ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー 2023 評価が二分すると言われるこの作品をどう鑑賞すればよいのかについての補助線

www.youtube.com

評価:★★★★☆星4.5
(僕的主観:★★★★星4つ)

2023年の5月に映画館に10歳の娘と見に行ったんですが、いやはや面白かった。娘と、クッパ(Bowser)がピーチ姫への熱愛の歌う熱唱するシーンで、大ウケで爆笑。どうでもいいことですが、バウザー(Bowser)の発音が自分にはサウザーに聞こえて、ずっと北斗の拳の聖帝サウザーを連想して一人含み笑いしていた(←どうでもいい感想)。娘が英語で見たいとせがむので原語版で見たけれども、4DXや3DXで「体感すべき」映画だなって思った。ゲームをしているもしくはテーマパークでのライドに乗っている感覚でした。スーパーマリオのゲームをやったことがある(ない人探す方が難しいかも)であれば誰でも楽しめて、基本は家族で行く、年齢を問わない映画ですね。年齢性別をこれだけ問わないタイプのお話は本当にめずらしい。デートにもファミリーにも、全てにOK。これぞ映画興行だ!。さすがの任天堂。誰と行っても、確実に楽しめる。ヒットしない方がおかしい素晴らしい作品。子供の頃から慣れ親しんで知っているゲームの世界の入り込み、立体空間を縦横無尽に「体感・体験できる」というのは、それだけで価値であり感動だと思います。

批評家受けが悪くて、この作品の評価を話題にする人が多いですが、そういう人は「言葉で語る」意味の呪いにかかっている人だよなって思います。明らかに、これって脚本の意味の一貫性などを問う作品ではなく、「体験の質」を問うべきであって、「ストーリーの意味」を問う時点で、かなり極端な映画の見方をしていると僕は感じます。映画の見方が悪い。これ主人公のマリオの成長物語として意味文脈を読み取ったら、薄いどころか何にもない話になってちゃうじゃないですか。「負け犬であるマリオ兄弟」が、何の努力もしないで異世界でヒーローになりましたっていう、陳腐すぎる瑕疵のある脚本と見るしかなくなる。いや、社会的なルーザーでダメな奴が、異世界に転生して、何もないのにチートで無双、夢想するって、どこかの国の「小説家になろう」サイトとかライトノベルとかマンガやアニメであふれているので、本当はこれこそが人が望んでいることだと僕は思うけど。それで、何が悪いのだ!。でも、その見方は、この作品の本質を何も問うことにならない。批評としては、批評するにレベルの低い視点だと思う。だって、そんなの言っても意味ない視点なんだもん。何にも生産性ない。

これって多分、フランスのリュミエール兄弟の発祥まで遡って問われてきた「映画とはなんなのか?」って本質の話なのかもしれないですね。僕は、映画ってのは、リュミエールの時代から本質的に、見世物小屋のエンターテイメントだと思っていて、面白い体験ができればそれで正しいと思っている。初期は、メリーゴーランドの映像だけで、「高さ視点(人の目線より高い)の違い」「速度(当時は村から出ない人がほとんど移動の自由が少なかった)の違い」のセンスオブワンダーを観客は感じてたわけだから。それで十分だった。そこに、近代的な一貫性の脚本の意味文脈なんか、問わなかったでしょうに。映画を総合芸術として、脚本の一貫性、キャラクターの動機の設定、目的・テーマから演繹的に逆算して、受け手に意図の通りの感興を引き起こせたかの評価をしたがるんですよね。特に批評家とか、文字を職業としている人は。それは、一つの評価の軸ではあると思うけれども、それではこの映画の「面白さ」や「観客が興奮することの本質」に何一つ届かない射程距離の低いものだと思う。

あの音楽とマリオがジャンプしまくるだけで、めちゃくちゃ満足しますよ。僕らは、任天堂ファミコン以来のゲームキッズなんですから。これってゲームをする楽しさと、本質的に同じものなんだろうと思う。
www.youtube.com

最初に、自分の初見の感想を強く打ち出すのは、前情報や「分析的な解釈の視点」に毒されない自分の生の感想をメモしておくべきだからだと思っています。そうしないと、すぐ人はイデオロギーとか、「こういう角度で見るのが世の中の空気」みたいなものにからめ取られて、「自分の内面の声」が聞こえなくなってしまいます。この声はとても音が小さいので。


さて、自分的には、かなり面白かったのですが、この作品は、「批評家の評価と一般の観客の評価が正反対」というような「視点」が話題になって、そこにグダグダとこだわる人が散見されるという空気が、2023年の5月の時点で色濃い。この「空気的な視点」が、来年とか数ヶ月後にどうなっているかは、全然わからないので、この「文脈で話題になったんだよ」という経緯は残していくと、自分の思考・思索のアーカイブになると思っているので残します。この映画評価サイトのロッテントマトの評価も、数年後とかはどうなっているか全然分かりませんけどね。また日本語の記事で視点は提供されていたので、英語圏で本当にそんな視点で話題になっているのかは、よく分かりません。


The Super Mario Bros. Movie - Rotten Tomatoes


ただ、5月のアズキアライアカデミアの配信で分析しましたが、海燕さんが、この視点に内輪のライン雑談で異様にこだわるので、なんでそう感じるのか掘り下げてみようということになりました。

note.com

この場合、海燕さんは基本的に、この映画の否定派で、僕が肯定寄りの中間で、LDさんが肯定派という3軸の感じで立場を設定して議論を進めてみました。ちなみに、まぁ、テーマパーク的体験世では素晴らしくて、シナリオはいまいちというのは、基本的に、すべての人が大体感じる「落ち着きどころ」なんですが、そういってしまうと、話が面白くない。ようは、鑑賞し終わったあと、ポジティヴな感情なのかネガティヴな感情なのかってのは大きいと思うんですよね。海燕さんは、マイナス。僕とLDさんがプラスとなった理由はどこにあるのか?を話すことを通して、この作品の「分析の仕方」の立て付けを用意したいと思いました。

www.youtube.com

2時間強長いですが、今の時点で分析的に鑑賞しようとしたら必要なパーツや視覚はかなり網羅したと思います。やはり三人が同時に見ていて、リアルタイムの話題性があるやつは、議論が濃いですね。これだけ掘り下くと、かなり満足度が高い。議論の枠組みを簡単にサマっておきます。ちなみに僕の用語による、分かりやすくするためのかなり強引なまとめです。LDさんとかは、付帯意見や分岐の条件をつけたがるし、海燕さんはもっとマイルドなんですが、極論に言い切るように書き換えました(笑)。配信でも、僕がそのように誘導、司会していますし。ちなみに、もちろん長いだけあって、Youtubeの配信の方が、言語化して丁寧にブレイクダウンの議論をしているので、分かりやすいと思います。

1)批評家VS一般観客という視点は正しいのか?

   ポリコレ的でないから世界中で一般観客に売れて受け入れられているのは正しいのか?
   Twitterなどの空気で肯定派以外受け入れないという全体専制主義的な二元論(正しいか間違っているか)に対する海燕さんの嫌悪について
   ペトロニウス的な感覚では、作品についてイデオロギーで判定する人々は、そもそも「映画そのもの」を見ていない人たちなので、聞くに値しない
  
作品の具体的分析に入るのならば、シナリオのマリの成長物語のドラマ性がポイントになるはずなので、そこを掘ろう

2)マリオの成長物語として分析的に見た時に、シナリオの瑕疵があるから、この作品は駄作なのか?

  海燕さん立場:成長物語として瑕疵がありすぎて作品としてダメ
   →冒頭の家族のシーンによるマリオの問題点の指摘がオチに回収できていない
   →スターをとれば無敵だというオチがあまりに杜撰(ならばなんで最初にクッパがそれを使わない?)破綻しすぎ。

  ペトロニウス立場:成長物語としての構造的問題は同意。しかし、それを上回ってライド、テーマパーク的な体験性が豊かなので、全体的にプラス。

  LD立場:冒頭のエピソードから成長物語として捉える「ドラマ性」が発動しないので、マイナスとは思えない。
 
この物語のプラスマイナスの最終的な感覚は、マリオの成長物語としてのシナリオのドラマツルギーへの感情誘導が発動した人としない人で分かれている。であるのならば、冒頭の家族のシーンなどのマリオの「成長物語のしての克服ポイント(=克服される動機づけ)」から成長物語に突入したと感じる人とそうでない人の差はどこから生まれているのかの掘り下げが必要


3)文脈としての批評的視点の価値〜マリオの世界観、ブランド、積み上げ文脈からこの脚本には瑕疵があるけれども、瑕疵としては発動していない

ペトロニウスの立場の結論として、この作品を評価するには、二点。

(1)体験とシナリオのリンクをどう文脈から評価するか?

A)ライド・テーマパーク性としての映画の喜び

B)マリオの成長物語としての瑕疵のある脚本構造でのドラマへの感情誘導へ成功か不成功か?(要は気持ち悪いか悪くないか?)

観客、受け手がどちら側により多く誘導されているかで、この映画を楽しめた楽しめないが分かれる。この分かれ目は、A)とB)の「つながり」においてA)の体験のセンスオブワンダーに対して、シナリオの瑕疵、失敗が重大な阻害をしているかどうか?で評価できる。そういった批評的な視点では、「阻害していない」というのがペトロニウスの立場。だから、星が4.5の評価(満点は5)になる。この分析は、アバダーの1と2の評価をするときに同じ構造の例として取り上げている。アバダー2は、この「体験のセンスオブワンダー(=この場合は未知の星を探検、見ることができる喜び)」は、脚本の「白人のインディアンのへの贖罪」や「少数民族独立戦争の物語」と全然リンクしていないで、阻害してしまっているのでアバダー2は最低の作品。同じ構造だけど、脚本と映像体験のコンフリクトがあると、総合芸術としての映画としては駄作。邪魔しないスーパーマリオのような映画では、そこはマイナスポイントではない。

www.youtube.com


(2)小説家になろう異世界転生物語の類型のプリミティブな物語の野生の喜びは否定すべきではない

「成長物語としての瑕疵・欠陥」は、確かにそうだが、近代的な物語の視点で見過ぎであって、「意味の病」だと思う。この辺は書くのしんどくなってきたので、配信聞いてください(笑)。


4)脚本をもっと突き詰めると『ドラゴンクエストユアストーリー』になるんじゃない?、むしろそこにまでいかなかった部分を評価すべきなのかも?

海燕さん、LDさん的立場

「成長物語としての瑕疵・欠陥」をさらに突き詰めて、このあたりの近代的な視点で掘り下げていくと、山崎貴監督の『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』(DRAGON QUEST Your Story)が思い浮かぶ。これと似た構造では?。けれども、マリオはそこまでいかなかった部分に成功があるんじゃないのか?等々。


ここはペトロニウスは未見なので、詳しく語れません。次回の6月のアズキアライアカデミア配信までに見て勉強しておきます。



ドラゴンクエスト ユア・ストーリー Blu-ray通常版




🔳ピーチ姫躍動の意味〜自己目的化した内ゲバポリコレから、自然な目線として安定化したポリコレへのシフト

www.youtube.com

個人的には、ピーチ姫が、ノリノリでとても好き。CVは、『クイーンズ・ギャンビット』アニャ・テイラー=ジョイ(ANYA TAYLOR-JOY)ですね。ノリノリで、愛されて育った健康的なかわいさにあふれてる。捨て子というか親がいないでキノコ王国で育てられた設定ですが、それが故に国へ、まわりの人みんなへの愛あふれる様が、かわいい。QGのエリザベス・ハーモン役とかぶって感じてしまい、ちょっと涙目に。(←この見方は、だいぶレアケースだと思いますが(笑))。マリオたちは明らかにニューヨークのイタリア系ですが、ピーチ姫は、何系の顔立ちなんだろう。ちょっと、悪役令嬢っぽいというか、キツめ感じのなのに影が全くない感じが、健康的な魅力になっている。いや、この子、いい子だろ、、、。かなり好き。

filmarks.com


ちなみに、この部分に、LDさんが非常に、「過去のオリジナル作品の体験の一回生」との違いを見ていく中で、ピーチ姫はもっとおバカだったよね、昔という話が、すごく面白かった。僕は、この部分がすごく良くて、


ピーチ姫最高じゃん!!!



と感想を書いているのですが、その差異がどこからきたのかについて、倉本さんが丁寧に言語化していて、物凄く同意します。

これは多くの人が指摘していることですが、ピーチ姫が主役級にアクティブにバンバン戦いまくってる時点で、「昔のハリウッド&初期マリオゲーム」的な感じとは随分違う。

「いわゆるポリコレ」が嫌われている理由は、その作品自体の功罪というより「ポリコレ的な作品を褒め称えるために他のコンテンツをディスりまくる人がいる」というところにあると私は考えているんですが、実は「女の子もどんどん戦う」の歴史は日本コンテンツでも結構古くからあるんですね。

マリオにおいてもスーパーマリオRPGという作品があって、これは96年の作品ですが、最初は「いつも悪役にさらわれてその度にマリオが助けにいなかいといけないピーチ姫」みたいなネタから始まるんですが、途中から仲間になって大事な戦力になる展開になっているらしい。

ただし、「スーパーマリオRPG」のピーチ姫は、「ちょっとおバカな女の子」感があったし、戦闘面でも能力が回復寄りのサポート役だった…という話を聞きました(とはいえ最強武器を手に入れるとかなり前線でも結構戦えるキャラになるらしい)。

だから、「ポリコレの嵐が吹き荒れた時代」にも意味はあったんですよ。

スーパーマリオRPGのピーチ姫」から、「映画マリオのピーチ姫」の間には、興味がない人にはどうでもいいように見えるかもしれないが、自分たちも自然に社会参加したいと考える女性にとっては”非常に大事な違い”があるのだと思います。

でも、多くの人々は、バラバラの社会的党派の内側だけに引きこもってお互いを非難し続けるようなコンテンツよりも、多少アホっぽく見えても「みんな」と繋がれる理想主義を求めているのだと私は感じています。
note.com


僕は、ポリティカルコレクトネスに対して、とても肯定的なんですが、同時にある種の人々のものの言い方が本当に嫌いなんですよね。この「違い」がよくわかっていなかったんですが、まさに、倉本さんがいうこの言語化は、同感です。

「いわゆるポリコレ」が嫌われている理由は、その作品自体の功罪というより「ポリコレ的な作品を褒め称えるために他のコンテンツをディスりまくる人がいる」というところにある

本当に良い作品は、ポリコレが自己目的化していなくて、ちゃんと意味ある自然な形で物語に浸透していると思うんです。昨今の支持されている作品はすべて、この「ポリコレ視点の自然な内面化」が起きていて、もうこれは前提だと思うんですよ。配管工のような職業を下に見るようなセンスのギャグはいっさい入れないというようなとても自然な形での「フェアネス」が入っている。このあたりの違いではなく共通部分での最適値を探そうという理想主義への回帰は、僕も次の時代の物語の大きなポイントだと思っています。

petronius.hatenablog.com


この辺りはまた今後語って行きたいと思います。