2013-11-23 「AともいえるがBともいえる」とか言う人の役立たなさ
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20131123
ちきりんさんのこの記事を読んで、本当にそうだな、と思いました。
生産性という言葉がいいのかわからないですが、解決と結果に結びつくものにフォーカスして、言葉と行動を起こさないと、人生は本当に無駄に過ぎ去ります。
たとえば、ネットの世界で、よく炎上とかがあるじゃないですか。もしくは粘着で、ある人の意見を攻撃したり、嫌いな作家さんのAmazonで悪口を書き続けたり。僕は、本当にああいうの意味がよくわからないんですよね、、、というのは、人生の無駄づかいじゃないか?って思って、なんか理解に苦しむんですよ。なんというか、全然生産性がない。そういう時間があれば、別のもっと生産性の高いことに集中すれば、もっと幸せになれると思うのに、、、って。ああいう人たちって、本人自身も強がってわかっていないのですが、とにかく現状に不満がある、自分が不幸せで、虐げられているという自己認識なんですよね。なので、他者に攻撃的になる。自分が抑圧されて余裕がないので、公平で広い視野で物事を見ることができない。他者の振る舞いがほとんど自分への攻撃として変換されるようなんですよね。ようは、相手を引きずりおろしたい。だけれども、ほとんどの場合は効果のないことばかりをしているわけです。かりに引きずり降ろすのに成功しても、それで攻撃した人が幸せになるかっていうと、実は全然そんなことはない。それは目的が完全に間違っているから。要は、生産性がない。、、、自分自身が幸せになるには、物凄く意味のないことを頑張ってやり続けているわけで、、、そんな暇があったら、自分が幸せになること、できることに邁進すればいいのに、どうしてそんな無駄な(=自分の幸せには全く効果のないこと)ばかりするんだろう?って不思議になるんですよ。
解決方法を考えると、僕には「幸せになる(=満足する・充実する)」ための努力をするしか答えがないと思うんですよ。そこに集中する。それ以外は無駄。人生の課題ってやつは、ほとんどこれになると思います。幸せの定義はもちろんいろいろあるんで、要は自分が満足できる状態になって、人生と自己を肯定できる状態という風に考えればいいと思います。
では、幸せになる方法は?という風に考えた時に、解決方法は僕のイメージでは、下記のような手順になります。
まずは、
1)なぜ自分が幸せじゃないのかの現状分析をする(=問題点を把握する)
2)とりあえず1)で出てきた問題点を仮説として、それを解決する方法を考える(=仮説と解決法の設定)
3)解決する方法を実践する(=実践し続ける)
4)実践が効果的でかつ、1)と2)の課題設定(=目的)に直接的な改善に結びついていることを評価し続ける(=結果と目的の連関性の確認)
これだけです。
ただし、これらには物凄く多くの付帯条件があって、それぞれの条件をよくよく認識しないとすぐ罠に落ちて、虚偽問題に騙されたまま人生を浪費します。
まずは、「1)なぜ自分が幸せじゃないのかの現状分析をする(=問題点を把握する)」ですが、僕がよく、ナルシシズムの地獄という言葉で表現するのものです。人間は視野がとっても狭い生き物です。一旦心理的に唯我論的な、オレが、オレが、の状態になると、自己空転を始めて、止まりません。やさしい言葉で云えば、素直じゃなくなる。素直でない人は、まず人生はうまくいきません。自分だけで考えられる答えなど、たかが知れていますから。
なので、まず重要なのは、自分が公平で広い視野でものを見ているかを、確認しなければなりません。自分と反対意見と思われる極と極と常に、それが正しいのではないか?と疑ってかかって、考え続ける必要性があります。これには教養がいるので、長期的には、読書と勉強がないとダメです。公平に見ようとしても、そもそも人は一人よがりで、エゴイスティックなものです。なので、せめてとても強く大前提として、公平に見て、自分の意見を疑い続け、自分が嫌いで敵対的なものが、もしかしたら正しいのではないか?という疑う心がないと、人間は、本当にダメになります。正義や正しさのみを主張する人は、ほとんどの場合、たいていは、思考がとても非科学的で、公平性に欠けます
また、論理的なだけでもダメです。目的は自分の幸せのためなので、ミクロの関係性の部分での意見を聞かないとダメです。いいかえれば、親兄弟、友人、学校の友人、先生、会社の上司、部下、同僚など、自分に直接的に関係ある人の意見をよく聞くかねばなりません。特に、自分が嫌いな人や自分の敵の意見や嫌いな意見が最も重要だと心得ましょう。マクロにおいてもミクロにおいても、考えた方は同じです。極と極を見極め全体感をもって鳥瞰図でとらえないといけません。学生ぐらいの人は、親兄弟から、一人も欠けないで全員に等分に意見を聞かねばなりません。できれば、祖父母、親戚からも含めて、自分の親の意見がどのような時系列的なルーツを持って形成されて出てきているかを、調べ上げる必要があります。また聞くというのは、従うのではないですよ!。よく勘違いする人がいるのですが。ちゃんと相手の立場を考え抜いて、俯瞰的に見ながら、本気で理解しようとするというだけで、従うことではありません。
たとえば、母親と仲が良くて、父親を軽蔑して毛嫌いしているのならば、父親の意見こそをたくさん聞かなければなりません。それと、教師の意見が、たぶん有効な客観視点です。彼らは、全体感をもって、かつ利害関係があって見ているので、自分に都合のいい表現ばかり使って搾取しようとするでしょうが、たくさん話を聞き続けて(時間+量)いけば、非常に有効な情報となります。時間をかける、量が必要なのは、教師や親は子供を搾取しようと洗脳する傾向があるので、疑いながら、話を聞き続けて分析しないと、彼らの利害関係やほんとうに都がわからないからです。ちなみに、他人は、相手を搾取しようと洗脳しようとするのが普通ですので(特に家族や教師が愛情という名でうそをつき無意識にするケースが多い)、そのためにも、読書をして、自分の意見を持って、極と極を見て全体ぞを知ったうえで、極端に騙されないようにする必要性があります。地図がなければ、すぐ騙されてしまいます。特に、親と教師は、本人は愛情を持っていると確信しているし、またそれが事実であるにもかかわらず、子供を搾取しているケースが多いので、子供側は、自分が独立して、強くなるまで本当にしんどい状況下に置かれるので、ここでの抵抗はとても大変です。まぁ、愛とか、親の庇護とか、学校空間とか、参入・退出の権利が自由でない組織空間は、生き地獄と化しやすいのですよね。まぁ、それがオリジナリティや文化を生むので、それを持ってすべてダメとは言えないでしょうが、究極的には人は独立して生きことを目的とすべきだろうと思います。
ちなみに、身近な人の話と位置情報が重要なのは、人生の構造は、身近なミクロの関係性の構造に支配されているからです。自分を取り巻く(特に親など金で自分を支配している人の利害構造は重要)利害関係の構造を金と情の2つの面からきちっとマップにして俯瞰できるようにしておかなければなりません。人間の行動は、それらミクロの関係性の構造の奴隷なのですから。
次は、
2)とりあえず1)で出てきた問題点を仮説として、それを解決する方法を考える(=仮説と解決法の設定)
僕は、これを動機の確認と呼んでいます。もしくは、その人が「ほんとうにしたいこと」などというように、このブログの物語分析では、ずっと物差しとして使ってきました。問題点の設定と仮説の方向性を考えるには、
自分が本当に何をしたいか?
を知らなければなりません。けど、ちなみに、「自分が本当に何をしたいか?」なんて言うのを知っている人はいません。また、実際、わかりません(笑)。40になるペトロニウスは、まだ自分が本当に何をしたいかなんてわかりません。本当の自分も探せていません(笑)。
けれども、この動機の根源を設定しないと、分析なり解決なりの方向性が散漫になって、何にもできなくなってしまうのです。なので、とりあえず焦点を作らなければなりません。仮説というのは、嘘でもいいから、無駄にならないように焦点を作れ、という意味です。行動にコミットするためには、焦点がないとだめなのです。焦点があればこそ、自分の日々の積み重ねの行為・クンフーが意味があることなのか?の評価ができるからです。
ここでは戦術論ですが、「自分が本当に何をしたいのか?」を、物凄く赤裸々な欲望でセットして、1)-4)のサイクルを回して見るとよいです。たとえば、僕は、高校から大学の頃に小さな目標を立てたのですが、、、、あっと、ここで重要なのは、
なるべく赤裸々でド汚くいやらしい直接的でプリミティヴな欲望がいい
ということです。人間は、自分に対して欺瞞と嘘をつく生き物なので、きれいごとで考えてしまいがちです。そうならないように、なるべき露悪的でいやらしい目標を立てます。それが、簡単ですし、何よりも、そういう露悪的なことの裏側にリンクして「ほんとうにしたいこと」が隠れています。どーせ、仮ですし。たとえば、僕は、いい大学にはいって周りの人間を見下そう!とか、そういういやらしい目標を高校生の時にたてました(笑)。あとはですね、世界中を見て回りたかったので、無理してでも大学に入ったらバックパッカーで中東に行こう!(アラビアのロレンスが大好きでした)とかシベリア鉄道でユーラシア鉄道を横断しようとか考えました。もう一つは、いろんなタイプの女の子とHがしたい!(笑)という目標を考えました。まぁ、すげぇプリミティヴですよね。これ、紙に書いて、具体的にどうすればいいかを、悶々と考えました(笑)。ああ、、、そうそう、最初に目標思考の意識を持ったときは、なるべく改善できる可能性があるもので、身近なことがいいのです。本当は最初は、クラスの友達と仲良くする!とかでもいいんですが、そういう小さな地味重ねというか課題設定、解決のサイクルを回した実績に後で、少し大きめのものにいくといいです。どうせ、継続していくうちにすべての目標は全然違うものになります。何度も繰り返すが、テキトーでいいのです。継続しているうちに、自分にとっての真実がわかってきます。「走るものの中に力は存在する」です。好きな言葉です。
ちなみにいろいろ考えているうちに、結局のところ、自分に自信がないんだな、、、ということに結論が到達して、自信をつけるにはどうすればいいのか?ということに到達しました。で、前に記事で書いた、プライドとコンフィデンスの違いに行きつくことになります。この話は物語三昧読者にはおなじみの話ですよね。というか、こんな抽象的で長い文章は、ブログのこれまでの解説を聞き続けている人でないと(もしくは本気で読み込んでくれないと)まずちゃんとは理解できないと思います(苦笑)。まぁ、わかってもらおうと思って、読みやすいように書こうとは全くしていませんので(むしろ逆にしているのは、長年の読者にはおなじみの話ですね)なかなか読むのはしんどいと思いますが。興味がある人は、ベイシックスキルのカテゴリーや過去の記事を読んでいただけるとうれしいです。僕も別に天才でも文章が凄いうまい人でもないので、本気で読んで付き合ってくれる人でないと、こんな長文読んでも無駄だと思うので。・・・・この部分は、コンフィデンスを獲得しようと思うと、それは小さな実感の積み重ねでしかありえない、というクンフーのお話です。この話はベイシックスキルで延々と書いているのでここでは割愛します。
そんで、都立高校に通う、運動が特にできるわけでもなく、成績が特にいいわけでもなく、彼女もいない、家が金持ちでもない、かっこいいわけでもない、やりたいこともない、という「ないないづくし」の普通の高校生に自信をつける、、、言い換えれば、他者と差別化できるポイントで、なおかつ、実際にできること?ってなんだろうと、延々と考えたんですが、、、、、
なにもなかったっす!!!!
普通の、高校生にできることなんか、ステージや世界を変えることなんか、なんもなかったっす(笑)。しかも、そもそも手持ちのリソースもない。ほんとうは、いろいろ恵まれたいたと今思い返すとわかるのですが、当時は、自分の心がナルシシズムの檻に閉じ込められたオレオレプライドくんだったので、友達もなにもいない状態なので、孤独で何にもないんですよね。
ちなみに、いろいろ目標立てて頑張りましたが、、、中学校、高校時代で、解決したりうまくいったことは、何一つなかったです。
じゃあ意味がなかったか?というと、この時のトラアンドエラーは、大学や社会人になって、物凄い有効になりました。人間なにが、どこで役に立つか、全く分からないものです。中学や高校の学校空間は、弱肉強食で原始的な「万人の万人に対する闘争」の世界なので、赤裸々です。ここで、組織論や人間関係を悩みつくしていると、後に有効になるのです。特に学校空間は、日本社会のダメな部分と良い部分が凝縮してピュアに表れるので、非常に文化人類的な視点で、外部から客観視する視点さえ獲得できれば、素晴らしく興味深いフィールドです。人間、長いスパンでは、苦しんだことはまず無駄になりません。人間の価値はどれだけ深く苦悩したかだ、ということを栗本薫が書いていた気がしますが、僕もこれには賛成です。抽象的な、格言的な意味ではなく、実利的にもです。中学や高校で苦しんだこと、逃げずに悩み続けて、考え続けてあがき続けたことそのことが、それ以降の人生の非常に重要なスキルとなったんですよね。こういう赤裸々な人格を盗み壊しあうような恐怖の学校空間で、どう人を動かすか?、どのように自己を保つか?、未来が見えない中でどのように生き抜くか、偏差値しか基準がない中でどのようにるル−ルをブレイクするか?、もてる要素が何一つないのにどうやって女の子と仲良くするか?、こういう人間関係をコントロールするには、どのようなスキルを長期的に身に着けなければならないか?、、、などなど、その後の人生のスタイルはすべてこことで出てきています。そして、その有効性は、数十年たってアメリカの企業の経営者になたいまでも、また続いています。高校時代や中学時代の悩み尽くして苦しみぬいた分析や、自分に要なことなどは、いまこのような立場になってもまったく変わりません。とても普遍性のあることだからです。
ちなみに、パンピーじゃない人も世の中にいて、こんな悩みやトラアンドエラーなしで軽々と「自分がほんとうにしたいこと」を見出して、人生を驀進する人も、いるにはいます。けど、物事は統計的に考えましょう!。そんな神様からのコーリング(=呼びかけ)みたいなのがあるような、選ばれた人間は、ごく少数です。全体の数パーセント。常識的に考えて、残り90%以上のパンピーに入ると自分で想定するのがベターです(笑)。統計的に考えれば、そこの平均をクリアすればいいので、難しくなくなるはずです。受験勉強だってそうです。たいていは、物凄くいい大学に上位者で受かる頭のいい人を目標に想定するんですが、そんなの無駄です。合格点の1点だけ超えることが目標の戦いなのです(苦笑)。トップのやつらと同じ土俵とルールで戦うのなんか、人生のむだむだぁぁぁぁぁ。。。と思います(ジョジョ風)
話がそれた。
「自分の本当にしたいこと」。動機を探す話でしたね。これもね、考え続ける、、、、その過程が答え(ああ、答えをいっちゃった。。。。)なので、結論があると思わないほうがいいです。その時に出た結論は、その時のものですぐ変わります。けどいいのです、課題は、仮説は、トライアンドエラーで修正していくものなので、まずは課題、仮説(=目的)を設定するのが重要です。鶏と卵の議論で、本当の目的とは何か(=自分とは何か?)は無駄な虚偽問題です。まずは目標は何でもいいのです。いい女を抱きたい。かっこいい彼氏をゲットしたいでも、なんでもいい。いったん、目標を設定して、達成して、それが自分の幸せに資したのか?というトライアンドエラーの運動に自分が入ることが重要です。
ちなみに、中学高校生なんかに自分の人生は、まず変えれません。上記の、選ばれた数パーセントの人ならオリジナルな人生を生きるかもしれませんが、自分がそうかも?、そうなりたい!と悩む時点で、そういう人ではありません(笑)。なので前にも書きましたが、学生ができることは一つです。福沢諭吉の答えと一緒です。
勉強しろ!!!です。
そもそも勉強できるなんて恵まれた状況はなかなかないのです。無駄な悩みをやっている暇あったら、ひたすら勉強する。学問ですね。これ狭い定義にしちゃダメっすよ。経験の幅をできる限り広く深くしろといっているので、異性と付き合う(同性と付き合うでもいいっす)とかだって本気でやりぬいてる限り、十分勉強だと僕は思います。経験の幅と深さをどれだけ濃くできるか、そしてその得た経験をどれだけ解釈して、自分の頭で考え抜くか?ということです。レベル上げに必要なのは、
経験×思考
です。ないないづくしのパンピーで、日本の人口の1一億人分の1でしかない無価値の人間だと、本当に経験で差をつけるのは難しい。中学や高校生までは、自分の平凡さを呪う毎日であるのが普通だと思うんですよね。少なくとも僕はそうでした。日本の学校空間は、「同じようであれ(=出る杭は叩き殺される)」という平均値と同調圧力の地獄なので、そうなりやすいのです。その頃の僕は、物語の世界では、違う人生を生きることができることぐらいが唯一の救いでした。なので、こうして物語を深く愛するようになったんですね。さて、経験×思考だったんですが、、、、経験の質や量自体は、高校生ぐらいまでは、まったく差別化することができません。なので、その解釈をどれだけ深められるか、、、その経験量が、凄く少なくとも、それをかけ算する解釈のために「どれだけ考え抜いたか=悩みぬいたか?」が、後の価値になります。もちろん、大学ぐらいまで行けば、経験の質を他者と差別化する方法はたくさんできます。大学生以降にはそれだけの自由があります。しかしながら、ほとんどの人が大学になっても同調圧力の波にのまれて、何も行動に移しません。理由は、自由がなかった高校時代までに、どれだけ悩みぬいたか?の経験をマルチプルするための思考の量=自分の頭で考えることが、ほとんどできていないからです。
3)解決する方法を実践する(=実践しつづける)
さて、次は、目の前の具体的なことにフォーカスする。「できること」にフォーカスする。できるだけ結果に対して効率を上げるってのが重要です。たとえば、ダイエットとか、まさにこの効率性から離れている無駄なものです。だって、結果(=目的)が全然わからないんですから。やせることは、手段であって、目的ではないのに、手段が目的化しています。やせて、みんなにちやほやされたり愛されることが目標ならば、まったくもって連関がありません。やせたからって、みんなから愛される保証なんかないじゃないですか?。目的は、みんなから愛されると、赤裸々に考えるべきです。また「みんな」って誰だ?という問いも重要です。不特定多数は、無駄です。身の丈にあったことしか考えるべきではありえません。実践の場では、「できること」でないと無駄です。できないこと、目的に効果がないことは、まったく無駄なんですよ。
ようは、1)-2)を念頭に入れつつ、すぐに「できる」ことにフォーカスして、かつ、それが、1)-2)の目的に効率的につながるものに、集中するべきなんです。このあたりの生産性に対して、執念が薄い人は人生を損します。別に無駄に終わって悪いか!といわれれば、もちろん、悪くはありません。僕はそういう無駄な人生は、幸せじゃないので、やだ、というだけです。無駄な人生みたいなのがいいとか、回り道がいいとかいう人がいますが、それは詭弁です。いっている本人も無意識にではわかっているはずです。だって、回り道したその先にある、終着地点は?やっぱり目的があるのでしょう?。また無目的に生きるようなスナフキンのような人生もいいよ、という仙人的な意見もわからないではありませんが(僕もそれに凄くシンパシーを感じるので)、そういった目的を持たないで揺蕩うような穏やかな人生というのも、またここでいう「目的」なんです。なぜって?。僕が何度もこのブログで書いていることですが、この資本主義の、、、いや、もっと広く言えば人が生きる社会はユートピアではありえません。そこでは、どんなきれいごとを言っても限られたリソースを奪い合う競争があります。この過酷な世界の中で、穏やかに無目的に生きていこうということさえ意識的に自分で努力しなければ獲得できないほどの贅沢なのです。贅沢だってことがわからないのは、世界を旅したことがない人か、本当に過酷な状況を経験したことがない子供だと僕は思います。
ちきりんさんのブログでのとおり、Aということもありうるし、Bもありうるということほど、無駄な意見はありません。生産性ゼロ。反対意見をとりあえず言ってみましたとか、とりあえず、言い張り可能な世界(byLD教授)で、言い張って相手を否定してみましたなんていう子供じみたことは、言葉の世界でだけしか意味を持ちません。自分の人生で証明することですから、他人の意見に言葉で反論する必要性すらない。反論すら無駄です。反論する時間があれば、自分の意見を鍛え上げ、それで現実でそれを反映させて変えて、そしてそれを論証すればいい。なので、このとにかく目的を念頭に置いて、ちゃんと解決を志向するという生産性の率の意識は常に持ちましょう。
人生は有限です。人間に与えられた唯一の平等なものは、時間です。仕事をしていると、この生産性に敏感かどうか、行動がこれを軸に律せられているかどうか、というのは、一瞬でわかります。無駄な人は、感情の承認要求(=おれの愚痴を聞いてくれ)とかそういうのが多すぎます。会社や仕事、社会は、他者と利害を分け合う公共の場所です。それがわかってない人が大半です。そういう人は、絶対にいい仕事できないし、評価もされないだけだけどね。資本主義社会は、結果で評価されます。
そして、重要なのは、3)は、できるまでやり続ける!!!
これが重要です。勘違いしているのは、目的のレベルが高ければ高いほど、3)の具体的実践の時間は物凄く長くかかるうえに、過酷です。よく自己実現の本なんかで、勘違いするのは、1−2)を設定したら、それで望みはかなう!などという嘘つけっ!!!!的なロジックと言い回しが多用されているところです。そんわけあるわけないじゃないですかっ!。
重要なのは、継続すること、、、、執念でやり続けるという強い持続意識です。
もちろん、目的の明晰さ、常時目的の正しさの確認、それに対する手段の生産性の確認、これが、常に回っていないければなりません。
それが、
4)実践が効果的でかつ、1)と2)の課題設定(=目的)に直接的な改善に結びついていることを評価し続ける(=結果と目的の連関性の確認)
です。だって、目の前の直接的に解決に連関することをやっていれば、数日もすると改善の手ごたえは、目的に到達しなくとも絶対に感じるはずです。感じなければ、手段が間違っているんです。女の子を抱きたい!と思ったら、なにするか?っていうと、、、、もちろん自分ができることを考えなければならないんですが、まずは、普通に、服装を清潔にせいておしゃれをしろよ、ということですよ。次に、自分が話せる女の子には、自分の話「ではなくて」ちゃんと聞いてあげよう、ってなるはずです。相手に立場に立つ、というのは、古今東西、次代を問わず、人間にはとてもできないことなのです(笑)。これだけで、中学や高校生は、劇的に周りとの関係が改善されるはずです。女の子に出会えないなら、当然、出会えるところに行くしかないですよね。単純な話です。男女がいる部活に入る、生徒会でも委員会でも、なんでもそういう場はあるにきまっています。どんな人がもてるかなんて、決まっています。周りのために、自分を少し横に置いてコミットできる人です。一時期的には、損もたくさんするでしょう。搾取されやすいですから、いい人は。けど、長期でぜったい見ている人はいます。そういう「行動」も起こしてなくて、俺は女にもてないとか、キモオタとか非モテとか、ただのひがみです。まぁ、こじらせて、社会に出てもそれが続いて内面が汚くなってら、そりゃー出会いもないし、無駄でしょうけどね。できれば、他者と豊かにつながって生きるほうが、人間にとって幸せなのは、あたりまえのことでしょう。もちろん、そうではない幸せの形や、本当にそれができない厳しさもあるでしょう。今後の社会で「そこ」が重要なポイントになるのも事実だとは思います。LDさんが主張するカンダタの蜘蛛の糸からもれる人の話ですね。しかし、これだけ人類がもっとも豊かな時代の、しかもその中で最も平均的に豊かさが分配されている日本社会に生きていて、あまり愚痴ばかり言うのは、建設的ではないと思います。
比較級の世界
さて、僕がよく比較級の世界は、無駄だ、いつもいいます。
これ、どういうことか?というと、他人と比べることは、人生を盗まれる物凄く無駄な感情だってことです。
上記の1)-4)のプロセスの中で、常に意識し続ける、重要な最優先ポイントは、生産性と「手ごたえ」です。
要は、3)の部分なんです。1)-2)と4)って、目的が変われば、すぐ変わってしまいます。そして上記で書いたように、目的なんてすぐ変わります。環境変化で。本当の自分もありません(笑)。それらは、長期的に考え続ける課題であって、答えはありません。精確に言うと、答えは、考え続ける過程にあるのです。
なので、ようは、日常生活において、自分が何かを変化させている、改善させている、そしてそれが自分の設定した目的の方向に収束しているという実感がある人は、人生を前向きに生きていることになります。
クンフーの話で何度も語っていますが、具体的な「手ごたえ」というのは、それ自体が楽しいものなので、目的が消失していても意識しなくとも、「それ」だけで楽しく生きられるのです。永遠の日常を生きる知恵は、これだと僕は説きました。しかしながら、それだと、ただ散漫な人生で、「何かを成し遂げる」ことはできないし、「自分の人生をコントロールして支配する」ということはできないです。なので、その「手ごたえ」が、何に資しているのか?、どの方向へ漠然とでもいいのか向かっているのを常に問い続ける必要性があります。
たとえば、具体例で挙げると、このブログです。このブログに意味があるか?というと、全くないです。はじめたときは目的もありません。いまも、目的は、ほぼないです。何が目的かといえば、「書くことの手ごたえ」が僕にとって幸せでストレス解消になるし、書くことによって思考が深まり、友人とのおしゃべりが楽しくなるので、、、、ぐらいです。
けど、戦略的目標は、いろいろ途中で考えだしました。目標が散漫だと、結果も散漫になるからです。また目標に関する結果の効果を測らないと、大体つまらなくなって続けることができません。僕が10年以上も継続できているのは、ステージに合わせて目標を戦術的に設定して、結果を出してきたからだと思います。何せ、10年以上ですよ(笑)。たとえば、せっかく文を書くのだから、文章でお金もらってみたい!とか(これ、もういくつも実現していますね)。あとは、僕は全く違う業界で仕事をしているので、業界の凄い人と友達になりたい!とかですね。まぁ、わかると思いますが、僕相当もう業界に知合い、、、いやもう、かなり親友っぽいレベルでたくさん友達ができました。20年後ぐらいに、会社をリタイヤしたら、そんな連中と、会社でも起こしてなんか遊びたいよね!とか考えたりしています。セカンドラウンドライフの話ですね。でも、最大の目標は、友人を増やすこと、でした。そして、その友人たちと深いコミュニケーションをする道具としてこれを活用しているのです。ぶっちゃけ、このブログは、その少数の人「だけ」に向けて書いているといって、いい過ぎではありません。なので、海燕さんやLDさんならば、まったく苦も無く120%このアホみたいな長文が理解できるはずです。
僕にとって、どんなメリットがなくとも「書くのが楽しい!」ということは、僕が見つけ出した究極の幸せポイントです。誰が見たくても、こういうものは書き続けています。発表を全く意識していない小学生時代から日記や思考の大量な文章が残っています。でも別に僕は、評論家になりたいとか、小説家になりたいとか、ライターになりたいとか思ったことは全くありません。完全なる趣味ですもん。僕にとっては、まったくリアルの人生にはあまり関係のない事柄でした、、、が、、、まぁ、20年後ぐらいに、なにか仕事にできるぐらいにはなっていると思うんですよ、今の僕の持つネットワークは。まぁ、いまでもできるけど、今は僕が自分の好きな仕事があるので、特には考えませんけどね。
これって、手段から目的が生まれた例ですよね?
また、そもそもが「無から有を生み出すポイント=自分が好きなこと=自分がほんとうにしたいこと=手ごたえ」
とリンクしているので、非常に安定しています。何もしなくても書いていると、コンフィデンス(=自信・自己信頼)が高まるサイクルが回っているわけですから。これが、人生のリアルステージに起きていると、物凄い正のフィードバックが、帰ってきます。わかりますよね?。
えっと、比較級の世界の話でした、、、、
えっとね、1)-2)のものを考えるポイントでもっともやばいのは、他人との比較なんです。要は、嫉妬という感情。これが、物凄い判断を狂わせます。特に他者との比較というのが、物凄い害なのは、
もっとも重要な3)の自分がほんとうにしたいことの手ごたえの積み重ねで、かつ解決思考で生産効率がいいこと
これに対するアクションを起こすのに妨げになるからなんです。
わかると思いますが、生産性が高いものである最大の条件は、
自分にすぐにできること
に、フォーカスしていなければなりません。しかしながら、比較級の世界の囚われている人は、まずは、自分がアクションしないで「相手を引き摺り下ろそう」と考えがちになります。比較している時は、比較のランキングの中で、相手が落ちてくれれば、自分が相対的に上がったように感じるという錯誤を感じるからです。しかしこれは
全くの虚偽問題
です。
だって、自信(=幸せ)というのは、「自分が行動で起こした結果が帰ってきて、それが自分の立てた目標とリンクしている生産性」の中にある「手ごたえ」の積み重ねのコンフィデンス(=自己信頼=おれはできるという実感!)にあるんです。なので、最悪の悪手なんですよ。比較級の「相手を引き摺り下ろす」というのは。これを嫉妬もしくは、僕はルサンチマンと呼んでいます。全く自分の幸福を改善させない、悲しい無限ループです。
受験生を例を取りましょう。僕も覚えがありますが、受かるかどうかわからない、と怯えて、集中力が失せて、どんどん成績が悪くなります。これは、目標の到達点のことばかり考えて、目の前の「やること」をやっていない状況です。また、なぜ怖いかというと、周りにできる人がいて、自分とその人の差が、自分を落ちこませるのです。もちろん人間だもの比較級の世界に入るのは当たり前のことです。けど、この比較級の世界の誘惑をどう断ち切るかが、人生を充実して生きる重要な分岐点となります。受験生を例にとると、まずもって戦術的に考えて、英語の成績が悪かった基礎ができていないとなれば、まずは基礎単語のさらなる完璧暗記です。短文でもいい。1日にできる数は限りがります。たとえば1万単語覚えなきゃいけないとなると、気が遠くなって、できない、、、と凹みます、、、。けど、3日間。50個づつ、完璧じゃなくとも、まる一日かけて全力でやれば、150個できます。自分が抜けていた150個をカバーできるようになると、長文読解は、劇的に読める量が改善します。、、、これ、やれば手ごたえで、絶対物凄いビビットにわかるはずです。おおそうか、、、と2週間やったら、、、700個ぐらいになります。ここまでやったら、物凄い実感があります。
けどね、、、その700を2週間で覚えるうちに、物凄いできる人は、1万個ぐらい覚えてしまいます(苦笑)。この「差」に人は絶望します。
なんだけど、それって、むだむだぁぁぁ!!!っていいましたよね?。比較の対象が、無駄なんです。そんなできるやつは、違う世界の人々なんで、無視なんですよ(苦笑)。自分の身近にいない人なんか比較して無駄ですもん。例えば学校同級生とか会社の同僚でいても、そういう人は、自分と全く違うんだから、対象外!!!に考えましょう。比較級の感情は、物凄い無駄なルサンチマンを生み出して、負の無限ループの空転に入ります。そうして、「目のこと」「自分にできること」で生産性のあることだけに継続しましょう。本当に集中して、手ごたえのサイクルにうまくはいれたら、3日やれば、実感があるかどうかわかります。1か月で人生は変わるぐらいの感じがします。3か月続ければ、本当に変わります。そして、、、、それを超えると、別にそれが特別なことではなくて、誰もがやっている「普通のこと」というちょっとした失望が訪れます。。。。
が、ここで我慢して、3年続けたら、、、、もし、3年も生産性のある手ごたえをクンフーできたら、最初の時に、対象外だと思っていた前を走っている絶望的に遠いと思っていた人と、あれ、いつの間にか肩を並べていることに気づくでしょう。相手はさらに先を走っているかもしれません。けれども「ある一定レベルの基礎条件」をクリアーすると、競争は、ランキングトーナメントでの順位づけではなくなります。
そうです、ルールが変わるのです。いや、もう少し精確に言うと、ルールを自分で作りだすという選択肢が、レベル20(ベギラマを覚えた!ルーラを覚えた!)ぐらいこえると、生まれるのです。そこでは、ルールブレイカーとルールクリエイター同士での、めちゃくちゃ高度な競争があります。
ここに至ると、、、、はじめに先を走っているフロントランナーは、家が金持ちだったり、才能の初期値が高かったりという「持てるもの」であったことはわかるんですが、ルール自体を変える戦いの土俵になると、下から這い上がってきたほうが、はるかに強かったりします。なぜならば、中途半端に才能がある人には、そのルールでしか生きられなくなっていたり、ルールが変わってどん底に落ちたときの感情ケアができなかったり、ようは、ルールの激変に弱い人が多いからです。何事も、強さと弱さは相対的です。何がいいことかなんてわからないのです。
長くなって、何が言いたいのかまたわかんなくなってきたけど、だいたい、これまでの僕の思考を総まとめで来ているはずなので、まぁ、よし、としよう。