魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」 ママレードサンド(橙乃ままれ)著 英雄譚の類型の倫理的欠陥〜魔法騎士レイアイース(1993-96)に見る、全体主義への告発(3)

■英雄譚の類型の倫理的欠陥〜魔法騎士レイアイース(1993-96)に見る、全体主義への告発


ちなみに、やっと(3)の記事で、まおゆうの革新・核心ポイントの二つ目を書きます。『まおゆう』は、ぼくは大きく二つの柱があると思っています。一つは、前回の(1)と(2)で説明した『魔王と勇者のその先の物語』です。メタ的に突き放して見ると、この物語は英雄譚です。いいかえれば「選ばれた人間だけがなせる業」であるわけです。ところが、どうも民主主義、平等主義が極まっている大衆が主人公のわれわれの社会では、人類が愛する「おはなし」を支えてきたこの英雄譚の類型の倫理的欠陥が指摘されるようなのです。

僕がこの英雄譚への倫理・道徳的問いかけを、エンターテイメントの世界で初めてはっきりと見つけたのは、CLAMPの名作『魔法騎士レイアース』です。この英雄譚の構造的問題点を、現代のわれわれの目から見て、なんであるか?を、物語の展開を通して、見事に単純化して告発したものでした。


ネタバレになってしまいますが、説明しましょう。


祈りの力」のみで成り立っているセフィーロという異世界で、その世界を支えるエメロード姫が、新官ザカードという男によって捕えられた。それを救うべく、現代日本から、3人の少女が償還されることになります。そしてその世界で冒険を繰り広げていくうちに、実は、エメロード姫が、臣下であるザカードを愛してしまったが故に、そのせいで世界が壊れるのを防ぐために、自分で自分を幽閉し、異世界(=この場合は日本ね)の人間を呼び出し自分を殺害してもらおうとした、という衝撃の結末を迎えるわけです。悪の化身だと思われていた、ザカードは、実はありするエメロード姫を守るとうしていたことが分かるのでした。


以前宮部みゆきさんの『ブレイブストーリー』との比較を書いていますが、これは、全体主義の告発の物語になるんですよね。えっと、通常の全体主義というよりは、SFの基本的テーマである「全体と個」の物語類型なんですよ。ここでは、セフィーロという世界が、エメロード姫という英雄=人柱=世界の奴隷という犠牲によって成り立っている構造です。ここで、「その」のマクロの全体の体現であるエメロード姫が、部下の一人を愛してしまった、という個人的な振る舞いをしたせいで、世界が壊れていってしまいます。これはいいかえれば、全体のために個人が犠牲になることは許されるのか?、もしくは、個人の欲望と世界の存立はどっちが大事か?ということが、天秤に乗ってはかりにかけられているテーマだということが分かるはずです。


http://zoome.jp/samo/diary/54
ちなみに、レイアースのアニメのOPは、素晴らしい傑作が多かった。田村直美の『ゆずれない願い』。いま見ても、胸が高鳴ります。たしか100万枚は売ったんじゃないかな。


ブレイブストーリー宮部みゆき著 
http://ameblo.jp/petronius/entry-10001684789.html

ブレイブ・ストーリー(上)


第一部では、結局のところ、ザカードもエメロード姫も殺してしまうしか方法はなくなり、非常に切ない衝撃的なラストとなります。第二部では、3人の少女は、そしてセフィーロに住む人々は「誰かが犠牲によって成り立つ世界」ではない「世界」を探そうというテーマを模索することになります。

魔法騎士レイアース 新装版 (1)


これ、とても名作の上、良くできている漫画なので、もしくはアニメも同じレベルの出来なので、どちらでも見てみるとなかなか感動しますよ。


さて、英雄譚が、現代社会の理念から見て、「全体の責任を個人に押しつけて、他の人間がのほほんとしている」という全体主義的な構造的欠陥があるという部分に対して、どう答えるか?というのは、英雄譚を描く上で、とても重要な視点のようです。もちろんこれはある意味、「無粋」な行為でもあるわけです。結局のところ、才能があるやつ、神から選ばれたやつ、そういう英雄が前線で戦う以外に、その他の人々は、何ができるわけでもありません。ましてや、セフィーロや人類の歴史で言えば、中世の末期から近世の初期までは、「名もなき人々」というのは、世界にとってほとんど何の意味もない存在でした。そういう舞台設定をしている限り、この問題は浮上しません。中世は、英雄が英雄らしく、騎士が騎士らしく、その役割をまっとすることに疑問を持たずに生きることができた空間でした。源平合戦の武士たちは「やぁやぁ、我こそは!」と高らかに自分の名前(=存在)を叫び、世界にその価値を示しておりました。


しかし、近世から現代にかけての社会は、「英雄を否定した論理」によって、構築されてきた社会なのです。議会、民主主義などは、一人の人間が、権力を独占することがないように、どころか、一つの集団の権力が暴走することさえも嫌い制限をかけるようになりました。だからこそ、現代的な物語を描こうとするときに、無意識に存在する「名もなき人々の総体が主人公である!(=主権在民!)」という近代社会のロジックが、英雄譚に、「それでいいの?」という疑問を問いかけるわけです。これが、英雄譚におけるメタ的な視点です。



上記のレイアースは、まさにその視点であることがわかりますよね?。



ところが、現在の視点からすると、上記のレイアースすら「英雄譚」であることには変わらないのです。わかりますでしょうか?。世界の存在を左右すること、それに悩むことは、異世界から召喚された3人の少女という「選ばれた存在」であり、その彼女たちが主人公で、我々の感情移入するポイントだからです。海、風、光の3人やセフィーロの権力に関わる貴族や魔法使いたちは、決して、セフィーロに住む「名もない無力な人々」すべてに、その責任を分かち合え!、一緒に戦え!、なぜ苦しまない!と告発しては回りません(笑)。結局のところそれは「選ばんれた天才や選ばれたもの」の物語であることには変わりません。


では、それを超える物語とは何か?ということで、この問題に真っ向から挑んで、且つそれに対してかなり具体的な展開を見せた作品として、この橙乃ままれさんの『まおゆう』とおがきちかさんの『ランドリオール』がある、と僕は思うのです。上記の問題は、英雄譚を描くときに、いつも発生するメタ的疑問点(=構造的に張り付いているもの)ですが、これを自覚的に、はっきりと具体的な物語の展開によって描写する作品は稀です。


なぜまれなのでしょうか?。我々は、まだその答えを持っておりませんが、これらの「その先の物語」を描こうとすると具体的な解決処方をエピソードで語らなければならず、それを容易にする有名なテンプレートが存在していないこと、がまず挙げられるでしょうか。


歴史的事実を考えれば、クロムウェルピューリタン革命などの貴族が議会を通して国王の権力を侵食していった事実(なんどもいうけど、ここおもしろすぎるんだってば!!)や、フランス革命時の集合的沸騰や、教会という組織を通したカソリックのシステムに対して抵抗したプロテスタンティズムの反攻の歴史などなど、いろいろなモノがありますが、このあたりの歴史を、見事にまとめた物語というのは、少なくとも日本ではあまり見ませんし、大きな人気を得ているという作品が見当たりません。フランス革命の研究なんかは、日本が世界でも1、2を争うほど進んでいるのだから、あってもいいと思うんですが、、、、、大衆の物語、になるような契機がない模様です。そういうテンプレートがなければ、そもそも歴史に物凄い知識を持つ人でなければ、書けないようです。なかなかエンターテイメントになってコピーされて流布されないようです。なにしろ、中国史ペルシャ史が、歴史小説業界だけではなくエンターテイメントへ広がるきっかけには、田中芳樹という才能を必要としたように。


さて、この問題について、はっきりと具体的な展開・エピソードで、答えを出している作品というのは、僕の体験の中ではいまだありませんでした。というか、そういう問題設定に、「答え」があるというふうにすら思っておりませんでした。


たとえば魔王と勇者の先物語は、善悪二元論という形で、繰り返しその問題点が叫ばれ続け、特にメジャー級の作品のガンダムSEEDやDESTINYなどで、一般的にこの問題は、かなり広く認知されていると思います。古くは永井豪さんの『デビルマン(1972-73)』や『バイオレンスジャック(1973-90)』、鳥山明の『ドラゴンボール1984-95)』を代表とした強さのインフレ問題、ジャンプシステムの限界点、などです。これを超えようとする設定として、富樫義博さんの『ハンダーハンター(1998-)』もありますしね。

機動戦士ガンダムSEED 1 [DVD]
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新装版 デビルマン(1) (講談社漫画文庫 な 2-37)
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また、この問題をマクロ的に言及するのならば、実は商人の実存と夢を描かなければならないということもわかってきており、それを一気に広めたのは、ゲームのドラゴンクエストのスピンアウトである『トルネコの冒険(1993)』とミクロではあるが商人が、ライトノベル的な、エンタメ物語として女の子を救うのにビジネスを用いることができる!ことを証明とした『狼と香辛料(2005)』があります。これらの商人という職業・役割について、エンターテイメントのテンプレートを用意したのが、この2作品だなと僕は思っています。

狼と香辛料』 支倉凍砂著 見事に実った麦穂が風に揺られることを狼が走るという
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080805/p2

狼と香辛料Ⅱ』 支倉凍砂著 商人が最も恐れるのは?
http://ameblo.jp/petronius/entry-10024840637.html

ドラゴンクエスト・キャラクターズ トルネコの大冒険3 ~不思議のダンジョン~
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狼と香辛料 (電撃文庫)


こうした果実や履歴を踏まえて、おがきちかさんの『ランドリオール』のライナスという商人の類型や『まおゆう』の青年商人という類型が理解できるのだと僕は思います。もちろんなんでこの世界のマクロを描くときに、商人が重要なポジションにあるか?と言えば、市民革命が、ブルジョワ革命といわれるように、基本的に近代の権利獲得の最終地点が、商人たちが自分たちの権利を広げていったことにあるからです。そして、僕らの世界に、既に騎士も王様も存在しません。世界を変えよう、世界を支配しようとして、最も重要な基準は、「金」です。そう、僕らは商人が作り上げた交渉と取引の世界で織りなされる資本主義の世界に生きているからです。金と営利企業という組織を通してしか、ほとんどの場合世界には関われないのです。


さてさて、もう一度最初の問いに戻りましょうか。この記事で語りたいのは、『まおゆう』のもう一つの柱であるメイド姉の持つテーマです。(全然そこに行き着きませんが(笑))


この彼女の描いた類型は、全体のために個人が犠牲になってしまう英雄譚を解体するという志向の具体的展開として描かれている、というのが僕の分析です。


魔法騎士レイアース』が、エメロード姫だけが世界を支えるのは間違っているのではないか?という問いを立てた時に、この解決方法は、ありませんでした。エメロード姫自身が「犠牲になって!(=事実上の自殺をしました)」セフィーロに人柱のシステムがなくなるように願ったことで世界に安定がもたらされました。でもこれって、ようは英雄的自己犠牲による、全体のための個の犠牲(=生贄)であることには変わりません。そうではない、世界の救い方とはどういうものなのか?。みなさん、考えてみてください。


魔王や勇者のような特別の才能を持った人に「しか」救えないような、複雑なマクロの問題を、卑小なる自分たち一人一人が、関わるためには、何をすればいいのか?ってことです。もし、自分たちが、『まおゆう』のような回帰する忠誠的世界観、、出口がない衰退にと滅びに向かっている社会にいた時に、虫けらにも等しい農奴であった場合には、もしくは多少権利がある騎士に生まれた時には?、たとえば商人に生まれていたら?、いやいやいそっと、王弟元帥のような大貴族に生まれたら・・・・?君は、僕は、いったい何をすべきなのでしょうか?。




これは、現代社会に生きて、マクロに関われない、繋がれない無力な個人だと思う、我々すべての物語です。




長かったので、分割。




その(4)に続きます。



明日UPできたらいいなー。とかとか。GWが終わって、毎日ほとんど終電近辺で帰宅です・・・。


はふぅ。