『進撃の巨人』2013-2017 Season 1-3 荒木哲郎総監督 諫山創原作 新世界系の到達点-世界は残酷だけれども美しい、その解像度をあげろ!

進撃の巨人 シーズン1 コンプリートBlu-ray BOX(第1-25話)[Import]

客観評価:★★★★★5つマスターピース
(僕的主観:★★★★★5つマスターピース

見出し
■とにかくアニメの出来が素晴らしすぎて、言葉を失った。
■「鉄血のオルフェンズ」2期で理解した類型と同じであることは何を示すのか?
■「セカイ(=偽り)」と「世界(=現実)」の境目に現れる厳しさを、そこに挑戦する登場人物たちに突きつける行為を「新世界」と呼ぶ
■世界は残酷だけれども美しい~意味がないからこそ、美しい。切ないくらい美しいのは、すべてに平等に訪れる平等な死と無意味さ
■個人が死んでも「続いていくなにか」にコミットすることが、唯一、「生きた証」をどこかに残せる可能性
■世界の解像度あげることが、現実の残酷さと美しさへのフレームアップ
■しかし、王道の物語に接続するときには、「世界の謎」へ結びつける必要性がある!



■とにかくアニメの出来が素晴らしすぎて、言葉を失った。

シーズン1、25話。ストヘス区急襲 (3)まで。(ちなみに、この記事は、2019年11月に書いています)

言うまでもないことなんだけど、エンタメの歴史に残る世紀の傑作。漫画自体も、もちろんそうなんだけど。アニメも同じレベルの出来。日本固有の文脈とかそういった制限もすべて軽々超える。世界中のだれが見ても感情移入でき、心底傑作だと感じてしまうであろう凄みを持つ作品。ペトロニウスの名にかけるまでもなく、もうとんでもない傑作。なんというか、まじで見れば見るほど、言葉を失うほどの名作、傑作。全人生で、世界中の様々な物語を見た中でも、トップクラスで素晴らしい普遍性。。。2013年か、、、5年も前にアニメやっていたのに、見てもいなかった。親友が、素晴らしい出来なので、見ておかないともったないと薦めてくれなければ、見逃すところだった、マンガがあまりに素晴らしので、何度も読み返しているから、がっかりしたくないなんて言う、賢しらな理由で避けていた自分の不明を恥じいります。みんな見よう!。


ちなみに、この作品の評価は、あまりに複雑多岐にわたるし、書いていると日が暮れるので、ラジオします(たぶん)。というのは、もうすぐ「終わりかけている」今で、この作品を、最初のテーマと到達点で評価できる時期が来たからなので、まとめようと思っているんです。なんというか、いろいろ考えながらエンターテイメントを、物語を見ているんだけど、10、20年単位で考え抜いてきた問題意識、テーマが、具体的に、エピソードで、キャラクターで、そして大きな物語ドラマトゥルギーで、すべて表現されていくのを見ると、なんというか度肝を抜かれます。諫山創さん、とんでもない、才能の人だし、それ以上にあまりのテーマの追求っぷりにその真摯さに、心打たれます。なんというか、後で語ろうともうのですが、テーマに対する愚直なまでの、真摯な対応、しつこさに、この人の誠実さを感じて、胸が熱くなります。ちなみに、構造を比較すれば、各エピソードが、『マブラヴ オルタネイティヴ』で問題に上がっていた問いに、徹底的に問い直して答えているのがわかります。これは、もう書き始めていおるので(2)で話しますね。


ちなみに、これ書いている途中で、シーズン3パート2の#59壁の向こう側まで見終わりました。これ2019年の7月まで放送していたのですね、全然気にしてなかった。


僕の記事はいつも読みにくいだろうし、思考過程を垂れ流しているので、なかなかわかりずらいかもしれないのですが、基本的に「ジャンルを超えてなるべく関連する様々な物語を紹介しよう」とか「深く読み込んだ後にもう一度、もっと深く理解したくて、その理解の手がかりになる」となるものを残そうといつも思っています。なので、アニメを全部見て、マンガを全部読みなおして、ぜひとも、記事を読み直してほしい。それと、できれば、下のBBCのインタヴュー記事(日本語版もありますね)のインスパイアされた物語というのは、有名ですが吉宗綱紀の『マブラヴ オルタネイティヴ』なのですが、見たこと、やったことな人こそ、下の10周年のPVを見てみてほしいのです。諌山創さんが、いかにこの「吉宗綱紀の作った問いと世界観」に対して、全力で答えたかが、感じれると思うのです。PVなので、もしかしたらマブラヴをやっていない人には、全くわからないかもしれないですが、これを見て、進撃の巨人のファンなら、これ、やってみないとダメだ、、、と絶対思うはずです。クリエイターがつなぐ、「問題意識」の連鎖を、感じ取れると思うのですよ。これこそが「文脈」ってやつです。


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■「鉄血のオルフェンズ」2期で理解した類型と同じであることは何を示すのか?


2019-11-29【物語三昧 :Vol.42】『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』2010年代を代表する名作~残酷な現実の中で意味もなくどう生きるのか?with LD -47


Youtubeで説明するつもりなので、メモ的にしか書かないのですが、ことのはじまりは、物語の物語の最終巻を出すために、「脱英雄譚」と「新世界系」の到達点が、どこまで行っているかを再確認するためでした。そこで、新世界系の一つのルート0の答えを示していると話されてきた『鉄血のオルフェンズ』のシーズン2を見直したことで、「新世界系」の答えと類型がハッキリと分かったと思うのです。


■「セカイ(=偽り)」と「世界(=現実)」の境目に現れる厳しさを、そこに挑戦する登場人物たちに突きつける行為を「新世界」と呼ぶ


アニメの『進撃の巨人』を語る上で、「どう語るべきか?」というのを考えると、シーズン1-2の途中#31 戦士あたりに、裂け目があるような気がするんです。というのは、この作品の理解の最大ポイントは、


「壁の中にいる閉じられたセカイで自分がどう生きるか?」

「壁の外があるという世界の謎」


に分けられるからです。さらに、現在連載で進行中なのを、


「壁の外の世界(=現実)で自分たちがどう生きるか?」


とテーマで、それぞれの問題意識が、エンターテイメントの究極の設問になっているにもかかわらず、愚直に、真っ向からすべて、答えを出し切っている上に、具体的なエピソードでそれを表現するという、さらなる愚直ぶり。なんというか、その「恐れを知らない真っ向勝負」に、恐れおののきます。素晴らしすぎる。こんなの、普通無理だよ。。。


えっとこのラインに従って、「壁の中にいる閉じられたセカイで自分がどう生きるか?」というテーマを考えてみましょう。


シーズン1を見た時に、僕は、「オルフェンズ」の2期を見た直後に見直したので、驚いたんですよね。あまりに同じ感触に。アルミン、ミカサ、エレンの3人の子供時代の「絆」が、その後の「生きる理由」になっているという構造です。


「外に開かれていない閉じられたセカイ」において、「そこから出ていって、海を見たい!(アルミン)」というドラマトゥルギーであり物語の主人公たちの「動機」は、すなわち、「閉じられたセカイ(=偽りの作られた世界)」の外にあるであろう「開かれた世界(=現実)」に、行こうとするという物語になります。ちなみに、セカイ系の「セカイ」という仮名で書くのは、この世界が「閉じられた偽りの世界」という意味で、脱出する対象であることを僕は示して書いています。世界、と漢字で書く時は、僕らの住む「現実の開かれた偽りではない世界」のことを指しています。しかしながら、「セカイに住んでいる登場人物たちは」、その偽りの世界の閉塞感に苦しんでいます。なので、その閉塞感を超えて、自由を目指す(=脱出)ときに、セカイと世界の比較を突き付けることによって、「それでもあなたは、外の世界に出たいですか?」というドラマトゥルギーを設定されるようなのですね。


この「セカイ(=偽り)」と「世界(=現実)」の、境目に現れる、とりわけ世界の厳しさを、そこに挑戦する登場人物たちにつきつける行為を、「新世界系」と呼んでいます。具体的には、新大陸であったり、壁であったり、この2つの境界を超える、凄まじい厳しさが示されることによって、キャラクターたちの覚悟を問う話になります。



では、世界・・・・言い換えれば、僕らが住む生の現実の「最も特徴的なものは何か?」と問います。



それは、いくつかの大きな特徴によって構成されます。



まずは、なんといっても、物語のご都合主義は通じない、ことです。



物語であること、主人公であることは、すなわち「何らかの救済が、成長が、解決がありうる」ということになってしまうからです。それでは、「現実」ではないし、セカイとの比較が成り立たない。セカイは、物語の主人公がいる世界。世界(=現実)は、英雄も、勇者も、物語の主人公なんかいないし、もちろん、「自分が主人公」なんて妄想は、通じない。


1)あなたは主人公じゃないということが突き付けられなければならない


2)人生の意味があってはならないし、何かを成し遂げる動機に理由が与えられる大義(目的意識)があってはならない


いいかえれば、徹底的に「無意味であること」が、「現実の世界の最も大きな特徴である」と考えられているんです。けっこう難しいことを言っていますが、これは、主人公だったら、丁寧に成長できて、結局は死なないし、セカイを救えるという物語的なご都合主義を、究極に排除したところに、「僕らの住んでいる現実はある」という無力感が支配した、1990年代後半から2000年代、そして2019年の今に至るまでの日本人の典型的な「実感」だったのだと思うのです。まぁ、マクロでいうと、高度成長期が終わって、「人生が報われる」という「有意味感」が、確率的にほとんどの若者に訪れないという絶望が、こうしたシャープな問題意識を生み出したのだろうと思います。


おっと、マクロの説明が長くなると、難しくなるので、そこは飛ばしましょう。


オルフェンズの2期との特徴は、主要人物の、特に主人公級がみんな死んでしまうことにありました。また、彼らの死というのは、基本的には「世界を救済する」というのには手が届かなく、意味がありませんでした(少なくとも、死の直後ぐらいでは)。ようは大義がなかった犬死なんですね。これが上の条件を見たいしていることがわかると思います。


でも、非常に重要なのは、物語の主人公として感情移入させた主人公たちの人生が、


1)主人公ではなかった


2)世界にとって大義も意味もなかった


というドラマの終着点は、「物語としていいのでしょうか?」という問題意識があります。かつて、『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』で、LDさんが、その設定ならば、全員死なないとダメだろう!と叫んでいたことがあります。たしかに、セカイ系の脱出が極まって、「現実に戻る」というテーマを貫徹するならば、現実すなわち、主人公ではないこと、意味をはく奪することが、テーマになるので、全員死なないと、テーマ性は全うできません。少なくとも、主人公は無意味に死なないと、この物語の類型としては、失敗なんですよ。この後、『魔法少女まどか☆マギカ』に物語は進み、この類型は、主人公を抹殺するところまで進みます(苦笑)。

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では、リアリズム、いいかえれば「現実を示すこと」とは、無意味に全員死ねばいいのでしょうか?



それは、ちょっと直感的におかしい。一つは「そんな話を本当に人々は、受け手は望んでいるのか?」ということ。もう一つは、物語に王道を、竜を退治した、悪を倒した、セカイ、世界を救ったという人類の物語史のメインストリームにあわせれば、テーマとしてはやりマイナーといえると思うのです。僕はやっぱり、世界の救済、それをする勇者、英雄、主人公のビルドゥングスロマン(=成長物語)が、物語の王道だと思う。


そこで出てきたのは、「この過酷で残酷な現実において、生きる意味とはなんでしょうか?」「どうすれば生き残れるでしょうか?」という問いでした。



これには明確な答えが出ています。



それは、「目の前の絆に無償でコミットすること」です。



これは、けものフレンズやオルフェンズを見ていて、最終的に言えたのは「無償の愛」「無償の信頼」「無償の友愛」、、、あとにくる言葉は、色々な定義があるので、まだ議論中ですが、力点が「無償であること」にあるのは間違いありません。「無償」というのは、報酬がないこと、損得ではかってはいけないし、報われてはいけないもの、という意味文脈です。損得や有償で考えると、「世界が成長していくという有意味文脈」に乗っていないと、報われないので、それは不可能です。だから、世界が成長していたり、大きな技術のブレイクスルーがない社会では、報われることは、構造的にあり得ないので、有償にしたら敗北が決定してしまいます。


けれども、「人間関係の絆」というものを、無償の関係まで内圧を高めることは、実際のところ、不可能に近いです。ようは「自分を捨て去って相手に貢献せよ」というのは、「自分」を持つ人間には、ほとんど不可能だからです。


けれども、これが簡単に成り立つ状況というのはあります。


それは、「選択肢を奪う」ことです。ようは、戦争のような極限状態にほおり込まれた兵士や、構造的に差別を強いられて「持たざる者」として固定化した状況に生まれること、その状況下では、「選択肢がない」ので、必然的に、無償の関係に向かう圧力が生まれます。そうでなければ、世界が無意味なだけ。兵士は、好き嫌いなんか関係なく「命を懸けて信頼する」ことをしなければ、チームにならなければ、即死にます。「持たざる者」には、近くにいる人間関係に、もともとのリソースがないので、そこにかける以外に、人生に意味を見出すことは不可能なんです。なので、これは選択肢があるから選べるということではなく、出ずゲームやサバイバル系に近い、世界の構造がから来る唯一解答なんです。


ちなみに、極限の戦場における兵士のドラマに、「現実の過酷さ残酷さ」を見出す類型を、LDさんは、ガチ兵と呼んでいます。ガチの兵士もの、という意味ですね。

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ちなみに、「無償である」ことを示すために、「報われなさ」、言い換えれば主人公が死なないといけないという公式を考えると、艦これのアニメで、なぜ、この系統を作るなら、、、と悩んでいるかがいま振り返るとよくわかります。この類型を結論まで持っていくには、やはり全員死ぬような「報酬のなさ」「報われなさ」の表現がポイントだからです。逆に振りきれたければ、日常系で、「ひたすら幸せな癒しの世界」を描かなければならない。両方を等分に描いてしまうと、中途半端さが際立ってしまうのです。


■世界は残酷だけれども美しい~意味がないからこそ、美しい。切ないくらい美しいのは、すべてに平等に訪れる平等な死と無意味さ


ちなみに、極端に振ったガチ兵ものは、意外に人気が出ません。たしかに、いい作品が多いのですが、どうも共感を生みにくいようなんですね。そもそも「戦場」にいきなり投げ込まれるのは、人間関係のスタート地点として共感を生まないようです。こうした過酷な環境に、順番に感情移入していくためには、どうやら、「学校という段階を踏む」ことが必須であることがわかってきました。『がっこうぐらし』なんか、紺構造をよくわかって作られていますね。学園ものの、日常の人間関係をステップにすると、それが、過酷な環境で「試される」というドラマトゥルギーになるので、感情移入ししやすいようなのです。ちなみに、そういう意味では、「学校のステップ」を踏まない、オルフェンズは、ガチ兵ものにちかいですね。進撃の巨人は、彼らが、訓練学校の同期生という設定を作っている点で、見事としか言いようがないものです。

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えっと、やっぱなんか、、、、、こういう「分析的な言説」は、「理解するには必要」なんだけど、大事なのは、理解じゃなくて感じることなんですよね。



えっとね、、、、



シーズン1を通して、見ていて、驚いたんですが、、、、まさにこの時代の新世界系のテーマを、貫徹して、すべて応えているんですね。それも、抽象的に「こうなる」とかそういうレベルでの答えじゃなくて、物語として、キャラクターの魂の叫びとして、ドラマトゥルギーの重なりのエピソードとして、、、、。



「選択肢がない状況で」「無償の友愛」・・・・・が、新世界系のテーマのポイントでした。



だとすると、エレン、アルミン、ミカサの「子供時代の思い出」というのが、「無意味な世界に生きる目的」にそれぞれなる構成になるはずなんですよね。



これ、3人ともに、個別に生きる理由が、それぞれ複雑に描かれている。細かく説明するとしんどいので、まずはてきとーに、ミカサ。



彼女が、死ぬのをあきらめるシーンがあるじゃないですか。



この時、物語上は「彼女は死んでいる」んですね。



えっとね、エピソード的には、彼女は、既に生きるのをあきらめて、状況的には、「詰んだ」んですよ。なんというか、物語的には、継続するために、結局死ななかったじゃないか、と言おうと思えばいえるんですが、、、なんというか、ガチで、もう死んでいますよね、みんな。状況的にエピソードの積み上げ的に、感情の情感的に、「ここで終わった」感が凄いじゃないですか。少なくとも、僕は見ててそう感じます。そんで、この時の、セリフが、あまりにストレートに、いままで言ってきた問題意識に見事にこたえていて、鳥肌が立ちました。



「わかってた。人生は、世界は残酷だ。。。。。だからこそ美しい。・・・・・いい人生だった。」
(うろ覚え)


分析的に言えば、これが新世界系の問題意識の「答え」ですよね。また「世界の残酷さ」を際立たせることのためには、「生き残ってはいけない」んです。この時に、ミカサの心の動きは、状況的に具体的に手触りとして、この抽象的な意味が、ストレートに、誰もがわかる形で感じられると思うんですよ。あんな子供時代のエピソードから延々積み重ねられて、どんだけ仲間が無意味に死んでいるんだよ的なシーンを重ねられて、、、、


彼女の生きる理由って、エレンとの、家族との絆なんですよね。なので、エレンが、生きていなかったら、彼女の生きる動機は、消えるんです。だから「あきらめた」んですよね。でも、その時、彼女の人生を彼女が振り返るときに、人生は残酷だった、、、、彼女の両親は目の前で殺され、何もすることができなかった。抗いようがない現実の残酷さに、何一つ逆らうことができずに、無力感にさいなまされて死んでいく、、、、それが人間の人生。虫けらのように死ぬ、、、、、というか、カマキリの捕食のシーンが出てきますが、虫けらが死ぬのと、人間が死ぬのと、生においては死すべき存在として、等価値なんですよ。だから、残酷。それが、痛切に感じられるとき、世界の、人生の、現実の残酷さを思うんです。


では、、、、残酷だから、無意味だから、それ即ち、「生きてきたこと自体」はどうだったのか?と問うと、、、、


「でも美しかった。いい人生だった。」


というんですよね。正確に言うと逆説じゃないですね。残酷「だからこそ」美しい、なんです。何にも意味がなかった人生で、虫けらのように死ぬ間際に、彼女は「いい人生だった」というんですね。



これ、もう答えでしょう。



ちなみに、前半の全編のエピソードは、「この感覚」に結びづいていて、彩られています。



世界の残酷さと美しさを見せるには、「主人公が死ななきゃいけない」んですよ。そうでないと、「無意味が極まった連鎖の世界」の美しさが、演出されないから。なので、あっさり、主人公であるエレンは死ぬじゃないですか。また、エルヴィン・スミス団長も、生涯をかけた夢と目的を果たせないじゃないですか。しかも、アルミンだって死んじゃうじゃないですか。



だって、調査兵団のいる世界、「壁の中の世界」って、もう絶望しかないじゃないですか。この世界の構造に対する意味がある挑戦って、自由を示せることって、「壁の向こうに行くこと」「その果てを見ること」「死にゆく人類を救済する」ってこと(全部同じことですね)なんですが、前半の、、、、、「壁の中にいる閉じられたセカイで自分がどう生きるか?」という部分では、基本的に、これ全部、絶望しかないじゃないですか。はっきり言って、報われた人って、ほとんどいない。調査兵団の死亡の率って、、、、もう、90%以上でしょう。はっきり言って、全滅ですよ。主要キャラクター3名も、エピソード的には、事実上死んでいます。


もう一度ミカサのエピソードに戻りますが、、、、ちなみに、ここで生き残る彼女は、「エレンへの、、、家族への思い」が、絶望を上回ったわけじゃない、というのが、また信じられないくらい切ない。これ、後半のマーレ編以降の伏線で、彼女の自由意志がなかったという、さらなる「問いかけ」がなされるとか言って、どんだけ、諌山さん、厳しいんだよ、、、と唸ります。


とはいえ、まだ「そこ(=ミカサの自由意志に関する問い)」を問う必要はないです。それは、後半の問題意識になると思います。


壁の中のセカイが、あまりに絶望的過ぎて、しかも「どうすればそれれをブレイクスルーできるのか」ということが、謎すぎて、重すぎて、これ、のちに「世界の謎」がわかった後でも、見返すと、この「残酷な世界の中で無意味に死ぬ」という「鮮烈で鮮やかな現実の美しさ」が、これでもかって、感じれちゃうんですよ。


これ、「新世界系」の類型の、物語としての答えだと思うんです。


世界は残酷。けれど、美しい。虫けらのように、僕らは死ぬけど、もし「大事な人への思い、絆」があれば、報われることは何一つないし、意味もないけど、頑張って生きたという「なにか」は残る。それは意味がないかもしれないが、確実に残る「なにか」であって、いい人生だったと思える「なにか」だ。


ちなみに、慎重に、「大事な人への思い(無償の友愛)」があれば、人生に意味があったとか、幸せだと思える、とはいうのを避けている。基本的に「世界が残酷」で「意味がなかった」というのは、凄まじい強度なので、この絶望を、ご都合主義で、ひっくりかえしているわけではないからだ。このテーマ類型で言いたいことは、世界の残酷さであり、無意味感なので、それがご都合主義的に、解決できた!となってしまうと、このテーマの強度を損なうからです。


なので、実際的には、「全員死んでしまって」「何も報われませんでした」というオチのつけ方が、本来はこの物語のスタンダードな、「正しいドラマトゥルギー」だといえるでしょう。もしくは、LDさんが良く上げるような『魔法少女育成計画』のように、現実の過酷さによって、「思い自体(=動機)は変わらない」のに、「その在り方が、ボロボロになって変質してしまっている」というのも、類型の答えの一つでしょう。


ようは、物語のご都合主義をはるかに超えるスケールの「現実の残酷さの強度」を示さなければ、この類型としては中途半端になるという構造があるからです。いやはや、、、、現実が過酷すぎるので、「日常系」、ハーレムで女の子いっぱいでウハウハとか、女の子だけの関係性だけで戯れて幸せいっぱいの日常とか、主人公が異世界に転生して「一切成長することも困難もないチートで生きていく」という選択肢の別のサイドで、日本の2000年代のエンターテイメントは、これほどまでに厳しい現実を問う作品を創作し続けてきました。クリエイター!作り手!、それを愛する受けて!、なんてすばらしいんだ!と叫びたくなります。

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この素晴らしい世界に祝福を!』  暁なつめ著 金崎貴臣監督  どういう風に終わらせてくれるんだろうか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20160313/p2

Web小説ってなんなの? 画一化したプラットフォームの上で多様性が広がること〜僕たちはそんなに弱くもないけど、そんなにも弱いんだろうね(笑)
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20160402/p1


灰と幻想のグリムガル(2016)』著者 十文字青 監督 中村亮介 異世界転生のフォーマットというのは、現代のわれわれが住む郊外の永遠の日常の空間と関係性を、そのまま異なるマクロ環境に持ち込むための装置(1)
http://petronius.hatenablog.com/entry/20160413/p1



■個人が死んでも「続いていくなにか」にコミットすることが、唯一、「生きた証」をどこかに残せる可能性


えっと、もう少し「新世界系の類型」に関する、この辺もめちゃネタバレですが、僕は今に至るまで、ずっとガンスリンガーガールの15巻の終わり方が、胸に残っているんです。最終エピソードとスペランツァとロッサーナの話についての僕の感想と分析を、抜粋してみたいと思います。これ、上記で説明している話と、全く同じ類型になっているのがわかるでしょう?。

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15巻を通しての「完成度としてのガンスリンガーガール」の価値は、1)〜3)のバランスにあるので、そこから逆算すると、スペランツァの次世代につながる希望の話は、描かれなければなりません。そうでなければ、2)-3)を厚みを持って描いてきた意味がなくなってしまうからです。あと、少なくとも、絶望の残酷さを描きたいのならば、2)は描く必要性が全くありません。むしろ邪魔です。


ラストエピソードが、これまで描いてきたことの超圧縮の答えとして描かれているのは、非常にうまい構造をしています。それは、少女時代のスペランツァと、アカデミー賞の授賞式でスピーチする20は超えているであろう成長した後の大人の女性のスペランツァが、1話の短い中で一気に「時間の経過を感じさせる」演出を考えるとよくわかります。1)−2)のミクロの物語は、人生を奪われた、成長できなかった少女たちの話であるのがそのコアです。その未来の無さで、人生を生き切ったという話です。そして、生き切ったからこそ、それをサポートした大人たちがいたからこそ、ギリギリの針の穴を抜けるようなありえない確率で、「次世代の未来」に話がつながったのです。それが、この単純なエピソードの1話で、話が示されています。見事だ、と思いました。


蛇足というか、同じ意味合いのエピソードがもう一つあるのですが、ロッサーナに娘がいること、そして、ロッサーナのもとへサンドロが、愛したペトルーシュカの遺言によって北欧に向うというエピソードがあることも、同じ構造を感じさせます。この流れだと、ロッサーナとサンドロは結ばれるでしょう。そうすると、娘がいるんですよね!。というか、まさにスペランツァと同じ構造です。あげればきりがないくらいすべてが論理的につながっているので、エンリカの幼馴染の女の子が彼女の遺言で軍警察を志願した話がありましたが、最後に彼女がジャコモを撃てなかったことや、復讐を求め続けてきたジャンに「ジョゼが殺されてまた復讐を続けますか?」という問いに、静かに目を閉じ「どうだろう(=そうは思わない)」と答えるシーンも、ジャンが復讐の輪廻から脱出しているエピソードであって、これも、彼がいくつもの過去の回想をするシーンがはさまれていることからも、時間の経過が彼を変えさせたことを如実に示しています。


すべては、マクロ的に憎しみから永遠の殺し合いを続ける逃げ道のない輪廻の世界から、人はどう脱出できるのか?という、「争いの消えることはない人間社会」に生きながら、常に問うべき希望をこの物語は指示しています。故に、僕はこの物語を素晴らしい物語だと、傑作だと、ペトロニウスの名にかけて!(めずらしく出た!)確信しました。素晴らしい物語を本当にありがとうございました!。



GUNSLINGER GIRL』 相田裕著 静謐なる残酷から希望への物語(2)〜非日常から日常へ・次世代の物語である『バーサスアンダースロー』へ
http://petronius.hatenablog.com/entry/20130104/p1


この辺りの「自分が生きているうちには報われるほど世界は甘くない」というのと、けれども、次世代につなぐものがあれば、という話は、相互リンクしやすいようです。



■世界の解像度あげることが、現実の残酷さと美しさへのフレームアップ


あと、「新世界系」の類型のアンサーは、世界の残酷さを、「美しさ」を感じさせるまでに解像度を上げるというのが、答えだと僕は思いました。なので、アニメがとても向いている。動き、演出で、解像度が限りなく上がるので、残酷さと美しさがものすごく上がるからです。


このパターンが、極まって成功しているのが、これまた大傑作の『約束のネバーランド』と『鬼滅の刃』。アニメの制作陣は、素晴らしい仕事をしていて、マンガだけでも超絶傑作なのに、さらにそれに拍車をかけています。この辺りのテイストが好きな人は、見ておかねばならない傑作です。最初の1話見ただけで、マンガと比較すれば、背景情報の解像度を上げることが、この脚本をどれだけクオリティをあげることになるのか、実感できると思いますので、ぜひとも見比べてみましょう。



THE PROMISED NEVERLAND PV 【Fuji TV Official】


『鬼滅の刃』公式PV



■しかし、王道の物語に接続するときには、「世界の謎」へ結びつける必要性がある!


しかし、新世界系には大きな罠というか構造上の問題点があります。現実の過酷さを示す大きな作劇場の特徴として、


感情移入の対象(主人公)が、主人公ではなかったという「突きつけの告発」


が必要です。これを、してしまうと、、、



力尽きたので、(2)で書きます。。。書けるか、、、、わからんけど、、、(苦笑)。