『崖の上のポニョ』と『スカイクロラ』にみる二人の巨匠の現在〜宮崎駿は老いたのか?、押井守は停滞しているのか?(1)/ポニョ編

崖の上のポニョ―宮崎駿監督作品 (ジス・イズ・アニメーション)


評価:★★★☆星4つ
(僕的主観:★★★☆星3つ)


■結論は、「次回作までのお預けです」(笑)。


二つの感想を別々に書こうと思っていたのですが、実は、総括すると同じ疑問が浮かび上がってきたので、ワンセットにしてみました(っていっても、スカイクロラは、まだ描きおわっておりません。が、終わるの待っていると公開終わってしまいそうなので(苦笑))。まず僕が下記作品別の感想で考えてみた総括として、結局のところ「宮崎駿さんは老いたのか?、押井守さんは停滞(=同じことを繰り返している)しているのか?」ということを疑問に思ったんです。これは、タイトルのツリみたいなもので、逆を言いかえれば、この作品を通して、「宮崎駿さんは60歳にも関わらずチャレンジしている」し、「押井守さんは新たに前へ進んでいる」ということを感じた、という意味でもあります。


ただし、どっちであるか?ということの決め手がない、と思います。


だから、この結論は、最終的には僕は保留したく感じます。というのは、この両作品とも「もう一歩足りない」作品だと思うので、僕的には★4つなんですよね。文句無しで、客観的に傑作だ!といえるとも思えないし、両監督の作家性を極限まで突き詰めている(たとえ人気がなくとも)というような「到達点」を示しているわけでもないので、この質問の答えは、「次回作で試される」と僕は思うからです。


さて、結論から先取りしましたが、それぞれの作品の感想に移ってみます。



<<宮崎駿監督 『崖の上のポニョ』を観て〜それは前衛的な挑戦か?それともただの老いを示すのか?>>


宮崎駿さんの教条主義的な左翼センスへの批判

「親子どもが名前で呼び合うフランクな家族」「地引き網をすると近海の海の底はゴミだらけ」

あー、もうそういう宮崎の左翼センスは飽きた飽きた。しかも投げっぱなし。

町山智浩も発言していたけど、宮崎監督の家庭って、ゴローは父親のことを「ハヤオ」って呼び捨てにしているのかね?

宮崎駿が「女性性」に寄せる無謬的な信頼が今回はあまりに表面に露出しすぎていて辛かったなぁ。「宗介の意図をくむ女性だけが完全なる善である」ってのはツライ。宗介の意図を組まぬ保育園の女の子二人と、トキ婆ちゃんだけが、すごく偏狭な人物として描かれているけど、なんか都合良すぎる。


ポニョ見たけど、師匠も男友達もいない宗介と、オタク的に都合の良い「聖なる女性賛美」が強すぎて駄目でした/さて次の企画は
http://d.hatena.ne.jp/otokinoki/20080727/1217148806


この人の意見が、たぶん通常のエンターテインメント映画としてのダメ出しのいいところを突いているんだろうと思う。まぁ映画を見る姿勢として、こんな「解釈」を普通の人々がしているとは思えないのですが、こういう言説が意味を持って表に出てくること自体が、この作品の不足感を表していると思う。この作品の総合的な評価として、エンターテインメントの訴求力は、低い。理由は二つ。


理由1)


ただし、この人の宮崎駿へのダメ出しは、実は、「全作品に共通していること」であるので、なにもこの作品だけことさらに言うべき事とは僕は感じられないんです。僕も、宮崎駿さんは、もう理屈抜きで愛していますが、左翼的なセンスの部分は、いつ見ても気づくとーうーんと思うんですね(笑)。ところが、この人がそういう教条主義的な、、、ほとんどスターリニズムを超えた原始共産主義(笑)なんだと思うんだけど、その部分を積み重ねた先に見えるSFのような巨大なマクロビジョンに到達する様を見せつけられると、もうそんな小さな批判は意味を失うほど巨大な感動が訪れるんですね。映画は、解釈してみるものではなくて、身体で、ハートで感じるものですから。


たとえば、『未来少年コナン』にせよ『もののけ姫』にせよ、ある種の原始共産性的なユートピアを描こうとしているんでしょうが、『もののけ姫』は、ある種の解放区であるんだろうけど、たとえばあそこでどう子供を育てているの?といった再生産部分が無視されていたり、コナンのハイ・ハーバーには、本来必要である農耕以外の牧畜や肉生産、加工、流通といった楽園ユートピアを維持するには、それを壊してしまう存在を隠ぺいするような描き方をします。こういうのって、宮崎駿さんというよりは、その究極の形として「ロジックとサイエンスで世界を正しい形に作り替えることができる!」という具体例としてのコミュニズム共産主義)、そのすべてに対していうことのできる批判なんだと思うんですよ。

ナウシカ解読―ユートピアの臨界
ナウシカ解読―ユートピアの臨界


ちなみに近代思想の根本は、すべて共通の基礎を持っていて、それは「世界は可視化でき計量できる!」というサイエンスの思想です。言い換えれば、人間が「神」の代わりにこの世界を再創造できるのだ!という人間本位(ヒューマニズム)に貫かれている思想のことです。僕は、これを「設計主義的なもの」と呼んでいます。つまり、世界は、自分たちの手でよくできるんだ!という指向性です。この究極の具体例が、コミュニズム共産主義)であることには異論がないと思います。

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アンドレイ・グリュックスマンのこれなんか、そのいい例だと思います。


えっと、だから、この批判は、宮崎駿批判というよりは、どうしてもそういった「設計主義的なもの」への批判になってしまっていて、なんだか、僕には、「宮崎駿の具体的な創造物」を批判しているのか、「思想そのものを批判している」のかわからなくなって、困ってしまうのです。だからどうしても批判のやり方が、なんか抽象的になってしまう気がするんですね。そんな抽象的な概念をみんながみんな解釈して映画を見ているわけではないでしょうって思う。ちなみに、とはいえ抽象的で難解な言い回しだな、と思う部分を除けば、「さて次の企画は」さんの記事は、非常にもっともだとは思うんです。この作品は、宮崎駿の圧倒的なパワーを感じないので、感じない中でああいう左翼くさいことされると、洗脳されているようで(子供が見ること計算に入れているなって!)すごくうざい気分になるんです。この気持は、非常に共感します。だから『もののけ姫』とか『千と千尋の神隠し』級のかましというか、えっそこまで突き抜けるの?とか、そこまで魅惑的なイメージなの?とかいった「凄み」に到達しないと、彼の断片的なものって古臭い教条的な左翼的なもので、説教臭いというか、、、、うざいんですよね。まぁ左翼的というよりは、僕的にいえば、「薄っぺらいヒューマニズム」と呼びたいところですが。知性のない善意は、「本当は物事を悪くしてしまうヒューマニズム」に回収されるんですよね。


■答えの出ないと結論付づけられた世界でなお答えを探す


ちなみに、天才宮崎駿さんは、すでに思想的結論として、マンガ版『風の谷のナウシカ』で、設計主義的に世界を良くしようとする善意の執行者(=現世に存在する神と言い換えてもいいかもしれない)を、ナウシカが、誰にも黙って殺してしまうという(苦笑)、究極の神殺しを行うという形で、既に結論を出してしまっているんですよね。これって、最高の自己批判で、ものすげぇカッコイイと僕は惚れこんでしまいます。

風の谷のナウシカ 7

そういう意味で、そこまでやっておきながら、まぁ気持ちはわかるが今更コミュニズムもなかろう、とは思うんですが(苦笑)。ただし、近代社会とは、世界を人間自身の手でよりよくしていこう!という社会改良の意思で支えられているものなので、たとえその最終結論が間違っていてさえも、『もののけ姫』のエボシのように、この世界の不合理さと闘っていかねばならないという、二重思考的でアンビバレンツな世界なんですね。そして、その「答えの出ないと結論づけられた世界で、なお答えを探すという」ことがすなわち、物語のドラマツゥルギーが最も輝く、現実でリアルなものなんだ!と僕は思うのです。なぜならば、それが僕たちの住む世界の誠実なコピーとなるから。


えっとここで何が言いたいかというと、理由1)のサマライズなんですが、宮崎駿さんの思想的基盤は、「世界を人間の手でより良くしていこうという設計主義的な近代思想の原初的な形」です(←かってに決めつけてるっ!(笑))。これが、コミュニズムの核心部分とニアリーイコールになるんですね。だから、具体的にそれを表現しようとするととっても左翼くさくなる。まぁもともと、あの時代の人ですしねー。しかも、かといってソビエト共産主義の大失敗を経ている現代なので、それが微妙に屈折して、「親子どもが名前で呼び合うフランクな家族」みたいな、それって本質か?のようなリベラルの仮面をかぶる出し方になるんですね。そして、それを上回る「凄み」を出してくれないと、いや、つまらないから、それ、みたいな白けた気分になってしまうんですよ。内容の是非ではなくて、上から説教されることのウソ臭さです。


ちなみに、つまらない理由1の結論として、ようは宮崎駿の左翼的センスというものは、マンガ版の『風の谷のナウシカ』での神殺しの結論のように、物凄い尺をつかって、読者がついてこれないほど難解な深みへ誘い込ませるながら、


・設計主義的な、人が人の手で社会をよくしていこう!(=ヒューマニズム・人間本位)という理想


・しかし設計主義的な動機が大規模になると、必ずスターリニズムやクメールルージュのような全体主義に辿り着くアイロニー


というもう、どうしてそんな「正しい動機(=ひとが人の苦しみを救おう!)」から出発して、そんなひどい結末に至るんだよっ!というこの世界の本当に苛酷な真実を描いたときに、こそ、この系統の脚本の思想的「凄み」に到達するんですね。だから、尺が短い作品では、そもそもこの脚本を使ってはいけないんです。2時間ぐらいでは、しんどいですよ。そうでなくとも分りにくすぎて、これって、消費者が理解しないんですよ。それこそ、『もののけ姫』級の圧倒的な映像のパワーとか、そういうものがいるんです。だからこのテーマは、映画では、破綻しやすいと思うのです。


ハウルの動く城』などを見ると、この思想を描くと、断片しか描けず、まとめきれないで散漫な作品になってしまういい例だと思うんですよ。この作品は、意味不明だもの。脚本的には。


崖の上のポニョ』にも、世界を滅ぼそうとする魔法使いが出てきて、これって全く説明していないんですが、未来少年コナンのブライアック・ラオ博士や、ナウシカの世界を作った高度文明の科学者たちや、そういったキャラクターの正統なる後継者としか思えないんですよ。でも、たぶんこれを説明していると、消費者がついてこなくなる。だけど、彼の思想的系譜から言って、出さないのはもう許せない(笑)。となって、説明なしで出すんですね。ハウルもそうだったと思います。そうなると、脚本的に意味不明になるんですよねーーー。ぼくは、ちょっと思うんですが、この辺で人生の終幕として、死ぬ気で、テレビシリーズをやってみるのはどうか?って思いますよ、この脚本を最高のクオリティで、2年で50話くらいで(笑)。まぁしんどい割にもうからないかもしれないですが(苦笑)。



つまらない理由1を、一言で言い表せば、「脚本の統合性がない・断片的である」、ということだと思う。



言いたいことがあふれでて、ドラマツゥルギーとしてわかりやすくまとめることを放棄しているんだと思います。ただし、「にもかかわらず」これだけの断片のイメージを一ついの映画にまとめあげて、かつおもしろく見させてしまうという意味では、円熟の技巧を感じさせる、とも言えるともいます。とはいえ、この宮崎駿のここ最近の作品の、言いたいことが多すぎて、全部まで語らないのは、個人的には『もののけ姫』以降の感じがします。上と同じ論理展開ですが、「にもかかわらず」それなりにおもしろい、、、宮崎駿ジブリブランドによる大量広告投下という大量大衆動員のシステムが完成しているとはいえ、それでも、人を動員してしまうのは、実は脚本の統合性がそもそもあってもなくても、宮崎駿作品には、それ以上のカタルシスや面白さがあるからなんですね。それはなにか?。


「子供たちではなく、自分のための映画をつくってしまった」

こう宮崎駿さんは、『紅の豚』で言いました。これって、もう少し深読みすると、この人は、


A)子供に脚本的(思想的)に理想を語る


ということと、


B)子どもの快不快の原則に忠実に物語を作ろう



という、理念があるんですよね。こういうことができないとだめだ、という前提が映画作製にあるということですよね。そして、このことは十全に作品自身にちゃんと結果として表れています。で、A)は、上記の理由1で、長尺で描かないと、「緑を大切に(ナウシカ)」とか「ハウル(戦争はいけない)」とか、なんか、そんなことわかってるよ当たり前だから、というようなヒューマニズムの初歩の初歩で話が終わってしまいます。これ、現代のようなダブルスタンダードが前提の社会で、こういうシンプルメッセージを出すことは、僕は、逆に子供にとって有害なのではないか、といつも思います(これは蛇足ですが・・・)。

で、この人の本質は、B)にあるんですよ。A)が多少とも破綻しても、B)子供(というか人間)が快楽に感じる動きの映像を作る天才なんですね。たとえば「空を飛んだらどんな感じだろう!」とかいったあり得ない動きを「体感させてしまう!」アニメーターの天才的な力量やイメージ力なんですよね。

もともと宮崎駿さんは、天才アニメーターである自分への自負と自己信頼から、アニメーターとしての面白く人に感じさせる「動き」をベースにして物語を組み上げる傾向があるように、僕には思えます。『もののけ姫はどうやって生まれたか?』のビデオやいつもの制作裏話のテレビ放映や彼の著作から、何となくそう感じるんです。つまりは、全体を俯瞰した「統合の視点」から脚本を組み上げるのではなく、最初のアイディアを走りながら深めていく手法をとるように思えるのです。


この手法が「行き当たりばったりになって、収拾がつかなくなりやすい」方法論であることは、わかると思います。


例えば、圧倒的な才能と断片イメージの輝きによって、さも大名作のように感じる『千と千尋の神隠し』なんかは、脚本的にすごく破綻していると思うんですよね。『もののけ姫』も、最後の最後で二元論のドラマトゥルギーを大崩壊に持ってきて、脚本的に「その意味はなんだったか?」と問われると、????となる。ただ、それを超えるイメージ・ヴィジョンの力があった場合には、これが合理主義的な脚本設計ではできないような、化け物に「化ける」ことがあるんです。いままでの宮崎駿作品の「凄み」って、その合理的なものを超えたところを、本能的に作り上げてしまうその「嗅覚」にあったと思うんです。だから、制作の手法の基礎の中の基礎が、「アニメーションとして気持ちいい動き」という、脚本の意味論とは別のところにあったのだと思います。


だから、ポニョだって、結構売れるんではないかな、と思うんですよ。そもそも宮崎吾朗さんのような、悪いがが駆け出しのレベルの監督でさえ、ジブリの最高の映像技術を駆使すると、結構それなりのものができてしまって、しかも、ジブリブランドというファミリーが見れて、話題性を構築できる大量広告投下システムがあるので、人をかなり動員できるんですよ。それが、多少レベルが最高レベルよりも下がっても、宮崎駿の才能をもってすれば、十分面白いのですから。話題性もばっちりだし。


理由1-2の結論として、「脚本の統合性がない・断片的である」としても、宮崎駿の作品は常にそれをアニメーションそのものの面白さや基礎的な演出力でカバーしてしまうエネルギーがある、としておきます。


ちなみに、理由2は、「脚本の統合性がない・断片的である」を乗り越えるほどの、アニメーションとしての面白さや快感がないといけないんですが、ポニョには、そこまで快感原則に忠実では、実はないんですよね。また過去の宮崎作品の焼き直しが多いので、「うおっ!」というようなセンスオブワンダーは僕にはなかった。



アヴァンギャルド(前衛的)って何ですか?どう楽しむんですか?

乙木さんがひっかかった点は、通常のエンターテインメント映画(プロットの展開と明瞭な構造で見せるもの、というほどの意味)として観るのであれば、確かにひっかかるかもしれないな……と理屈ではわかるんですが、しかし、ぼくは「オタク」とか「女性賛美」とか「成長」とか、そんなのこの映画には関係ないでしょと思ってしまうのですね。「幼児的」というそしりもあるでしょうが、そもそも主人公「幼児」だし、小さい頃にみた夢で後々までずーーっと憶えてる夢みたいな話ですが何か? といいますか。

一方、これまた突飛かもしれないけれど、ゴダールの『訣別』とかも思い出したりしてるんですが、なぜそう思ったかも自分でよく分からず。ある種のユーモアに通じるところがあるのか、単にたまたま最近TSUTAYAで借りてきて観たからってだけで、まるきり明後日の方向の感想なのか。なんかこう、モヤモヤするのです。


・・・・通常のエンターテインメント映画(プロットの展開と明瞭な構造)で考えてみる者とそうでない者の差が激しいと思う。
伊藤剛のトカトントニズム
http://d.hatena.ne.jp/goito-mineral/20080801


さてさて、やっとポニョを語る前提が、そろったのですが、基本的に、理由1)は、脚本は破綻しやすいし、その破綻が左翼的な文言で噴出することがあるけども、たぶんそれって、宮崎駿さんの創造物の批判としては、射程が短ぎるぜって話です。


なぜならば、鈴木プロデューサーの作り上げた大量広告投下によるジブリブランドという流通ルートが維持されている限り、多少レベルが下がってさえも、いくらでも人を動員できるし、、、、そうやって動員されたファミリー層という「無色透明の大衆消費者」にとっては、もともと解釈力なんかほとんどないんだから(笑)というか、解釈をしようと思って映画館にきていないのだから、「快不快に忠実なアニメーションそのものの素晴らしさ」と「熟練のジブリスタッフによる背景世界の精緻で美しい映像」の二つだけで、もう十分満足すると思うんですよ。そこに、「オタク」とか「女性賛美」とか「成長」とか、まったく関係ないよね、というのは、これもものすごく理解できる話です。


そして、今回の映画には、3つ目の側面が出ていると思うのです。


僕は、この映画を見ている間中の印象が、実は、伊藤剛さんという方のブログの意見であった、「あっ、これってゴダールとかニューシネマっぽいなー」というものと全く同じでした。アヴァンギャルド(前衛)(ちなみに前衛芸術と共産主義運動は、双子の兄弟のような関係でした)だなーと思ったんです。あっちなみに、ゴダールの前衛的な部分を連想したって意味です。


それってなに?

前衛美術(ぜんえいびじゅつ)とは、前衛的な美術のこと。

もともとは、第一次世界大戦開始後にヨーロッパにおいて、盛んに使用されるようになった言葉であり、主として、シュルレアリスム抽象絵画を意味する。すなわち、第一次世界大戦前の動向である、フォーヴィスムドイツ表現主義キュビスム未来派などは、本来は前衛の範疇には含まれなかった。

しかし、その後、前衛美術の範囲は、戦後にかけて大きく広がり、このような区別は曖昧となり、現在では、一般にフォーヴィスムキュビスム未来派なども含めて、前衛美術と呼ばれることが多い。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E8%A1%9B%E7%BE%8E%E8%A1%93


えっと、まー前衛的とかアヴァンギャルドということの意味は、あまり深く考えなくていいです。


ようは、なんかよくわからねー(=論理的に意味不明)けど、不思議っていうか、凄いっていうか、なんか、おもしれーよね。


ってこういうカンジと思えばいいです(笑)。


たとえば、そもそも、いきなり世界中が海に埋没してしまうということの意味は全く説明されないし、そこで船で逃げている人々が全然悲壮感漂わないというのも異常だし、海の中を泳いでいるのがなんか、人類が生まれる前の魚とかじゃねー?とか、なんか、風景が絵の具みたいなパステルっぽいぞー、とかとか、もうまったく意味不明のオンパレードなんですよね。脚本的にだけではなく、明らかに背景の映像が、論理的整合性を失っている。


このへんが、前衛的(=意味不明)と思ったところです。


で、、、、これどう思います????


僕は、おもしれーーーーーーと思いましたよ。意味的には、??????ですが、感覚的には、へー見たことねーという、センスオブワンダーがある。これって、ここまで大規模に映像をめちゃくちゃ意味を無視して幻想的に作ると、もう明らかに自覚的ですよね。そう、自覚して、ある種の映画作りやエンターテイメントの「法則」や「定石」から外しているんですよね。こういうことを指して、実験的作風、と前衛美術なんかでは言われます。何が実験かというと、常識的に思われている文脈のコンテキストを外すことによって、観客の梯子を外して、「そのズレ」を感じさせるという部分がです。


それって、代表的なのは、ゴダールですよね。



■頭(ロジック)で映画を見る見方というのは当然あるが、それだけでは見えないものもあるのではないか?


で、最初の伊藤剛さんの意見に戻るんです。これって、批判できる穴はボコボコにあるけど、けど、、、おもしろくねぇ???という意見も成り立つんです。ただ忘れてはならないのは、前衛芸術って、本道の王道の「常識」があって、そこからずれること、抵抗することによって成り立つ作品で、そもそも王道を知らないとわからないことが多いし、またどうしても論理で構築しないので、感性に頼る部分があって、「感性的に鋭い人」でないと、これを面白いっと感じないという、、、、言い換えると、意見がすごく分かれてしまう手法なんですね。少なくとも満場一致の、○とか×はもらえない。だから、この作品は、肯定的、否定的と語る人のスタンスをすごく分けてしまうと思うのです。また否定的に取ろうとした瞬間に、もともと宮崎駿さんが持っていた問題点が、噴き出ていて鼻についてしまう、というのも、わからないでもありません。


■動機が失われた世界は、死のイメージを感じさせる静謐感を醸し出す


ちなみに、『ポニョ』のコピー「生まれてきてよかった。」で、『スカイ・クロラ』の「もう一度、生まれてきたいと思う?」でした。僕は、逆に思いましたが(笑)。

これが何ともおさまりが悪く、押し寄せる波やあふれる古代魚、落ちてくる月、ポニョが過剰反応する謎のトンネル、老人ホームの人々など、死をイメージさせる要素があまりに多すぎて、個人的には異様な鑑賞後感を味わう羽目になった。「神経症の時代に向けて作った」というが、むしろこの作品こそがパラノイア的で気味が悪い。絵本調のパステルカラーによる妙に明るい雰囲気とのギャップがその思いに輪をかける。

そうした意味では、これを何の疑いもなくハッピーエンドのかわいらしいお話、と見られる人は幸福といえるだろう。

超映画批評/前田有一映画批評家


ふむふむ、、、、ここは、世評で、凄く指摘されていますね。僕は、死後の世界とは全然思わなかった…というか、そもそも、ある種の「静謐感を伴う時が止まった幻想世界」ってのは、そもそも僕は大好きなので、いや懐かしいものを見た、というかそんな感じで、あまりマイナスには感じませんでした。宮沢賢治とかそういうイメージです。が、僕の友人は、この「死後の世界の感じ」にとても凹んだようで、いやー苦しかった、といっておりました。そして、その言わんとすることは、非常に的を射ていたので、ここに記させてもらいます。友人曰く、

なんというか、千と千尋には、親がいなくなってしまった、などの主人公が何らかのアクションを起こさなければならない動機付けが存在します。物語を設計するときに、主人公に目的を与えるために、そういった欠落を与えるんですね。それは、逆に言うと、物語を駆動させるために、悪人が悪の行動をなす動機も同じです。

ところが、この主人公のそーすけくんには、欠落がない。また悪の魔法使いのはずもすぐいい人っぽくなってしまって、この世界には、基本的に動機付け(=ひとに行動を起こさせる欠落)が設計されていないんです。

悪人を書きたく無かったり、主人公の心にそういった欠落を描くことの飽きたのかもしれないが、そうして描き出された世界がこんなにも苦しい世界だったとは・・・・


と、言っていて、これはなるほど、と思いました。いまいち、ドラマツゥルギーに座りが悪いと思っていたんですが、この友人の言う通り、まさに、「みんないい人」なので、なんというか、世界が気味が悪い感じになってしまうんですね。まぁ欠落がないことは、言い換えれば、生きる欲望が消去されている世界なわけですから。共産主義のLASTMANみたいなもの。


ちなみに、これが、さきほどいったアヴァンギャルドな効果・・・いつもの本道の手垢にまみれた物語の設計からずれる面白さがあるというのはよくわかります。これを、嫌いだ!気味が悪い!と思った人と同時に、これっておもしれーな!と思った人もたくさんいるのではないかな、と僕は愚考します。


ちなみに、僕的にうと、この世界には、見覚えがあります。


これは、マンガ版で描かれた、腐海の奥地です。清浄なる大地なんですね、人間が住めない(苦笑)。マンガ版読んだことがある人ならば、なるほどっ!って思ってもらえるのではないかな?と思います。そういう意味では、宮崎駿らしいイメージですよね。



■では、なぜ宮崎駿監督は、これに挑戦したのか?


うん、一言で言うと、僕にはわかりません(笑)。

ただ、これが、なんつーか、かなりお客さんを無視したというか、「売れる路線を外した」「実験的なもの」であるという風に僕には感じてしまいます。だって、これなんか練習に見えますもん(苦笑)。まぁわかんないですがねー。でも、なんというか、肩の力はすごく抜けているよね、と思う。宮崎駿さんが、作りたいようーに、てきとーに、売れるという目的を外して、作成した円熟味のある作品という感じがします(←なんじゃそら!)ただ、これが実験的なものだとすると、当然、「次」に創るべきもののための「準備」にならざるをえないですよね。僕はこの作品は、宮崎駿さんの手癖がよく収まっている秀作に感じるので、評価は★4つです。そして、十分売れると思う。またさすが巨匠だけある円熟味のある作品だと思う。


けど、やっぱ『もののけ姫』みたいな、メガトン級のものみたいよねって、映画・アニメファンの立場からすると、ここでもう明らかに快感原則外している、この効果や感覚を、いったい「次の作品」にどう生かしてくれるの?って思ってしまいます。・・・ほんとうはジブリが大失敗して、借金でもして、ものすごい当てないと大量の解雇者が出て人生が終わるみたいな、そういう無限責任が肩にかかるような環境があると、最高の作品をつくってくれそうな気がするのですが・・・・それは、失礼な望みだろうなぁ…(汗)。モーツァルトみたいに…。


そして、この記事の最初のタイトルに戻るんですが、「次」がなければ、この作品『ポニョ』は、明らかに、今までの宮崎駿の手癖の範囲内の作品なので、もう老いたなとしか評価できません。まぁ、僕には、巨匠・宮崎駿は、本人の言葉通り『もののけ姫』でおわった感じがするので、なにも今更期待はしていないんですが・・・でも、やっぱり、そんな終わり感が漂った後に『千と千尋の神隠し』とか出てくるわけですから、やっぱ期待しちゃいますよねー。


だから、次に、期待です。そして、次に期待するためにも、やっぱりジブリ体験は、しないわけにはいきません♪


老いてなお、ますます盛んな(こんなにも話題になる)宮崎駿さん、やっぱすごいっすよね。


続きです。


崖の上のポニョ』と『スカイクロラ』にみる二人の巨匠の現在〜宮崎駿は老いたのか?、押井守は停滞しているのか?(2)/スカイ・クロラ
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080823/p4