『息もできない(2008年韓国映画 英題:BLESSLESS)』 ヤン・イクチュン監督 繰り返される負の連鎖からの脱出

息もできない [DVD]

評価:★★★★★5つ
(僕的主観:★★★★★5つ)

■あらすじ


容赦ない借金の取立で恐れられるヤクザのサンフン(ヤン・イクチュン)は、ある日女子高生のヨニ(キム・コッピ)と知り合う。
いきなりの殴り合いという最悪の出会いをした二人だったが、不思議と馬があい、心を通じ合わせるようになる。
全く対照的な立場の二人だったが、共に家族との関係に深刻な問題を抱えていた。
嘗て実の父親に母と妹を殺され、刑務所を出所した父にやり場のない怒りをぶつけるサンフン。
ヨニは元軍人で精神を病んだ父親と、学校にも行かず荒れた生活を送る弟ヨンジェ(イ・ファン)と毎日の様に衝突している。
そんなある日、ヨンジェがサンフンの組で仕事をする事になるのだが、彼がヨニの弟だとしらないサンフンは、オドオドした態度をとるヨンジェを「腰抜け」と罵倒する・・・・


■とにかく濃密な人間関係に圧倒される

製作・監督・脚本・編集・主演を兼ねる34歳(当時)のヤン・イクチュン監督の初監督作品。34歳!。簡単に片づけていい言葉ではないのかもしれませんが、天才、としか言いようがないですね。いつものごとくノラネコさんに、いまのお薦めは?と聞いた時に、これは絶対見た方がよいよ、と言われたもので、やっと見れました。感想は?と聞かれたら、すげぇ作品だった、ですねぇ。

イ・チャンド監督の『ペパーミントキャンディ(2000年韓国)』、ナ・ホンジン監督の『チェイサー(2008年韓国)』、ポン・ジュノ監督『殺人の追憶(2003年韓国)』と、ノラネコさんの韓国映画のお薦めを連続で見てきましたが、、、、、正直言って、圧倒です。まず第一に、どれも超一級の大傑作ばかりで、主張したいことの深みとエンターテイメントとしての人の心を良くも悪くも掻き立てるエネルギーに満ち満ちている。なんて、なんて濃密な世界なんだ、と絶句する思いです。
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殺人の追憶(2003年韓国)』 ポン・ジュノ監督 ソン・ガンホ主演  極端な流動化で翻弄されていく時代の狭間にある闇
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20101004/p3


僕はここ数年、日本の現代の映画をほとんど見ていないですが、タイトルや予告を見ているだけでも、映画としての濃度がまったく違いすぎるのを感じます。日本社会が希望を失った「ぼんやりとした不安」と「動機LESSで空気にたゆたっている」世界で閉塞している、、、言葉でいうのならば「薄い」のに比べると、その猥雑さ濃密さが信じられない位の「濃さ」です。決して、現代日本に比較して希望があるわけでも、お金があるわけでもないのでしょうが、何か圧倒的な「濃度」の違いがある。現代日本の置かれているポジションと現代韓国の置かれている、何らかの熱量の違いを、その絶望的な質の違いを、感じざるを得ない感じです。キーワードは「濃さ」なのかもしれません。何が違うんだろう?と思う。少なくとも韓国社会の経済レベルは、都市生活のレベルは日本と既に遜色がないと僕は思うので、決して開発途上国の高度成長の持つ楽天的な「希望」というステージは、既に韓国は過ぎ去っていると思うんですよ。なのに何の違いがあるんだろう?と。この違いは映画のクオリティの差だけではなく、例えば、作られるドラマの質量とかを見ても、凄まじい差を感じますよね。


一つ仮説をあげるとすれば、高度成長期の日本は、素晴らしい名作映画や小説を数々生み出したのですが、それは、日本の古き「共同体」の紐帯が、資本主義社会の浸透によって壊されていく過渡期だったからだと言えます。僕のイメージでいうと、『犬神家の一族』とかね。

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我々の住む現代日本の2010年代は、既に核家族の家庭すら解体は終了しており、個人がバラバラになって共同体的紐帯が解体しつくされた後の社会です。いいか悪いかは別にして、後期資本制社会の典型的な成熟社会です。韓国社会が、彼らの持つ古き「共同体」の紐帯が、いままさに壊れていく最後の輝きのステージだということなのかな?とも思います。今後10数年先を見れば、共同体が解体しつくされた後の、静かな「希望のなさ」が、日本特有の特殊要因によって発生しているのか、アジア社会の共通項があるものなのか、が分かるような気がします。


しかし、、、、この「濃さ」の中に、、、濃密でむせかえるような人間関係の中に生きることと、共同体が家族が解体されてしまった現代日本のような「何もない薄さ」の中で生きるとのと、いったいどっちが幸せなんだろうか?と問うと、非常に難しい気持ちになります。「薄さ」は薄さで、苦しくも濃密でも悲惨でもない代わりに、生きる意欲、生きる価値の素晴らしさに出会うこともない、、、何もない真っ白な世界。どちらがいいのか、悩むところです。


 
■繰り返すものからの脱却〜憎しみの連鎖を断ち切ること

主人公のサンフン(ヤン・イクチュン)は、借金の取り立てで生計を立てるチンピラなのだが、彼の出るシーン、ひたすら暴力暴力暴力の繰り返し。何かに憑かれたように容赦なく暴力を振るい続ける彼には、子供の頃の強烈なトラウマがあった。それは、暴力的な父親に、目の前で妹と母親を殺されたのだ。物語の基本は、親の暴力や家庭の崩壊によって、既に家族を失っているにもかかわらず、家族という形から逃げられない子供たちの「逃げ場のなさ」だ。サンフンは、それなりに大人になっているが、子供の頃に受けたあまりのトラウマが彼の人生を支配し続け、暴力によって閉ざされた自分の人生への恨みを、世界に投げ続けることでしか、生きる術を知らなくなってしまっている。高校生のヨニも、ベトナム傷痍軍人でほとんど半分狂ってしまっている父親と金をせがむことしかできない暴力的な弟の世話で、絶望の毎日を送っている。


この二人がどこにも行きようがない自分のボロボロの心を慰め合うかのように漢河で号泣するシーンは、ノラネコさんが言っている通り、映画史に残るといっても過言ではない美しいシーンだ。二人とも「どこにも行くところがない」「逃げ道のない」袋小路の中で、泣き崩れるシーンは、それほど逃げ場がなくなっても、まだ側で一緒に泣いてくれる人がいる救済のシーンでもあったのだと思う。


解釈的に考えれば、サンフンにとってはヨニは殺されてしまった妹を重ねるものであろうし、ヨニにとっては、既に崩壊して戻ることはあり得ない自分の家族の絆への諦めの代わりに、まだ絆を取り戻す可能性があるサンフンに希望を感じたんだろうと思う。


全編何が描かれているかというと、暴力の連鎖の中で自分を見失っているサンフンが、少しづつ少しづつ、「絆」を取り戻していく過程だ。母と妹を殺した父は、刑務所から出てきてサンフンと一緒に暮らしている。毎日会うたびに父親を殴るけるするサンフンだが、自分が唯一大事に思っている姉(異母姉)とその息子が、直接の暴力を見ていないが故に、父親に優しくするのが許せなくて、さらに暴力はエスカレートする。けれども、ヨニと接するうちに、暴力を繰り返している自分から、少しづつそこから出ようという気落ちが積み重なっていく。そして、父親が自殺をした時に、「死ぬな」と泣き叫びながら病院に連れていくときに、まだ自分は家族を大事に思える心が残っていることと、同時に、その家族を殺した父親を許せない気持ちとで、サンフンは狂ったように泣き崩れる。それが、上記のヨニとの漢河のシーンだ。この号泣が、ある種の「聖なるもの」として機能しているのだと思う。それ以降、彼は、少しづつ、何かを「許そう」と、していく。ほとんど音楽も特別な感情描写もセリフも無く、サンフンの心が移り変わっていく、、、魂が再生されていく過程は素晴らしい映画だと思う。


最後の決定的なのは、朝いつもよりも少し早く暴力借金取りの事務所にやってきたサンフンは、事務所の社長------自分と一緒のこの仕事を始めた兄貴分の男に「この仕事を辞める」と告げる。僕はどうなるんだろう?とハラハラしていたんですが・・・・というのは、この兄貴分の男は、終始、サンフンに対して「兄貴に対する言葉遣いがなってない」など不満をぶつけており、非常にサンフンを特別扱いにして気にしていながらも、一体どういうスタンスでの関係なのかが僕にはよくわからなかったからだ。


けれども、、、ああ、あのシーンは素晴らしかった。この暴力的な仕事が好きでや金の亡者に見えていた兄貴は「わかった。ならおれも一緒にやめる」と、すっぱとこの仕事を辞めることを決断するのだ。「一緒に始めたから、やめるのも一緒だ」って。そして「焼肉屋を始める資金の準備もできている」って、、、、。


ああ、、、サンフンは、こんな暴力の連鎖に繋がれた肥溜みたいな世界で、それでも、素晴らしい仲間と出会えていたんだ!って、ぐっときた。この兄貴最高だよ!って思った。真の底から心が通じ合って、愛情で繋がっていなければ、あり得ないような、その場での思いつきのような決断。最初から確信があって、ずっとずっと信じていたことがなければありえないような軽さ。この糞みたいな人生で、どこかでその連鎖から抜け出す準備をしていて、、、、この兄貴はとても大人だ。たぶん一人でも、十分に抜け出せる力も能力も資金もあったんだろう。けれども、サンフンの魂が、再生するまで待っていた節があるのだ。それは、孤児だった彼が、サンフンを家族だと、弟だと認識しているからに他ならないと思う。サンフンが、なぜ魂の再生を成し遂げることができたのか、といえば、それは、お姉さんとその息子を通しての父親との和解、そしてヨニとこの兄貴との出会いが、新たなる絆を彼にもたらしたからだと思う。


彼氏彼女の事情津田雅美/繰り返すものからの脱却
http://ameblo.jp/petronius/entry-10002092598.html

彼氏彼女の事情 (19)


かつて、僕は、津田雅美さんの『彼氏彼女の事情』で、本当の正しさとは強さとは、「繰り返される暴力と憎しみ、トラウマの連鎖」を「自分の手で断ち切ること」だと言いました。僕は、成熟すること、大人になることとは「自分のところで食い止めること」だと思っています。


この回答は、90−00年代の繰り返された自意識の告発という、自分の内面のトラウマをえぐっていって現実に踏み出せずに自分の心が壊れている理由を探し続けた結果、その結論として、母親もしくは家庭にその根拠を求める物語の収束ポイントが続発したことに対する回答でもあると思うのです。


なぜ自分がアダルトチルドレンなのか?。なぜ自分が現実に足を踏み出せないのか?こう、多くの物語は問いかけました。


それは、ほとんどが確かに家庭環境に行きつくでしょう。けれども、じゃあ親がそういうふうに子供を愛せなかったり、承認を与えられないのは、その親のせいなのか?と言えば、きっとその親が子供だった時に、またその親から何がしかのトラウマを受けたのでしょう。そうやって、負の連鎖は続いていくものなのです。罪は七代まで続くものなのです。だからこそ、自分自身の手でその負の連鎖を断ち切ることこそが、大人であり成熟である、と僕は考えます。自分がダメな理由を探すだけではなく、自分が乗っている「負の連鎖」の原因を突き止め、それを、自分のところで食い止め昇華する、言い換えれば、「すべて自分が背負い込む」。それが、大人になるということ。下記のテーマは、全てこの流れを念頭に置いて書いてきた記事です。


1990年代から2010年代までの物語類型の変遷〜「本当の自分」が承認されない自意識の脆弱さを抱えて、どこまでも「逃げていく」というのはどういうことなのか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100521/p1

『しゃにむにGO』 27巻 羅川 真里茂著 負パワーを正のパワーへ
http://ameblo.jp/petronius/entry-10052586422.html

『しゃにむにGO』 27巻 羅川真里茂著 駿くんにしあわせをあげてほしい!
http://ameblo.jp/petronius/entry-10051986002.html

しゃにむにGO (1) (花とゆめCOMICS)


そして、この暴力に溢れた人生を送っている、サンフンは、この繰り返される連鎖から抜け出ることが決まったその日に、、、、自分の暴力を受けた者からの復讐で撲殺されることになります。最後のサンフンの血だらけのシーンでの微笑みを見れば、彼の魂が救済されたことは、わかります。しかしながら、彼の行った暴力の連鎖は、サンフンの持つトラウマは、彼を殺した人間の人生に乗り移っていきます。これは、壮大な悲劇だ、と思いました。暴力の連鎖を、サンフンはその心の中で断ち切ることができましたが、彼が実際におこなってきた暴力の連鎖は、サンフン以外の人間に乗り移って繋がっていくのです。


ヨニの母親は、借金取りに屋台を破壊されて、その後、理由は僕はわかりませんでしたが(そういうシーンがあったかはわからない・・・)死んでいるようです。この屋台が壊されるシーンは、何度も出てきます。ヨニのトラウマで、彼女の家庭が崩壊した最後のきっかけだったからです。そして、その借金取りは、サンフンだというシーンが繰り返されます。ヨニは気づいているかどうかは描写がないのでわかりませんが・・・。これは、サンフンの暴力の連鎖が、ずっとずっと、いままでも続いてきたものだし、これからも続いていくことを暗示しています。様々な出会いと僥倖があって、サンフンの魂は絆を取り戻し、そして、彼の死の直前の表情からは、彼が救済されたことを感じさせます。けれども、彼が「受けてきて」「為してきた」暴力によるの連鎖は、違う男に引き続き、引き継がれていってしまうのです。・・・そして、サンフンの死は、ヨニとサンフンの兄貴と、サンフンの父親、姉、姉の息子たちにサンフンの面影を通した絆を取り戻させます。最後の、サンフンがいない中、みんなで焼き肉を食べるシーンが、このシーンの切ないところです。世界は、こういうものだと、見せつけてくれるからです。世界はきっとそう。一度起きてしまった連鎖は、簡単になくなりはせず、ずっと、ずっと続いていく。悲しいけれど、そういうもの。けれども、その時々に救済もあれば、喪失によって強まる絆もあったりする。素晴らしい映画でした。