ワナビーではなく、なにをやりたいかだよね。

2010-11-17 ○○になる!  →  ◎◎をやる!
Chikirinの日記
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20101117

とても腑に落ちる。「○○になりたい!」ってのは、たしかにだめなんだよね。「○○をやりたい!」でないと、結局何もできなくなる。何かをやりたいと思っていると「やれるような手段を若いころからコツコツこと訓練する」ことになるしね。 立場が欲しいのか「やること自体」が欲しいのかというのは、凄く重要な分水嶺。基本的、後者でないと、ほとんどの場合は成功しないと思う。もしくは権力や立場の亡者になって、見苦しい生き方をする。小さなことでも同じ。なんか起業したい、とかそういうのも、僕には同じように聞こえる。本当にやりたい人は、「既にやっている」し「人に相談するまでもなく巻き込まれ」てるし、「悩む余裕もない」人が多い。悩んだり、相談したり、まだやっていない時点で、もうだめなんだよね。本当に成功する人は「手段に没入できる」人だと僕は思う。結果が欲しい人は、目的の奴隷で生きるだけだもの。重要なのは、「手段そのものを楽しめる」こと。そうでなければ、遠き道のりを同じ道を歩くことはできないと思う。それって、前に言った『自分を楽しむ』というコンセプトになっていくんだと思う。


追記


この「手段を楽しむ」というのは、受験勉強をしている時に凄く感じたんだよね、、、自分なりに成績を上げるためのメソッドを考えこんでいた時に、一つは動機、もう一つはテクニカルな集中の仕方をまず考えたんだよね。動機の話はいつもしているんだけど、2番目のテクニカルな集中の仕方、、、なんだけど、経験があると思うけど、「集中している状態」というのは、凄く記憶力が上がるし、目的ができるかどうかという不安も消えるし、しかも何気に楽しいんだよね。


で、この集中力をあげるためにはどうするか?というのが、受験勉強を走りながら重要なポイントなんだなって思ったんだよね。一番の理由は、「これ」があがれば、不安が消えるという効果が大きかったかもしれない。けど、やり始めているうちに、「手段と一体化」していくと、何気に楽しくなってきて、あれ?って思ったんだよね、そうするといろんなことが前に向く。。。。


ああそうか、「いい大学に受かりたい」とかいう『遠い目標』だと「手ごたえがなくて」集中力に結びつかないんだ、というのがわかってきた。つまりね、「今日朝早く起きる!」とか「今日の単語覚える20個を完璧にする」もっともっと小さい目標に分解して、「はっきり手ごたえが戻ってくるような感じ」にしなきゃならなかったんだよね。そして、その小さな目標を、全体的なミドルの目標にリンクするように、あとあまり考えなくてもできるよに「習慣化」する。そして、それらの小さいのに「遊び心」や「手段没入の面からやりやすく」「目的にきちっと効率的である」方法を考える。たとえば、単語は、効率の面から一日30分ぐらいで20個ぐらいだけに限るけど、集中力や覚醒を促すために『大声で声をあげながら目をつぶって暗記する』とか、、このへんの暗記メソッドは、いろいろあるんで言葉で説明するのは面倒くさいんだけど、声を出してやるってのは、勉強で五感のどうバランスよく使うか?ということと関連してて(座ってやっているだけだと飽きるし集中力は消える)るだ、、、、ようは方法はなんでもいいんだけど、『あっこれ集中力が来ている!』という感じが目標なんで、「それ」が来るならどんな方法でもいいんだよね。



などなどと、しているうちに、「それをこなす」こと自体の楽しさが自分に訪れるようになって来た時に、目的の逆転現象が起きる。どういうことかというと、『大学に受かる』ということよりも「いま勉強している」ことの方が何となく重要というか重くなっている「体感」があるのだ。これを僕は「手ごたえ」による「手段への没入」と呼んでいて、この状態が来た場合、ほとんどの場合遠い目標はこの状態を数カ月キープできれば、ほぼ達成できる。ましてや受験勉強のように、「それのみ」に専心できる環境である場合は(社会人はそんなな贅沢な時間の使い方はできない)、莫大な効果が表れる。家庭教師で実際にいろいろ試して100%成功したので(当社比)・経験値準拠(笑))まーかなり横展開が可能な技術なんだと思うよ。あまり人を選ばないものだと思う。自分一人でやるのは、、、なかなか難しいかもしれないが・・・。




この時とても強く感じたのは、目的と手段の関係性と生きる幸福とは何か?ということ。




考えすぎの浪人生だっちゅーねん(笑)。でもその後の人生の基本姿勢になったよ。どういうことかというと、目的(=いい大学に受かる)ということは、しょせん遠い目的であって達成できるかどうか分からない。これに「到達できないんじゃないか」と不安になってイライラしていると、集中力が失せている状態、なのでほぼ間違いなくこの目的は達成できない(笑)という悪循環が訪れる。だからその不安をコントロールする必要性がある。なんだかんだいって目的というのは、環境や所与(=つまり外から)からくるものが多いし、また逃げていいことは何一つないんでね。


不安を消すのは、意思的に起こすには、時間軸に乗っている限り、、、、つまり時間というのは、目的「へ」向かっている状態のことを指すわけなので、その目的の奴隷(=不安)を消すことはできない。構造的にね。けれども、これを抑え込む普遍的な方法があって、それは、集中力によって時間感覚を消せ(笑)だ。なんか宗教みてーだな。でもメンタルコントロールは基礎だからねー生きる上での。んでもって、集中力といいうのは、、、、インプロヴィゼェーションを行って一回性の体験が訪れる時に発生しやすいというか、集中力によって脳がフル回転しているからこそ、一回性の「世界がキラキラする瞬間」が訪れる。話がそれた・・・けど、僕の世界解釈や実存主義哲学の思考の基礎なんで、ちょっと書いておく。戻すと、集中力によって「目の前手段に没入」していると、目の前の手段が目的化している状態が訪れるわけ。これは意思の力だけではなかなかできなくて、人間の五感にそもそも楽しいと思えることでないとダメなんだよね。気合いでは何とかなりません(笑)。けど、上手くそれが成り立つと、「手段そのもの」を楽しんでいる状態が来るわけ。受験勉強がいい具体例なんだけど、勉強がうまくいっていると、、、って、学問をしたり知識が有機的に繋がっていく「手段」「行為」そのものは、あるレベルに向かえば、つまらないはずはないので、すごくおもしろくなっていくるわけね、「それそのもの」が。そうすると、「それそのもの」がおもし理から、「いい大学に入る」という遠い目的は、無くなったわけではないんだけど、あまり意味がないわけ。だって、「いまこの状態が続くといいなー」と思っている(=感じている)わけだから。そして、それくらい手段に没入している時には、『方法論が戦術的に正しければ』すさまじい勢いで成績は上がるし、精神的にはめちゃめちゃ前向きになるし(だって楽しいから)、ほとんどの場合、遠い目標は楽勝で達成する。自分と自分が家庭教師をしてきた経験から、ほぼ間違いない。


だから思ったんだよね、、、「手段そのもの」が楽しいという環境にに「生きていくこと」が人の幸せなんだ。それが無理なくこなせる「居場所」で生きていくこと、それが重要。でもこれは戦術面。



戦略的には、動機の問題がある。「自分が何をしたいか?」「自分にとって何が本質的なテーマ」なのかという「大きな遠い目標」の構造が、自分にとって幸せに向かうように設計されていなければ、居場所がいかに楽でもそこから追い出されるかもしれないし、なくなるかもしれないし、なによりも「自分の本質の問題」と遠ざかっていくかもしれない。それは実は、「問題を直視していない」だけで目を逸らしている状態なので、どんどん不幸になっていく。たとえばここでは、俺は受験をしない!と決めることは、問題を直視していることになる。というのは、当然に受験をしないで楽しく幸せになれる具体的な目標を他に探すという意味があるからだ。ないと「目を逸らしているだけ」。


動機から導き出される、「志」や「目標」の次元の、「自分」にとっての正しさの検証。・・・実現可能性はここでは無視してもいいんだけど、年齢やステージが変わるごとに、この可能性は検証する必要性がある。


そして、確定した目標を、「小さな目標」に分解して「それそのものを楽しむ」ことができるかどうかを考える。ここが自然に「楽しい」状態でなければ、それは幸せには程遠くなる。なぜならば目的の奴隷になってしまうから・・・。ここは方法論だけではなくて、、、、いままで書いたのは、目的から下に落としていく「考え方」なんだけれども、常に「逆からのアプローチ」も必要。受験勉強は、上からでいいけど、、、、社会人や学生は目標あフリーハンドなだけに、自分が愛する「手段」とは何か?という機能法的に考える考え方「こそ」重要な気もする。



そして、、、、




これから出勤なんで、、、、もうかけぬすまん。。。