『レディ・バード』(Lady Bird)2017年 監督グレタ・ガーウィグ 都市や郊外に住む若者のキラキラのしなささは、もう世界共通なんだろうと思う

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評価:★★★★★5つ(4.8)
(僕的主観:★★★★☆4つ半)


2002年、カリフォルニア州サクラメントカソリック系の高校に通うクリスティン・マクファーソン(シアーシャ・ローナン)の痛い青春映画。色々な見方ができると思うが、この映画を見るならば、やはり、地方の郊外の何も持たない女子高生の青春、成長物語として捉えるべきだろう。キラキラしているわけでもなく、自意識が空回りして、何者でもない自分にイライラして失敗ばかり。どうしてそう捉えるべきなのかは、これが監督の自伝的な脚本で、この監督のグレタ・ガーウィグの人生が題材になっているのは、他の関連作品を見ていけば明らかな繋がりがあるからです。

この『レディ・バード』とセットで観ることをオススメしたい作品が3つある。その3つの映画の登場人物と、本作の主人公レディ・バードを同一人物として見る、という遊びをここで提案したい。正しい観方とは言わないけれど、監督であるグレタ・ガーウィグが映画の世界に関わることで何を表現しようとしているのかが立体的に見えてくるんじゃないかと思うし、おそらく多くの映画ファンが僕と似たような見方をしているんじゃないかと勝手に思ってる。その3作とは、『20センチュリー・ウーマン』(2016年)、『フランシス・ハ』(2012年)、『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』(2019年)。

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というような部分は、評論家がこの作品を見る上では、見ようよね、となる部分なので、僕としては割愛。


ちょっと監督が思うところ趣旨は違うのだろうけれども、この作品を見てて『ボウリング・フォー・コロンバイン』( Bowling for Columbine)2002年や『アメリカン・ビューティー』(American Beauty)1999年などを思い出していたんですよね。郊外に住む、先進国、、、とはもう言わないか、中産階級とももう言わないかもしれない、いわゆる普通の子供って、本当に未来が何もない、何もなさで生きている。ペトロニウスは、1970年代に生まれたアラフィフで、東京の西の郊外で育ちました。いつか、この狭い何もない世界から出て行きたいと願っていたけれども、特に才能も特別なものもなく、上条さんのように左手が疼いたりしませんから、本当にの何もなかったです。その当時は、自分があまりの何もなさに絶望していることすらもあまりわかっていなかった。客観視って、世界を相対化するくらいの経験を持たないと、できないんですよね。

サバービアの憂鬱 「郊外」の誕生とその爆発的発展の過程 (角川新書)

今50近くなって、半世紀近く生きている自分の人生を振り返ると、ああ、、、世界中のどこでも、都市の郊外に生きるいわゆるフツーの若者って、「こういう人生」を生きているんだって、すごく実感する。世界中を仕事や旅行で回って、アメリカに長いこと住んで、色々なところに住んで子育てもしてきているけど、、、、上手く言えないけれども、中産階級の、貧困位落ちるギリギリのキワぐらい、いわゆる中の下みたいのが、世界には一番多い。だって、そこがボリュームゾーンだから。意外にこの何もなさって、アメリカで、数億円の豪邸?に住んでいる子供の友達であっても、あまり感覚が変わらないじゃんって、驚いた覚えがある。もちろん、ギリギリの生活の黒人やヒスパニックの家庭の友人とかの厳しさは、その厳しさの濃度ははるかに濃くはあるけど。結構安定している日本の都市部の家庭だって、そんなにかわりゃしない。ああ、、、今の地球の子供達って、「ここ」から何者かになろうって、がんばっていきているんだって、なんか感慨深くなってしまった。子供の頃は、その「何もなさ」に絶望していたんだけれども、あれって、やっぱり日本で言えば、明治維新以降とか高度成長期の「立身出世」みたいな概念との落差で、「何にもなれない」ってことが苦しかったんだと思う。


そして、自分の子供たちの世代を見ていると、、、、もうなんというか、「落差の絶望」って感じないんだよね。主人公のレディ・バードは、なんだかんだいって、自分の夢にちゃんと、かなり厳しい経済的事情や、親の無理解の中からも突き進んでいく。グレタ・ガーウィグ監督の自伝的な分身だと考えれば、滑った転んだをしながらも、彼女は芸術家として、世界に認められていく存在になるわけです。もちろんこの青春時代は、『ボウリング・フォー・コロンバイン』とか『ストレイト・アウタ・コンプトン』(Straight Outta Compton)2015年と、紙一重の世界にあって、、、、でもうなく言えないのですが、この貧困、何もなさの郊外的空間って、もうデフォルトというか、たぶん、僕の子供たちの世代(2010年代の世代)にとっては、当たり前すぎて、絶望するほどでもないスタート地点のように見えるんだよね。僕ら批評家集団のアズキアライアカデミアの分析タームでの「新世界系」以後みたいな感覚なんだけれども、、、、あまりに真っ白で、何もなくて、でも、別にそれは、嘆くほどの悪いスタート地点ではない、見たいな。日本の学園もののラブコメでもなんでも、この郊外的空間が、すでに前提になっていて、だれも『涼宮ハルヒの憂鬱』のような一億分の一である怖さに立ちすくんではいないというか、、、、うーんそう単純じゃないな、もちろん「自分の価値の低さみたいな痛々しさの自我の空転」は相変わらず、青春の基本なんだけど、それが世の中の「大きな物語」に全く接続しない感。。。上手く言えないけれども、もう僕のような1970年代の生まれには、全く想像もつかない違う世界になっている気がする。そう思う今日この頃。

そんなことを思った映画でした。

ちなみに、大傑作だと思います。