『セデック・バレ』(原題:賽紱克·巴萊 /Seediq Bale) 2011年 台湾 ウェイ・ダーション(魏徳聖)監督 文明と野蛮の対立〜森とともに生きる人々の死生観によるセンスオブワンダー

評価:★★★★★星5つ
(僕的主観:★★★★★5つ)

日本人を悪役として描いた反日映画と、いう風にどうしても表上は見えてしまうのだろうが、どうしてどうして、全然違う映画だったと思う。というよりも、文脈を考えると、これほど親日的な映画もないだろう、と思いました。まぁ、反日親日は、カテゴリーラベルなので、作品そのものの価値とは関係ないものなんですけれどもね。本当は。

この映画、約5時間をぶっ通しで見たのですが、全編に強い既視感があったのは、『アバダー』でした。

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この作品の軸を言うのならば、間違いなく文明と野蛮の対立です。大日本帝国とそれに従わなかった民衆という民族主義的な視点は、僕はほぼ全く感じなかった。表面上、あきらかにそういう意匠になるのだけれども、これは植民地支配に抵抗するという政治的文脈、もしくは旧帝国の帝国主義、侵略行為に対する道徳的告発という政治的ニュアンスが、まったく感じられませんでした。明らかに意匠というか形の上では、絶対そうでないとおかしいし、報道でも反日映画とかそういうカテゴリーで言われていたり、また日本では放映できないかもしれない、とかそういう意見があったようですが、僕には全くそんな匂いは、かけらほども感じませんでした。


全編に漂うのは『アバダー』を見ていた時に感じたものと同じ異世界ファンタジーへのセンスオブワンダーでした。


その解釈はこうです。この作品の軸は「文明と野蛮の対立」だと書きました。監督自身が、そういっています。その中身は、第一部を見ると、よくわかります。セデック族という野蛮人(PCを無視してまずこう書きます)が、これでもかと文明人である日本人を殺戮して、女性たちが集団自決をしたり、子供が自分の先生や同級生、女性を皆殺しにするシーンが出てくるのですが、そういった野蛮人がするであろう数限りない残虐行為の理由が、はっきりと示されています。

まず冒頭から、セデックの一つの社の頭目であるモナ・ルダオの若い時のシーンから物語は始まる。彼が、出草(しゅっそう)と日本人が呼ぶ、自分たちの一族の「狩り場」を守るために敵対する部族と抗争し、敵の首を狩ったものだけが勇者とされるという部族のルールに従い、敵の首を狩り、英雄として勇者として部族中に認められるエピソードから物語は始まります。

首狩り。確かに残酷です。しかし、この第一部の最初の、まだセディツクがセディツクらしく、なんの支配もうけていなかった時代のシーンを見ていると、その美しさ、そのエコロジカルに森と結びついた部族の生活の神聖さに、心打たれる思いがします。首狩りの残酷さも、その森とともに生きる動物である人間という文脈を感じながら見ると、これほど聖なる残酷さに満ちた生命のヴィヴィッドな輝きに感嘆を感じてしまう。本当に台湾にそんなところがあるのか?(実物のセットだからあるのだろうと思う)と思ってしまう奥深い森、、、僕は、屋久島やもしくは映像であれば宮崎駿の『もののけ姫』でしか見たことがないような、原初で太古を思わせる神秘的な森林の美しさに息が飲まれる思いで引き込まれました。この映像だけでも、見る価値があると感心しました。これは、森と共に生きる、いまは近代人、文明人には失われてしまった人間が自然と結びついてた頃の美しい生き方だ、という監督の思い描く思いが切々と伝わってきました。

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僕は、日本人が太古にもっていた美しさというのは『もののけ姫』で描かれているような奥深い森と、その森と結びついた生き方だろうという幻想のイメージを持っています。太古の日本を描くのならば、イギリスのケルト神話の世界と同じように、森と魔術と神秘をイメージ化した映画をぜひ見てみたいと常々思っているのですが、残念ながら、これに相応しい物語や映画を日本映画では見たことがありません。その片鱗をうかがわせるのは『もののけ姫』ぐらいです。既に日本では、こうした森とともに生きるような、アボリジニーアイヌ、セディツクのような、いわゆる未開社会というものを描く余地がないからだろうとも思うし、そんな森がほとんど残っていない(わけではないのだが…白神山地や北海道、屋久島もあるし、、)ということもあるのでしょう。しかし日本の神話、物語の類型には、ミッシングリンクがたくさんあります。たとえば、藤原貴族政治の物語というものは凄く少なく、すぐ鎌倉武士の時代に話が飛んでしまいます。たぶん日本頂点であったであろう蘇我馬子・入鹿政権についての物語もあまりみません。戦前は、神話の時代のレベルの天皇の物語はたくさんあったでしょうが、残念ながらそういう映像は現代では政治的に難しいというのもあるでしょうがなかなか見れません。また、日本の古代神道が生きていた、よりさらに古い時代の日本の物語というのも、あまりありません。こここそ、マジックと森と結びついた非常に美しい部族社会で、物語になりそうなものですが、こういうイメージを描いたものがほとんどないのです。それは、なんか残念だなーと思います。なぜなんだろうか?。黒澤明などもそうなのですが、日本の物語、というと強烈に武士の生き方のイメージで物語類型があふれてしまう感じがするんですよねー。平安時代の王朝の物語も無きにしも非ずですが、直に恋愛に収束していってしまい、「その外」でどのような政治があったのかが、権力が、全然描かれないのは不思議でたまりません。・・・まぁ、僕がもしかしたら知識不足なだけかもしれませんが。


ということで、リアルで物語では見たことがなかったが、、、、初めて、このような森とともに生きる部族社会の美しさを現実で見せてもらった気がして、感動した。これは、アバダーのような異世界ファンタジー的な感慨だったと思う。文明の中にすでに生まれ育った我々には理解しえないもの。人間が動物らしく、命の連なりの中に生きていたころのヴィヴィッドで荒々しい生命の連鎖の一つとして埋め込まれていた、あるべき感覚。それを、映像で見せてもらえたのは、素晴らしい体験だった。この美しさは、見ないとわからない。ぜひ見てほしいと思います。

なぜ、こうした首狩りなどの野蛮な行動が美しく見えるか?と問えば、それは、そこに明確な信仰と尊厳に結びついた世界観が存在するからだ異世界ファンタジーを描くときに、そこでのセンスオブワンダーを感じられるかどうかのポイントは、その「異なる」世界の異なる宇宙観を描けるか?どうかだ。もう少し言えば宗教、信仰が描けるかどうか?。どういうことかといえば、、その社会の持つ優先順位価値の体系が、我々の文明社会と明確な差を持って描けるかどうかが一つのポイントにあると思う。


このセデック族の最初の首狩りのエピソードでは、神秘的な森の中をしなやかに疾駆する人々が、敵の首を狩り、それによって勇者として認められます。その首を狩りを成し遂げたものだけが、勇者の証である刺青を顔に入れられることできるようになります。この刺青が、虹の向こうにあるというあの世で約束された狩り場に行くための「証」となる。

彼らが日本兵に殺されて次々に死んでいく絶望的な戦いに赴くときに、「虹の向こうで会おう」というのは、既に日本兵の首を狩った彼らには、本来行けなくなっていた(=日本よる文明化で首狩りができなくなり、証の入れ墨ができない)虹の向こうという”約束された土地”に行くことができるという部族の信仰がベースになっている。だから、事実としては、ただの自殺に近い特攻による自滅なのだが、そこに滅びの美学と美しさが生まれる。

最初のエピソードは、この部族社会の人間としての誇り、尊厳が何によってもたらせるかの信仰体系の説明のシーンなのだ。そして、もちろん言葉なのではなく、その現地の若者を多く使っているという中で躍動する美しい肉体、渓谷の中に朗々と響くセディツク後の歌声、森の民に相応しい、酒に酔ってトランス状態で共通の神秘体験を感じているであろう祝祭のダンスを見れば、そのセンスオブワンダーは、ダイレクトに感じられる。

これは『アバダー』と同じものが描かれている。違う点が一つあるとすれば、首狩りの儀式や血と臓物など、非常に生々しいものが描かれていること。また、我々日本人にしても、台湾人にしても、これらの人々が我々のルーツに関係するという接続感が、『アバダー』よりも、生々しい現実感を我々に与えてくれる。スペイン、ポルトガルの南米征服やアメリカのインディアン征服の過程を見ると、これらの類似の歴史や物語がたくさん見れると思います。アメリカ人には、この感覚は、まだ数世代前の話なので、わかるかもしれませんね。植民地の獲得、侵略、未開の文明化と、その後の民族自決による独立などの歴史が刻印されている民族でないとわからないイメージでしょう。

とはいえ、それでも、なんだかアニメーションや漫画を見ているような、ある種の非現実感というかファンタジーとして感じてしまった。この監督がそもそもこの物語を作ろうとしたのは、この霧社事件のマンガを見たからだそうだが、それは非常にわかる。この作品は、僕には、先ほども書いたのだが、異世界ファンタジーものに思える。いわゆる、アニメーションなどで見る、だ。それは、セディック族が、まるで漫画の世界に出てくるような、我々文明と対置する野蛮だけれども独自の信仰を持った異なる文明として、明確に「対置」されて描かれているからだ。本当の事実は、そこまでファンタジーのような美しい信仰の体系があったかどうかは、わからない。文明に崩されていくときの、部族社会の落ちぶれ度合いは凄まじいものだ。酒と薬と病気で、ボロボロになっていくからだ。この出来事のまた美しく描かなければ、そもそも文明に生きている我々には、受け入れがたい野蛮さが本来はあるはずで、そこがあまりに偶像視されて美しく描かれすぎている気がしてしまった。もう一度言うと、だからこそ『アバダー』のような異世界ファンタジーのセンスオブワンダーを感じるんではないか、と思いました。皆さんは、見てどう思いましたか?。

ちなみに、蛇足ですが、現実の映像で見るとイメージが強く浸透する。いままで台湾の山岳地帯には、行ったこともなかったイメージが希薄だったのですがこの映像でばっちりイメージが生まれました。この作品は、エポックメイキングな作品だろうと思います。なぜならば、これまで注目されてこなかったが故に、イメージの希薄な台湾の山岳民族や部族社会の「歴史」というものが表舞台に、イメージの世界に初めて強く登場したものですから。僕は本当に見に行ってよかった、と思いました。歴史的な事実としては、そもそもが脚色していますし、いろいろな意見があるかもしれませんが、そもそも興味がなかった世界に、物語の力でイメージが喚起されたことは、僕は歴史を感じる第一歩だと思う。たとえば、ビビアンスー/徐 若瑄(シュー・ルオシュエン)、(って僕好きなんですよ―可愛くて、僕ほぼ同い年だし。)が、台湾のタイヤル族出身だったなんて、特に気にもしていなかったのでこの映画を見て知ってびっくりしてしまいました。大好きなおばあちゃんとは、日本語で会話をしていたとか、、、もう凄くルーツをの接続感を感じる話ですよ。あとどうでもいいことかもしれませんが、この未開の世界での日本の軍服の文明国の美しさが、たまらなかった。日本の軍服とかって、悪いイメージしかほとんど見たことがないのですが、これって明らかに文明をもたらす清潔さに溢れています。それに、同時に描かれるのが、死生観が描かれた”未開人”の美しさもです。こういうの素晴らしいです。また、社(=集落)が、なぜ霧社とよばれているか????って思っていたんだが、映像を見て一発でわかった。ものすごい霧が物凄い濃い山地なのだ。またセディツク族が、英雄がいる、個人の戦いの勇猛さや気高さ美しさが意味を持つ英雄が重要な世界に対して、日本軍はすべての警官や軍人が、名もなき人々が集まっているという英雄がいない社会というのも強くわかる。


さて話をもどします。


この作品は、全編にわたって失われゆくこと成る信仰体系を持ったひとつの”野蛮な”部族が消えゆくその切なさを描いた物語です。このテーマは、まさに沢村凛さんの『ヤンのいた島』と同じもので、この連想を想定していたのは、正しかったと思います。この小説もこの手の関係では、そのテーマをすべて昇華して、見事に描かれている素晴らしい作品なので、ぜひ比較としてもいいので、読まれることをお勧めします。

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さて全編にわたって、文明対野蛮という構図がはっきりと意図して構築されています。なので、再度最初の話に戻ると、植民地支配に抵抗するという政治的文脈、もしくは旧帝国の帝国主義、侵略行為に対する道徳的告発という政治的ニュアンスが感じられないのです。少なくとも、僕は、あまりにも文明対野蛮の構造の文脈が強すぎて、侵略に対する政治的文脈を全く感じなかったです。これほど、あまりにもストレートな植民地の抵抗の物語を描きながら、そういう文脈を全然感じない、これはとても不思議なことでした。

たとえば、小さなことですが(いや小さくないのだけれども)、文明人の日本軍は、妊婦の女性を絶対に殺さないとセディツク族の方が信じていて(セデックは日本人の女、子供も容赦なく殺戮している)、その通りに日本軍は妊婦を丁寧に差別なく、日本の傷ついた軍人と同じ部屋で看病している。ビビアンスー扮する妊婦は、だから殺されずに生き残ることになります。族長の娘も、負傷しているのを見つけたら、軍人の手当をしている同じ病院のベットで大切に看護されている。日本人の日本軍の侵略の非道徳性を政治的に宣伝する映画ならば、こここそ、全力で妊婦や女、子供を皆殺しにする日本兵を描かなければおかしいはずで、さまざまな面で、日本軍や日本人の道徳性の高さ(=文明の論理)を細かく描写しているところが、とてもではないが反日の政治的映画には見えなかった。小さい部分というだけではなく、全編の大きな文脈に、この文明対野蛮の構図が貫かれれば、むしろ近代的な文明人としての日本人社会の、もちろん辺境の田舎なので、警官もろくに教育がなく差別意識丸出しの人間も多いが、決してトータルでは野蛮そのものではない信頼が感じられる。日本に対する政治的道徳告発の映画ならば、こうした文脈にはなるまい。

中国本土で、この作品が、非常に評判が悪かったというのはうなずけます。「セディック族が敵対的で日本人を殺しすぎる」という不思議な批判ですが、侵略の道徳的告発の政治文脈に載せるのならば、日本人を圧倒的な残虐な強者と位置付けて、逆に対置として支配されるセデックが圧倒的な弱者として描かれないと、文脈がおかしくなるからです。そういう意味では、非常に的を得た批判です。これが中国や韓国の映画だと、日本軍の鬼畜ぶりは、まったくもって文明社会の振る舞いには見えない残虐性をもってこれでもかと描かれやすい。それは、中国や韓国の映画には、政治性が強く込められているために、日本人や日本の軍隊の非道徳性を極端に描写するという「政治的文脈」が常にビルトインされがちだからで偏向して描かなければいけない圧力が社会に存在しているからでしょう。が、この『セデック・バレ』にはそういう意図は見えなかった。ちなみに、なぜ韓国や中国にそういった、日本の侵略の非道徳性を主張する政治文脈が生まれるかといえば、建国の神話に関係することで、彼らの建国=統合の基軸が、対日本からの侵略の克服や植民地からの脱却が、統合の主軸価値としてあるからだろう。それを超えてバランスある表現をするには、なかなか難しいだろう。強烈な親日国とはいえ、台湾ですら、このような作品が生まれるまでにこれほど時間がかかっていることを考えれば、中国や韓国にそれを求めるのは、簡単には無理だろうと思う。・・・といっても、僕はプートンホアが少しわかるぐらいで語学もほとんどわからないから、中国、香港、韓国、台湾のドラマや小説まで見れているわけではないから、この言い方も不遜なのかもね。実際は、もっと面白い興味深いものがあるのかもしれません。はぁ、もっと頭が良ければというか、語学ができたら世界は楽しかっただろうになぁ。残念。・・・・ちなみに、僕は、政治的文脈の有り無しも含めて映画はとても好きで、日本を残虐に描くからダメでとか、そういう気はないです。物語は捏造とプロパガンダの集合体であって、国力や現在を映す鏡であり、同時に歴史や過去の記憶の思いの集大成でもあって、それはそれとして見る、というのがいいと僕は思います。そういる社会的背景や隠された文脈を読み込んで系譜で理解するのも、また醍醐味ですもの。逆に、そういう背景文脈を踏まえつつも、それを超えるような気力を見せたりする「一瞬の輝き」こそ感じ取りたいところです。それが、マニアのオタクの醍醐味ともいうべきもの。


そうして、この文明対野蛮という構造を貫徹していくと、何が見えてくるかというと、日本人とセデック族の奇妙なほどの類似性だ。


先ほども書いたように、絶大なる武力の差がある日本軍に立ち向かうことは、明らかに全滅するということを、セディツク族は、特にリーダーである頭目モナ・ルダオは理解している。死を覚悟して日本軍に突撃していく特攻をする時に、彼らは互いに「虹の向こうで会おう」「虹を渡って約束された狩り場に行こう」と声を掛け合いながら、次々に死地に赴いていきます。もうこのシーンは、日本人にはおなじみのシーンが確実に連想されます。戦前の大日本帝国の軍人が「靖国で会おう」と散って行った、特攻を行っていく時の、のシーンです。これ連想しない日本人はいないでしょう。また戦前の日本を知っている人は、このモチヴェーションの在り方、死生観の持ち方、合理性よりも誇りある死に殉じてしまう姿勢は、戦前の日本人の姿そのものです。男たちが誇りを持って戦うために食糧を確保しようと、女性たちが皆次々に集団自決していくシーンなどは、沖縄の戦争映画が強く連想されます。そして、最後に赤い桜が舞い散る山地で、日本人の司令官が、


大和民族が100年も前に失った武士道を台湾で見るとは・・・」


と慨嘆するのですが、、、、この司令官は、セデックを野蛮人だとののしりまくる合理性ゼロのよくあるダメ日本人指揮官なのですが、その感情的な彼が、セデックの誇り高い行動を見続けるにつれて、最後にこうつぶやくのです。このシーンは、台湾の固有の部族に誇り高き武士道の倫理を見出しているのですが、言い換えれば、台湾人には日本の古くからある道徳や倫理である武士道の精神に対して、非常に受け入れる器というか土壌がある、類似性があると言っているとしか僕には思えませんでした。明らかに共通性の提示ですよ。そこから考えると、これって物凄い親日映画ですよね?。文脈で、そうとしか僕には思えないんですが?。みんなどう見たんでしょう?。僕、見てきて感じたままに書いているんですが、これ以外の読み取り方ってできるのかなぁ?。表面だけ見れば、植民地への抵抗の物語だけど、主軸のテーマからの敷衍を考えれば、それが語りたいことには思えない。あまりに鮮やかな類似で、これを反日とかって、とてもではないけれども僕には思えない。しかも、この提示を2011年といえば、台湾の総統の選挙の年で、国民党の党首を選ぶのかどうか?という時ですよね。馬英九さんが再選された年。そう考えると、『王となった男』という韓国映画も、大統領選挙の時の価値の提示ですよね。ここの王様、光海君も朝鮮半島の中で異色の中華に逆らった王様ですよね。なかなか映画監督というのは、やってくれますね。

【映画パンフレット】 『王になった男』 出演:イ・ビョンホン.リュ・スンリョン.ハン・ヒョジュ

確かに、この『セデック・バレ』の映画では、日本人兵士や警官、民間人が殺されまくるのですが、むしろ、この凄まじい無差別殺戮を表現すれば、文明対野蛮の構図で、野蛮側の文明社会への無理解さも強く際立ってしまい、セディツク族の誇りある死生観であると言えども、それを、妻と子供を殺された日本人警官(安藤政信)が強い憎しみと復讐心を持つのは、人間であるが故に当たり前だと観客は感じてしまうでしょう。この観客は、日本人であろうが何人であろうが、そう感じるに決まっています。だって、この警官は、差別心もなく心から誠実に付き合っていた人物なのであって、日本の支配が悪いからといって、例えば本人が殺されるのは警官(=体制側の職業)だから理解できますが、その妻と子供を殺すことは、明らかに道徳性がなさすぎます。これは、文明の論理をはっきりとセデックが無視していることを示してしまいます。


ちなみに、このロジックと非常に似た構造の物語があります。こういった、文明対野蛮の構図は、ヨーロッパ人が大好きな構図の物語類型なのですが、トムクルーズ主演の『ラストサムライ』がこのドラマトゥルギーと全く同じです。あれも、古き良き侍と、それと敵対する近代国家の対立が、描かれており、渡辺健扮する侍大将の文明人にはない倫理観の持ち主として、文明人である北軍の兵士だったトムクルーズ扮する軍人の心を強く魅了する、という話です。

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とはいえ、そこまで裏読みする必要性はないのかもしれません。文明と野蛮という対立で、森とともに生きる部族が、文明の波にさらされて、最後にその誇りある死生観を昇華させるという、そういう物語としてだけ見てもとても魅力的な作品です。ミニシアター系の上映館数が少ないものですが、是非お勧めです。