『水滸伝』『楊令伝』 北方謙三著 何を本物の水滸伝というか?〜出会いの機会が増えればそれでいいと思うのだ、というか異本の存在は、物語が豊かの証拠

水滸伝〈1〉 曙光の章 (集英社文庫 き 3-44) (集英社文庫)

Amazonにこういう内容のレビューがある。


確かに面白い。世間で評判なだけあります。ぐいぐいと引っ張られて、ついつい時間を忘れて読みふけってしまいます。
ただ、どうにも拭い去れない違和感が。
まだ5巻までしか読んでいませんが、これは”水滸伝”ではありません。
いえ、微妙な筋立ての改変は構いません。登場人物が全て真面目過ぎるのです。
ここまでまともな官軍が、裏であろうと組織できるなら、腐敗は起こらなかったでしょう。
一般民衆も、晁蓋などの優秀な指導者に指揮されたからといってここまでまともに組織化されるとは思いません。
水滸伝の雰囲気を味わうという点では、駒田信二の訳本、絵巻水滸伝、メディアや方向性は違いますが、パソコンゲーム水滸伝・天命の誓い”や蓋星水滸伝などをお薦めしたいところです。
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 ぼくもこの意見に賛成するんだよね。良し悪しはべつとして、ここまで変更してしまうと、もはや『水滸伝』とはいえないのではないか。

 別段、筋立てを変えることが悪いといいたいわけではない。吉川英治に吉川水滸伝があり、柴田錬三郎に柴錬水滸伝があり、北方謙三に北方水滸伝がある、それで良いと思う。

 しかし、この北方水滸伝は、筋立て以前の作品の香気や雰囲気といったものが、原典とは180度ちがっているのである。ここまで違うともう『水滸伝』とは別物の小説というほかない。

中略)

しかし、『水滸伝』とは、本来、大陸に横溢する無数の民話などが、それこそ雨の一滴が大河を形なすようにして集まって出来た物語であり、近代のリアリズムとは別の次元のところにその楽しさがあるのである。


近代化された『水滸伝』。
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20080906/p2
Something Orange


■近代のリアリズムとは別の次元のところにその楽しさが消えてしまっているのではないか?

この角度の意見は、来るんじゃないかと思っていました(笑)。北方水滸伝は、近代小説としては超一流です。が、唯一の欠点をあげるのならば、そもそもの水滸伝の持っていた「善悪を却下に蹂躙すべき、豪傑の意識(by芥川龍之介)」とでもいうべき、無数の民衆の中で語られてきた近代小説のリアリズムとは別に次元にあった面白さが消えてしまっているのではないか?という部分。この意見は、妥当です。僕も諸手を挙げて賛成します。

それでは、『水滸伝』原典の雰囲気とは何か。たとえば、芥川龍之介はこの物語についてこう書いている。

 ぢや「水滸伝らしい」とは何かと云へば、或(ある)支那思想の閃きである。天罡地煞一百八人の豪傑は、馬琴などの考えてゐたやうに、忠臣義士の一団ぢやない。寧(むしろ)数の上から云へば、無頼漢の結社である。しかし彼等を糾合した力は、悪を愛する心ぢやない。確(たしか)武松の言葉だつたと思ふが、豪傑の士の愛するものは、放火殺人だと云ふのがある。が、これは厳密に云へば、放火殺人を愛すべくんば、豪傑たるべしと云ふのである。いや、もう一層丁寧に云へば、既に豪傑の士たる以上、区々たる放火殺人の如きは、問題にならぬと云ふのである。つまり彼等の間には、善悪を却下に蹂躙すべき、豪傑の意識が流れている。

 この「善悪を却下に蹂躙すべき、豪傑の意識」、それこそ『水滸伝』の本質だと思うのだ。


そういう意味では、確かにこの物語が愛されてきた、近代リアリズムを超越した次元での、それぞれのキャラクターたちの善悪とリアリズムを超えた領域での「凄さ」を失うことは、本質を失うことと同義かもしれません。道術使いの天間星公孫勝が魔法を使って敵をバッタバッタ倒すことや、それこそ鉄牛李逵のように、女子供に容赦なく殺戮をしまくるもうめちゃくちゃ破天荒な、そのありえなさが強い輝きを放って、民衆の心をとらえ、ときにはその思いを反射させて、これらの説話は育まれてきたのですから。


けど、やっぱりこれは水滸伝だと僕は思うのです。なぜならば、こうやって歴史に残ってきた、民衆の集合無意識とでもいえるものに支えられてきた「物語」というものは、そもそも異本の存在が前提であって、その骨格を使って、どの時代のどんな志向にも変換できるからこそ、形を変え様々な説話として語られ残ってきたものです。だから、そのうちの一つとして、こういう近代のリアリズムから再構築された異本があったって、なんらおかしくはないではないですか?。そういった懐の深さが、国民・民衆に長時間の歴史を経て愛されてきた「物語」にはあると思うんです。むしろ、中国の偉大な物語を、日本でたくさんの異本に変換してきたわが国の文学者、小説家・・・そしてそれを愛した本読みたちにとって、誇らしいエピソードの一つだと思います。物語のドラマツゥルギーというのは、その本質が様々な形となって伝播していくことで、文化というものは深まって広まっていくものだと思うんですよ。その一形態にすぎない、と僕は思います。


さて、そうやって理屈づけた後に、究極の文句をいいます。


なんだって、いーじゃん、おもしろければっ!(笑)




■出会いの機会が増えればそれでいいと思うのだ、というか異本の存在は、物語が豊かの証拠〜中国史リテラシーを上げる機会を!


さて、上記のように身も蓋もなく叫んだ後に、実は、少し語りたいことがあったんです。というのは、僕は実は、中国史のこの北宋南宋、遼、金、モンゴル王朝といった周辺の1000年代から1600年代くらいまでの間は、さっぱり歴史の力学が頭に入っていなかったんですよね。ところが、この時代は、中国民衆の最高の英雄とされる岳飛売国奴の秦檜など、中国史のダイナミックな粋が詰まっている時代でもある。田中芳樹さん作品は好きだったんで、この時代を書いたものをいくつも読んでいるし、岳飛伝をも少しだけど齧っているし、歴史も勉強はしているんで断片のエピソードはよく知ってはいます。また僕の専門は経済なので、中国経済の授業でこの辺を勉強したこともあります。けど、、、ある種のストラクチャーやイメージがない。だから、なんかもやもやってしていたんです。何がもやもやっていうかというと、僕は学者ではないので、細かい話や本格的に学問として理解する気なんかさらさらありません。また、少なくとも僕が言う「リテラシー」とは、そういう学者的なマニエリズムといった意味では使っていません。

情報リテラシーとは何か
情報リテラシー(じょうほうリテラシー 英:information literacy)とは、情報(information)とリテラシー(literacy)が合わせて成り立っている言葉である。「リテラシー」とは、識字すなわち文字の読み書きの能力を指し、そこから「情報リテラシー」とは情報を自己の目的に適合するように使用できる能力のことであると言えよう。かつて「情報活用能力」あるいは「情報を使いこなす力」と表現されたこともある。日本において未だにコンピューターリテラシーと混同されているので、注意が必要である。

では、もう少し詳しく情報リテラシーについて考えてみたい。研究者によって定義が異なるが、例えば、アメリカ図書館協会が1989年に発表した 最終報告書 によると、情報が必要とされるときに情報を"効果的"にそして"効率的"に(1)探し出し、(2)精査し、そして(3)使うことができる能力を保持する人のことを情報リテラシー能力を保持している人と定義することができるであろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%85%E5%A0%B1%E3%83%AA%E3%83%86%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%BC

僕は、リテラシーを、まず第一番目のイメージとして、


1)情報を自己の目的に適合するように使用できる能力のこと


と考えている。例えば、何も見ずに、北宋から元王朝までの歴史の流れを、人に説明できるだろうか?。もしくは、何かぱっとある情報を見た時に、ある大きな枠組みの中で、その情報がどういうパーツになっているか?という構造と関係性を把握できるだろうか?。僕がいうリテラシーとはそいうこと。


たとえば、「金」といわれても、これまでの僕はさっぱりわからなかった。いや、カンヤンアクダが建国したとか年号は言えるよ?世界史受験だから。けど、これがウィトフォーゲルの提唱したダイナスティーコンクエスト(征服王朝)の走りで、構造的に遊牧民の北方騎馬民族の文化と中国の南の文化が融合する始まりの頃ということが分かってきており、これほどになるということは、遼の時代から金にかけて、そもそも騎馬民族の生産性が上がるか、人口増加が発生していることが簡単に読みとれる。


また、『楊令伝』では、熟女真と生女真という金の中でも、他民族に支配されてもいいとした部族とそうでない部族の隔たりがあり、その部族統一をするというところで、楊令の存在がクローズアップされている。なぜならば、これをするには、明らかに民族浄化としか言いようのない行為が発生するからだ。統一というのはそういうものだ。この前ある人に、中国史を見るときには、近代的なネイションステイツの見方で見てはいけない、それはリテラシーを下げる行為だ、と言われたんですが、、、、、いや、言っている意味はよくわかります。部族社会や中国の社会構成上の動きを、国民国家や民族の概念で捉えることは、歴史学では基本的に最もやってはいけないことで、これは僕も大学の先生に強く言われたことなんで、よく覚えています。


けどね、前に言ったように僕がここでいう、リテラシーは、そもそも全く白紙の段階から、自分で大きな枠を作るべきというファーストステージの話をしているのであって、学者的に正しさを追求したいわけではありません。また、リテラシーという言葉に、そもそも物事を構造的に捉える事の出来ない解釈を拒む「大衆」が、個人として物事を構造化して解釈づける契機を得ることが僕はリテラシーだと思っています。何が「正しいか」とか、「手法上の正当性」を問うのではなく、そもそも、自分の頭で考えるための手がかりを持つべき、というのがリテラシー教育の主眼であるべきだと思うのです。つーか、それよりも、僕の主眼は、そもそも白紙だった頭の中に「大きな構造と流れ」ができること、なので、それが、わかりやすいウソや幻想であっても、最初のとっかかりとしてなんら問題はないと思うんです。最初から、中国史の本義や、ネイションステイツをめぐる概念レベルの問題を議論して、何になる?って思うんです。だって、これはエンターテイメントのレベルで、かつ、大衆の普通の人の話すレベルだから。最初から100%最新の高いレベルの精度を求める必要なんて、まったくないと思うんですよね。大きな枠ができれば、それを手が彼に世界は限りなく広がって、限りなく精緻になっていく。自分で考える頭さえあれば。そのとっかかりとして、少なくとも国史のこの辺の物語の導入としては、最高の物語だと思います。この北方『水滸伝』と『楊令伝』は。

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