評価:★★★★★5つ(4.8)
(僕的主観:★★★★★5つ半)
🔳見たきっかけとあらすじ
映画通の友人におすすめされたのですが、それ以上にトレイラーの嵐莉菜さんガツンとやられた。だって無茶苦茶存在感あるでしょ、彼女。もちろん、ViViで専属モデルで、イラン、イラク、ロシア、ドイツ、日本(Wikiより)にルーツを持つとびきりの美人さんなんですが、失礼な言い方をすると、モデルって往々にして、整いすぎていて人形のような感じになってしまい、あまり存在感の圧を感じないことが多い気がするのですが、適当な検索の写真を見ただけで、圧倒的な圧があって、もうそれだけで見なきゃと思ってみました。そして、それは全く裏切られなかった。初の演技とのことですが、ちょっと信じられないくらいの見事な演技でした最初は嵐さんのバックグランド、前情報なしに、知らずにみていたので、こんなに可愛いし、かといって、あまりに普通の日本人高校生だし、日本語もトルコ語も綺麗だし、でもって顔立ちは確かに外国の血が入っているのもわかるし、いったい監督は、この役者をどこで見つけてきたんだ???と唸ってみていました。いやはや、極端な話、普通の日本人のティーンの女の子を抜擢しただけなんですが、こんな存在が普通のいるのか日本!って、ちょっと驚きました。いや普通じゃないか、、、演技力、本当に驚嘆するレベルでした。
非常に単純にまとめると、日本で生まれ育った埼玉県川口市にクラス17歳の女子高生チョーラク・サーリャ(嵐莉菜)というクルド人の日常の物語。けれども、日本の学園ものの日常系ではありえないような、非日常が彼女と彼女の家族にはついて回る。それは、サーリャの父であるチョーラク・マズルム(なんと嵐莉菜の実のお父さん!)は、クルド難民として申請をしていたのだが、難民申請が却下されるところから物語は始まる。
https://www.imdb.com/title/tt16410620/
下記で別項立てて説明しているが、これが日本における難民認定問題などの社会問題を扱っている硬派物語であるだけではなく、まるで少女マンガなどの青春成長物語になっているところが、素晴らしいと思っている。こう言った物語でリアルさ(=現実がどれだけ厳しいか)みたいなリアリズムを追い詰めていくと、いくらでも悲劇的な結末に持って行くことは可能だ。お父さんが難民認定を取り消されて、無期で入管に拘束されてから、働くことも法律上できず、どんどんサーリャは追い詰められていく。三人兄弟の長女的な、長女気質の真面目になんでも抱え込む難儀な性格が、あますところなく表現されていて、生真面目だなぁと思いながらも、こう言った生真面目さはとても危うく、ごろごりとすり鉢で削られて蟻地獄に落ちていくような堕ち方をしやすい。ものすごくわかりやすく、友人に勧められてパパ活を初めてしまって、リーマンの男とカラオケをするのだけれども、襲われそうになってしまう。このルートでお金がないと、通常は水商売や風俗にまっしぐらだろうなと思う。こういう物理的に落ちていく悲劇の物語って、よくありますよね。
ただ、「そのルート」としても見ててものすごい怖いっていうか恐怖があって、彼女はたぶんスーパー男尊女卑の部族社会の中で生きているんです。明言は避けているけれどもイスラム教的な(チャーシュー食べているからイスラムではないと思うけど)宗教を頑固に信じている父親に育てられていると、これ、たとえば、一旦風俗に堕ちたりしたら、もうコミュニティにも戻れないし家族の崩壊感半端なくなるし、、、それに、コンビニのバイドで一緒で同学年の聡太(奥平大兼)とほのかな恋仲になって話は進むんですが、見ててキスしそうになるのすら怖い。ノラ・トゥーミー 監督の『生きのびるために(The Breadwinner)』とかでもいいですが、厳格な部族で男尊女卑のあの辺の社会の拘束の中で生きてたら、日本の少女マンガ的な唇に触れただけのキスとかでも、親に殺されちゃうんじゃないって(彼女の父親はそんな狂信的フアナティックではないけれども)見ててハラハラしてしまう。日本の社会(日常)に生きながら、異なる文化文脈に生きているコンフリクト感をとても感じる。
聡太(奥平大兼)めちゃいい男の子だし、二人のほのかな恋愛は、とても尊い感じがして、少女マンガ風味がある。この流れなら、軽いキスとか、抱きしめるとか、ありでしょ!という日本の少女マンガ文脈を感じるが、同時に、彼女の生きている文化的背景を連想すると、胸が重くなって、、、、これもまた異文化理解というか体験なんだろうと、非常に感心した。日本の普通の女子高生であるサーリャに許嫁がいて、父親から強制的に結婚を指示される文脈が常に暗黙で隠れていて、周りのコミュニティもそれを当然の如く受け取っている、、、、普通の日本人の女子高生のサーリャにとって、ものすごい心的負担になるのは、見ててもう明らかで、感情移入している分、ほんとしんどかった。イスラム系の女性の生き方の話では、『サトコとナダ』なんかも補助線になると思うのでおすすめ。
それにしても、ああ、昔の日本の家の許嫁とかも、こういう縛りなんだろうなぁと思う。そうか・・・そう考えると同じものなのか。先日、邦画の『あの子は貴族』を見てたんだけど、最上層階級の上級国民の男が、後継、結婚など、ブリーダーがその血統を繁殖させつ増やすような無理がかかっていて、お金ががあってエリート極まる方の良家の子女こそむしろ、きつい拘束に縛られて生きているのだなぁとしみじみしたものと重なった。
これってよしながふみさんの『大奥』なんかもそうだけれども、決して女性だけが苦しいわけではなくて、「家」を存続するための血統維持という呪いにも等しい拘束が、関係者全員の人生を支配している。いまコテンラジオのエリザベス1世の回を聞いているのだけれども、ヨーロッパの歴史もひたすら家の歴史ですよね。この頃は、フランスのヴァロア王家とスペイン(だけじゃないけど)ハプスブルグ家。この辺りのヨーロッパの王家って、ハプスブルグ怪我特調停な戦略だけど、結婚よって領土を拡大するから、もうこのブリーダによる繁殖の血統維持の呪いの悲劇の塊ですよね。話がずれましたが・・・。
おっと、青春物語の話でした。なぜこの日本における難民を扱った悲劇の物語が、青春映画のようにポジティブに、ペトロニウスは感じるか?の視点ですね。人によって、かなり解釈や受ける印象が、分かれる部分ではないかと思うので、ここがこの映画の脚本のイシューだなって思うのです。これね、さっきの貧困でお金がなくて水商売に落ち込んでいくルートとか、厳格な男尊女卑の社会の父親に支配される少女のストーリーみたいなパーツは、たしかにあるんですよね。それぞれのエピソードで過去の昭和的ないわゆる「日本映画」みたいなのは簡単に一本作れてしまう。僕的には、いわゆる「昭和的な物語」だと思う。貧病苦がベースにあった頃の物語。一直線で、避けようがなく、物理的。この作品も、やっぱりその「流れ」は感じるんですよね。だって、わかりやすい「苦しみ」の物語なわけだし。物語としては作りやすい、悲劇だよね。
けれども、ああ、新世代の物語というか、令和の時代なんだなぁと思うのは、やはり見事なラストシーン。監督は最後のこのシーンを、どのように演技指導というか、指示したんだろうってとても興味深く思いました。というのは、この最後のシーンは、明らかに未来に対する「意志」を感じさせるからです。このシーンから逆算すると、全ての苦しみが、なんというか単なる苦しみや悲劇で回収しない強い意志を帯びるので、とても爽やかな感じがするんです。ネタバレ的ですが、この最後の見事な演技のシーンから、この映画の全体像を逆算して捉えてほしいのです。
えっと、このシーンから逆算する意味の解釈をする前に、、、、これほどの強い意志を感じさせるドアップのカットの演技って、いやはや嵐莉菜さん、素晴らしすぎる。なんというか、まるで演技のマンガの『ガラスの仮面』とか『アクタージュ』とか見ている気分になるくらい、もう明確に演技力がすごい。
洗面所で顔を洗って、両手で顔を叩き、目をギュッとつぶって、それからゆっくり目を開けて意志的な眼差しで少し上の方を見る。
いやはや、このワンカットのシーンだけで、彼女がこれから、これらの「自分がコントロールできない出来事に翻弄される」だけではなく、それに意志を持って対峙していくことが明示的に伝わってくる。監督の脚本意図は明確だとは思うが、これを「演技で表現しろ」ってかなりの無茶振りだと思う。だって新人のティーンのモデルの女の子にだよ。いやはや、本当にすごい。天才というのか、それとも彼女の役にあっていたのか、どちらにせよ、素晴らしい演技で、僕は胸に突き刺さるような勇気をもらいました。いやまぁ、めちゃくちゃ美人なんですが、それにしても映画の中の演技は、素晴らしかった。等身大の日本の女子高生の感じがとても伝わってきて、不自然さを全く感じなかった。不自然なくらい美人(笑)なんだけど、あまりに演技がナチュラルで。
「メイクによって顔が変わるところが自分だけの個性。5カ国の血が混ざっているからこそ、雰囲気や表情をガラッと変えられるんです。誰とも被らないものだと思っているので、これからもっとこの個性を活かしていけたらいいな💗」嵐莉菜https://t.co/QTUyuszuEN
— VOGUE GIRL JAPAN (@VOGUEgirlJAPAN) May 28, 2022
ええと、まとめると、昭和的な日本映画の悲劇ならば、難民認定がされずに、生きていく術もない、この3兄弟には、地獄しか待っていないわけです。長女と次女がなんとか水商売にでも堕ちて稼いで生きていく悲劇になっても、長女はお姉さん気質の真面目なタイプで融通が効かないから、多分パパ活とか売春とか明らかに上手くできなさそうだし、破滅しか思い浮かばない。日本映画的には、いかに「世間、社会の悲劇と悪を告発」して、リアリズム的に映画を終わらせることができる。社会のリアリズムってこいうものでしょという、なんというか「そのようにまとめておけば」評論家とかに評価されやすいでしょう?という感じで。逆に、これを、希望を持たせる「これから意志的に頑張っていく」シーンを撮影すると、エンターテイメントとしては美しいし、気持ちいいけれども、批評家ウケをしにくくなる気がする。だって、エンタメにおもねったなとか、簡単に文句言われそう。つまりは、ラストシーンをどう扱うかで、この映画の難民認定問題や日本の入国管理制度の壊れている問題点を、どのように「意味づけるか」が決まってしまうんです。だから、あまり意志的で希望に満ちたシーンにしてしまうと、社会のマクロの問題点を、個人の意思で還元して戦わせるのか?というお決まりの批判が出てくるように感じます。
なのに、川和田恵真監督は、ここに強く意思的な女優の意志的な目線のシーンで終わらせている。
こうした「意味の文脈」ぶっ飛ばすくらいの存在感のある演技を女優に要求するほど、信頼があったとしか思えない。そして、それに見事に嵐莉菜さんは、返している。この存在感ある演技があっての話だとは思うのですが、とても令和的だなと思うのは、これは僕の個人的な心象風景なんですが、
1)平成の30年を過ぎて、既に高度成長もバブルも終わり、低安定の衰退していく日本社会の中で、既にそこに住んでいる子どもたちは、貧病苦的な悲劇の物語(立身出世と対になる大きな物語)というのは受けつけていない感じがするんですよね。これは僕らアズキアライアカデミアでもずっと分析している「新世界系以後」とかの概念なんですが、これ同級生の聡太(奥平大兼)くんも、決して裕福じゃないですよね。片親だし。でも、既にそういうのを嘆く時代は終わっていて、まぁ「そういうこと(貧乏などで人生が閉ざされる)」というのはランダムによく起こり得るし、それは所与のものとして受け入れて生きるしかないという、明るい諦念がある気がするんです。だって、社会が高度成長でもしていない限り、基本的にパイの奪い合いで、あまりラッキーな解決策や希望に未知な未来なんか運よく訪れない。そんな中で、あまりご都合主義の期待をしても仕方がないと諦めているんです。けどこの諦めは、けっして、暗い悲劇としての我慢とかではないし、まぁ、しょうがないよね、ランダムに死んだりするよね、的な絶望を超えていると、これが意外に明るいんですよね。この辺りに話はマンガの『鬼滅の刃』や『約束のネバーランド』などで話してきた感覚です。
2)しかしながらこうした、ポジティブな諦念を描くと、すぐ批評家から批判がくるんですよね。「社会問題を、自らの主体的な意思で変えていく意志を放棄させるような作品はダメだ」と。これって新海誠監督の『天気の子』でかなりされていた批判ですが、これ自体は、まぁ論理的にはそうかもなぁって僕も、感覚的には嫌いだけど、思っていました。この辺は近代人の呪いだなって思います。主体的な市民の意思で、社会をよりよく建設していく「べき」というコントロール至上主義。近代市民資本主義社会での、前提。
けれど、最近、あ、これは違うなって分解できるようになってきました。この「成長至上主義」に自分が嫌悪を感じる感情的なものに、少しづつ言語化ができる気がしています。
『かぐや様は告らせたい』も『推しの子』も、平成の『デスノート』や『カイジ』的な頭脳派サバイバルゲームからもう一歩進んでるんだよなあ…。自分だけが残れば良いんじゃなくて、もう少し「全体最適することが善じゃん」って世界観。人狼的な、「悪い奴を誰か1人追放して安全を守る」世界。令和〜!
— 三宅香帆 (@m3_myk) April 18, 2023
えーとですね。批評家の三宅香帆さんの上記のツイートを見て、ビビッと思ったんですよね。えーっと、僕の勝手の解釈というか連想なんですが、昭和的な物語のルーティンであれば、多分貧乏に追い詰められて、社会の底辺の人間がすり潰されて抹殺されていることに「告発の声をあげる」ような左翼的な、もしくは近代人的な言説が、意味もあったし、リアリティがあったんですよ。なぜならば、社会に余裕がなかったから、社会の底辺にいるような弱いものは排除されて切り捨てられる・・・・・・というような悲劇の物語がベースに共同幻想としてあった気がするんですよね。でもこれ、ちょっと嘘があるんじゃないかと思うんですよね。「近代の成長の物語という大きな物語」に社会の過半の人々が参加して邁進しているので、「そこ」に外れた人を抹殺して切り捨てているだけなんじゃないのかと。ええと、どういうことかかというと、令和の、2023年の2020年代の日本って、高度成長期よりも余裕はないし、未来はないですよね?経済的に物理的に衰退しているし、パイがどんどん小さくなっている。
「にもかかわらず」、結構みんな、優しくない?って気がするんですよね。
もっとストレートにいうと、貧しく苦しい(はずの)2020年代のいまの方が、社会に余裕があって、みんな全体最適の「善」に気を配っていないか?と思うんです。赤坂アカさんの『かぐや様は告らせたい』や福田晋一さんの『その着せ替え人形は恋をする』、渡航さんの『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』ような学園ものの、描き方で、問題にぶちあたった時の解決方法がかなり変わってきているんじゃないか?と思うんですよね。どれも、一昔前の、僕的な「昭和的な」物語であったら、解決が難しかった学園内の問題や家庭内問題を、けっこう鮮やかに「全体最適的な善」で解決するんですよね。これって、ものすごく社会の構成員たる若者ものたちが、知恵があるって感じがするんですよね。あと、基本的に善人。
上記の三宅さんの指摘が、なるほど!と思ったのは、大きな社会のパラダイムの転換があると思うんですよね。
僕がここでいう「昭和的な物語」というのは、サバイバル(=生き残り・強者が勝ち、弱者を切り捨てる)ゲームをしているんですよね。
けれど、令和の今のゲームは、リソースこそないけれども(社会が貧しくなっている)、構成員の若者が、「昭和的な物語の問題点や行き着く果て」をコモンセンスとして既に共有の知識にしているんですよね。だから、そうならないように、知恵を少し絞ろうよというふうに「みんな」に働きかける。『かぐや様は告らせたい』におけるいじめの解決方法が、素晴らしく秀逸だったので、僕は感心したんですよね。これSNSの問題点、同調圧力の問題点とか、日本的な共同体やテクノロジーの行き着く先を、みんな理解しているんで、それを、ちょっとした善意を集めてズラしてしまおうとするんですよね。かぐやが、石上優の学年内での評価をひっくり返してしまうエピソードのことです。これっていじめ問題とか、サバイバル・ゲームによる生き残りゲームの戦い方は、誰にとっても得じゃないよね、というのを「最初からわかっているメンバー」によって、「違う解決方法を考えようよ」という新時代のコモンセンスを感じるんですよね。物語の類型的に、サバイバルの生き残りバトルロワイヤルが、時代遅れになりつつあるのって、大きなポイントだと思いませんか?。
これって、社会問題があるのを「受け入れてしまう」という心性や物語の描き方はダメだという、左翼的、近代人的な批判に対して、有効な射程距離のある物語の返答・反論だと思うんです。
2020年代の若者のというか、僕のようなアラフィフのおっさんですらも、既に、サバイバルゲームの、弱者切り捨てゲームに飽きてきているんですよ。それは、簡単な話で「昭和的なサバイバルゲームでは99%の人は切り捨てられる」わけで、ほとんど全ての人(自分も含まれちゃう)が切り捨てられるゲームなんか、やるのいやじゃないですか。でも、物理的に「それ以外の選択肢」がなかったので、悲劇の物語に回収されるしかなかった。弱者切り捨てられて、すり潰されるしかなかった。だからメディア、映画や物語のリアリズムは、「それへの告発機能」を重要視せざるを得なかった。けど、、、、このゲームが、ルールチェンジというか、ゲーム自体が変更されてきていて、それは、たぶん社会の構成員が、このサバイバルゲームという大きな物語にコミット=参加したら、死ぬだけだからしない方がいいよね------違う方法を考えようよ、いうふうに教育が、実感が行き渡ったんじゃないかと思うんですよね。なので、「異なる選択肢を考えよう」という振る舞いに、賛同が得られやすくなっている。なので、「全体最適な善」への賛同が集めやすいんだろうと思うんですよ。
という新世代以降的な文脈の中で、ラストシーンの意思的な視線は、成熟し低位安定している日本社会なら、やりようはあるぜ!という希望を感じるんです。
もちろん、物理的な日本の難民認定の問題とか、昭和の遺物というか、そういうものはたくさん残っています。しかし、たとえば、同級生の聡太(奥平大兼)くんとか弁護士の先生とか、助けてくれる、知恵を結集してなんらかの物理的なブレイクスルーと一緒に探してくれるくらいには、日本社会は、いい奴がたくさん増えていると思うんです。移民問題や入国管理の問題は、別に日本だけが、クズで最低なわけではありません。ここガが治外法権なのは、世界中どこでも同じです。でもそれを変えていこうという成熟した意思は、僕らは、日本社会に住まう人々は持っていると思うんですよね。
というような、希望をすごく感じるし、何よりも、それにふさわしい、若く、意思的な視線の演技は、本当に素晴らしかったです。
🔳日本映画の中から雇用な難民・移民を問いかけるテーマの物語が出てくるとは?
川和田恵真さん、すごい良い仕事をしたなと思う。上から目線な言い方で恐縮ですが、素晴らしい物語だった。
普通の高校生として、教師になることを夢見るたり、コンビニでバイトする姿は、まごうことなき日本の高校生。たしかに、彼女はトルコ語を話し、クルドのコミュニティの中で生きているのだけれども、「嵐莉菜さん」と言う存在の中で、リアルとして地続きになっているのがあまりに自然に伝わってくる。これ彼女以外が演じたら、この「圧倒的な自然なシームレス感」生まれなかったと思う。このシームレスーーーー言い換えれつなぎ目がない感じがあるからこそ、日本人で男性でというマジョリティ側の僕のような受け手も、日本語を話す日本人として自然に感情移入がなされてしまう。これは、素晴らしい傑作だ。
なぜならば、こういった社会問題がテーマになっていいる物語で最大の演出ポイントは、受け手の視聴者に「自分ごと」として感情移入を迫れるか?ということが往々にして問題だからだ。
自分とはまるで関係のない、難民認定問題が、日本の自分が生きているコミュニティにシームレスにつながっているという手応え、実感をさせるという意味では、監督の川和田恵真さんは、見事な仕事をしていると思う。あまり細かいことを言っても仕方ないのだが、しゃべらせる言語の選択や、宗教についての名言を避けること、クルディスタンに住むクルド人の話としながらも、具体的にどこの国家からの難民かなどが明言を避けて属性を絞っているのは、監督が脚本を考え抜いて微細に作り上げている証左だと思う。
日本社会の同質性の強さの中に、別の切り口をもたらして、センスオブワンダーを感じさせてくれる、、、というと物語のためにあるみたいでよくない言い方かもしれないが、同じような感覚をヤンヨンヒ監督の『家族の国』でも感じた。脱北者の問題は、『トルーノース』も同時に見てみたいところ。
🔳アメリカ映画との移民の比較
上の話とリンクするんですが、この作品って移民問題の日本版じゃないですか。最近見た『ブルー・バイユー(Blue Bayou)』とかめっちゃくちゃ同じ話だよなって思うんですが、受け取り方があまりに違って自分でも驚いた。自分でも長くアメリカに住んでいて、VISAとかの滞在ステイタスについては色々な体験があるので、それほど夢のようなファンタジーではないはずなのに、それでも、やっぱりどこか遠い国の出来事的な「実感なさ」があったんだなと、今回の映画を見てしみじみ思いました。やはり日本語で、、、、単純に日本語だけではなくて、サーリャ(嵐莉菜)が仁保の女子高校生としての存在がとても自然なので、自分の頭の中で「日本の日常生活」とものすごくスムーズに接続されたから、実感が強いんだろうと思う。そういう意味で、これが日本映画というのが、本当に素晴らしいと思う。
www.youtube.com
2023-0406【物語三昧 :Vol181】『ブルー・バイユー(Blue Bayou)』2021 韓国系アメリカ人の経験した強制退去の実話ベースの物語188
2018年の町山さんの記事ですが、難民や移民の問題、滞在ステイタスの問題は、本当にどこの国でも、さまざまな闇がある。この機会に、こういう視点で世界を眺めてみるのも良いと思います。
(町山智浩)それは州政府ですね。カリフォルニアの州の問題で。カリフォルニア州はずっと80年代から累積赤字がすごくて。それを返済するので大変なんで赤字なんですけど、それとはまた別の問題なんです。これは赤字でストップしているんじゃないんですよ。予算案が通らないから、ストップしているんですね。その原因は、ドナルド・トランプが秋に「ダッカ(DACA)」というんですけども。物心つかない頃に親に連れられてアメリカに入国した人たちがみんな、大人になりつつあるわけですけども。彼らを国外に叩き出そうとしているんですね。そういうことをドナルド・トランプがしようとしまして。
(山里亮太)はい。
(町山智浩)どうしてかというと、彼らは結局アメリカ以外は知らないわけですよ。自分の過失や意志ではなくて、親に連れられてアメリカに不法入国したんで、それをアメリカしか知らない、アメリカ人でしかない彼らをアメリカから叩き出すのはおかしい!っていうことで、オバマ政権の時に、彼らがアメリカ人になれるよう、市民権を取れるように法律を整備したんですけども。ドナルド・トランプが彼らを全部、とにかく叩き出すと言っているんで、民主党と共和党の一部がそれに反対して、真偽が進まないんでストップしていたんですね。
(山里亮太)ふんふん。
(町山智浩)で、その彼らのことを「ドリーマー」って呼ぶんですけども。「夢見る人たち」っていうことですね。で、それはアメリカン・ドリームですよ。アメリカ人になるという夢ですよね。で、彼らはアメリカしか知らないんだから、アメリカ人になるって言われても、困るわけですけども。アメリカはアメリカで生まれれば、誰でもアメリカの国籍を取れるんですけど、ちっちゃい頃とか赤ん坊の頃に連れてこられた人たちは取れないんですよ。
(山里亮太)へー!
(町山智浩)ただ、彼らはアメリカしか知らないから、完全にアメリカ人ですよね。社会的にはね。その人たちの地位を守ろうと言っている派と、全部叩き出せ!って言っているトランプとでモメているわけですよ。
町山智浩 2018年アメリカ政府機能停止を語る | miyearnZZ Labo
🔳記号で感じ方が変わることをどう捉えるか?
今回は、入国管理の問題で日本の入管の酷さが、とても際立って感じました。司法と並んで日本の近代化されていない闇の部分の一つですからね。でも同時に、ちょっとバイアスかかりすぎるなぁと感じもしました。だって、サーリャ(嵐莉菜)かわいすぎるんで。こんな美人で、いい子であったら、無条件の応援しちゃうじゃないですか。記号が、あまりに良すぎると、それもまたバイアスってかかるよなぁとしみじみ思いました。ふと、セーブザチルドレンが作ったプロパガンダ映像を思い出しました。あえてネガティブにプロパガンダと書きますが、最初は捏造であること伏せていたので、人々の意識を喚起するためならば嘘も構わないという正義の独善が見えて怖いなって思いました。まぁ、こういうのもそのうち増えすぎて世の中に溢れて影響力がなくなっていくものなんでしょうけれども。でもこの映像を見たときに、白人の少女だからこれだけ反響を産んだんじゃないか?というよう話も多く出ていました。
アフリカで紛争はたくさんあるのに無視されているのに、なんでウクライナの戦争だけ、そんなに感情移入されて支援されるのかというのも、「感情移入しやすい記号」をどう操作するかというメタ的な視点が出ていつもいろいろ考えていまします。結論は、やはり慣れて、勉強して、バイアスに騙されない体制をつけるしかないよなって思います。コントロールしたり表現を規制することは、難しいでしょうから。
🔳日本の入管難民制度には、法の支配が及ばない欠陥があること
ウィシュマさん死亡事件は、2021年(令和3年)3月6日、名古屋出入国在留管理局に収容中のスリランカ国籍の女性が死亡した事件ですが、入管の問題を扱うと、最近だとこれをすぐ連想します。正直に話し、僕はこの辺りにはほとんど知見がなくて、この事件すらもよくわかっていない。ただ、人伝で聞いていてるレベルであるが、日本の入国管理は本当に酷いらしい。皆一様に、最低だというような吐き捨てるような反応する人が多い。そして最後に必ず締めとして言われるのは、反日の人間の製造装置という言葉。ここにお世話になった外国人は、皆日本を恨みまくって帰国らしい。
劇中でも言及されているが、一度収容されると、出ることは極めて難しくなる。
個人が心身の自由を奪われるのだから、普通の刑事事件なら当然裁判所の令状が必要になるが、なぜか入管の収容では不要とされているのだ。
外に出るために再び仮放免を申請しても、許可する許可しないの裁量権も入管にあるため、よほどの事情がない限り認められず、数ヶ月も、時には何年も収容されたまま。
事実上、入管施設という名前の刑務所であり、強制収容所である。
裁判に訴えて勝つか、諦めて日本を去らない限り、未来の見えない状況は、収容者に多大な肉体的、精神的なストレスを与える。
名古屋入管でスリランカ人女性が死亡した事件は記憶に新しく、過去にも自殺者や、ハンストの末の餓死者も出ている。
現在の日本の入管難民制度には、法の支配が及ばない欠陥があることを、日本人は知っておくべきだろう。
2020年代の日本社会は、僕はとても成熟した議会制民主主義の国だと思うが、それがすなわち闇や問題点が一切ないというわけでは、もちろんない。僕がパッと思うだけで、司法・検察がウルトラ優秀ではあるものの、まだ封建社会のレベルだと思うし、この入管もまた酷い闇だと思う。でも、個別のミクロの「悪さ」を批判して憎んでも仕方がなくて、要はこういうのは制度的な問題で、何が問題か考えるべきだと思う。入管がなんで、そんなにおかしなことばかり起きるのかといえば、非常に簡単で第三者における監視、監査がないからに決まっている。要は治外法権なんだろうと思う。日本の司法とか検察も、三権分立がちゃんと機能してないが故の、バランスオブパワーが効いていないから、極端になっているんだと思う。でもシステム的に手を入れるに一番大事なのは、僕はやはり「みんなが知っていること」「社会の構成員が、そのシステムは問題点があると認識していること」なんだろうと思う。上で、かぐや様のマンガで言及したような、リテラシーというか、、、うーんリテラシーというよりは、みんなが常識だと思うこと、それって当たり前だよねと思うこと=コモンセンスなんだろうと思う。日本では、この司法や入管に問題があることが、ほとんど認識されていないように思える。非常に単純な話で、それをテーマにしたエンターテイメントの物語が、ほとんどない。警察を描いた刑事物のドラマやエンタメは、腐るほどあるのに、その上位機関である警察官僚や司法官僚についてのドラマだと極端に少なくなる。それを問題だと認識している人が少ないので、テーマとして取り上げにくいんだろうと思う。だからこそ、『マイスモールランド』のような物語が登場してくれたことは、僕はすごい嬉しい。それだけでなく、何よりも大きいのは、面白い。とても爽やかな青春モノでもあるとと思うから人に薦めやすい。女優の嵐莉菜さんも、めちゃくちゃ演技うまくて、推せる。。。。僕は、大事なのは「そういうこと」なんだと思うんです。一言で言えば、硬派で硬い話で、社会問題を知るきっかけになるけれども、それ以上に、「面白かった」もの。本当に良い映画でした。