評価:★★★★★5つ(4.5)
(僕的主観:★★★★4つ)
素晴らしい映画だった。胸にグッときた。これは、見る年代で、感じることが全然違うんじゃないかなと思った。
日本映画は、あまり見ていないし、文脈も自分の勉強はイマイチなんですよね。だけれども、頑張って見て勉強しているアメリカ映画とは比較にならない強度で、時たま迫ってくる。理由は、単純。日本語だから。そして、出てくる漫画、京王線明大前駅、調布市郊外の多摩川の眺め、そして何よりも日本人の実写だと、自分達と同じに姿で出てくるものへの感情移入の強度は強いからだと思う。僕は、少女漫画でも、日本の実写映画でも、アニメでも、舞台でも、ミュージカルでも、小説でも様々なジャンルを越境してみる人なのですが、媒体や表現形式が違うと、受け取るものが、全く違って感じることは多々ある。だから、実写じゃないと、感情移入できない!とか、アニメの二次元しか感情移入できないとか、いろいろ「見方」ってのはあると思っています。だから、いろいろな媒体を、散歩してみることは、食わず嫌いにならず大事なことではないかと思う。これも、気になっているものをやっと見れたのですが、素晴らしく良かった。久保ミツロウの漫画原作の映画『モテキ』とかも思い出したなー。『モテキ』は、小沢健二などの80年代の音楽が素晴らしかった。この『花束みたいな恋をした』も、漫画とか時代を感じさせるものがたくさん出てくる。ああ、『ゴールデンカムイ』のあの巻数ってことは、、、と自分の体感が蘇る人には、たまらないと思う。
この映画のポイントは、麦と絹という好きなものが一緒の二人が、「花束みたいな恋」をしたという物語がテーマ。なんですが、これって幸せになりました、めでたしめでたしではないところが、リリカルで切ない物語。多分批評チックに解説するのならば、「そこ」をいろいろその辺りに言及はできると思うのですが、それではありきたりすぎて面白くない。
僕が身につまされたのは、前半部の感性がぴったりあって幸せな、祝福された恋人になるシーンではなくて、麦が就職して現実にすり潰されながら、社会に居場所を見つけ出していく時間の経過の中で、あんなに好きだった漫画や小説や舞台が頭に入ってこなくなり楽しめなくなっていくところ。身につまされた、本当に。
モラトリアムの大学生から社会人いなるインパクトはでかい。このステージの違いは、人生に大きな断絶というか、変化をもたらす。特に、稼いで食べていくために所属しなければならない会社という「現実」でゴリゴリ経験値を上げていく時の圧倒的なリアリティは、本当に圧倒的。「それ」以外のものが、何一つ受けつけなくなってしまう。自分にも覚えがある。新入社員で営業マンとして飲みまくりで、取引先から死んじまえ!とか言われている毎日で、その数年間は、あれだけアホみたいに読んでいた漫画、小説、見ていたアニメ映画を一つも見ていなかった。
自分語りをしてしまうと、当時の大学時代に付き合い始めた彼女には、麦と全く同じプロセスで、振られたんだよね〜。就職して、お互いの感覚が合わなくなって。特に僕は、地方に配属されたので遠距離恋愛でもあったしね。めちゃ強度の高いラブラブな関係から、どんどん冷えていく様は、恐怖だった。生活のスタイルが変わること、ずれることの怖さって、本当に経験しているので、しんどかった。
これ、社会人の最初の時期を経験している人が見たら、圧倒的だと思う。
ちなみに、僕も、それで結婚しようと彼女に言って、、、、振られました。麦と同じじゃん(苦笑)。その子とは、本当に好きで好きで、一緒にいたかったけど、いることはできませんでした。それに、本当に好きだった、自分とぴったりだった相手と、心が通わなくなっていく様は、本当にしんどかった。
そして仕事をすればするほど、「ナポレオンヒルの自己実現!」とか「どうすれば売れるか!最強営業マンへの道!」「ビジネスマンは志を持て!」みたいな、なんというか、殺伐としたものに自分が絡めとられていくんだよね。麦は、けっこう実は楽しそうに仕事をしていると思う。これ変なこじらせがなければ、僕は、それなりに人生、そうやって社会人の居場所を見つけられていくんだと思う。その諦めが、大人になるということ。。。
けれども、本当にそれができない人は確かにいて、20代の後半までには、いく人かの知り合いは自殺したり行方不明になった人をもいた。ああ、、、あの時の先輩は、荒れた海に飛び出してサーフィンをしたまま、戻ってこなかった。。。だいたいが、友人や恋人に迷惑かけまくって最低になる人が多かったので、ああ、適応できなかったんだなとしか思えなかった。でも、同時に「適応できてしまった」自分が、なんだか汚れちまった、大事なものを失ったていう感覚もあるんだよね。この辺りの経験がある人は、本当に身につまされる。毎日深夜まで、売上の表を作ったり、上司のパワハラに心折られ、顧客に怒鳴られて心が崩壊し、、、、そんな毎日が、自分のしたかったことだったたんだっけ?って。
この辺りに、学生のモラトリアム的な感覚が、どんどんなくなってしく様は、みていた恐怖というか、身につまされるというか、胸にきた。
しかし、この作品のとても、素晴らしい、自分的に感動的だったポイントとは、実は、別れた後に、一緒に暮らしている時、そして別れてお互いがいなくなって、もう関係ない人になってからの、、、、あの爽快感、あの解放されて憑き物が落ちたように、穏やかな感じになっている二人なんですよね。
これは、見る年代で、感じることが全然違うんじゃないかなと思った。
この最初の感想に戻るんですよね。
主人公カップルと年齢が近い人が観たら、恋愛の始まりと終わりを美しく情感たっぷりに描いた作品と思えるかもしれないし、私のような中年が観たら、これはむしろ焼け木杭に火が付くきっかけの話、にも思えてくるのである。
やはり菅田将暉が主演し、昨年公開された「糸」では、平成の30年間に腐れ縁のように邂逅を繰り返す男女が、最後の最後に結ばれる。
あの映画のカップルを考えたら、たった5年間の恋愛なんて、もしかするとプロローグに過ぎないのかもしれない。
花束はドライフラワーになっても美しいのだから。
ノラネコさんがこう書いているんだけれども、僕自身のような、アラフィフの50年くらい生きている人からすると、30歳ぐらいになって、社会人としての居場所を見つけて、子供の恋でうまく合わせられなかったけれども、やっぱり「花束のような恋」であるくらいに相性が良かった、、、、だからこそ、別れる時には笑顔で別れられた、その思い出がよみがえってくるんだよね。
僕は、きっと「現実のというリアリティは圧倒的なんだろう」、それに対して準備していなければ、きっと社会は自分の人生を盗むんだろうと言うことが圧倒的にわかったんですよね。そして、会社であの殺伐としていた仕事ってやつが、実はけっこう楽しくて、向いてるし、うまくやれば、、、、むしろ、物語がもっと面白くなるためにスパイスに、いや、「飽きて磨滅してしまう感受性」をリフレッシュしてくれる経験と、、、そして何よりも、圧倒的な金銭による対価!をもたらしてくれることに30歳ぐらいで気づくんですよ。
『その着せ替え人形は恋をする』の最新刊で、大人になっても趣味を継続する時、、、、時間はないけど、お金があって、社会人は最高だぞ!!というアドバイスが出てくる。これ本当に、そうだと、今の僕ならば断言できる。別に、趣味を止める必要ももない。
けれども、人生にはステージが、時がある。
その時、その時にやらなければいけないことや、生活スタイル、心あり方は、違う。
ノラネコさんの指摘で、菅田将暉が主演の『糸』を挙げているのだけれども、まさにそうだよなって思うんですよ。この後、麦と絹が、もうひとまわり大人になって出会ったら、二人は幸せな夫婦になれる余地は僕は十分にあると思います。なぜならば、実体験で、僕はそう言う経験をしているから。上で話した、遠距離で、感覚が合わなくなって別れた大学生の時つき合った彼女は、僕の現在の奥さんだからです。社会に出て、居場所を見つけて、少し大人になって、いろいろ人生をチューニングする術を学んだ時に、ああ、こういう世間をいく抜く生活の知恵を身につけた後だったら、もっとあの人とうまく生きられたのにって思うんです。だって「花束みたいな」思い出なんだもの。幸せになるためには、きっと別れを経験していなければならなかったんだ、と思う今日この頃です。
みたいなこと、いろいろ感情を喚起されるので、日本映画は良いですね。