『カノン』 篠田節子著 日常を敵視するセルフの一致の物語(1)

カノン (文春文庫)

評価:★★★星3つ
(僕的主観:★★★★星4つ)

関口さん脚本の『SWANSONG』を終了して、ああ、そういえばここで描かれているテーマは、小説家の篠田節子さんが『カノン』で描いていたことと同じだな、と強く連想させられたので、『SWANSONG』を僕がどう感じたのかの理解する補助線として、過去の記事を再掲してみます。傑作の風格十分な濃厚な内面描写でありテーであり、その「濃厚さ」は、比類のないレベルであるが故に素晴らしい傑作なのですが、だからこそなのか、それともなのか、実は、『SWANSONG』にはかなり不満が残った。理由は、単純で、これはマクロを考えるの放棄しているからなんですね。僕の物語や、生き方の理想は、常に「マクロとミクロの一致」に在るので、ミクロにより過ぎてしまったことが全体として不足感を感じてしまう。そして、たぶん尺の問題なんでしょうが、基本的に潔いマクロの視点の放棄は、演出上や語りたいことへの本質へのコミットという意味で、とても正しいとは思うのだが、終わった後に、完全にミクロの視点だけでカタルシスを考えるには、「物語が進んでいない」感覚が残ってしまう。いやはっきり云おう、主人公たちの内面の旅がまだ終着点まで到達していないと僕は思うのだ。ゆかっちは救済されていないよね、尼子司も、世界の残酷さに負けなかったが、勝ってはいないんだ。・・・・いや、たぶんこの物語をつくった人は、「救済されること、勝つこと、乗り越えること」自体に重きを置いていない、、、圧倒的な何かに対峙した時の、世界の「残酷な本質」それをあからさまにしたいd酒なのだと思うので、そもそも演出の意図にないことを僕は求めていると思う。だから、この作品は、これ単体で完結していると思うし、傑作と言い切れる。しかし、、、もう一歩、、、と思ってしまうのだ、このテーマを見ると・・・・。

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雪が深々と降り積もるクリスマス・イヴの夜、とある山奥の地方都市を大地震が襲う。街は一夜にして雪と瓦礫と死臭に覆われ、辛うじて生き延びた若者たち6人は倒壊を免れた教会で出会った。身を寄せ合い、容赦なく押し寄せる現実を受け入れながら生還の手立てを模索する彼らは、やがて行く手を阻むように水没した街を筏で渡り、彼ら以外に生き残った人々が避難する学校へと辿り着く。

束の間の安寧を得、力を合わせて厳しい冬の異常事態を乗り切ろうとする彼らだったが、外部との通信が隔絶されたまま長期化する避難生活と逼迫する生活事情、そして他所に避難する人々との諍いの勃発が人々のこころの歯車を軋ませ狂わせていく。

http://ja.wikipedia.org/wiki/SWAN_SONG

Windows用18禁ビジュアルノベルいわゆるエロゲーなんだけど、僕はかなり、厳選して上澄みをやっているようなので、これも、そういう枠は超えてしまっている作品だよね。はっきりいってエロシーンなんてほぼないに等しいもの。よっぽどそこいらの小説の方が、ポルノだろう、これと比較すれば。ただジャンルの壁があって、なかなか手には取らないだろうけれどもな、、、この媒体に敷居が低い人でなければ。それは惜しいと思えるような作品です。でもまー小説の『カノン』もそうだし、漫画の『ドラゴンヘッド』とか、代替選択肢はある作品だとは思うので、敷居を超えてまでする必要があるかというと、僕は、まぁ、、、どうかな?と思うな。ただ、作者の目指すところは、素晴らしいレベルなので、やって損はなし風格の作品です。


■過去の記事


出家する?(笑) 。読了した瞬間に、そんな言葉が思いついた。


僕は、『手当たり次第の本棚』のとら兄貴のような音楽を美として追求したことも、下手をしたらただ単に「感覚的に楽しむ」ことさえも、それほどしていないかもしれない。 だから、音楽を通して神へ至ろうとする香西康臣のことは、まったく理解の外だ。ただ、この物語の持つ、本質のテーマは、理解できるし、共感できるものであった。 この世界観は、「日常の退屈」を軽蔑して、「才能を通して神・全体へと至ろうとする非日常」の対比であって、


「いまここではないどこかへ」脱出したい


よりテンションの、次元の高い何かに到達したいという求道的な精神に焦点があっている。 セルフの一致の物語。コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』のテーマだ。 この「日常の退屈からの脱出」という現代社会最大のテーマと、「セルフの一致」という組み合わせは、現代文学・社会のける最大のテーマなので、とても面白く読んだ。 結論を一言で言うと、この問題設定に対して、まだ作者は、奥まで進めていない、と思う。物語としては、完結したし、なかなか悪くないまとめ方ではあるが、テーマの射程の深さに比べ、陳腐でまとまっている。ぜひ、このテーマを追求して欲しい、と思うせる。・・・・ただ、日常を軽蔑している姿勢から、正しい答えには至らない気がするが・・・。


この話は、僕自身の文学論、物語論の最大テーマなので、たぶん複雑ですが、しばしお付き合いを・・・。


1)少女マンガは内面の理解を求める
2)恩田陸との『黒と茶の幻想』との類似点
3)ヨーロッパ的なモノ
4)瑞穂は凡人か?
5)香西はただのバカか?
6)日常の成功者(正寛)は敗北者なのか?
7)人生の浪費
8)日常の退屈と神へ至ろうとする求道的宗教心
9)セルフの一致
10)「正さ」と「成熟」とは?
11)結論:物語としての評価


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1)少女マンガは内面の理解を求める?


正統派の少女マンガは、いやむしろ、少女を対象としたメディアは、たいていが、「内面の理解」という点に物語のドラマツゥルギーの頂点を持ってきます。目的が、内面の理解なんです。



↓詳しくはここで論じました。
斉藤けん著『花の名前』 正統派少女マンガは、内面の理解を求める
http://ameblo.jp/petronius/entry-10011107277.html


それは、実は女流作家(←これもヘンな言葉だが)の書く文学・小説にもほぼ当てはまることが分かってきた。


この『カノン』は、まさに少女マンガと同じツールで分析できる。



2)恩田陸との『黒と茶の幻想』との類似点
以前論じた、恩田陸の『黒と茶の幻想』とまったく同じ構成だと思う。




恩田陸著 『黒と茶の幻想
http://ameblo.jp/petronius/entry-10007607848.html




黒と〜は、学生時代の友人であった4人が、かなり大人になって配偶者も子も社会的立場もある状態で再会し、学生時代に止まったままであった謎と記憶を、再度追求し始める。屋久島で山をのぼりながら。 過去に置いてきたままで、日常にまぎれて忘れてしまっていた記憶を辿るという構成でした。 これは、『カノン』の学生時代から、何十年もたちも40を超えた3人が・・・とりわけ、瑞穂が、好きだった康臣の自殺をきっかけに、康臣の考えていたことを、追いかけていくという構成と、そのものズバリ同じです。 内面の森を追う行為が、推理小説的な謎ときとなり、スリラー&サスペンスの効果を盛り上げるという構成もです。 不思議なほど物語の構造も、ドラマツゥルギーも同じ。分析ツールとしては、斎藤けんの『花の名前』で書いた、いずみのさんの「ディスコミュニケーション」の概念で、読解できる。このどの作品も、目的が、相手の恋人の内面を理解していく過程を描いており、その理解が互いに深まり、関係性のフェイズが変わることをドラマツゥルギーの頂点としている。


女性の作家やモチヴェーションが、『相手の内面を理解する』ことに強い執着を持つ、という仮説は、やはりここでも補強されると思う。



3)ヨーロッパ的なモノ


さて、ではこの『カノン』という作品で、主人公の瑞穂・・・・彫刻を思わせる美人であった大学生の彼女も、いまは、小学校の音楽の先生をやっている日常の疲れたどこにでもいる40台の主婦にすぎない。


その彼女が、大学時代の恋人であった、康臣の死をきっかけに、彼の「目指していたもの」を探すことになる。 自殺の際に残したテープを聴くことによって、康臣の幽霊を見るという部分がホラー的に、帯びや書評に書かれるが、僕はこれはホラーではないと思う。別に、幽霊が実在するかどうかはどうでもよく、彼女の心象風景に、強く康臣が喚起されている、と解釈すればそれでいいのだから。さて、なかなか流麗な文章で、読者を、どうしても康臣が何で死んだか突き詰めなければならないと、思わせ、瑞穂に読者を感情移入させていく。この辺の導入は素晴らしくよく、僕は、久々にはまった。
が、、、では、その結果、何を見つけたのだろうか?


ネタバレであるが、

康臣という音楽の天才が目指した「音楽そのもの」を、理解することになるが、




「原理は好きなんだけど、プラグマティックな学問は嫌いなんだ。もっとも理解は早いよ。あいつ、こっちが地道に論理を組み立てているときに、一気に思考を飛ばすんだよ」




「吹き荒ぶ風が頬を打つ。藍を流したかと思われるほど深い色の空。その空を突き破るような勢いでそそり立つ石峰。足元の尖った岩。
自然という優しい響からかけ離れた、拒絶的な風景。岩と風の織りなす峻厳な美。
瑞穂は微動だにせず、立ち尽くしていた。


耳の奥でカノンが鳴った。


目の前の光景、それは穂高岳ではない。山でもない。その造形的なライン、その量感、その急峻な角度、そのリズム、その色彩、普遍的で抽象的な完璧な美があった。
長い間探していたものをそこに見た。



p379

ここが、僕は最も納得がいった。僕には音楽の知識は皆無ではあるが(知り合いの響太さんからの紹介の本を早く読まないと・・(笑))、少なくとも、ここは非常によく分かった。


それは、ヨーロッパの古典音楽が目指した頂はどこか?ということ。


僕は、もともと哲学や経済学やスミスなどの文明論が好きで勉強しているのだが、ヨーロッパの知性というのが、凄まじく抽象的な世界に峻厳な妥協のない、均整の取れた、数学的な、鋭角なロジックを壮大に組み上げるのを愛することは、よく理解できる。 この作品全編に、香西康臣の目指した、音楽のカノンが流れているが、僕の知識は『のだめカンタービレ』(笑)ぐらいしかないが、少なくとも音楽を学ぶ世界で、楽理など、音楽のストラクチャーや理論を追求することが、音楽を楽しむことや演奏することとは別に、壮大な体系学問として存在していることは分かる。 そのへんの分厚い蓄積があったればこそ、偉大なクラシックができたことも。 物凄く分厚いオーソドックス(=正統派)があり、それと異端とのダイナミックで激烈な運動こそが「ヨーロッパの本質」であり、 その彼らの民族性だか、文明だかわからないが、目指すものが凄まじく硬質で抽象的なロジックの体積である、というのは非常によくいわれる文明論ですね。なぜ、アングロサクソン金融工学が得意で、日本人が製造業が強いのか?などにも、卑近で陳腐ですが、そのあたりは関係あると思います。えっと、また話が凄いずれましたが、ヨーロッパ文明の本質の部分が、音楽を通してよく見えているな、と思ったんです。
そう。



感情の全てを排した硬質な論理。



情緒を愛する日本民族には理解の外にある、峻厳さ。



ある時、塩野ななみみさんが、電通のCMプランナーのとったノエビアかなんかのシリーズのCMを見て、この人はヨーロッパ的なモノをよく理解している、と喝破したといいます。 そのプランナーは、ヨーロッパに云った事がないのですが(笑)、でも、「ものごとの本質」とくに、ソリッドで硬質なロジックを愛する部分の極まりは、なかなか日本では大衆に認められにくいが、ヨーロッパの美の本質なんだと思います。あっ、ちなみに塩野さんは、ヨーロッパ的なモノが、非常によく分かっているめずらしい日本人だと僕も思います。


・・・・・またまた話がずれまくりですが(笑)、40歳の小学校の教師をやっている瑞穂が、康臣の内面を追っていくことによってであったのは、




これ




なんですよね。かつて、毎日8時間の練習をしていた、チェリスト志望の大学生の女の子の青春の野望。 かつて自分が、もとめてもとめて渇望した、夢です。


4)笹生瑞穂は凡人か?


とら兄貴は、

この物語の主人公も、そのような「理解し得ぬ者」だ。
もっと単刀直入に言うならば、主人公瑞穂は、どうしようもなく、俗物である。
ひとたび、プロの演奏家としての道を歩みながら、彼女は音楽の美を理解する事がない。
そして、彼女にとって(そして相手にとって)あまりにも不幸なことに、彼女が恋しいと思った男は、音楽の神髄を目指し、しかもそれ以外が見えない「天才」であった。


手当たり次第の本棚:引用
http://ameblo.jp/kotora/entry-10008422257.html

とらさんは、この瑞穂を、凡人と喝破する。



天才の定義にもよりますけれども、私は、彼女の血に、音楽は流れていないと思います。むしろ、彼女は、「秀才」なのではないかな。努力をして、一歩一歩登らなければ、ある一定以上の境地には達せられない。だからこそ簡単に封印できてしまうのです。天才は、封印しようにも封印できない、封じられぬ泉のようなものだと思うのですが。


http://ameblo.jp/kotora/entry-10008422257.html
とら兄貴のコメントより

これは僕も同感で、


・努力をしなければならない


・才能自体をコントロールできる


のは、天才ではない、と思うのです。



昔、就職活動のときに、ある大商社とヴェンチャー企業に内定した友人に、どっちに行くべきか?と、質問された時に、迷いなく



「お前は大組織に行くべきだ!」



「どちらに行くか悩む時点で、ヴェンチャーなどの天才の世界の住人でないことは明白だ!」



「秀才は、秀才らしく優秀な官僚(=テクノクラート)であるべきだ!!」


と、叱った(笑)ことを思い出します。 この時のセリフは、僕の価値観を表わしていて、非常に記憶に残っている。僕は、独立王国の主人になりたいと思ったことは一度もなく、大きな組織での優秀なテクノクラートであることが、誇らしげに思うようです。価値観ですね。 しいて言えば、『銀河英雄伝説』のヤン・ウェンリー兵站を、支えきったアレックス・キャゼルヌ(自由惑星同盟軍中将・後方勤務本部長代理)が理想なんだよな。
http://www6.plala.or.jp/satakun/gineiden/ginchar/charf/charf-007.html

彼のような、天才を支えるテクノクラートでありたい、と思う。グインサーガのイシュトバーンの国家建設の片腕とか・・・そういうのがいいのだ(笑)。



また、話がずれたが、僕の天才評は、本人すらも、何で自分がいまそこで『自分』であるのか、理解できないうちに、そうなってしまっている 存在が天才、だと思います。そして、天才は、自己をコントロールできない。他人の評価が存在しない。 だから、自分の才能を疑問視するとか、途中でリタイヤして断念できるというのは、才能がないんだな。少なくとも天才ではない。


だから、それでいえば、香西康臣は天才だ。


そして、努力で究極へ至ろうとしたのが、瑞穂は、凡人でしょう。


ただし非常に難しい設定となっているのは、


康臣が、自身の『才能』をほとんど有効に活用できなかった、というような部分で、ほとんど価値がない存在です。


康臣は、ただ才能を浪費した、無駄な人生を送った人です。


何も残さない天才は、凡人で世界を積み上げる人には勝てない、と僕は思う。
それに引き換え、日常を積み上げる豊かさを瑞穂は、得ている。

ここに、



『天才の無価値な人生』





『凡人だけど価値ある人生』



という対立項が生まれます。



これは、東大を出て国際弁護士として活活躍する正寛にもいえます。康臣と正寛は、対極的な扱いをされています。 作者の(というか瑞穂のね)正寛の扱いや描写は、 その合理主義精神とプラグマティツクへの押さえ切れない嫉妬と、同時に軽蔑が入り混じっているのが、随所に見て取れます。 そして、さらに難しいことに、瑞穂自体は、実は、天才的な部分を持っており、康臣のメッセージに答えてしまうのは、 通常の音楽家の形ではない部分で、天才性が潜在していて、最終的には、康臣の死によってその部分が覚醒させられています。 だから、凡人として自分でも気づかなかった(一般的な形では出てきにくい)才能を、瑞穂が自覚して、もう一度そこへ戻る回復の物語、とも取れるのです。

まぁ、40まで封印できるものは、しょせん才能ではない、という意見もあるでしょうが。

(2)へ続く



(↑続きませんでした(笑))