『ランドリオール』10巻 セリフに凝縮された深み(・・深すぎる(笑))

Landreaall 10 (IDコミックス ZERO-SUMコミックス)

評価:★★★★★星5つ
(僕的主観:★★★★★星5つプラスα)


「くっついて見張ってても 俺はアンちゃんが望んでいるような人間じゃないと思うよ」(DX)



「私の望みなんか知らないクセに!」(アニューラス)




Act.48:「雲の上」より


アンちゃんが、不敵な笑みを見せがら切り返す。うーん、お見事。この会話、見事な切り返し。このへんの表情と会話の深さが、たった10巻にもかかわらず・・・というか、本と数巻のスカスカ(力みの抜けた絵柄)な感じにもかかわらず、高密度の圧縮した深みを感じさせるゆえんなんだよねー。




このたった1Pの二コマのセリフで、・・・・実は書いた記事が消えてしまったのですが(アメブロー!!)実に物凄い分量の考えが頭に浮かびます。


はしょって書き直すと、


えっとこのDXのセリフって「役割論の反発」※1なんですよね。


いままでは、役割の自明性・・・・たとえば、軍人は疑問を持たずに敵を倒すとか、正義の耳かたは疑問を持たずに悪を倒す!!みたいな、自分が与えられている役割に疑問を持たないのが当たりまの世界でした。それが近代前期・・・・与えられた機能をまっとうすることで、世界がよくなると素朴に信じることができた時代。




けど、その役割の正しさが保証されなくなった不透明な現代では、「ほんとうにこれでいいのか?」って、




①役割で求められていること







②自分自身のナチュラルな感情の動き




が、相反するようになってきました。




これは、近代前期という大きな物語(=近代の発展による成長の輝かしい時代)の解体が勿論相関しているものです。善悪二元論の解体も同じものの類推(アナロジー)です。




んでもって、80〜00年代の最初までは・・・・アニメで言えば、『新世紀エヴァンゲリオン』がそのベースというか類型の基本にあるのですが、すべての作品が、①よりも②のほうが正統・正当性があり、正しいものだ!!という暗黙の了解がありました。エヴァの主人公であるシンジ君が、けっきょく内面世界に逃避した(特にTV版)のが特徴的なんだけれども、前に云ったんですが、セカイ系ってアホみたいなんですよね。だって、シンジくんが、内面世界で「おめでとう!」と自己解放しても、そんなの滅びかかっている人類にとっては何の関係もないことなんです(苦笑)。いいのかよっ、それでっ!?って(苦笑)。




自己と世界は別物なんだ!って云う成熟した大人であったら当たり前のことが、広汎に「共有されていない!」ってことなんですよね、現代は。すげー時代だよ。




もともと近代1920年代から50年代くらい迄は、アメリカの50年代のコンフォーミズム(=順応主義)を見るまでもなく、逆に役割をまっとうすることが、過剰に求められた道徳的な社会で、この社会の反動として、与えられた役割に、人間の人格を押し込めて、記号化して、その人独自の感情やオリジナリティを抑圧する非常に嫌な社会でした。その反動として、②の自己の内面と個の権利の復権というのは、よくわかります。この②を最優先する自己内面の豊饒さの追求と個の権利の復権という現象をよく僕は、「役割論への反発」とか、役割の押し込められることの反発などのいいかたでいいます。




が・・・・なんで、近代1920年代から50年代くらい迄は、そんな窮屈でよかったかというと、それは、、、それをぶっ飛ばすぐらいに近代の生産性の上昇による社会そのものの物質的発展が、それまで農奴とか選択の自由なんか皆無の世界に、核弾頭のような自由を与え続けたからなんですよね。ようは、ものすごい不自由な奴隷に、ガンガン自由を与えまくっていたんで、そのために①の役割に適応して我慢するなんて程度のことは、全体からみると、大した負荷にならなかったんですよね。比較の問題ということです。




けど、、、、物質的基盤や成長がある程度限界になり・・・・・GNP3%程度(それも凄いレベルだ!)の持続的成長性がパラダイムの時代になると、みんなもうそれなりに自由もあり物質的豊かさも選択の自由も確保されているので、みんな我慢がきかなくなったんですね。明日も明後日も状況が劇的に変わることもない永遠の日常が続く、退屈でだれた持続的成長の世界(=ヨーロッパ病!!!・フランス映画!!!)で、なんでそんなに我慢しなきゃならないの???と思うようになったわけだ。




それが、80〜00年代にわたって、セカイ系などのサブカルチャー・ジャンルを支えてきたForces at work※2「そこで働いている力」なんだと思います。まぁ僕は、自己解体を進めていく志向性の展開※3とかテキトー呼んでいます。





あーなげぇ。。。2回目書いても、なげーよ。ランドリオールの話ではないなー(苦笑)。




一言でいうと、みんな我慢の閾値が下がったんで、役割に押し込められてゆがめられるという「ほんのわずかな部分」に敏感になったんですね。これはこれで、選択の自由とか多様性への共生をもたらす社会運営への先駆けになったので、別い悪いことではありません。社会は振り子のように揺れ動くものですから。これも、僕は、「多様性(ダイヴァーシティ)の飛躍への戸惑」※4と呼んでいます。




けどね、、、、、、これがある程度、さわぎまくって強調することが続くと・・・・最近は、これを全体からもう一度評価してみようという姿勢が生まれてきていると思うんです。




だって、役割から逃げることによって、どれほど公共性が損なわれ、義務からの逃避によりどれほどの成長の機会損失となっているかは、パースペクティヴを拡大した全体論でいえば、よくわかるでしょう。




だって、人類を唯一救える可能性のある誇りある仕事(=エヴァンゲリオンパイロット)にもかかわらず、卑小な自己の内面に逃げ込んで、人類の未来を踏みにじるんですよ。シンジくんわ(笑)。そんなの許せないに決まっていますし、そもそも一度しかない人生・・・・そんな無駄な自分探し(=人間なんてどーせどれも小さいゴミだ!!)なんかするならば、偉大な役割にコミットして華々しく死ぬのも、それはそれでとってもカッコいーことではないですか?。




僕は、全体・マクロのために犠牲になること云うのは、単純には許せない。だからされを称揚する姿勢は、大嫌いだ。




けれども、では、個に価値があるか?と問えば、内面なんて・・・・どれほど掘り下げても、一般人・・・・95%の人類は、ほとんどゴミだ。内面なんて探す価値はない。意味はあっても。では、、、、ある程度、自由のトライアンドエラーで自分の内面の器を知り、そしてその上で、役割に「あえて」コミットすることは、、、、もしくは、役割自体を新しく作り出すことは…それはそれでありなんじゃない?って僕は思う。なぜならば、内面ばかり追及しても、結局は何も出てこないナルシシズムの地獄に陥るの関の山であることは、もう僕らは知っているから。




そう、、、




役割に単純に押し込められるのには拒否する敏感さ







けれども、自らの意志で役割以外の自分の小ささを知ったうえでコミットする



というアンビバレンツな(=二律背反)な状況を意識的に生きながら人生を生きるのが、、、




たぶん再帰※5ということなんだろう




または自己言及的※6だ。


はぁはぁ・・・・・。つかれた。。。


さて、ついに戻ります。










「くっついて見張ってても 俺はアンちゃんが望んでいるような人間じゃないと思うよ」(DX)



「私の望みなんか知らないクセに!」(アニューラス)



アンちゃんが、不敵な笑みを見せがら切り返す。


沈黙


「ごめんなさい」(DX)


目を閉じるDX。


「いいんです ちょっと いじわるを言ってしまいました」




「DXさま 今の私の使命は、あなたという人間を見極めることです どうなれ どうあれなどと言いません あなたを操ろうとする人間からは私が守りましょう」(アニューラス)




Act.48:「雲の上」より

これを読解してみましょう。




ペトロニウス先生の講義の始まりです(笑)。




玉階(キングメーカー)とは、どうもこのランドリオールの世界で、王位継承者から王を正式に推薦する権力をもつ特別な役割を持った貴族であることがわかります。




その中でかなりかわりものの玉階:アンちゃんことアニューラスは、その名誉にかけて、DX・ルッカフォートが、王にふさわしいのではないかと、その夢をかけています。夢とは、偉大なアトルニア王の即位を助けることです。




田舎で自由に育ったDXは、別に王になる気はありません。というよりも、なにかの役割に従順に甘んじて従う人間ではないし、なによりも、まだ自分が何を役割(=人生の夢・目標・志)として選ぶかを決めかねているアカデミーの学生にすぎません。




彼はまだ何かの役割を引き受けるつもいはありません。もともと傭兵の母親に育てられた田舎の自由人ですし、、、父親のルッカフォート将軍は、王国の最高の貴族でありながら国王に反旗をひるがえして革命を起こした自由な人物ですし(=これはたぶんイギリスの名誉っ革命にあたる革命であったと推察される)、、、しかも、自らの功績無視して田舎の領主になってしまうような荒唐無稽な人です。とにかく、誰かから指示されるということを極度に嫌う性格であるわけです。




だから、王になれ!!とせまるアニューラスに対して、非常にうっとおしい気持ちを持っています。彼女(彼???不明だな…まだ…でも女性であってほしぃぃぃ・・・アンちゃん大好き!!)は、素晴らしい人間で、その志や内面が高潔なのは、十分わかるので、DXとしてもなかなか強く出れないのですが、、、それでもうっとしいはずです。




そこで、






「くっついて見張ってても 俺はアンちゃんが望んでいるような人間じゃないと思うよ」(DX)






というセリフになるわけです。




そして、このセリフが、役割を引き受けることでの自分の不自由さを引き受けたくないという80〜00年代の、主人公が義務から逃げるという「役割論への反発」の類型のセリフであることもわかります。エヴァのシンジくんを基本類型としたもので、このような時代的に、厳しい義務や役割から逃避することの正当性を訴える自由人やアウトローの形式の物語類型が、僕らの時代の感性とマッチしていたものであるのでしょう。




だから、いつもの物語なら、これで終わりです。




なぜならば、「おれは、わたしは、役割には従わない!!!」と高らかに宣言することで、思考停止・論理完結することの正当性をうたった物語が時代に支持されてきたからです。「おめでとう!」といわれちゃう(笑)。



ところが、00年代後半から「次の時代の物語」としては、この役割・義務放棄を非常に疎ましく思う傾向が出てきました。もちろん、元へは戻れません。けれども、あえて与えられた物語を悩みなしにまっとうする『デスノート』などの作品も出てくるわけです。彼は、人を殺すことに悩みなど持ちません。


DEATH NOTE デスノート(1)
DEATH NOTE デスノート(1)




さて、このDXのセリフに対して、





「私の望みなんか知らないクセに!」(アニューラス)


アンちゃんが、不敵な笑みを見せがら切り返す。





と、アンちゃんは切り返します。




わかりますか?。これはすさまじく鮮やかな切り返しです。


これを言い換えると、DXは、「僕はあなたが指示する役割なんかに従いません!」と主張したことに対して、




アンちゃんは、あなた(=DX)が、その「役割の中身」を理解していない!と言っているのです。


もう少し敷衍しましょう。


アンちゃんは、アンちゃんなりの人生の夢や思いがあって、アトルニアの「王」というものを選ぶ玉階(キングメーカー)という役割の物語を生きています。彼女は、彼女なりの、役割を超えた「何か」をこの自分の職業と、そしてその目的であるアトルニア「王」に仮託しています。彼女にとって、役割以上の自分の全存在をかけたものを、この彼女の「役割」に込めているわけです。




DXは、自分は「役割に従わない自由」という権利があるはずだ!という主張をしました。これは正当です。しかし逆にいえば、「従う自由」もあるわけです。論理的には当然です。




確かにアンちゃんには、DXを役割(=王・・・アンちゃんの思い込み)に押し込める権利はありません。




けれども、アンちゃん自身が、自分自身の役割を選択することや、アトルニアの王を選出するということ・・・それにつてまわる役割と義務について、自分が思い入れることを「選択する自由はある」、ということになります。




わかりますか?。




もっと単純に云うと、DXがおれは自由にしたい!といったとたんに、アンちゃんが自由にする権利もうまれるわけです。




世界は自己と別物。自己が自由を要求すれば、同時に他者も自由を要求する権利が生まれるのです。




さて、そうなると、アンちゃんはこう言えるわけです。




「たしかに、私には、あなたに私の幻想に従えとは言えません。

でも同時に、あなたも私の幻想を否定する権利もありません。」




と。




これは、DXが自分の都合と権利ばかり主張したことに対して、DXが自己の権利を主唱するのならば、その論理的反対の命題である「私には私の権利があること」をも同時に認めなさい、といっているんです。




このシーンで、アンちゃんが強気で、上から見た物言いをしているのは、わがままなDXをたしなめているからです。







「私の望みなんか知らないクセに!」(アニューラス)









つまり、アンちゃん(=私)が望むことを、ちゃんと知ろうとする姿勢もない今のあなた(=DX)には、偉そうに言える権利なんかないんだよ。もし、役割を否定したいというのならば、アンちゃんの望みを深く理解して、その上で否定しなさいといっているんです。



たった二コマ!!!。




これまでの時代をこの二コマで、思いっきり否定している。ふっ・・・・深い(笑)。




つーかね、、、おがきちかさんのセリフまわしは、万事が万事こう。密度か高すぎて、たぶん背景をすべて読みとる人は、少ないと思う。でも、、、それでも、萌え萌え漫画としても読めてしまい、セリフも少ない・・・・すげーよ。





しかも・・・・このあと、DXは、







「ごめんなさい」(DX)




目を閉じるDX。








と、即、自らの過ちを認めている。これは、他者の権利を認めることが当然ともともと腹に腑に落ちている人でしか直ぐに返せない反応です。


つまりは、上記の表情、セリフ回しで、、、、僕が上記で書いた、80〜00年代の表現の変遷が全て前提として詰め込まれているということなんです。論理的かどうかはわからないが(たぶん論理的)、作者が、そこまで深く構築してそれを体感レベルまで落として表現していることは、間違いない。すげぇぜ。




・・・・実際は、このあとのアンちゃんの提案は、







「いいんです ちょっと いじわるを言ってしまいました」




「DXさま 今の私の使命は、あなたという人間を見極めることです どうなれ どうあれなどと言いません 

あなたを操ろうとする人間からは私が守りましょう」(アニューラス)






これまでのDXの心の動きをすべて見通したうえで、いったんアンちゃん(借りが結構ある)に対して交渉上劣位に立った状況を鑑みて、、、、




そして、一緒に行ってもいい?という駆け引きを持ちかけている。(だって、一緒に行く必要性は、DXにはないんだもの。)


もう・・・・すげぇよ!!!(笑)このセリフ回し。脱帽です。





※1:「役割論の反発への反動」
というのは、またまた僕のなんちゃって造語。定義があいまいなのは許してください。そういうの詰める気ゼロなんで。むしろ、そのへんの定義をゆったり話しながら、議論を進めるとか、核心を明らかにするってのをしたいのが、僕のやりたいコミュニケーション。定義の精確さは、仕事では部下に任せる。・・・ってブログには部下がいないが。




※2:FAW(Forces at Work)分析
この言葉はマッキンゼー創始者マービン・バウアー氏が考え出したもで、直訳すれば「そこで働いている力」となる。マクロな事業環境分析であるFAW(Forces at Work)分析は、未来を予測するのによくつかわれる分析方法です。ある傾向を伴った事象があれば、そこには必ずその事象を発生させた力が働いているはずだと考えて、その力を分析し、発見することです。
http://www.bbook.jp/backnumber/2007/05/post_229.html
http://www.b-t-partners.com/pdf/pdf5.pdf



※3:自己解体を進めていく志向性の展開
これ、ベトナム戦争のソンミ村の事件や中国の文化大革命ニューエイジ・ヒッピームーブメントと浅間山荘事件などを例に長々と説明したが、、、消えてしまったので(泣)もう書きません。でも、わかるでしょう?。わかるひとならば。




※4:「多様性(ダイヴァーシティ)の飛躍への戸惑」
これも説明すると長いので、パス。




※5と6も説明すると長いのでパス。




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