二元論の超克〜三国志のパワーポリテクス/数字は2よりも3がすごい!

これもまおゆうの記事の補助線として再掲しておきます。

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■物語の二元論〜

■二元論の超克〜三国志のパワーポリテクス/数字は2よりも3がすごい!

■二元論の系譜〜アメリカ・ハリウッド映画から/ダンスウィズウルブスとラストサムライ



前回の二元論の話 の続き


二元論の系譜/Destinyの物語の破綻


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ゼータガンダムの物語構造の換骨奪胎


惜しいなぁ、と思う。SEEDもDestinyも、物語が破綻している。とりわけ、軸を失ったDestinyは見ていて感情移入はできないし、かといって二元論からへの脱出を上手く描けていないので、見ていて全然面白くない。SEEDでそれなりのキャラが立ち、それぞれのキャラクターに思い入れができる素地があっただけに、残念だ。



というのは、



オーブという非戦を唱える第三勢力の存在



や、



ラクスらが形成した第三の道



そして



明確な組織として実体がないロゴス(軍産複合体



また



なかなか見えてこないが、地球連合軍も、大西洋連邦ユーラシア連邦と二つに分かれている




などなど、二元論のパワーポリテクスを打ち破る設定がたくさん隠されているからだ。SEEDが、明らかに富野監督のファーストの物語構造の模倣であるとすれば、Destinyはゼータの構造の模倣を目指したのだと思う。だから、設定や問いかけ(だけわ!)は、なかなか悪くない。

ゼータガンダムは、そのあまりの複雑さで有名だが、単純な二元論に堕さない世界観を大衆エンターテイメントレベルで描くことができたというのは、とても画期的なものであった。だから、これはなかなかにモデルとなる作品であると思う。

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ガンダムサーガのファースト・ゼータやエヴァンゲリオンの表現の、その後のクリエイターへの影響を度を考えると、時代を画す作品は、次世代のある期間を支配しつづけるので、とても注目に値する。



ガンダムシードも、そのパクリというのは大げさだが、焼き直しと考えればいいのだと思う。あっ、ちなみに、僕はパロディ、オマージュ、パクリ、物真似は全然悪いことだとは思いません。その作品自体の「質」が高ければね。


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ちなみに、一点だけ、ゼータの欠点を上回る優れた点が、SEEDシリーズにはある。それは、単純にいって視聴率があること(笑)。



いいかえると、SEEDでは、キャラの萌えというかキャラクターに感情移入させるための装置がたくさんあって、わかりやすく視聴者を物語世界に招き入れることができているのだ。これは、素晴らしい物語の特徴なので、陳腐であっても僕は否定しない。むしろ賞賛に値するものだ。




ゼータは、ある意味、Destinyの物語構造に近く、




明確な感情移入のキャラクターがないこと







対立軸が複雑すぎて視聴者がついていけなくなる




という、マイナスポイントを持っている。



これは、二元論を超克しようとする物語構造・ドラマツゥルギーによく発生する問題点だ。ただ、行き過ぎるところまで、突き抜けている(笑)ゼータに比べると、あきらかにDestinyは駄作だけどね。



■二元論の超克


こうした二元論の超克を目指す物語構造には、宿命的に伴う問題点がこの点だ。





①明確な感情移入のキャラクターがないこと




②対立軸が複雑すぎて視聴者がついていけなくなる







前回説明したように、「敵を作ること」つまり、善と悪をはっきり分けることというのは、人間の本性・本能にとても合っている。だから、自分の愛するものを殺されたから殺し返すというロジック・心理には、強い正統・正当性が感じられるのだ。




だから、すなわち、感情移入効果・同一化の効果が非常に強い。






それはすなわち、おもしろい!と考えてもらっていいんです。だからこの、「敵を敵として憎むこと」をキャラに禁じてしまうと、視聴者が感情移入の先を失ってしまうんです。






二元論の拒否というのは、主観的な視点で世界を眺めないということだからです。




世界には自分ひとりではなくて自分と同じように感じる相手もいて、敵であっても同じ気持ちを抱いているという「強烈な想像力」を持たないと、主観的な世界(=唯我論の世界)から抜け出すことはできません。はっきりいって、すごくすごくむずかしいですが。



この主観的な世界(=唯我論の世界)というのは、一言でいえばナルシシズムの世界です。



竹田青嗣「自分を知るための哲学」の中の「ノルウェイの森村上春樹)」の主人公の絶望を説明した評論があるのですが、それが非常にわかりやすく、ナルシシズムの行き詰まりを説明していています。もし気になれば参考に読んでみてください。僕が何を指して、主観的な世界は、面白いが行き詰まると評しているのかわかると思います。もしくは岸田秀さんの本でもいい。

自分を知るための哲学入門 (ちくま学芸文庫)
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三国志のパワーポリテクス/数字は2よりも3がすごい!



②もそのバリエーションですね。2元論は、善と悪に二つに分ける思考形態なので、ここに3つ目の勢力を挿入してやると、世界がぐっと複雑になるんです。




これは、中国の超有名な物語である三国志演義を見ればわかるのですが、敵の敵は味方というように、敵とか味方が同盟関係の結び方によって、敵味方対関係が際限なく移り変わる可能性が生まれます。



そうすると、当然、虐殺とかあまりに相手を侮辱する行為とかはできなくなります。




えっ?なんでかわかりませんか?




だって、考えてみてください、まず3つの勢力がいれば






①敵と敵が手を組んで、自分攻めてこないこと




②どちらか一方と組んで、一番でかい敵をまず潰すこと





が戦略上の大きな命題になるのは、わかりますよね?。



そのためには、




・外交力を駆使して敵同士が結びつかないようにすること、



・そのどちらとでも何時でも手を握れる体制を整えておくこと




が重要になるのです。もし、相手と修復不可能な敵対関係になれば、相手はもう一方の勢力と手を結んで、自分をつぶしにかかります。それじゃあ、自分を追い込んでしまいますよね。


何時でも相手と手を結べる状態・余地を残すと、最終戦争にはなりにくくなるのです。


これをして、国際政治とか外交のパワーポリテクスといい、こういう均衡を重要視する政治スタイルを国際均衡主義といいます。




これを一番、東アジア世界で人口に膾炙させたのは、なんといっても天才宰相・諸葛亮孔明です。



天下三分の計ですね。



ただの流浪のゲリラであった劉備に、世界を、際限のない動乱から限定的な正規戦争のみのバランスある均衡政治をデザインし、平和(=バランスが守られる均衡)に導く方法を教えたのです。まぁもちろん、春秋戦国時代には出ていた戦略ですがね。

三国志 (1) (吉川英治歴史時代文庫 33)
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三国志 (1の巻) (ハルキ文庫―時代小説文庫)
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■エンターテイメントの受身の消費者は、自分で世界を解釈できない



ただ、この複雑な敵味方を超えた世界観を、物語として再現するのは、とても難しい。



なぜならば、



・多軸間同盟による均衡政治は、どうしても後ろ暗い妥協と汚らしい謀略の影が付きまといます



・また均衡政治は、とても戦略的な思考を要求するので一般視聴者の受身の頭では理解しがたい



・もしこの複雑な関係を物語に再現しようとすると、三国志のように小説ならば多大な紙面を、アニメなら多大な話数を必要としてしまいます。読者がそこまでついてくるかは微妙です。即効性がある面白さではないからです。※1)



※1)ちなみに、「膨大な時間・紙面が必要」というのは、現実世界では、重層の長い歴史認識が深く理解されているということです。東アジアが教科書問題で揺れるのは、日本、韓国、中国の歴史認識のレベルが極めて低いことから来るんです。中国、韓国のような、つい数十年前まで軍事独裁国家でまともな議会も存在しなかった社会であればともかく、近代の明治維新以降100数十年もたつ日本社会で、これだけ歴史認識がお粗末なのは、情けない。


僕は、1970年代以降の角川映画の角川のメディアミックス手法の展開に代表される消費者のマスか化が大きな原因だと考えています※が、マス(=大衆)レベルでは、世界を独自に主観的に解釈しうるほどの知的アリストクラートはおらず、そもそも「世界の解釈」を他者にゆだねる価値判断に自信のない層がこの商品のターゲット層となりました。このへんは、詳しくは中島梓さんの「ベストセラーの構造」を読むとわかると思います。


ベストセラーの構造 (ちくま文庫)
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だから、多軸間同盟の複雑な均衡政治、多国間外交のパワーポリテクスを理解できない層が、非常に広く広がっていることも加わり、この手の第三の道への選択が非常に難しい社会に、日本はなっているのです。

これは現実の社会での、アセアン等での東アジア共同体提案や北朝鮮を巡る外交のレベルの低さ、民意・マスメディアのの無能な反応振りをみると、よくわかります。




■さて、もう一度ガンダムシード

   
さて、話を戻すと、カガリ・ユラ・アスハが、何度も



「それ以外の方法はないのかと?」



と問いかけることや、アスランが単なる一兵卒、戦士でありながらどうしても政治的な全体の視点を捨てきれないで思い悩むこと、キラやラスクのように明確に二元論への反旗を翻す意志を持ちしかもかなりの勢力・戦力維持している点など、全編を流れる発想の原点は、ゼータと同じで、




善と悪を単純に二分できない世界の難しさにどう対抗するか?




という極めて現代的な問いなのでだ。



とりわけ、SEEDの親友がいつの間にか、敵になっていたという設定や、自分の友人を守るために戦った相手が同じコーディネイター(同じ部族ということ)であったという極めて、ありえつつもありえにくい設定で悲劇的にキラを追い込んでいくドラマツゥルギーはなかなかに見応えあった。人気が出るのがわかる。



だから、キラの悩み、カガリの悩み、アスランの苦悩は、非常に共感する。(物語や脚本が破綻しているから感情移入は難しいが)



けどねーこれが、Destinyでは見事なまでに意図を破綻して、失敗しているんだよね(苦笑)。



それがもいったいない。すべての問いかけが、「問いかけ」だけで終わっていて、具体的な方法や実践に全然踏み出さないんだ。




「なぜ戦わなきゃいけないんだ!」(byカガリ




って、その答えを実践するのが指導者のシゴトなんだよ、カガリ君。君はそれを問うのではなくて、「答える」のが本務なの。それが政治家であり、リーダーなんです。


本来ならば、武装中立を唱えるオーブの政治理念、武力や経済力・技術力そして、コーディネイターの難民を受け入れる安定した法治体制などは、十分その根拠となりうる背景を持つ。けど、ここのリーダー(カガリやユーリ)があまりに政治的に無能で、そういった第三の選択肢を取れるほどのマキャベリズムがないんだよね。



そもそも、強大な大西洋連邦ユーラシア連邦といった帝国的な政治権力に組しないで独立を維持してきたこと、しかも新型のモビルスーツを、ZAFTらコーディネーターの本拠地よりもレベルの高い技術開発力で成し遂げているところから、



相当のスパイ組織や情報組織の存在や、中立を守るためのあらゆるド汚い手を駆使して来たはずなんだ。



光があれば闇がある。



たとえば永世中立国のスイスが、なぜ永世中立なのか?。それは、彼らがあまりにも貧しく、自らの国民を傭兵としてヨーロッパ中に輸出したためだ。ヨーロッパ各国軍隊の重要な供給源となったため、各国が他国からの影響をっ嫌ったのだ。また国民皆兵レジスタンスの訓練をし、核兵器を自前開発しているほどの意志がある国家だからなのだ。




これ以上の強大な力を持つオーブが、独立維持してきたのは、伊達や酔