『ハンガー・ゲーム2/The Hunger Games:Catching Fire』 Francis Lawrence Director  現代アメリカをカリカチャライズした物語〜日本的バトルロワイヤルの文脈とは異なる文脈で

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評価:★★★★星4つ
(僕的主観:★★★★plusα4つ)

スーザン・コリンズの同名ベストセラー小説を原作とするジュブナイル小説の映画化第二弾。前作は、日本では興行成績が振るわなかったり、あまり評価の高いレヴューは見ないようなのだが、僕は非常に安定した秀作で、いい映画だと思う。1作目と2作目は監督が違うが、安定感は全く揺らがない。丁寧で渋い作りだと思う。

ただ、日本で人気が出なかった理由はわかる。というか、アメリカ以外ではこの作品の真価というのはわかりにくいと思う。ノラネコさんが指摘しているが、この作品は明らかに現代アメリカをカリカチャライズした物語だ。アメリカに住み、アメリカのカルチャーを体験している人には、この作品は、非常に自分自身の生活している肌感覚とシンクロするものがあると思う。まぁ、もっと具体的に言えば、アメリカン・アイドルなどのアメリカの国民的オーディション番組を見慣れて好きな人には、ああっ!これかっ!って思うものがあります。


ノラネコの呑んで観るシネマ
http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-578.html

http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-707.html



逆に、これらのアメリカのサブカルチャーというか文脈になれていないと、若者向けのジュブナイル小説が原作であるのですが、そこの基盤の部分が理解できないのだと思うのです。


たぶん、この作品を日本的な文脈で受け取ろうとすれば、単純に、なにも考えなければ、バトルロワイヤルものの文脈で受け取ってしまったり、宣伝してしまったりすると思います。けれども、そうすると全然違うものとして理解してしまうのではないか、と思います。その文脈で評価すると、微妙にボタンが掛け違っているというか、かゆいところに手が届いていないダメな作品、ということになってしまうのではないかと思うのです。


僕の理解では、日本のサブカルチャーのバトルロワイヤルもの出てくる文脈というのは、自意識の閉じこもり、ナルシシズムが極まった流れの行き詰まり感と解放という要請から生まれてきたもので、行動をしないで、考えに考え続けて悩み続けるという「閉塞感」の流れから、考えないで行動しろ!というような形でキャラクターを動かそうとする流れがありました。また、考え続けて立ち止まるのではなく動け、というのは『自殺島』のように、「生きること」とは、「死からを避けること」という端的な答えに結びつく実感をどう感じさせられるかが、重要な物語のドラマトゥルギーの終着地点となります。なぜならば、自意識の閉じこもりをこじ開けるための一つの答えは、生きることそのもの=サバイバルの実感=死を感じさせさえすれば、生きる意欲のある動物は生きようとするという当たり前の事実にたどり着くからです。そうでなければ、悩む時間を与えないで、殺してしまうえばいいのです(作劇の中)。ようは、弱に強食が正しいという動物としての本能の部分のルールに立ち戻ろうという系のドラマトゥルギーなのです。


自殺島』 森恒二著 生きることをモチヴェーションに
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110407/p2

自殺島』 森恒二著 バトルロワイヤルの果てには、新たな秩序が待っているだけ〜その先は?CommentsAdd Starkyuusyuuzinn
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110601/p7


というような、日本的な文脈のバトルロワイヤルものとしてこれを見たら、物凄い肩透かしになってしまうのではないか、と思うのです。このナルシシズムの自意識の閉じこもりは、日本のマクロ環境とリンクしているものなので、日本人であれば平均的に誰もが、好き嫌いはともかく感じることができると思います。けれども、上記で行ったように、アメリカの日常から生まれてくる文脈は、たぶんほとんどの平均的日本人はわかりません。大枠ではとても似ている文脈ですが、内的なロジックというか、中身は全然違うのではないかと思うのです。僕はまだ言葉にできているほどではないのですが、、、、アメリカンアイドルは好き見ているので、ああいう巨大なオーディション番組とか、あれが日常で周りで出た人がいる!とか、そういう、、、何というか「アメリカの日常」の延長線上に、このハンガーゲームがあるのは、凄い感じるんですよね。「そこ」から評価しないと、たぶんこの作品の真価は問えないだろうと思います。実際、アメリカでは大ヒットしまくっているわけですから。「そこ」の言葉を、コツコツ探していきたいと思います。まだ、うまく言葉にできていないので。ちなみに、オーディション番組の延長線上なんだなーと凄い感じたのは、カットニスが主催者側を出し抜く最後のラストシーンがまたあるんですが、、、そこで、観客全員が大拍手(笑)、このノリはアメリカだよなーって思いました。この作品の設定は、富裕層の娯楽として、殺戮バトルロワイヤル・オーディション番組を国民に見せているわけですが、見ている我々は、その観客と同化しているという形になるんですよね。


たらこスパゲティとガラパゴス
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日本文化と空間デザイン〜超主観空間
http://www.youtube.com/watch?v=2szRkXyCxss


ちょっと目先を変える話んだけど、グローバリゼーションとローカリゼーションをつなぐことで、プラットフォームの話をしているんだけど、、、ふとこういう似た構造が、文化にもあるよなーって思うのです。日本のサブカルチャーの文脈は、とてもローカライズされたものだけれども、けれど都市文明社会の中でのナルシシズムの地獄というのは、近代・現代社会特有の問題点で、プラットフォームとしては同じものなんですよね。ふとそんなことを思いました。


ちなみに、「アメリカの日常」といえば、もちろん、日本と同じ成熟したデジタル中世と成長の近代が混在した先進国の世界です。僕がこのブログでいつも話している前提としての都市文明社会のナルシシズムの地獄という意味では、同じ大きな流れに沿っています。単純ではないですが、『ボーリングフォーコロンバイン』の事件も、『アメリカンビューティー』の寂しさも、ボストンマラソンの爆破事件も、この大きな文脈とシンクロしていると僕は考えています。けれども、もちろん「日常の具体的な手触り」や「関係性のあり方」の構成のパターンや具体的なものは違うでしょう。あと、大きな文脈の一つとして、アメリカ映画には、僕は、ディストピアものの文脈が強いように感じます。

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そして、このハンガーゲームの作品も、バトルロワイヤルものとしてみるのではなく、アメリカ的な背景をもったディストピアものとして理解しなければならないのではないか?と感じます。アメリカ社会では、このナルシシズムの閉塞感、都市文明社会の孤独が、どうもディストピアものとして表現されるような文脈があるように感じます。


ちなみに、Jennifer Lawrenceの演技はとても見事でした。さすが、『ウィンターボーン(Winter's Bone)2010年』で見せた若いながらの見事な演技を思い出します。さすがやね。というか、この作品は、アメリカのジュブナイルモノ、、、いってみれば、日本で言うライトノベルの位置づけの作品なので、文脈慣れしていないとたぶん話は大げさだわ、キャラクター重視的だわと、なかなか大人が楽しめないものだと思うんですが、そういうのを超える重厚なつくりは監督のFrancis Lawrenceのしっかりした作りとともにそれを表現する要としてのカットニスの感情移入しやすい脚本Jennifer Lawrenceの演技力が光った感じでした。ちなみに、ウィンターボーンって物凄い傑作なので、ぜひ見ることをお勧めします。

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何気に、最初のハードカバーの挿絵は、桂明日香さんだったりする。なかなか渋い選択。

ハンガー・ゲーム (Hunger Games)

アメリカのは、こんな感じの表紙。

Catching Fire (The Second Book of the Hunger Games)