は、定番の三角関係ラブコメであり、一体、彼は誰を選ぶのかというドラマと重なって、作者をずっと追い詰めて今ように思えます。12-14巻は明らかな、迷走と苦悩が見て取れます。


この問いにどう答え、そして結論をつけたのでしょうか。



2に続きます。


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