アメリカの保守派の闇

つまり、「国際的なもの」や「大企業の経済力」などが「中絶賛成のイデオロギー」と結びついた敵の正体だというのです。そこには、グローバル経済から取り残された者の鬱屈した「反国際主義」があり、「大企業への憎悪」があります。さらに思想的に飛躍する中で、「国際的な大企業に支えられたリベラル思想」が「人間であるにも関わらずヒトの生命に対して決定権を持つ」という傲慢に至っているというストーリーを描いて憎悪の対象にしていたわけです。

 理屈としては分からないわけでもないのですが、それではどうして「中絶への怒り」という感情が、諸外国では見られない政治的イデオロギーに発展するのでしょう? そこにあるのは、「強者による殺人の正当化という偽善」への怒りです。それは宗教の教義にそう書いているから、というレベルを越えて一種の信念になってしまっており、理屈を越えた感覚としてあるようです。

 これに加えて、アメリカの保守が抱きがちな「大自然の脅威に対抗するカウボーイ的なヒロイズム」や、銃社会ゆえの「殺されるかもしれない」という恐怖心が「殺される存在としての胎児」への感情移入と、「殺す側」であるリベラル派への強烈な反発になる、そしてそれが「中絶反対」という一点に凝縮するというイデオロギーのメカニズムが見られます。

 この一点に凝縮するというのが特徴であって、例えば中絶反対派は女性の社会参加や給与水準の均等などの点で「アンチ・フェミニズム」であるかというとそうではありません。そうではなくて、彼らが重視しているのは「生命倫理」に集約されているのです。


中絶医療施設への銃撃テロ、保守派が抱える闇
2015年12月01日(火)17時50分
プリンストン発 日本/アメリカ 新時代冷泉彰彦
http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2015/12/post-791.php


アメリカを理解しようとするときに、どうしても他の国の人が理解しにくい文脈に、このあたりの銃社会の文脈、中絶をめぐる生命倫理における激しいプロライフとプロチョイスの殺し合いといってもいいぶつかり合い、また州権論に代表される、他の国では考えられないような中央集権や政府への不信と憎しみなどがあります。これらはすべて渾然一体となってつながっています。ああ、その他、大自然に対する極端な崇拝の感覚など、アメリカ特有すぎて、他の国では共有するのが歴史の文脈からして難しいものがたくさんあります。通常の歴史を重ねてきた国とは反対の動きをするので、他の国の人が???となりやすい。アメリカの建国が人工的であり、封建制度をすっ飛ばしてしまったり、そもそも政府(日本で言うお上や中国で言う天など、また国王など自然の秩序でできてきた歴史の体積)を信頼していないというのは、たぶんそれが自然である国にすると、非常にわかりにくいのではないかなと思います。僕も、やはりこのあたりにアメリカのことを知るたびに、よくわからないなーと悩みます。そこがポイントなのは、さすがにわかるんですが、なぜに、どうしてが?感情の部分がついてこない。そのなかで、アメリカウィツチャーの冷泉さんの今回の記事は、なるほどーと凄くつながりました。なぜアメリカの保守派の闇とも言える、この生命倫理の問題が、こんなに先鋭化するのかがいまいちつながらなかったんですが、なるほど、自己を「殺される側として自己規定」すると、激しいルサンチマンが、殺す側に位置づけられる、政府(自分たちを支配するもの)や大企業、リベラル派にたいする極端な憎しみとなって暴発するというのは、非常に整理しやすい。これって、よく日本での文脈では、非モテとかリア充になれないとか、そういう「弱者の側」や「搾取される側」に限りなく自己を同一視して、現実をまったく無視して、とにかく強者に位置づけ「られそう」なものを殺してもいい、やるだけってもいい!と攻撃してくるロジックとそっくりですね。これ感情的に、正当性があるというか、自然なものなんでしょう。アメリカではそれが、大きな歴史の流れでの銃の保持や中央集権への敵視などの文脈に結びついていったんですね。