『凍りのクジラ』 辻村深月著 その安定した深い人間理解に感心

凍りのくじら (講談社文庫)

評価:★★★★★5つ
(僕的主観:★★★★★5つ)

基本的にファンタジーやSFが好きで、「この世界と関係ないどこでもない場所」がみたい志向が強い僕の読書癖の中で、時々、この作品のように日常とは言わないけれども、僕らの生きている現代日本の普通の生活の世界のレベルに焦点があっているだけの作品に、とても感動することがある。特にマクロも壮大な冒険があるわけでもない。こういった人間関係の哀歓は、一生懸命に生きていれば普通にあることだし、なにもわざわざ読書で読まなくてもいいじゃないかという人いるかもしれないし、僕も時々はそう思う。


こういう日常を描いた作品・・・・特に冒険もマクロの壮大さもない作品が、それでも僕の心をとらえてやまない場合の一番のポイントは、たいてい「人間本質の理解の深さ」と「その描写の繊細さ」にあるようだ。



「頭のいい人」というのを皆さんはどういうものだと思いますか?。
僕は頭がいい人と思える基準にいつも持っているのはマクロとミクロの仕組みや関係性を、、、、そういった「目に見えないもの」を把握し、それを大きな文脈と結びつけ、自分の言葉で分かりやすく人に説明できること、だと思っています。


日常の生活でいえば、その人間思っている本質や関係性の本質を、言葉にできること・・・・という奴でしょう。けど口で言うほどたやすくはありません。この「頭の良さ」は、緻密な「観察力」や時間軸に沿った「予測力」など総合的なものなので、そもそもに基礎的でロジカルな「地頭」の良さに加えて、人間的な本質に感情移入していく人間としての情感・感受性も要求されます・・・えっと、ロジカルなものは才能と訓練で何とかなりますが、そういった人間力みたいなものは、経験と・・・・何よりも「生きることをどれだけ真剣にとらえて、現実と向き合って、戦って、そして悩んできたか?」が結集されるものです。言い換えれば、その人が本当の意味で「大人かどうか?」が問われる部分ということです。


あるロシアの作家が、幸福な家族はみな似ているが不幸な家族はそれぞれに違っているといったことを言っています。これは、不幸な体験・・・・人間にとって過酷な体験の経験や共有というものが、人間に与える影響の深さを語っているのだと思います。だからこそ「どれだけ深く悩んだか?」が人間の洞察力への担保となるんだと思います。もちろん、何を不幸ととらえるかは人それぞれで、必ずしも物理的な体験だけが不幸とは限りません。日本のような先進国の中でぬくぬくと暮らすことが、アフリカで飢餓で苦しむ子供よりも、幸福か?というと僕は全然そうだとは思いません。それは物質的基礎の差でしかないからです。物質的な差は、そもそも不幸とかいう精神的な次元以前に「不公平」なものだと僕は思います。ちなみに、こういうのを考える時に僕は最近強く松原久子さんの本における不平等条約の話とヨーロッパの歴史を思い出します。


驕れる白人と闘うための日本近代史 (文春文庫)
驕れる白人と闘うための日本近代史 (文春文庫)


さて話がそれましたが、こういった日常を描く作家がどれだけ読者を深くひきこめるかは「人間本質への洞察力」をいかに僕らにうまく説明して見せるか?その一点にあると思うのです。そして、それこそが真の意味での「頭の良さ」です。


普通のどこにでもいる人間、普通の行動、、、、、なんていうものは「ありません!」。人はかなり人それぞれに違っており、その行動から透けて見える「本質」というのは非常に複雑なものです。例えば僕のような、どこにでもいるサラリーマンの、たとえば1日とか1時間のピースを切り取れば、それは平凡でしょう。けれども、ミクロを時間軸に沿って見通す力があれば、それまで重ねて来た何十年もの人生や、これからその行動様式がもたらす未来というものが、透けて見え・・・・その圧倒的な時間の集積のような塊は、時々圧倒されます。人間は本来的に可能性を秘めている生き物で、内面沈殿する意思や決意やなどの動機の塊によって、さまざまなものを「本来的に所有しています」。


それを言葉で取り出して、わかりやすく説明できる技術というのは、物語作家の必須の部分だと僕は思っています。もちろん文学者にとってもね。・・・・ふとおもったのだが、女性の作家にこういう感触の、微妙な感情の動きや、その人間の振る舞いの背後にあるモノを表現することがうまい人が多い。似たような印象を抱いたもので、恩田陸さんの『黒と茶の幻想』なんかを思い出す。

黒と茶の幻想 (上) (講談社文庫)
黒と茶の幻想 (上) (講談社文庫)


伝わっているでしょうか?。作家の稀有な視点を持つ人は、「同じ現実」を見ていても全く違ったものを見ている人が多いのです。


自分ごときで恐縮ではあるが、僕もずっと動機にこだわる少年だったせいもあって、その人がどういう人生を歩んで、どうなっていくのだろう?というメモをつける癖が子供のころからあって(村上春樹と一緒だ!(笑))、その膨大なデータベース故か、ふとその人を見た時に、その人がどういう人生の展開をするか、してきたかが、かなり透けて見えるようになりました。「この感覚」を、言葉に分解するのは難しい。かなり統合的で複雑な情報処理だからだと思います。これを、言葉に分解して、さらには物語に、言い換えれば「世界」を再現できるなんてなんて稀有な才能だと思います。物語を小説を書く力は総合的な芸術で、最も頭がいい人間がすることだ・・・というセリフをどこかの本で読んだことがそれは同感です。


たとえば、この本の主人公の理帆子が、自分の彼氏である「若尾」に対して終始、客観的に分析をしているのですが・・・・この人間評価など、本当に秀逸だなと思います。


たぶん似たような体験をしたことがある人おいると思いますが、僕は、過去にこの「若尾」くんと、ほとんど100%近いくらい同じタイプの友人がいたことがありました。その彼は、僕のことを「親友」といっていましたが、その本質的に他者を理解することのな腐った本質故に、僕はその彼を一度も「友達」と・・・いや人間としてさえ認識することはありませんでした。いろんな理由があって、「友達の振り」をしていた時期がありましたが・・・・あのねー学校空間というのは、けっこう逃げ道がない狭い共同体なので、そういった「自分すらも騙す術」というのはとても大切で、ATフィ−ルドを全開に張っていないと、なかなか生きるのがしんどいですよね。当時の僕もそうでした。


いやそいつがねー医者の息子で、180CMを超えるナイスガイで、しかもイケメン極まっている奴で、しかも大学もこの若尾君と一緒(笑)・・・・なんでか知らないけれども、彼は、僕のことが大好きなやつでした。理由はよく分かります。僕はほとんどなんでも彼のことを受容する人で、基本的に「NO」といわない人でしたから。「おまえはすごいやつだよなー」が口癖でした。まぁ理由は、心が死んでいて、他人に興味がないからそうなっていたのですが、そんな複雑なことを理解できる頭は彼にはありませんでした(学歴とかはウルトラ良かったですが)。


いえ、嘘でもないんですよ。出会った高校生の時に、私立の高校で女を侍らせてバイクで遊びまわる彼は、どんくさい郊外の高校で部活と誰も理解してくれない読者や映画や漫画などの強烈でディープな趣味の僕には、そういったきらびやかな彼は、非常に魅力的でした。内向的な僕が、ガンガン外に遊びまわるようになったのは、彼の影響でしたから。彼が僕を連れだすことがなければ、これほどまでに行動的にはならなかったかもしれません・・・。


けど、どうしようもなく彼の心の本質のところが、僕は大嫌いで・・・・なんで友達づきあいを続けているのが、自分でも不思議でした・・・。特に大ゲンカした後で、彼が夜中にバイクで僕の家に謝りに来た時に、、、彼が僕の語った言葉を全く理解していないで、関係性だけを修復しようとする小手先の行動を見て、ああ・・・・この人は、他者の心が分からないし、他者の言葉が心に響かないんだ・・・と感心しました・・・。同じようなケンカをすることになった時に、僕はに親友と呼べる心から信じられる友人が沢山増えていたというのに、、、、。その頃から彼と僕の人生に道は、かなり分かれてしまったのだと思います。ああ、、、「ことば」とは受け取る力がないやつには、どんなに本気でも伝わらないんだな、と絶望したをの覚えています。


にもかかわらず僕は、彼と絶縁になることはなく腐れ縁を続けてしました。まぁ基本、来るもの拒まず、去る者追わずでしたが・・・理由が分からなくて、ずっと不思議に思ってました。


けど、この理帆子が若尾に対して「私は若尾が堕ちていく姿を見たいんだ・・・・自分と同類のこの男が・・・」と思うシーンでは鳥肌が立ちました。


実は、30年以上生きていて、この友達・・・・まぁ友達といって差し支えないでしょう・・・このAという友人のことが、そこまで心底嫌いだったにもかかわらず、何度かけんかして、この人間の心の中に他者が存在していないことは確認したはずなのに、なんで、それでも僕は、こいつから電話が来ると遊びに行ったりするのだろう?と疑問に思っていました。もちろん利用という意味でもあったでしょう、、、物凄いイケメンで、いい合コンをよく持ってきましたから(笑)。けどね、それ以上に・・・まぁかなり小さい時からの付き合いであったこともありますが、けどそれ以上に「こんな間違った人間はどこかで堕ちていくはずだ」と確信して、それを確かめたかった、というのがあると思います。


彼が、男性であってくれてよかったと思います(笑)。彼に対する耐性(いったい何年一緒に遊んだだろう!!)と嗅覚があったせいで、僕は、変な女の子と付き合うことや別れをこじらせたことが一度もありませんでした。理由は簡単「他者が心にいない」けれどもその反動で行動的で外面的には非常に魅力的に見えるタイプの「腐臭」を一瞬で、見た瞬間にかぎ分ける技術が身についたからです。女性とはこじらせると怖いので、そういう意味では、この嗅覚は、本当に役に立ちました(笑)。会社でも、人間の腐った人を見分けることが凄く得意です。基本的に僕は天然で鈍感らしく、、、、というか口が過ぎるので、なんでも思ったこと言って、すぐ怒られたりしますが(笑)、、、、究極的なところで、これを読み間違えたことはありません。


いまでも、ナルシシズムの檻に沈む人間を見抜く力は自信があります。一番厄介な、権力も才能も満ち溢れているけれども、他者を他者と認識できないタイプの峻別も一瞬でできます。それは、なかなかに重要な技術だと僕は思っていて・・・・なぜその技術があるかというと、そのAという彼をまじかで、彼の内面の告白を何度も聞きながら、最終的に堕ちて行くところまですべてのプロセスを僕は見ていたからです。


僕はこの辻村さんほど洞察力もないだろう(この若さで、このレベルとは恐れ入ります)けれども、読んでいる本の量と体験の数は、きっとそんな負けていないと思うんですが、なによりも、そういう心の闇は、いろいろまじかで見てきました。僕は、どうも人間収集癖とでもいうか、「この人は理解できない」と思うと、執拗にずっと追い続ける癖があります。定点観測で「なんでこの人がこうなっていくのか?」というのを、見届けたいという欲望がとても強いのです。ちなみに、はっきりとこれは母の影響で、私の母も、強烈に人の動機にこだわる人で、小さいころから彼女の人間洞察の結果と、その現実での結実(実に60年!)を聞かされているので、(笑)僕の中のアーカイブは、自分一人の人生にとどまりません(苦笑)。そこまでいくと、もうこれは日本の歴史ですものね。この母の影響か、仲のいい人の人生をいろいろ分析しする、聞くという技術が得意になった気がします。親戚や友人でも、けっこう有名で、なんかあると相談に来る人は多いんですよ(笑)。


ただ基本的には、本気の分析はあまりしません。なぜならば、本気の分析と、それに伴う心の処方は・・・・その人の最も触れてほしくない心の闇や弱みにメスを入れる行為だからです。それは、心から愛する人と人生の時間をすべて書ける覚悟で向き合わない限り、中途半端に終わることは、、、そしてそのプロセスの愚鈍さ(=人は簡単には変われません)に飽きることなくトライすることができるのは、「その人と一緒にいること、その人とともに時間をシェアできること」が心から好きでないとできないからです。そうでないと、ケンカになるか憎まれるのが落ちです。真実は、人を怒らせるのです。・・・・それに、相手に新に関わるという行為には、常にフィードバックがあるもので、それによって「自分の心の闇や弱さもえぐられる」ことになります。そんなことは、愛する人とか大好きな友人でもなければ、許せませんよ(苦笑)。まぁ岡田斗司夫さんではないですが、こういう「自分探し系」のモノは、趣味としてだらだら楽しむのが一番いいのでしょう。


さてさて、こういうことを続けていると、ある人間を見ても、ある現象を見ても、その他の洞察力や分解力が少ない人が見てもさっぱりわからないようなことが、多重な立体構造になって見えるようになっていきます。これはなかなか精神的にシンドイ(目の前の感情に自分をゆだねることがしにくくなるので)けれども、同時に非常に快楽のある行為です。何かを深く広く透徹して見ることは、人生を何倍も深く生きることです。深いということは、喜びだけでもなく、悲しみや苦しみもなので、単純にいといえるかはわかりません。けれども、一度しかない人生を生きるのならば、表面だけで戯れるのではなく、酸いも甘いも深く切実に体験して死にたいじゃないですか。


そして、「小説」というものは、そういった濃縮されたものを体験できるもので、特には物凄く頭のいい人の理解と体験を、凝縮して再構成された素晴らしい「物語空間」で追体験できるものなんです。久しぶりに、そういった「人間本質の理解」が、秀逸だなと感心できる人に会いました。特に、きよさんのお薦めで、『僕のメジャースプーン』から読んだのは正解でした。


ぼくのメジャースプーン (講談社ノベルス)
ぼくのメジャースプーン (講談社ノベルス)


この作品について、僕は昨日こう書きました。

「人を殺してなんで悪いんですか?」


こういう質問が出ること自体が、大人の、教育制度の、社会の敗北だ、という意見を聞いたことがある。そして、丁度サカキバラ事件のころだよな、こういう質問が世に流布した感性って。ああ・・・その世代の、この系統の問いが根付いてからの物語だなーと思ったのが最初の印象。


この作家さんが、教育学部を出ているのは非常によく分かりました。つまりは子供の内面世界で、この「問い」が不透明で消えて行ってしまうことを避けたいんだと思うんですよ、この作家は。いいかえれば、答えが出るとは言わないが、この「人を殺してなんで悪いんですか?」という問いの部分、、、いってもれば、これは後悔が存在しないという悪意に対して、どう対処するか?、本当に人間はそうあれるのかを、「それを見ている子供の視点」にとってどうあることなのか?ということを描いている作家さんなんだと僕は思うのです。


辻村深月さんという人の、作家としての出発点にして、もっとも表現したいところは「そこ」だと断言できます。


どちらも「後悔のない悪意」について、非常に執拗な理解や描写のプロセスが続きます。実際には、後悔がない、というのは、「ラスボスがいない」というのと同じ状況であって、社会学者の宮台真司さんは「底が抜けた」とか「透明な」という表現を当時していました。そうそう『十二国記』の最新作である『落照の獄』の話も全く同じ話ですね。これも、後悔のない悪意に対して、社会はどうあるべきか?という問いを発した作品です。そして、これがテーマが故に、この人の描写は非常にわかりやすい。そこがたまりません。このテーマをより追い詰めてほしいと思います。




ちなみに、あまりの藤子・F・不二雄先生への深い愛に貫かれていて、僕は、涙がとまりませんでした。


ドラえもん 1 (藤子・F・不二雄大全集)