『クラッシュ』 ポールハギス監督 アメリカ社会の都市の分断が見事に描かれている

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評価:★★★★☆星4つ半
(僕的主観:★★★☆星3つ半)


ちなみに、第78回アカデミー賞作品賞(2005)。(記事にはネタバレが含まれるので、見たい人は読まないことをお薦めします)


■物語はどこで評価すべきなのか?


僕にしては、めずらしく客観的評価のほうが、自己評価よりも高い。監督は、『ミリオンダラーベイビー』の脚本を書いたPaul Haggisなのだが、このレベルでアウトプットが出せるのだからもう天才レベルと評価してもいいと思う。素晴らしい脚本で、その物語を通して伝えたい核心も見事ならば、それを表現する技術もまた超ハイレベル。しかしながら、個人的に、満点が出せない。それは、この映画を見た人は、たぶん、アメリカに行きたくなくなると思うし、アメリカのことが嫌いになると思うからだ。物語をどこで評価するか?という部分なのだと思うが・・・。

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■群像劇というのはとても難しいそれが見事であり・・・・・


この作品は、クリスマス直前の36時間のロサンゼルスに住む20人以上の群像劇です。

ドン・チードルサンドラ・ブロックマット・ディロンブレンダン・フレイザーなどなど、スタープレイヤーを綺羅星の如く使用しているのだが、それがほとんどスターとしてではなく、たくさんいる人間の一人として表現しているのは、低予算であるにもかかわらず俳優に強い支持を受けたという作品らしい。


ドン・チードル


ブレンダン・フレイザー

ハリウッドのスターシステムは、人物をスターとしてフレームアップして集中してアップで映しますが、そうすると、その映画の中で、登場人物が、「その世界のその役の人間」ではなくて、たとえば「トムクルーズとかマリリンモンロー」としてしか見えなくなってしまう。ましてや、スターを作り出そうとするハリウッドにはその傾向が強い。しかし、物語と世界を創る強い意識がある監督は、その圧倒的な個性さえも、その作品の中の世界観に溶け込ませる力量を持っている。たぶん、このポールハギスという人もそういう手法が好きなのだろう。個性ではなく、俳優を世界の風景として描くこと。つまり、キャラクターそれ自身の魅力やモチベーションではなくて、関係性や世界自身を主人公として、物語を描きたいという傾向。日本では、岩井俊二がそれに当たる、と僕は思っている。これができるには、圧倒的な脚本の質の高さが要求される。つまり、オムニバス形式というか、小さな場面場面の物語をつなぎ合わせて、大きな巨大な像を浮かびあがらせる手法。というと、『マグノリア』や『ナイトオンザプラネット』思い出す。『シリアナ』『パルプフィクション』なんかも同じ手法だと思う。

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群像劇というものは、必ずいわれるのはそんなご都合主義はないだろう!という批判だが、それは、見るものにリアリティを与えられるかどうか、という部分で評価されるべきだと思う。たしかに、関東以上の広さがあるロサンゼルスで、これほど各人種層が、偶然に見事に絡むということはありえないかもしれない。だが、僕にはとても強いリアリティを感じた。リアリティ=確からしさ、というものは、人に「ああ・・・世界って、そうなっているよな・・・」という納得間を与えることであって、ご都合主義でも、悲劇でも、写実主義でも、どんなものでも、いいんだと僕は思う。ちなみに最後に、ロサンゼルスに雪が降る(まず降ることはない)のだが、その表現自体が、「ありえないこと=奇跡」を強く意識して、監督が作品世界を作り上げてることを感じさせられて、なかなかに感慨を呼ぶ。

■善と悪との境目が曖昧であること


この作品で、最後の評価を分ける部分は、人種差別主義者であるマット・ディロンと人種差別を忌み嫌うライアン・フィリップの行動だと思う。この二人の物語の結末が、監督の世界観を表わしていると思う。人種差別による憎しみの連鎖のはじまりをはじめる警官マッド・ディロン。警官の立場を利用して、黒人TVディレクターのキャメロン(テレンス・ハワード)の妻を辱めます。妻を守れなかった、、、、口答えすらできなかったキャメロンは、その後、精神的に追い詰められます。その時同行して人種差別を目撃した、同僚の警官ライアン・フィリップは、それが許せずコンビを解消することになります。


つまり、

人種差別を公言するマット・ディロン

それを嫌う正義感のある警官ライアン・フィリップ



という二人の人生のその後が描かれます。ふつう、勧善懲悪であれば、もちろん人種差別をおこなっているやつが地獄に落ちるとか、もしくは回心することで、観客はカタルシスを感じ、善はやはり報われるのだ、と感じるでしょう。ですが、違います。人種差別をした警官マット・ディロンは、その後、辱めたキャメロンの妻を、命がけで燃えさかる交通事故の中から助け出します。逆に、正義感のあふれる警官ライアンは、ある間違いから黒人の青年を射殺してしまい、誰も見ていないことをいいことに、その死体を車ごと焼却してしまいます。




・・・・・・・この結末に、僕はなんともやりきれないものを感じました。




たぶん、監督の主張したメッセージとしては、善と悪というのはとても曖昧なもので、人種差別を公言していて、人を平気で辱めているような男でも、いざと言う時に警官としての職務のために辱めていた黒人の女性のために爆発する危険のある燃えさかる車に飛び込む勇気を示してしまうときもあり、逆に、言葉で正義を主張していても、偶然から巻き込まれて殺人を犯してしまうこともある・・・・世界というのは、そういった不条理と偶然の連鎖になりたっている、ということを描きたかったんだと思う。




が、、、、これはだめだ。




なぜならば、それは、確かに「善と悪の境界が曖昧である」というメッセージを非常にリアルに伝えるのだが、あまりに希望がない。そもそも、小さな諍いが大きな波紋に広がって行き、最初はただの感情のもつれや家族間での小さな諍いだったものが、徐々に大きな事件へつながっていく不気味さだけで、いかに人間が弱くて、偶然と不条理さの連鎖で、様々な事件がおきていってしまうという怖さは、充分に描けているのだ。これだけで、アメリカに行くのは、怖くて無理、という人はたくさんいるであろう程に。しかし、その不条理と偶然の連鎖の中に、奇跡的に、希望が見出せるのが、ペルシャ人の店主が間違って、幼い女の子を銃で撃ってしまうのだが、ある偶然によって実はその弾は空砲であったというエピソードやアジア人の人身売買を偶然に助けてしまう黒人のギャングのエピソードで、このエピソードは、ともすれば勧善懲悪的で、しかもご都合主義であるとも思うが、ある偶然が、偶然を呼び波紋のように、広がっていく世界の不条理という圧倒的な神の摂理を見せられている観客には、そこで奇跡のような『希望』を、、、実は、その逆のほうが、世界には圧倒的に多いのだという怖さと、同時にカタルシスを得る、という結果になったと思うのだ。


だから、僕は、エピソードをすべて奇跡で終わらせられなかったこの終わり方は、少し残念な気がする。評価としては、もしかしたら、ここで単純な希望と奇跡に回収しなかったということ「こそ」評価される点かもしれないが、物語としては、もっとご都合主義であるべきだった気がする。これは何を信じるか?何が正しいと感じるか?という価値観の差でもあるのだろうが。




■人種差別とは、都市に住む孤独によるクラッシュ=衝突が、ねじれた姿


何の関係もなかった登場人物たちが、時間を追うごとにつながっていくのを、神の視点から見下ろすところに、こういった群像劇の醍醐味があるのだが、ではそこで何を伝えたいのか?。それは、この作品が、都市に住む人々の『孤独』をテーマにしていると思う。これは、アメリカ文学らしいテーマで、アーウィンショーとかジョン・フィッツジェラルドなど・・・・日本での正統な後継者では村上春樹などのテーマの類型だと思うのです。実は、本質は、都市文明の中での孤独であって、人種差別ではないと思うのだ。そもそも、クラッシュ(=衝突)とは、この作品を見ていれば、実は、孤独であるが故に、信じあうことができないが故の小さな諍いの指している。そもそも人種差別があるわけではなくて、夫婦間のうまく行かないコミュニケーションや、日常の小さな不満が、あるきっかけで爆発し、それが人種差別というありがちの型に「ねじれて」変換されているだけなのだ。そもそもは、本音を語れない都市生活での孤独に原因があるのだが、見かけ上、人種対立の「形」をとって大きな事件として発展していってしまっている。


「ここ」が描けている、、、、劇中で、単に人種差別の理論や口上が叫ばれても、もっともらしいわりには、陳腐な印象を与えないのは、結局は、肌の色が問題なのではなくて、お互いに信じられないで孤独でぎすぎすしている日常の生活自体が本質的な原因であることがわかるからだ。都市文明の孤独・・・・とは、ナルシシズムの地獄とほぼイコールのテーマだと僕は思っている。19世紀末から20世紀にかけて、先進国と呼ばれる都市文明の発達した地域では、農村の共同体から引き離され、給与労働者として『個人』として、大地と共同体から引き離されて暮らしている。このテーマの同工異曲が、僕が世界の滅びた後の世界での共同性と読んでいるテーマだ。宮崎駿が、このテーマが好きで、『未来少年コナン』『風の谷のナウシカ』と非常にこのテーマを深く追っている。『AKIRA』『北斗の拳』などもそのイメージの大きな結論の一つだと思う。この物語は、どうしても終末論へ導かれやすいと思うのだ。

書評:7SEEDS/世界が滅びた後、どう生きるか?
http://ameblo.jp/petronius/entry-10001799579.html


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まぁとにかく、実は、サブカルチャーであろうが文学であろうが、大きなテーマというのは、ほぼ同じ都市文明の元で暮らしているのだから、ほぼお同じということなのだと思う。

ゾーニングという考え方


ちなみに、アメリカに住んだことがある人ならば、このある町には白人ばかりであるとか、黒人ばかりであるとか、暗黙に住む層が区分けされていて、その区画の中では非常にオープンだが、人種や階級が違う人間がそこに入り込むといように目立つというのは、経験があると思う。僕は、留学時代に、自転車いろいろ走り回ったときに、なぜか住宅街がブロックグとに区切られている事に気づいた。空から観察すると、その区画の分けられ方は、非常に見事にできている。必ずしも日本のように四角ではなく、さまざまな曲線形に作られているためにわかりにくいが、観察するとめちゃめちゃ分断線が存在することがわかる。


もともとゾーニングは、都市計画なのか、テレビのいかがわしい番組を子供に見せないための手法であったか忘れたが、自由の国アメリカというように呼ばれているが、実は、都市空間が、人種や階級によって見事なくらいに分断されている分断国家であることも分かってくる。都市計画を見ると、、このことはよくわかる。もともとも建国の理想とは、ほど遠いのだが。この作品は、不断はあまりに空気のように意識しないが、自分たちの小さなクラッシュが、このような構造的な空間に触発されて、大きな波紋になっていく様は、この監督見事です!と叫びたくなりました。とにかく、なるほど、見事な完成度を誇る作品だと思う。主張するところもアメリカの伝統的な文学テーマと合致しているし、それを映像という俯瞰ショットでの群像劇にする脚本もまた見事。が、上記で書いたように、結論と見終わった感触の悪さが、どうしても満点をつけられない、苦しい作品であった。映画が人を苦しめるだけでいいのか?というのは、難しい問題だ。かといって、人を告発しない勧善懲悪がいいのか、といわれればそれも悩むところではあるが。




Paul Haggis(1953-)映画監督、脚本家。

1953年3月10日、カナダ/オンタリオ州ロンドン生まれ。

ミリオンダラー・ベイビー」(2004)でアカデミー賞脚色賞?にノミネート、翌年「クラッシュ」(2004)でアカデミー賞脚本賞?を受賞、アカデミー賞監督賞にもノミネートされた。同作はアカデミー賞作品賞を受賞。

■主な監督作品
クラッシュ(2004)
■主な脚本作品
帰ってきたむく犬?(1987)
クラッシュ(2004)
ミリオンダラー・ベイビー(2004)
父親たちの星条旗(2006)