「新世界系」とはなにか?『まどマギ』から『86』『ファイアパンチ』まで、一時代を席巻した過酷な物語を整理し切る!


2019年に刊行した物語の物語7巻の9章:「新世界系の登場-新たな竜退治に」のその先です。遂にここまで来ました。約5年かかりましたね。すみません、人生に忙殺されてて、電子書籍化が遅れています。いつかは必ず出します。

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系の大きな括りとしては、

2000年代:日常系、無菌系、ハーレム系、セカイ系

2010年代:脱英雄譚、女の子を酷い目に合わせる系(+だけ系)、新世界系

2020年代:分析中だが、残酷な世界を見据えて超えて、生きることをポジティブに捉える姿勢が広がっている。

マクロの背景としては、2000年代の新自由主義路線(小泉・竹中路線)による規制緩和、市場競争至上主義的なネオリベラリズム政策の実施によって、次の2010年代に「新自由主義的な感性の内面化」が起きている。三宅香帆さんの『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』に詳しい。この内面化のプロセスにおいて、物語の空間は、競争が「市場」に任されてることによる「万人の万人に対する闘争」をイメージ具象化した「MADMAX・北斗の拳的なデスゲーム・サバイバル状況」が心象風景となっていく。「このシュチュエーション」が、広く一般の人々に受け入れやすく、理解しやすい状況の現出によって、以下の問いが大きく社会的に共有されるようになる。この「残酷さの感覚」を表現することが、大きな文脈上のテーマになっていたと思われる。



新世界系の命題:この残酷な世界でどう生きていくか?
(その生きる残る=サバイバルする方法を教えてほしい)

この場合の残酷さの定義は、

①報酬がない(報われない)こと
②主人公特権がない
 =自らもあっさり死ぬ、メインキャラクターもさくさく死ぬ。
 =主人公が途中でいなくなる、切り替わる。
③意味文脈性が奪われる
 =自分の行った行為が「意味がなかった」否定エピソードの繰り返し
 =自分が所属する共同体ごと丸ごと消滅するエピソードが何回転も繰り返される
 =物語が全体として何が言いたかったのかの軸がなくなる(=主人公視点がなくなるとリンク)
④突然死(=階梯的な成長ができない)
 =基本的に全滅エンドが志向される
ロードムービー的に、さまざまな残酷さの小エピソードを体験しながら旅をする形式をとる
 まほいくのように、デスゲームの、個々のキャラクターのエピソードの積み上げ形式や86のような実際に「旅をする」形式をとるなどさまざま


こうした「新世界系的な残酷さ」を押さえていないと、ただキャラクター酷い目ににあわせた「だけ」になってしまい、この系から外れてしまう。残酷さを戦争と考えて、ロボットものの「リアルロボット路線の復活」が志向されたが、その後の後に続く系にはつながらなかった。

新世界系の典型的な代表作品。

ハンターーハンター、トリコ、進撃の巨人などに見られる壁の外や新大陸、新世界のイメージ。「いま自分たちがいるところ」の、「外」が「外部」があるという感覚が濃厚に読み取れるようになってきたのは、2010年代真ん中から。

また、残酷さに焦点があってくるのは、2010年に、『Angel Beats!』『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』で萌芽が見られるが、このルートの出発点は、2011年の「魔法少女まどか☆マギカ」。

🔳社会の次元
幼女戦記(2013)小説
機動戦士ガンダム鉄血のオルフェンズ(2015)アニメ
魔法少女育成計画(2016)アニメ
86-エイティシックス-(2021)アニメ
ルックバック(2021)マンガ

進撃の巨人(2013-2022)マンガ
ヴィンランドサガ(2005-)マンガ
チェンソーマン(2019ー)

🔳女の子を酷い目に合わせる「だけ」系やリアルロボット路線系統
白銀のアルジェボルン(2014)アニメ
結城友奈は勇者である(2014)アニメ
selector infected WIXOSSセレクター インフェクテッド ウィクロス) (2014)アニメ
M3〜ソノ黑キ鋼〜 (2014)アニメ
アルドノアゼロ(2014)アニメ
がっこうぐらし!(2014)マンガ
Charlotte (2014)アニメ

🔳物語の継続性に対する意味性の剥奪(主人公が入れ替わる、いなくなる)
めだかボックス(2009-2013)マンガ:「球磨川禊のパラドクス」宣言

あいつらに勝ちたい
格好よくなくても強くなくても
正しくなくても美しくなくても
可愛げがなくても奇麗じゃなくても
格好よくて強くて正しくて美しくて可愛くて奇麗な連中に勝ちたい
才能に恵まれなくっても頭が悪くても
性格が悪くてもおちこぼれでも
はぐれものでも出来損ないでも
才能あふれる頭と性格のいい
上り調子でつるんでるできた連中に勝ちたい

友達ができないままで友達ができる奴に勝ちたい
努力できないままで努力できる連中に勝ちたい
勝利できないままで勝利できる奴に勝ちたい
不幸なままで幸せな奴に勝ちたい!

嫌われ者でも!憎まれっ子でも!やられ役でも!
主役を張れるって証明したい!!

異自然世界の非常食(2015)小説(なろう)
無職転生 - 異世界行ったら本気だす -(2011−2017)(なろうWeb版)

UQ HOLDER!(2013-2022)マンガ
戦国妖狐(2007−2016)マンガ
戦国妖狐 世直し姉弟編(第一部)戦国妖狐 千魔混沌編(第二部)結界師(2003-2011)アニメ

🔳世界の次元
さよなら絵梨(2022)マンガ
スピリットサークル -魂環-(2012- 2016)マンガ
ファイアパンチ(2016-2018)マンガ
宝石の国(2012-2024)マンガ
メイドインアビス(2017ー)アニメ
ハンドレッド(The 100) )(2014-2020) ドラマ

SWANSONG(2006)ゲーム

この辺りが代表的な作品。2010年代の後半に集中している感覚がある。「残酷な世界でどうで生きるか?」という問いに対して、残酷さが、社会の次元で止まっている作品に対して、「それを突き抜けて」世界の次元にまで到達している作品には、大きな差異があるので、区分できる。


2020年代の新たなるルート、系へ脱出できたのは、「社会の次元に留まった」作品であった。世界まで突き抜けた典型例の『ファイアパンチ』などは、あまりに難解で理解を拒む作品になってしまうので、ポピュラリティを獲得しにくい。そのような作品群であるにもかかわらず、一定の人気を得て入れ群になって、繰り返し同じテーマが、さまざまな媒体で立ち現れているところに「時代の文脈性」を想定できうる。

🔳新世界系の世界の次元の脱出ルートはどこへ?

「社会の次元」と「世界の次元」と言う分け方が正しいのかまだ考え中ではあるが、これにはまらない作品群もある。『進撃の巨人』『戦国妖狐』『ヴィンランドサガ』『メイドインアビス』などの作品群だ。この辺りになると、「世界の残酷さを体験するロードムービー的な長い旅となる」部分も、ただ見ているだけではなくて、本当の解決策に向けて、具体性を持って、主人公たちは、動き続ける。これらの作品群の特徴は、基本的に「生きては帰れない旅(=報われることがない)」をすることになる。『メイドインアビス」が特徴的だが、「どこへいくのかわかっていないほどの果てを目指している」けれども、そこにたどり着くことは、すなわち、生きて帰れないことを意味している。


「その果て」がどこなのか?は、実は、まだ答えが出ていない。


『ヴィンランドサガ』『メイドインアビス』が、どこにたどり着くのかが、まだ描かれていないからだ。


ただし、この辺りの作品ではさまざまな手がかりが出されている。天才水上 悟志さんの『戦国妖狐』の第二部での主人公の千夜(せんや)が、精神世界の中で、「勝つとはどう言うことか?」を追求していく中で、「恐怖を克服すること」と結論づけている。この「恐怖」をスタート地点として、人々が殺し合いを始め、止まらない争いの連鎖になっていることから、これをどう克服するかが重要な原点としている。そして具体的には、「自分自身の弱さと向き合う」ことによってしか、恐怖は克服できない。精神世界では、むしろ戦ってはいけないこと、また、「戦い(=二元論的な争い)」ではなくて、「それ以外の解決策がないか?」とゲーム感覚で衆知(=千夜の中にいる1000匹の仲間達)で遊ぶつもりで考えていくことが大事だとしている。


この「恐怖」の克服という解決策は、ネオリベラリズムの背景から、万人の万人に対する闘争の次元で、「人間の世の殺し合いの残酷さ」を止める原点の一つであるのは、見事な到達点の一つだと思う。


また「人間の世の残酷さ」とはなにか?と問うたときに、「共同体丸ごとの生存競争」というテーマがあるように考えている。『ハンドレッド』『ファイアパンチ』『戦国妖狐』もそうなのだが、どれも、相手の悪や敵も、彼らの必然性と使命を持って生きていることが描かれてしまうと、共同体ごとの生きるか死ぬかという、殲滅戦、ホロコーストの相互やり合いになってしまう。『戦国妖狐』の五人組 / 無の民というキャラクターたちは、作中よりはるか過去からやってきており、一族、星の滅亡を回避するために霊的特異点である千本妖狐(迅火)と千怪の宝玉(千夜)を必要としているのだが、彼ら自身が「絶滅エンド」を避けるためには、千本妖狐(迅火)と千怪の宝玉(千夜)命を必要としており、千本妖狐(迅火)の暴走を許せば、少なくとも日本レットくらいは吹き飛ぶ感じで描かれていて、この感覚が、


共同体 VS  共同体


となったときに、どちらに正当性がある?ということは言えなくなっていまうという「残酷さ」を描いているのだと思う。



🔳新世界系の社会の次元の脱出ルート

オルフェンズ、86が展開したルートが、この残酷な世界に対抗する脱出のルートとなっている。

マクロの状況的には、新自由主義ネオリベラリズム)的なものによって経済は再活性化して、先進各国はそのダイナミズムを取り戻した。しかし、このことによって、激しく巨大な格差社会が出現しており、この大きな二項対立は、上層の民と下層の民という上下の「階層の固定化」をイメージされやすく、新たなる封建社会の到来と、その底辺で奴隷化されて固定化された人々の「抜け出せない地獄」の中でどう生きていけばいいか?という問いに発展する。このイメージで、社会の維持の駒として奴隷化される人々が、オルフェンズや00、86などで描かれる「少年兵」のモチーフなのだと想定できる。


上記で描かれた「残酷さ」の源泉は、このマクロ環境からきている。


ここで重要なポイントは、少年兵たちが、「何も持っていない」こと。とりわけ大きいのは、オルフェンズではっきり描かれているが、「教育さえもまともに受けていない」ところに大きな厳しさがある。こうした「階層」は基本的に、すりつぶされて、駒として利用されて、消え去ることしかできない。それ以外のオプションを持ちようがない。ブラック企業で、未来も何も持てず、すりつぶされて死んでいくイメージのパラフレーズだと思われる。


しかしながら、「何も持っていない」ことがアドバンテージになることがある。


それは「何も持っていない同士」で、約束をすると、その約束は、「所有物がお互いしかない状況」を生み出すので、深く重い「絆」になっていく。なに持っていない「属性が同じ状況」に追い込まれてオプションがないので、お互いの約束を守る以外選択肢がないから、その「約束」が異様に輝くことになる。これをいいかえれば、「連帯」がしやすい状況が生まれている。「自分の物語を生きる」という権利や、生存権の基本的な部分だと思われるものさえ奪われて有意味性が剥奪されている状況でも、人は、明日の約束をすることはできる。そのためにバタバタ死んでいくことにはなるが、その絆への献身、コミットメントが、異様な輝きを生むので、「そこに物語が戻ってくる」ことになる。言い換えれば、その約束こそが、物語の有意味性を奪い返し、取り戻すのだ。


そこでもう一度、たとえなにも持っていなくても、人は、自分の物語を生きる有意味性を取り戻すことが十分人できる。いや、むしろ、「何もないほど」人は、その絆が作りやすく、深く重く輝かせることができることが、証明されてしまった。もっといいかえれば、人間社会は、そう簡単には、MADMAX/北斗の拳的な「万人の万人に対する闘争」になんかならないということを示している。


ということで、全てを奪われて残酷な状況に追い込まれても、人類も、人(=あなた)も、それで終わりではない!ということが喝破される。


だったら、今「僕らが生きる2020年代」は、この環境と比べてはるかにマシなのだから、もっと楽観的に、生きることに希望を持っていいのではないか?というオポチュニズムが、物語の大きなテーマとして回帰していると僕は思う。



【物語三昧 :Vol.227】『ツレ猫マルルとハチ』園田ゆり 新世界系が極まった過酷で残酷な猫の日常の中で-235
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【物語三昧 :Vol.82】『ハンドレッド(The 100)シーズン7』最後の審判という祭壇をどう考えるのか?-90
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【物語三昧 :Vol.122】『スーパーカブ』そこにもう救われない最後の1%はいない。観た最初の1話でずっと感動して泣いていました。-130
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