『フライト』(Flight 2012 米国) 監督Robert Zemeckis 主演Denzel Washington 「つじつま合わせの積み重ね」が暴露され告発される時

評価:★★★★☆星4つ半
(僕的主観:★★★★4つ)

真実は、人を癒す。

朝いきなり場面は、ナディーン・ベラスケス(Nadine Velazquez)のフルヌードではじまって、度胆を抜かれた。そのあまりのナイスバディに、目が離せなくなってしまった(笑)。プエルトリコ系のせいか、エスニックな魅力がとっても魅力的でした。機長のウィトカー(デンゼルワシントン)は、旅客機のパイロットで、いつものように徹夜で酒を煽り、恋人のCA(ナディーン・ヴェラスケス)と過ごした後、コカインで眠気を払って仕事に向かいます。しかしその日運転した飛行機は故障し、どんどん機首を落としていきもう墜落というところで、背面飛行をし何とか不時着させます。その落ち着きあり、誰にもできないような見事な操縦技術で乗客の過半を救ったウィトカー機長は、メディアで英雄と祭り上げられます。しかし、一転して、彼の血液検査の結果でアルコールと薬物が検出され、ウィトカー機長は裁判で苦しい戦いを強いられることになります。

この作品は、シンプルな人間ドラマです。物語は3つの場面のシナリオから成り立っていて、飛行機が何とか危機を乗り越えて不時着するまでの緊迫感あふれるシーン。その次に、そこで行われていた行為にどういう意味があったのか?ということが安全委員会の査問に呼びされるまでに次々に明らかになっていく法廷劇的なシーン、そして、最後は人間にとって正しさとは何か?という尊厳について語られる場面。


シナリオはとてもシンプルで、けれんみは何もありません。観客は、ウィトカー機長が、徹夜で酒と女で疲れきったところにコカインを使用して頭をはっきりさせ、しかし操縦中もウッッカを隠れて煽っているシーンを既にみているわけですから、何も隠されていることはない。


ただ、それがどういうことだったのか?が、次々に明らかになって彼がかぶっている仮面がはがされていくところに、この物語の緊張感があります。そして、たぶん社会人で、大人をきちっとやっている人ならば、多くの人がとても共感し、そして恐怖するものではないだろうか、と思った。僕はこの映画を見て、ずっと強くウィトカー機長にシンパシーと、それが故の恐怖を感じました。こんなに、身近に迫ってくる恐怖は久しぶりでした。


なぜなら、それは「つじつま合わせの積み重ね」が、告発され、暴露され、自分の人生を崩壊に追い込んでいくことが、リアルな恐怖を持って共感したからでした。


「つじつま合わせの積み重ね」というのは僕がいつも心の中で唱えている造語というかキーワードなのですが、例えばですね、仕事をしているとどうしても逃げられない重圧にさらされることがあります。次の日には、笑顔で、全力で処理しないと自分のキャリアが終わってしまうようなときに、しかし精神的にボロボロで身動きが取れなくなっていても、それでも次の日には「そうしなければならない」というような、状況に追い詰められたことは、社会で生きていれば、それなりにあると思います。


たとえば、僕の友人は、大酒乱でそういう時には、信じられないような深酒をします。あと飲むと親しい人を殴ったり、キャバクラでバカみたいに金を使ったり(彼はたくさんの交際費を持っているので、それが可能なのです。とはいえ、交際費がなくてもやるけどね、、、)とにかく、自分の精神的な鬱屈や苦しさを、何かより激しモノを体験させて「塗りつぶして」気分を変えてしまうのです。一番いいのは、本当は寝ることなんでしょうが、不安や恐怖などのネガティヴなものは、そんなお上品なものでは、切り替わりません。基本的に、気分を変えられるのは、酒、SEX、高額の消費、暴力などの4つです。もしくは、アメリカならばここに、コカインなどの薬物が入るのでしょう。犯罪行為もこの延長線上にあるのでしょう。高いテンションが必要なものですから。その友人は、非常に厳しい仕事をしており、そのプレッシャーを跳ね返し、自分を維持管理するには、そういうものが必要なのでしょう。非常にはた迷惑な行為がほかにもいくつもあるのですが、しかし、それがなければ彼は明らかに壊れてしまうでしょうから、、、、それは生きていくには「必要なもの」なのでしょう。僕も似たようなものです。僕が、異様にマンガや小説や物語を消費するのも、明らかな自分が抱えている強いプレッシャーからの逃避で、自己のリフレッシュのためにやっているのがわかります。本当に落ち込んだ時は、昔は家にこもって酒を浴びるほど飲んで、アニメをずっと12時間ぐらい?布団をかぶりながら見て、そのまま寝てしまうということが、20代の前半にはよくありました。あの頃は営業のプレッシャーが激しく、しかも中国や韓国担当だったため、夜の飲みは狂った狂乱みたいな感じで、物凄く過酷な交渉や会議をした後に、そのままそういう飲み会に突入して朝まで飲むのです。しかも歌ったり踊ったり、叫んで囃し立てたり、、、、もうほんと阿鼻叫喚ですよ、ああいう飲み会は。しかも、いつも飛行機や電車や車で移動しているので、地理感覚も、ここがどこだ?というとも朝起きるとわからなくなることがしばしばでした。時々、精神的にテンションがおかしくなるので、そういうバランサーをとるものが必要だったんだろうと思います。丸1日誰ともしゃべらないで、布団にくるまっていました。・・・おれ、よく壊れなかったな、、、思い出すと。


生きていけば、自分の都合のいいような、余裕があるような状態で、大きなイベントごとが来るわけではありません。そのミスをうまくカバーできなければ、数年間の努力(みんなの!)がパーになるような超重要な時に、風邪をひくかもしれません。最愛の恋人が交通事故にあったりするかもしれません。・・・・でも、やらなければならない時、、、「時」というのは常にあり、そこから逃げることはなかなかできないのです。そのために、小さな、小さな「つじつま合わせの積み重ね」を重ねていくことになります。それは、小さなウソかもしれない。それは、小さなアルコールへの逃避かもしれない。それは、気分を変えるための薬しかもしれない。そして、「自分」を何とか維持するために、そうした小さい「つじつま合わせの積み重ね」は、膨れ上がっていくのです。みんなそうしたものを多く抱えながら生きているのが、大人というやつなんだろうと思います。そして、それが、何かのきっかけで、ほころび、暴露され、告発され、自分が築き上げてきたものが崩壊していく様は、なんという恐怖でしょう。程度の度合いはあるとは思いますが、社会で働いている人で、それなりの年齢の人には、この感覚は強く共感できるのではないかと思います。特に、自分を強くコントロールして生きている人ほど、このウィトカー機長の追い詰められていく様は、強い共感を持って恐怖するはずです。


アルコール中毒に関するカウンセリングや断酒の会のお互いの出来事発表など、アメリカは薬やアルコール中毒による問題も非常に多いのでしょうが、同時にそれをもう一度回復しようとする試みやコミュニティーの仕組みがたくさんあります。僕自身は縁がないので実物を見たことはないのですが、アメリカの映画やドラマを見ているとこういうシーンはたくさん出てきます。もう、特殊でも何でもなくなった2000年代のアメリカの日常のシーン。個人の自立が叫ばれ、人が息をつく暇もない自由競争の中で戦わなければならない半面、こういった個人が壊れていくことへの真摯なリカバーの取り組みや壊れたコミュニティーを回復させようとする仕組み作りは、再帰的に意識的に行われています。アメリカはとても両サイドに極度に振り子が降り切れるのを交互に繰り返す社会なのですが、マイナスが大きければ、それに対するプラスのリカバーも人工的に意識的に努力する社会です。そこがアメリカ社会の特徴であり、ある意味では病的でもあるけれども健全なところでもあります。コミュニティーや個人がこわれてしまっても、人工的にリカバーし直そうする力学が発生するのは、アメリカが人工的に作られた国であるという建国のDNAですね。しかし、近代民主主義、後期資本制で成熟した先進各国では、いわゆる伝統的な仕組みによって、社会に発生するアノミーや様々な障害を克服することが、もうすでに困難になっています。一つは、資本制が浸透して個人がバラバラな消費者になっていく過程で、古き伝統によって自然に形成されていた共同体が解体されズタズタになってしまっているので、人工的にしか対処ができないのです。そういう意味で、国家を主体的に運営して草の根からコミュニティーを人工的に再形成しようとする力学が社会にセットされているアメリカは、近代先進国の、人類のフロントランナーに相応しい実験国家だな、と思います。ここで起きる出来事は、同じレベルの国家にも同じように発生します。


さて、話を戻します。デンゼルワシントン演じるウィトカー機長。彼が実は重度のアルコール中毒者で、アルコールに依存して、妻にも息子にも離婚され、それをギリギリのところで社会人を維持しているところが飛行機事故の後、証言台に立たなければならない時間までの間に、じっくりと観客は見せつけられます。麻薬中毒ケリー・ライリー(Kelly Reilly)が唐突に出てくるのだが、彼女との出会いは、ウィトカーが、自分が中毒であるという自覚を持つためのエピソードなのだろうと思う。中毒者が一番重要なのは、自分が中毒だと自覚すること、だそうです。彼が最後の調査の証言のシーンで、自己の意志による選択をするためには、ここで自分の問題点に自覚があるという風にしなければならなかったからでしょう。


また話が少しわき道にそれるが、デンゼルワシントンとケリーライリーがお互いの寂しさから夜を共にするシーンがあるのですが、ちょっとびっくりしました。時代が変わったんだなーと思ったんですが、ほんの10年くらい前まで、黒人男性に白人女性が抱かれるというシーンは、とてもスキャンダラスなものでした。もちろんさすがに公民権運動から数十年、公に声を大にしていうわけではないでしょうが、それでも、そういうのはふさわしくないという暗黙のものがあった気がします。実際ほとんど見なかったですし。それが、何の違和感なくそういうシーンが挿入されるところに、時代の変化を感じました。


さて、この映画で最も印象的なシーンは、最後の証言台に立つ前の日に、もう、そうなるのがわかっているとしても、凄い緊張感であおって、やはりウィトカーは、酒を飲んでしまうのですが、その後のシーンです。ヤクの売人がやってきて、コカイン?(種類はよくわからない)をやらせるのですが、、、、その途端、ぐでんぐでんのウィトカーは、素面に戻るのですその戻り方が劇的。もっとも印象的なシーンです。

飛行機の墜落場面での驚くほどの冷静で沈着な態度、妻も子供もいて離婚した後も、超美人のCAの恋人を持ち、事故の後もケリーライリーのような女性をさらっと拾ってきて抱いちゃうところなど、デンゼルワシントンの演じるウィトカーは、見事なほどの成熟捨て魅力ある強い大人の男!だ。彼が社会人として、非常に優秀で、高いレベルの仕事をコントロールしてきたことがうかがえる魅力ある重々しい重厚な演技が光る。そういう強いコントロール感とマッチョイズムを醸し出す人ほど、内面バランスで辻褄合わせが極端で大きいことが多い。人間というのはそういうものだ。

それが、もしかしたら終身刑になるかもしれないという恐怖の中、彼はどんどん酒におぼれて壊れかけて行き、もうどうにもならないな、という証言の当日の朝の泥酔状態、、、これで彼の人生終わったな、と思ったその直後、一気に素面で、あのクールで仕事のできる彼が戻ってくるのです。これにはたまげた。僕はコカインの経験も、やって人も見たことがないので、ここまで劇的に泥酔状態から復活できるのかわかりませんが、この変化がこの映画の最大のポイントだと僕は思いました。

なぜか?。それは、なぜ、あのような酒をかっくらって酔っぱらった状態で、見事な飛行技術で全員が死ぬかの瀬戸際で素晴らしい運転ができたのか?がよくわかるからです。彼は、このアルコール中毒と薬の併用で、自分の人生をほぼ完璧にコントロール「できている」ということなんです。もちろん、10年以上のスパンで少しづつ体は蝕まれるかもしれませんが、コカインを十分定期的に買うだけの年収もあるし、またぐでんぐでんになっても、過酷なパイロットの労働条件でも、彼は十分にその職務を全うできているのです。それは、最大の事故が起きたその時に、ほぼ誰もできないようなすばらしい飛行技術で乗客を救ったことからも、彼が特に「神の御業」でこういった偶然の事故に出会わなければ、何の問題もなくパイロットの職業を維持できたであろうことを示しているからです。

そう、だとすれば、この証言台で、仮に嘘をついて一切の罪を免れたとしても、ウィトカー機長本人の両親の問題を除けば、第三者に迷惑をかけることなく生きていけるのです。彼はウソをついて、法律を違反したアルコールや薬の接種後の運転をしていましたが、しかし、ばれなければ特に問題も起きませんし、仮に事故があってさえも、今回のように彼の飛行技術の冴えはアルコールをやらない素面のパイロットよりも高い技量であることが示されているのです。だから、リベラリズムで言えば、彼の行為は「人に迷惑はかけていない」のです。すべてが自己責任のもとで、なんとか「つじつまを合わせる」ことができているのです。こういうことは、これが人命にかかわることなので、許されるわけにはいかないとしても、非常によくあることだ、というのは、長く生きていれば、わかると思います。


であるからこそ、最後の証言が、良心のみの問題になるのです。



彼は、自分の問題点を理解し把握し、その理性のコントロールの果てで、自らの人生が壊れてしまう道を、その良心に従って自らの意志で選びました。最後に、崩壊していた息子と刑務所でまみえるシーンは、この彼の「良心による選択」が、非常に価値の高いものであったというご褒美のようなものです。本来はアル中の父親で家庭が崩壊した経験がある子供が、あんなふうに父を許せるものか、僕にはわかりません。けれども、論理的に考えると、証言台でのウィトカーの告白は、自分の罪を自覚し、自分の良心に従ったことが明白な行為であって、非常に尊いものであるというのはわかります。ある種、おとぎ話のような印象もよく考えると持ってしまいますが、あまりに安定した人間ドラマの演出演技故に、ドラマが興ざめすることは全然ありませんでした。渋い、良いドラマでした。