『僕等がいた』 小畑友紀著 不幸という名のドラマトゥルギー----濃い人生に人は魅かれるもの

僕等がいた 1 (フラワーコミックス)

評価:★★★★☆星4つ半
(僕的主観:★★★★4つ)

基本的にね、この物語を見ていて思ったのは、高橋が元晴を好きなる理由というのが存在していないわけ。いや正確に言えば存在しているんだけれども、描かれていない。理由って何かといえば、不幸という名の強度には、人はひかれやすいってことなんだ。いやも少し抽象的にレベルを上げれば、濃い人生をしている人には、人は非常に魅かれてしまうところがある。この高橋という女の子は、典型的な少女マンガのアバダーだと思う。とりえもなく、すごくかわいいわけでもなく、性格が悪くもいいわけでもなく、人生にドラマを何も抱えていない・・・・平凡でちっぽけな「私」。けど、別にルサンチマンがあるわけでもない。これって、1980年代以降の僕ら日本人の在り方にほぼミートすると思う。なので「これ自体」をどうのこうの言っても仕方がないと思う。基本的に、いまの日本の若い世代は、非常に薄いんだよ。70年代の生まれの僕だって、もう濃いとは全然言えない。ましてや80年代以降には、ほとんど強い強度の不幸は存在しにくくなっている。まぁでも、近代都市社会に生きるってのは、そもそも「そういうこと」なんなので、これを薄い!と嘆いても仕方がない。そういうと、いまの若いものはナットラン!というお決まりのパターン言説に堕してしまうからね。何もないこともまた、苦しさなのだ。強い自我とコンプレックスを抱えて、動機を駆動する旧世代の人間からすれば、取るに足らないように見えるかもしれないが、苦しさは当分の価値を持つ。そして、結局は、人の価値は、その「苦しさ」をどれだけ超えて学べるかということに尽きるんだけどね。


んで、好かれる理由が描かれていないところから、8巻までずーーーっと女の子(高橋)が、元晴にどう翻弄されているかの主観描写が続くわけ。これは、ふむー少女マンガに典型的だな、と。そして、こうやって人は、濃い人生に巻き込まれていくんだな(笑)っておもったよ。他者との関係性においてのドラマに巻き込まれていくと、人生自体が、関係性自体が物語になっていく。そういう強度に人は憧れるものだ。そして、より強い強度、より強いドラマというのは、不幸なんだよ。幸せや満足、物質的な豊かさは、人を緊張のある現実感覚を奪うことにしかならない。ほんとは、違う部分もあるけど、ほとんど場合はそう。。自律した意識と強度で「自らの人生を生きる」だけの力を持った人というのは、非常に少ないものなんだよ。まぁなので、不幸の強度を持った人のドラマに人がひきつけられやすいのは、基本なので、「ここ」を問うても仕方がないのだろうと思う。『僕等がいた』はそういうのを描いた物語。強度の持つ存在感というのは、物凄い鮮烈さを人に与えます。よく幸福の形は皆同じだが、不幸の形は人それぞれ違うといわれますが、それってのは、欠乏の在り方それが生み出す落差が作り出す動機というものが、それだけ鮮烈で美しいものなのだからでしょう。


だから物語を設計する時にとても重要なのは『こういう巻き込まれ型』の部分をどう演出するか?ってことなんだろうと思う。そして、もう一つ重要なのは、ここで語られる不幸…強度のある人生の中身ってのが何か?ということなんでしょう。


11巻の「俺って変?」というところの演出がすごくうまい。


そして、基本的に「家族の抱えるトラウマの連鎖」というものを、どう解消していくかが、この物語のポイントとなります。結局のところ、この物語は、矢野元晴とその母親、そして矢野の最初の彼女の姉妹が持つトラウマに、その他の人が巻き込まれたお話です(笑)。まぁ、巻き込まれるという名の強度もあるので、それもありだと思いますよ。薄く何もないことの不毛さに比べれば。



・・・・・・・・・・でもさっ!!!


ひとこと言わせてくれよっ!!



この世界は、この世界で、人は優しい素晴らしい世界だとおもうけど!!!。世の中には、やさしさを踏み越えて人を巻き込める陽性のパワーを生み出す人もいるんだぜっ!。みんな過去やトラウマにとらわれすぎだし、それをぶっ飛ばすような出来事って、人生は何度も起きるし、もっとエネルギーに満ち溢れている人もたくさんいる。世の中には、過去を見つめる人と未来を見つめる人の2種類があるって聞いたことがあるけど、、、もっと未来を見つめて、薄さなんかにも負けなく、充実できる人は人間社会にはたくさんいるんだろうと思う。実際、僕はそう実感する。そして、大きなトラウマや「繰り返される家のドラマ」から自分を自力で解き放って、凄く素晴らしい人生を生きる人だって、たくさんたくさんいる。信じられないような難問を、鮮やかに何の苦も無く鮮やかに解いてしまう人もこの世には、すい星のように現れることもある。この物語では現れなかったけど、、、生きていると、長い時間がたつと、何が起きるかわからないのが人生なんだよ。とんでもない逆転劇も、胸をすくような鮮やかな落ちも人生、ほんとに長く長く生きていると、あるものなんだ。、、、、なんかそういうことを思ったねー。もちろん、マイナスのことも同じくらいあるわけだが、結局は、何を見て、何に意識を集中していいるかにすぎないことのような気がする。人間万事塞翁が馬


それにしても、竹内君の失敗というのは、そうそうに七美を抱かなかったことだと思うよ。心の世界だけで生きていると、人はどこまでも生きられちゃうものだからねー。まぁ身体を手に入れても、同じ結末だったかもしれないけどね(笑)。でも、なんというか、距離をとるよりは、「その時の手ごたえ」を楽しんで、お互いを実感して生きた記憶があれば、それはそれで十分な幸せのなんというか「次のステージへの積み上げ」になるし、そういう積み上げの実感が、人の心を変えるものだろうと思う。


何かの物語で、「〜へ」と思って生きていて、「いまがない」というのは、僕はいいことには思えない。難しいけどね、、、成長が無い人生は、ひどいものだし、〜へ、向かわない人生というのは、とてもハリが無いものだと思う。しかし同時に、そこまで人は厳しくあらねばならないのか?とも思うし、万人が万人、そんな成長の緊張を持つ自己責任の人生を送るのも気持ちわるすぎる。人は、なんというか、大きな波のなかで生きているもので、自分の意思だけで生きれるものではないと思うからねー。この元晴くん、にもっと自己を確立して、とか要求するのも、なんかなーそれは正しいけど、不遜のような気がする。人はどこまで、世界と戦い、自己を確立して生きるべきなのか?と、同時に、人はどこまで世界を、起きたことそのものを受け入れていかなければならないのか、と、大きな命題の綱引きな気がするな。どっちも、美しく、そして人というか世界そのものだもの。


・・・・とはいえ、竹内君というのはいい男だったけど、いまいち押しが弱いなーと思う。うちの奥さんは、竹内君の方が何倍もいい男じゃないか!というけど、『押しが弱い』『我を貫かない』というのは、男としての勢いに欠ける時もあるのだよ。僕は、やっぱり矢野の方が魅力的に思えるよ。竹内君と比べればね。とはいえ、、、、いい物語だったなーと思うのは、元晴が「俺が女だったら、お前と結婚しているよ!」と、元晴くんが竹内君に告白する(笑)シーン。めちゃめちゃ、竹内君、嬉しそう(笑)。。。彼って、お姉さんか兄さんがいる、末っ子タイプだよなー、、、と今思ったが、そうだ姉がいたんだ。

僕等がいた 16 (フラワーコミックス)