『屍姫』 赤人義一著 『「つくられるもの」と「つくるもの」の葛藤の物語をどこまで追いつめられるだろうか?

屍姫 6 (6) (ガンガンコミックス)

評価:★★★3つ
(僕的主観:★★★3つ)

ちなみにこの物語は、ミクロのテーマは、僕がいうところの『「つくられるものと」「つくるものの」の葛藤の物語』類型なんだと思うんだ。これの最高な形は、少年漫画ならば、永野護さんの『ファイブスター物語』だし、少女漫画ならば竹宮恵子さんの『風と木の歌』(その後日談の小説『神の子羊』)で、小説ならば栗本薫さんの『真夜中の天使』が思いつく。ちなみに、意識してなのでしょうが、栗本薫さんの『真夜中の天使』の挿絵は、竹宮恵子さんなんだなー。ただやはり最初の感想と同じで、

ネタバレすると、屍姫ってのは、契約僧とワンセットで、この世の中で発生する未練があって出てくる屍(ゾンビ)を打ち倒すという対屍用の道具なんだけれども、主人公のオーリにはお兄さんの景世という人がいて、この人が、この物語のヒロンイ?(主人公)である星村眞姫那の契約僧なんだよね。その関係性の深さからいって、事実上、恋人ともっいっていい。それ以上に運命の人に見える。もちろん構造的に、この人が死んで、その使命を弟である真の主人公である花神旺里(オーリ)が引き継ぐという話になっている。けれども、この景世ってのが、とっても大きな人で、凄い主人公「格」を持っていて、それを最初見せつけられてしまったものだから、その後のオーリ君のヘタレぶり、、、というか、凄くがんばっていて、ヘタレというほどでもないんだが、「格」落ち感を否定できないんだよね。もちろん、そういう風に偉大な先達に追いつくために必死になるというのは少年漫画の成長物語の典型なので、悪いストーリーではないんだけれども、10巻まで読んで、まだオーリが主人公「格」を持ちきれていないのは、あまりにマクロの物語の進行度合いからいって、むむむむ・・・。と思ってしまう。先ほど、SomethingOrangeの海燕さんのところで、手塚治虫さんの『双子の騎士』の記事を読んでいた時に思ったのだが・・・・現代の連載漫画ってのは、冗長過ぎる、と思うんですよ。『屍姫』のこの物語骨格ならば、美しく終わるには、ほんとうは10巻ちょっとで詰め込めると思うんだよね。どこまで巻を描くかというのによるんだが・・・景世の主人公格を超えるにはあと10巻ぐらいはオーリが成長していく物語の「山場」を作っていかなければいけないと思うんだが・・・それでは、個人的な感想だけれども長すぎる・・・と思うんだ。マクロの目的・・・はっきりいえば、敵の「死の国」を現出させるという目的も、それほど仕掛けが深いわけでもないので、あんまり冗長にすると、、、ああ子供向けだなぁ、とちょっと読む気が失せてしまう。もちろんこの作者の魅力は、そういうところではなく、バトルシーンのテンポとか、死霊の絵柄とか、なんといっても女の子たち(屍姫)のかわいさ爆発(笑)とか、そういうことであって、そういう背景の設計はシンプルでいいんだよ!という反論もあると思うし、この物語は、スッキリそう仕上がっているので、わざわざそんな善悪二元論を超える何かを追い求めたりする必要があるとは思えないので、僕の意見はいいがかかりなのかもしれないけどなぁ・・・・。


屍姫』 赤人義一著 全体の物語の収束をどのあたりにおいているんだろうか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090825/p1


どうしてもこのテーマを考えると、主人公のオーリ君の成長タームが遅いなぁ、、、とか思う。どうもLDさんの話を聞いていると、アニメは、前半と後半見たいに大きく二つに分けているそうで、それは納得のいく脚本構造だ、と思う。


『「つくられるものと」「つくるものの」の葛藤の物語』類型というのは、僕は、栗本薫さんの『真夜中の天使』が短くこの物語の重要なクリティカルポイントを物語化していていつも思いつくのだが、ようは「つくるがわ」、、、、は、権力を握っているんだよね。「つくった」という権利でもって、「つくられた側」を支配している。たとえば、まよてんでは、ただのヤンキーで貧乏の底辺で生きていたゴミ溜めにいた少年を、アイドルとしてスターに仕上げていくんだけれども、そのための「手段」として、ひたすらその少年(死ぬほどきれいという設定)を事務所やテレビ局とかの変態オヤジたちに身体を使って営業させる・・・という(笑)BLの話なんだけれども、スターにするという「目的」のもとに「手段」としてその主人公を支配している。『ファイブスター物語』のファティマというヘッドライナーを操る演算機の役割をする女性型のコンピューターもまた、同じなんだよね。へッドライナーを操る騎士に仕えるという「手段」として存在している。まよてんの話に戻るんだけれども、この話は結局この主人公の少年のために、最後は、少年を育て上げて支配者だった滝という男は、殺人を犯すことになり、その弱みを握られて、権力構造が逆転してしまうという姿を描いている。つまりA(主人公の今西良)と、B(マネージャーの滝)という関係が、A<Bだったのが、A>Bに逆転する過程を描いているといえるだろう。ちなみに、この真ん中で、一瞬心が通じ合ってA=Bになる瞬間がオとづれるんだけれども、その長崎のシーンが、あまりに美しくて僕の人生最高の小説の名シーンの一つだと思っているんだけれども、この小説を読んでいると、「対等でありうる」ことがいかに難しいかということを見せつけられていて、僕は胸がふさがってしまうんだ。そのありえなさを演出するが故、、、権力が移っていき、「手段」だったものが支配者にかわっていくことを描く時に、人間関係の構造がいかにそういった権力というような関係でしかあり得ないかの「切なさ」が僕には感じられてしまう。


ちなみに『「つくられるものと」「つくるものの」の葛藤の物語』類型には、この1)権力構造の逆転を描くことで、その過程に真の対等を垣間見る瞬間をつくる、というテーマと、もう一つは、「つくられる側」の抱える孤独に振り回されていくこと、、、人の孤独に「付き合う」ということがどういうことになるか?という対幻想の物語を描いている。あとで、これは村上春樹の『ノルウェイの森』と竹宮恵子さんの『風と木の歌』で説明して見たいと思うので、とりあえずここまで。