1980年から2000年までに生まれたミレニアル世代と旧世代にある大きな境を

世界は、ミレニアル世代の「自己顕示欲」が社会を揺るがす時代に突入している
http://wired.jp/2014/10/13/millenial/


グローバル化が進み、個人が世界中のネットワークに繋がっている現在、ミレニアル世代は、アメリカにおいて漸進的に、しかし確実に注目を浴びつつある。

というのも、1946年から64年に誕生したベビーブーマーを退け、現在、人口比率においてトップを誇るのは、約8,000万人の、若く自由主義なミレニアル世代だ。転換期を迎えたのは2012年から13年ごろのこと。2013年時点で、アメリカで大学を卒業したての22歳が、最も人口比率の高い年齢だったというニュースは、これからおとずれる変化の序章にほかならない。

これまでの社会では類のみない、デジタルライフに特化し価値観を新たにした世代が、将来の舵を取る時代にさしかかっているのだ。

中略

彼らは歴史上初めての、「世界と繋がっている」ことが常にあるデジタルネイティヴ世代である。ビジネスのターゲットとなる対象人口が多いというのは、もちろんこの世代が最重要視される理由のひとつではあるが、彼らが年上の世代に当てはまらない動向を示すというのもまたそのひとつだ。

中略

ミレニアルは、テクノロジーを扱うことにかけては右に出る世代はないが、自分たちのモラルにおいては思うところがあるようだ。彼らは、年上の世代の方がポジティヴな労働観をもち、他人をリスペクトし、そしてより道徳的だと答えている。彼らはしばし、私主義、つまり自分を中心に据えた“ナルシスト”で、多くの場合自分が正しいと思う自信過剰世代であるとも言われている。


僕は、この関係性の自由度の話を考える時に、この米国のマーケティングでよく言われるミレニアル世代のことを思うんですよ。これは、1980年代以降に生まれた世代のことですね。それ以前とかなり違う、と。世界的にこの世代の存在感は増している傾向があるんですよ。日本は、この世代の人口ボリュームが、小さいので存在感がなかなかわかりませんが、、、それこそ、旧世代に相対する新世代の層なんですよね。




僕は、これの特徴をいま言えるほどよくわかっていないのですが、、、1980年以降の生まれの世代が存在感を増した社会に置いては、なんというか多様性に対する許容度が非常に高くなっている傾向がある気がします。特にアメリカにいるとわかるんですが、もう日本と常識が全く異なってしまっていると感じます。同性愛の話もそうですが、たぶん、セクシャルなものに関する理解が日本の古い世代の常識とはも全く違うんですよ。世代論で片づけるのは、悪い回収方法なんで、ある程度眉唾に考えたいところではありますが、まぁ、このへんに境界というか、大きな考察すべき境目がありそうだってのは、覚えておくと面白いかもしれません。



キーワードは多様性への許容だと思うんですが、、、、



なんというか、、、、アメリカを勉強するときは、まずは、アメリカ人とは何か?という問いを勉強するんですけれどもね、、、、僕が学んだ20年ぐらい前までは、それでもまだ、イタリア系アメリカ人とか日系アメリカ人とか、人種やエスニックはある程度同定できるけどアメリカ人という存在が普通だったんですが、いまでは、1960年代のフリーセックス(人種間を超えるという意味)を経て、リベラリズムが浸透しまくったアメリカ社会で、さらに既に、30年以上時が過ぎて、このアメリカを学ぶときの基本的命題である「アメリカ人とは何か?」という問いが、凄く変化している気がするんです。そもそもこの問いは、〜系(=どの民族集団を出自に持つか)という背景があることを前提に語られています。ランドルフボーンなど、アメリカの未来は、まったく異なってもっと混沌としていくだろうといっていますが、これらが書かれた時点では、それは理念だけの空想であって、現実にありえる話ではなかったんですね。

思想としてのアメリカ―現代アメリカ社会・文化論 (中公叢書)

けど、、、いま、アメリカ社会を見ていると、ドラマや映画などの物語の次元だけではなく、現実にも、、もう〜系の人か?という問いが意味を失うほど、人種やエスニックグループの血が交じり合った人が生まれてきており、しかもそれがかなりの規模の勢力になっており、また60年代のリベラルな時期を越えて、反発も激しいが同時に、肯定も激しい時代を30年以上世代を超えて追及してきました。なので、すっげっえ多様なんですよね。たとえば、タイガーウッズなんか、いくつの民族の血が入っているの?ってぐらいわけわかんですよね。、、、こういう人が増えてくると、アメリカの究極の理念であるその人自身、、、、は、その人個人として見られるべきという、個人主義が絶大な意味を持ってくるのです。民族集団や国家などの、マクロや公など全体に個を帰依することなく、自分を自立させなければアメリカ社会では生きていけません。アメリカ人、というカテゴリー以外に、頼るべきものが消失していくからですよね。日本人なら、幻想でも日本民族とか、ドイツ人あらゲルマン民族とか、いえるかもしれませんが、単一民族ネイションシステムの幻想システムは、過去のようには成り立たなくなってきました。歴史学もどんどん評価が変わっています。アメリカの最近の教科書は、ピルグリムファーザーズ(建国の父たち)の話ではなく、アメリカ大陸の先住民の歴史に始まり、3つの巨大帝国(大英帝国スペイン帝国フランス帝国)の狭間で苦しんだ辺境から話が始まります。

検証アメリカ500年の物語 (平凡社ライブラリー―offシリーズ)


こういう社会で物語を見ていると、なんかほんと、変わったなーと思います。いま見直している『グレイズアナトミー』とか見ていると、異人種間のカップルがこれでもかと出てきます。昔はこれってメディアコードというか隠れた規制がたくさんあったんですよ。黒人の男が白人の女を抱くのは許せないとか、そういう伝統?の元ですさまじいリンチや殺し合いが行われてきたんですから。けど、もうそういうのお構いなしになっている気がします。こっちでテレビ見てても、それが普通だよねって感じで出てくるようになっていますし、そもそも現実にそこらにそういうカップルがたくさん歩いているので、、、、。

性と暴力のアメリカ―理念先行国家の矛盾と苦悶 (中公新書)


グレイズ・アナトミー シーズン1 コンパクト BOX [DVD]

さて、、、、ぼくは古い世代の人間です。ましてやアメリカよりも1世代分ぐらい遅れているので、さらに古い時代の思考をしています。けれども、別にすべてが日本がアメリカに遅れているわけではもうありません。様々な部分で最先端を走っているわけですから日本も。そういう中で、日本は1945年以降かなり自己を国家意思に纏め上げることにヘジテイトするようになっているので、全体の意思や時代の反映が、物語やエンターテイメントの中に強烈に屈折して出てくる傾向があるとぼくは思っています。なので、やっぱるいこのへんの世代には、かなり大きな境界があるような気がするんですよね。なんで、最近ここが気になっていたりします。ちなみに、この感受性の差は、相当の意識の差になるので、コミュニケーションが、かなり難しいと思います。とりわけ同じ国の中でさえ話が合わないのに、他国になるともうさっぱりな気がします。これ意識していないと、外交とかでもこじれるだろうなって思うんですよねー。他者を、多文化を、他国を理解するのって難しいんですよねー。ほんとうに。