コメントへの返答〜善悪二元論を超えて、価値のないまっさらな世界で、それでもコミットメントを貫き生きること

米 2009/10/09 18:09
すべてが敵ということを言っている時は、「悪い奴はいない」といっているに等しいってどういう意味ですか?
すべてを敵と一括りにすると善悪を決める比較対象がいなくなるから「悪い奴はいない」という事なんでしょうか。
それと話は変わりますがペトロニウスさんは作品の展開を予想することはしないんですか?
ゲーデルの言う我々とは誰か、目的は何かについてペトロニウスさんの意見を聞いてみたいです。

1)どういう意味か?

えっとね、善悪二元論と呼ぶ「敵」を作ることで感情移入を深める(=味方を統合する)という作法は、この複雑な近代社会では、トータルとして割に合わない危険な政治手法・統合手法であって、これの問題点をどう越えて人々を動員したり、動機を向上させことができるのか?ってのが現代の問題点だ、と僕はブログでずっと書いています。その一形態として、物語でも単純に「敵」を設定してバトルで勝ち抜いていくことによる物語の類型が非常に、未だ有効であることは疑えないのだが、行き詰まりを見せていてそれをどう越えるか?ってのが、今の最前線の物語構築のポイントなんだろうと思うのです。

こういう問題意識のある最前線の作家たちは、「敵」って何なのか?ということ鋭く問いかけていきます。

そうすると、結局のところ、「敵」にも確固たる目的があって、何かを為していることが分かってきます。時には主人公にとって悪としか思えないこと(=家族を殺されるとか・・・)があっても、その敵はより高次の大きな目的のために自分を犠牲にしても、自分の手を汚しても貫く覚悟があり、、、、そしてその場合その悪だと思えるような「敵」も、実は主人公と同じような苦しみ(=同じように家族を殺されたとか・・・)やトラウマを乗り越えてその「目的」に辿りつていることが明らかになって行くということになりやすい。なぜならば、僕らの生きる世界が社会が、「そのようなもの」だから。誰が悪か?とは問えないことが、動機やマクロの背景を探ってちゃんと物語るとあやふやになって、分からなくなっていってしまうのです。


そうした複雑な「世界」と「他者の実存」がはっきりと明確になると、表現的には次のような表現になることが多いのです。


全ての人は「善」である、と。まぁ逆でもいいです。すべては、「悪」だ、と。つまり、価値は平等であって、価値の優劣を問えないと言っているんです。



価値の優劣を問えない(=何が正しいかが不明確)となると、、、、、それでも主人公が「何かを為す」という動機を構築しようとすると、内面で「その主人公の実存にとって正しいこと」を立脚点にするしかありません。多くの善悪二元論の先を目指そうとする現代の物語が、内面の探索・探究に物語をシフトしやすいのは、「ここ」を明確にしないと、「行動する動機」が調達できなくなるからです。


さて、仮に内面に「自分にとって心底大事なもの」を見出すことができたとしても、もう一度世界の複雑さ・・・・この世界に価値の優劣はないのだ!という多元的な世界観、価値相対主義の壁が立ちはだかることになります。自分にといって正しいことでも、「他者にとって正しくない」ことを、どう貫くか?。


ここでの現代の政治哲学の最前線の問いへの答えは、こう答えています。


この世界の価値に優劣はない。それは、何が正しいことか?ということが、計量的に計算することも予測することもできないことが、ほぼ証明されてしまったからだ。


何かを「為す」「行動する」・・・・ということが、正しさを保証も担保もしない・・・・正しいかどうかの保証が全くない暗闇の中で、一歩を踏み出すという行為が、何かを「為す」「行動する」いうことなのだ。


しかしながら歴史的にも、マクロのメカニズムというのは漸進的にも様々な仕組みが解明されている、経済学でもコントラチェフの波でも合成の誤謬でも何でもいいのだが、そういった徹底的に科学的な思考でマクロのメカニズムに対する勉強と深い理解が必要だ。そして、どれほどをそれを追求しても、「正しさ」を予測することもできないというこの世界の矛盾も引き受けていかなければならない。これを二重思考と僕は読んでいます。相対主義的な価値の優劣がない世界で、行動する(=価値が絶対的なこと)ことにコミットするからです。この非常に矛盾溢れ、難解なことを意識しながら行動しない人間を、近代人とは呼べません。これ以前の、正しさと悪を分けるような単純な思考は、野蛮人といえるでしょう。

しかし、このまま何が正しいか?と考え続けて、内面を探求して、世界のマクロを研究しているだけでいいのか?


目の前で悲劇がおこり、たくさんの人が死んでいる現実があるのに。


だから我々は、「行動する(=コミットメントする)」しかない。自分の心から深く探求した価値を絶対的に信じて前に踏み出し行動する。しかし、それもしょせん価値相対主義の中の一つにすぎないという自覚を持って、世界のマクロを眺め分析考え続けながら。・・・・言い換えれば絶対的にコミットしていながらも、そのコミットを全く信じることなく生きていく、ということ。


これが、今の政治哲学の最前線ですね。


そんでもって、こういう世界では、自らの正義を貫くことは、「悪」を為すことと同義になります。だって、自分以外の誰かにとっては自分は「悪」であり「敵」なのだから。


それでも何かを為す、自分の手を汚しても、世界に価値を打ち立てようとする時には、


世界のすべてが敵になるはずです。


ちなみに、ちゃんと二重思考ができる人ならば、この場合の敵は絶対的ではなく、目的の条件に合わせてアライアンス(同盟)できる相手になります。これが、善悪二元論を超える、3つ以上の論理というやつです。これがあれば、最終戦争にまで至ることがなく、世界は滅びないんです。


とこういう意味で、世界のすべてが敵といっている場合は、イコール自分が仮に悪であったとしても自ら信じるところを貫く!といっていることになるので、悪はいないという意味になるんです。少なくとも僕はそうとります。


2)先読み


うーん、、、はっきりいって、もうほとんどすべて終わっているので、あまりやる意欲がわきません。LDさんとの過去の記事を読んでもらえると、マクロの構造はほぼ予測がついていますし、個々のキャラクターの動機の解明もほとんど終わっています。


そういう意味では、分析という意欲は、僕はもうないんですよ。少しぐらい違っても、ヴァリエーションの差異にすぎないので。まぁ僕は気分で生きている人なので、いつどうなるか分かりませんが・・・。


いまのところ、もうここまで来ると、僕は「予測」よりも、「今を楽しむ」だけになります。


その世界に没入して、愛するキャラの行動に一喜一憂して・・・・・。


いまこの作品に対しては、そういうスタンスですかねー。


フェイトの目的はエクソダス阻止〜この脚本予想は、物凄いかも・・・
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080614/p1

今週の一番追記:ネギま黙示録編

http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/1876b4b70bdd144d9938661a2321d296

http://www.websphinx.net/manken/come/wek1/wek10364.html(今週の一番)

今何処(今の話の何処が面白いのかというと…)

ネギま:フェイトの目的と火星大戦(仮)の考察】

http://www.websphinx.net/manken/hyen/tree.cgi?hdl=vi&root=hyen0216.html


魔法先生ネギま! (1) (講談社コミックス―Shonen magazine comics (3268巻))